−第3話−
 その後、杉菜の天才ぶりは瞬く間に校内に広まった。
 授業中はあらゆる難問奇問をみるみる内に解き明かし、体育の記録測定では神の領域を体現。芸術面では、色彩感覚の素晴らしさに美術教師が感嘆の声を上げ、その小鳥のような美声に音楽教師が我を忘れて聴き惚れるほど。
 とにかく手際がいい。物事をやり通すのが、正確かつ素早いのだ。
 普通こんな天才ぶりを披露していれば、どこかしら天狗になる部分も多いのだが、杉菜には一切それがなかった。とにかく淡々と、何の感情も交らぬかのように無表情で黙々と行動する。
 その様子から、周囲の人間は当初、杉菜が葉月と同じ人種だと思っていたのだが、実はそうでもない事が判明してきた。
 葉月と違って、杉菜は他者との付き合いを避けない。困っている人間にはさりげなく助言を与えたり手を貸したりする。物理の難問に苦しんでいた有沢にヒントを出したり、部室の鍵を紛失して困っていた紺野に付き合って鍵を探したりと、小さいところで他人との関わりを持っている。割と世話焼きなのかもしれない。……表現はいつも通りの、淡白なものではあるが。
 そんな風に、クラスメイトたちが謎多きながらも杉菜の人物像を捉え始めた頃、ちょっとした事件が起こった。
 
 
 
 入学式から一週間が経過した、ある日の授業中、葉月は眠い目を擦りながらも、窓際の杉菜の姿を捉えていた。
 彼女に対する観察(鑑賞かも)は未だに続いていた。勿論彼が自分の居眠りを行使しない筈がないので、その合間に、ではあるのだが。
 窓辺から差し込む春の光に溶け込むような彼女の姿は、その伸ばされた背筋による姿勢の良さも手伝って、まどろみに差しかかる葉月の目には、夢想的に美しく見えた。すらすらと、板書を書き写す手の動きさえ、絶え間ない水の流れのようだ。
 ふと、杉菜の指が止まった。
(ん?)
 それまでの動きとは確実に違う、停滞。――そして。
 葉月はぼんやりする視界の中で、それを見た。
 たった5秒前まで、まるで硝子のように凛と支えられていた杉菜の華奢な体が、一瞬にして崩れ落ち、そのまま椅子から床へとドウッ、と倒れ込んだのを。
「――――東雲っ!!」
 一気に目が覚め、葉月は叫んだ。
 折りしも授業は氷室担当の数学。問題の解説の為に生徒の方を振り向いた氷室が、その声の原因を見て、声を上げる。
「東雲!?」
「東雲さん!?」
「杉菜ちゃんっ!!」
 周囲の生徒達も、それに倣う。
 葉月は即座に席を立って、彼女の傍に近寄り、倒れた身体を抱き起こす。
「東雲!おい、大丈夫か!?――――東雲!!」
 耳元で声をかけるが、彼女は何の反応もしない。目を閉じて、意識を手放したままだ。
「葉月、揺らしてはいかん!保健室に連れて行く。手を貸しなさい」
 同様に傍に来た氷室が指示する。それを聞いて、葉月はそのまま杉菜の体を静かに抱き上げる。華奢な体は、予想以上に軽かった。抱き上げたと同時に、クラスの女子の何人かが驚きの悲鳴を上げたが、葉月の耳には入らなかった。
「静かに!しばらくは自習だ。皆、おとなしく勉強しているように」
 ある意味無茶な注文を出して、氷室は葉月を先導するように教室を出る。それに従う葉月は、杉菜を揺らさないように細心の注意を払いながら、保健室への廊下を歩いて行く。
 歩きながら、葉月は自分で驚いていた。自分が必死になって、杉菜の事を心配している現状を。普段なら、他人が倒れようが大して気にしない乾いた人間なのだ、自分という人間は。なのに、杉菜が倒れたのを見た途端、叫ばずにいられなかった。反射的に、体が動いていた。腕の中にいる少女が、目が覚めない事が怖い。何故、こんな風に思うんだ――。何故、こんなに不安になるんだ――と。
 そう焦りながら、保健室に着き、氷室が開けた扉をくぐる。血相を変えて飛び込んできた二人の男に、保健医は大層驚いたようだったが、すぐに杉菜をベッドに寝かせる様に指示した。
 ベッドに横たえても、彼女には何の反応もない。葉月は内心歯噛みしながらも、保健医に彼女を任せた。
 カーテンを閉めてベッドから離れると、氷室が眉を顰めて立っていた。杉菜の能力故に、氷室が彼女に大きな期待を抱いているのは知っている。葉月と同様、氷室の心配も相当なものだという事が、その眉の顰め具合から解った。
「……先生。東雲、体が弱いとか、そういう事はないんですか?」
 思ってもいない人物から突然尋ねられ、一瞬目を白黒させた氷室だったが、すぐに首を振った。
「いや、入学時の提出書類には、一切そのような記載はなかった。大体、病弱であれば、体育であれだけの記録を出す事は不可能だろう。疲労のせいかも知れない。勿論、後天的な疾病という事もあるから、一概には判断できないが。――ああ、葉月、ご苦労だったな。君は教室に戻りなさい。東雲の症状を聞いたら、私もすぐに戻る」
「…………はい」
 まだ彼女の傍にいたかったが、自分がここにいても何の役にも立たない事を考え、保健室から去ろうとした時、保健医がカーテンの中から出てきた。
「先生、どうですか?東雲の容態は」
 氷室が尋ねたのに足を止めて、葉月はもう一度部屋の方へ顔を向ける。そこそこ年配の、温和な顔立ちをした保健医は、困った様に笑った。
「心配ないですよ。熱はないし、血圧も脈も正常。危なげな症状は一つも出ていません。ただ――」
「『ただ』?」
「ただ、眠ってるだけです」
「………………は?」
「だから、単に、熟睡してるだけですよ。寝不足なのかどうか判らないですけどね。顔色も良いし、隈ができてる訳でもないし。倒れた時にどこか打ったって事もなさそうだから、しばらく眠っていれば起きますよ。安心して、教室に戻ってください」
 …………そんなお約束な。
 半ば呆れた感のある保健医の言葉を受けて、氷室は珍しく戸惑ったような素振りを見せたものの、すぐに保健医に答えた。
「……解りました。では、後はお任せして、我々は教室に戻ります。授業が終わったら、また様子を見に来ますので。――葉月、そういう訳だ、戻るぞ」
「………………」
「葉月?」
「あ……はい」
 再度氷室に声をかけられて、葉月は気がついた様に保健室のドアを開けて部屋を出る。
 大事なかった、と言う事実に安堵しつつも、あれだけ派手に倒れたのにもかかわらず、熟睡しているその根性(?)に呆気にとられた。自分なら流石に多少は目が覚めるものだ。
 何にしろ、ホッとしたのは確かだった。
 数歩先を歩く氷室の方は、なにやら妙な、悩むような表情をしていたが。
 
 
 
 杉菜が倒れたのは2時間目の始めだったのだが、昼休みになっても彼女は目を覚まさない。教室では未だに、杉菜の突然の人事不省と、それに続く葉月のアクションの話題で盛り上がっていた。
 その喧騒を避ける様に、葉月は例によって校舎裏で休んでいたが、この一週間、初めの日と同様に、必ず校舎裏で昼食を摂っている杉菜が現れない為、猫一家もなにやら寂しげに鳴く。
 葉月は昼食を摂った後、人気がないのを見計らって、保健室に行ってみた。
「あら、葉月君」
「どうも……。先生、東雲、どうですか?」
「それが、まだ寝てるのよ。心配なら、覗いてみなさい。呆れる程に血色いいから」
 まさに呆れ顔で、保健医は机に頬杖をつきながら、手に持ったボールペンでベッドの方を指差した。
「はぁ……それじゃ」
 そう言って、葉月はカーテンを捲って杉菜の眠っているベッドに近付いた。
 眠り姫は、確かに未だ眠り姫のまま。保健医の言った通り、実に心地良さそうな寝息を立てて眠っている。血色もすこぶる良い。隈どころか、そばかす一つない透き通った白い肌。心配ではあるものの、やはり思わず見惚れてしまう、繊細な美貌だ。
 カーテン越しの光に揺らされる淡い陰影が、時の流れを狂わせるように感じられた刹那、突如、杉菜の瞼が開かれた。それはもう、パッチリと。そして、傍らに立つ葉月を見上げる。葉月が思わず息を呑むと、それに答えるかのように彼女の唇が動いた。
「……おはよう」
「……東雲。起きた、のか?」
 あまりにも早い反応だった為に、寝惚けているのでは、と思ったが、全くそんな様子はなかった。焦点もしっかり合っている。
「うん。……やっぱり、無理。足りないな」
「無理……してたのか?」
 いつもの天才ぶりは。
 無理をして、あれだけの力を引き出していたのか?
 そんなこと、しなくたって。
「無理しなくたって……大丈夫だろ。おまえ、頭良いし、普通にやったって平気だと、思う。それで倒れてたんじゃ、馬鹿みたいだ。そんな無理、する必要なんて、ない」
 何を言ってるんだろう、俺は。こんな事、言うなんて。
 杉菜はキョトンとした顔で、葉月の顔を見た。そして、おもむろに口を開く。
「無理、してないけど……?勉強とか、そういうのは」
「……え?」
「……足りないの。体質。たくさん寝ないと、もたないの」
「…………睡眠時間、か?」
「そう。……高校に入ったし、少し直そうかなって、思ったんだけど。でも、無理みたい。起きてる時にしてる事が変わらないから、駄目なのね、きっと」
 ふう、と息をついて、杉菜は体を起こす。サラサラとなびく髪には、何の乱れも生じていない。
「ごめんね、運んでくれて。……この次は、放っといて平気だから」
 運んでくれて?
 あの時確かに杉菜は完全に意識を失っていた。なのに、ここまで運んで来たのが誰だったのか、理解していたのだろうか?
「…………気がついて、たのか?」
「ううん、寝てた。でも、解るの、周り。ただ、反応できないの。……体質」
 淡々と、事実だけを端的に。
「そう、なのか?それは……大変だな」
「べつに……。そう思った事、ないよ。事実だし」
 さらりと。
「……できるだけ、人の迷惑にならないように、する。……今日はありがとう、珪」
 その言葉が紡がれた時、ほんの少し、杉菜が微笑んだ様に見えた。一瞬の事だが、その一瞬は、葉月の心を奪うのに十分だった。それほどに、優しい空気だった。
「……珪?」
 声をかけられ、葉月はハッとした。紡がれたもう一つの呪縛――己の名に捕われた様に。
「それ…………」
「なに?」
 顔を背けて、葉月は言った。
「それ……その呼び方、止めろ」
 心がひどく、ざわめくから。
「そう……?じゃあ、なんて呼んだらいい?」
 対して杉菜は、あっさりとした返事。
「……『王子様』……?皆、そう呼んでるみたいだけど……」
「……それも、止めろ。苗字とか、あるだろ」
 確かに蔭でそう呼ばれている事は知っているが、だからといって杉菜に面と向かって言われたいかどうかは別である。
「苗字呼び……好きじゃないの。その人じゃ、ないから」
「え?」
「じゃあ……『くん』付け。珪くん。それで、いい?」
 あまり変わらない気もするが。かといって、これ以上突っぱねるのもどうかと思ったのか、葉月は幼い頃、そう呼ばれた事を回想しながら頷いた。
「まぁ……その辺なら、いい」
「うん。……おなかすいた。御飯、食べなきゃ」
 葉月の心の動きには気を留めず、杉菜はさっさと布団をどけて、ベッドから降り立つ。丁度保健医がカーテンの中を覗きこんだところだった。
「あら、東雲さん。良く眠れたみたいね」
「はい」
「氷室先生が、目が覚めたら職員室に来るようにって言ってたわ。すぐに行ける?」
「……お昼、食べてからじゃ、駄目ですか?」
 保健医は苦笑する。
「なるべく早く行った方が良いと思うけど。でも、確かに先に食べた方がいいかもね。氷室先生、お説教長いし」
「先に、食べます。……すぐだから」
 確かに杉菜のスピードなら、食べても食べなくても時間はそうは変わらないだろう。
「そう?じゃあ、氷室先生に連絡しておくわね。それより東雲さん、ちゃんと睡眠は摂りなさいね。睡眠不足になる度に倒れてたんじゃ、周りにまで迷惑かけるわよ」
「はい……気をつけます」
 ぺこり、とお辞儀をして、杉菜は保健室を出る。続いて葉月も後を追うように廊下に出た。先に行く杉菜は、相変わらず流れるような歩み。
 教室に着くと、クラスメイトが近寄ってきて、心配そうかつ呆れた様に声をかけてきたが、杉菜は「御飯、食べるから」といって、自分のロッカーからお弁当を出して、例の如く一瞬の内に平らげる。そしてクラスの人間が呆気にとられている中、さっさと職員室へ向かった。
 職員室では、氷室と杉菜による、冒頭に似た会話が繰り広げられる事になったのだが、余り実のある会話ではなかったようだ。
 何しろ、これ以後、葉月と同等に授業中に堂々と寝こける杉菜の姿が、担当教官全ての悩みの種となったのだから(しかし確かに、必要以上に他人に迷惑はかけていないのであった)。
 
 

<あとがき>
そういう訳で、続き。最早何を書きたいのか判らない。コメディーにしたいのに、全然コメディーじゃないなぁ。力量不足なのか、杉菜の性格設定がまずいのか(←多分両方)何となく、杉菜の台詞回しが変わってきてるかも……。ヤバ(ーー;)
杉菜を輸送の際は当然お姫様抱っこ。基本。そういやゲーム本編で、お姫様抱っこないんだよね。顔の出ないときメモ主人公ならではの悲劇か。ちっ、乙女共通萌えシチュエーションの一つなのに。

崩れ落ちる様に人事不省に陥ったシーンのモデルは、高校時代の同級生。授業中、彼女が椅子から崩れ落ちたのを、後ろの方にいた私はバッチリ目撃した。彼女は普通やたらとハイテンションだったが、時々天災の様に意識を失う事があって、文化祭の開催式で、体育館に座っている時に失神した際は、近くにいた男性教諭(24〜5歳)にお姫様抱っこされて保健室に運ばれていた記憶が。あれが私が唯一生で見た姫抱っこだったな〜。
今でも時々倒れてるのかなぁ、Kよ。

 
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