−第37話− |
闇の中に閉じこめられた王子は、ひたすらその闇を歩きつづけていました。 時間も空間もさだかではなく、見わたすかぎり何も映ることがない闇の中です。 魔女が言っていたとおり、その闇は王子の心と体をむしばんでいくものでした。 体の力は抜け、息をするにも苦しくなりました。 心の方も、恐怖や不安に支配されるようになっていきました。 まるで毒か病のようにむしばまれていきながら、それでも王子は歩きつづけました。 ただひたすら、魔女が言った言葉にすがるようにして、王子は探しつづけていました。 「姫にかかった呪いを解きたい」 その想いだけが、鉛のように重くなった手足を動かす源でした。 ときおり思い出したように魔女の笑い声が響く中、王子は闇の中をさまよいつづけました。 姫の呪いを見つけるためだけに。 コンコン、とノックの音が聞こえて、続いてガチャリとドアノブを回す音がした。 「オジャマします〜。どや、なんとか生きとるか?」 病院にはなんとも似つかわしくない陽気な声が響いて、その声の持ち主が姿を見せた。 「あ……ニィやん。いらっしゃい」 「……おまえか」 病室の中にいた葉月と杉菜が、傍目に歓迎している様子もなく姫条を迎える。 「あんなぁ、杉菜ちゃんはおいといて、わざわざトモダチ代表で見舞いに来てやった人間に、会うなりそのしかめっ面はあらへんやろ。めろりんトロケた微笑み爆弾を披露しろとまでは言わんけど、も〜少しありがたそうな顔でもしたらどうや、嘘でもエエから」 「……嘘でもごめん」 「まったく、看病人の手間ヒマ考えてこうやって花瓶付きの水切り済みの花持ってきてやったマブダチに、なんちゅう言い草や。意識不明の重態になったとか聞いたから心配しとったけど、そこまで憎まれ口叩けるんやったら充分やろ」 「いつマブダチになったんだ、おい……」 そんな葉月のツッコミを気にもせず、姫条は手に持った大きな花束ならぬ花瓶に入った花々をベッドの脇の台に乗せた。言葉通り、本当に水切りされて生けられている。察するに病室に来る前に給湯室辺りでササッと用意して来たらしい。マメな男だ。 「オレら仲間内みんなからの見舞い品や。ありがたく目の保養にするんやな」 選択=守村・アレンジ=有沢(花屋バイトだから)・カンパ=その他による花々は、確かに目の保養をするにはうってつけの豪華さだった。GSメイトが各々自主的に提供したと言うその気持ちが充分に込められているのが伝わってくる。 葉月が入院してから3日目。仲間内にも情報が廻り、とりあえず時間の空いていた姫条が見舞いと称して様子を観に来たらしい。身の周りの世話は洋子と杉菜がしているので特別する事はないのだが、何はともあれ本人の顔を拝めばこちらも安心するというものだ。 「ま〜中には白いサイネリアの鉢植えを花壇化させて持ってったろかっちゅう意見もあったんやけど、残念ながらそれは採用されへんかったわ。一度やってみたかったんやけどなぁ」 サイネリア、別名シネラリア。語感の響きゆえに見舞いの花としては嫌悪されているアレである。どうみても『パタ○ロ!』のパクリであるが、そこまでやれば確かにブラックユーモアもいっそ清々しいくらいの貫きぶりだろう。 葉月がなんとも複雑な表情で姫条を睨むが、姫条は大して気にもせず話しかける。 「ところで、さっきロビーのとこで洋子さん見かけたで。なんや隣にごっつう美人のお姉さんがおったんで声はかけられへんかったんやけど、どことな〜く自分に似とる思てなぁ。親戚か誰かか?」 一人暮らし同盟の相互査察と称して葉月家に押しかける事があったりするので、姫条も洋子には面識がある。しかしもう一人の美女の方はサッパリ見た事がなかった。 すると葉月はどこか照れたように顔を背ける。 「……ああ、母親。……俺の」 「―――は!?あれ、自分のオフクロさんか!?」 「ああ。仕事詰まってるのに、わざわざ帰って来てくれたんだ。時間がなくて、すぐに戻らなきゃ行けないからって、少し前に出てったところ」 単なる過労だから心配しなくてもいい、とは言ったもののやはり息子が倒れたとなればそうもいかない。ギチギチに詰まったスケジュールの中をなんとかかいくぐって、一路ヨーロッパから様子を観に駆けつけたのである。ちなみに父親の方もこれまた駆けつけてくれたのだが、彼も彼で現在進行中の仕事が大詰めを迎えていて息子との愛を深めるのもそこそこに帰路に着いた。当然妻とはすれ違い、よくこれで家族として成立しているものである。 けれど、やはり葉月にとっては嬉しい事に変わりなかった。 「洋子さん、空港まで送ってくるって、一緒に行ったの」 「なるほどなぁ……。せやけど不幸中の大ラッキーっちゅうとこやな。―――それはそれとして、二人で何しとったん?」 過労による自律神経失調と聞いていたからひたすら休んでいるものだと思っていたのだが、どうもそうではないようだ。 「ああ……課題」 「課題ィ〜???」 「そう。あと、一応受験勉強。な?」 「うん」 葉月が同意を求めて、杉菜が肯定する。見ればベッドに備え付けた移動式のテーブルの上には、夏季休業中の課題として出された数学のプリントやら英語の問題集やらが所狭しと広がっていた。 「……自分、過労で倒れたんとちゃうんか?なのになしてこないな疲れるもんやってんねん」 「……べつに、疲れることでもないし」 けろりと羨ましいセリフを吐いてくれる。姫条の片眉がピクピクと動いた。口元にも渇いた笑いが張り付いていない事もない。 「まったくホンマに自分っちゅうヤツは……」 呆れと怒りをない混ぜにした声色でぼやくと、背後でやはりドアを叩いて開ける音。 「よっ。どうだいはーさん、具合の方は。……おや、客人かい?」 はーさん? 聞き慣れない呼称に首をかしげて姫条が扉の方を見ると、通りのいいアルトの声と一緒に入ってきたのは白衣。もとい、白衣を纏った30代後半の女性。 175pはありそうなスラリとした長身だが、理知的かつ快活そうな顔立ちはかなりの美女の部類に入る端正ぶり。長い艶やかな黒髪を後ろで一つにまとめ、首に軽く聴診器をかけている様は、もろにハンサムな美人女医そのものだ。姫条は思わず見惚れて息を飲む。 「ああ……はい」 葉月が双方の質問に対して一括した回答をすると、杉菜がそれを補足する。 「学校の友だちで、姫条まどかくん」 すると、女医は得心した顔で笑った。 「ああ!おまえさんがジャク兄の言ってた姫条くんだね。なるほど、聞いた通りのイイ男じゃないかい」 「へ?ジャク兄って……」 何故自分の事を知っているのかと不審がった時、彼女の左胸の名札に『内科Dr・東雲』と書いてあるのが見えた。 「東雲……ってことは杉菜ちゃん、もしかしてこの人は……」 「うん、私の叔母さん。珪の主治医」 「初めましてだね、青年!杉菜の叔母でここの内科に勤務してる、東雲若鈴さ。よろしく、って言うとちょいとナンだね。ま、あたしの仕事場で懇意にならないように、日頃の健康管理にはお気をお付けよ」 カラカラと笑いながら言う彼女に、姫条が首をかしげる。 「ちーと待ってください、今、名前なんて言いました……?」 「おや、聞き取れなかったかい?若い鈴、と書いて『ジャクリーン』だよ。戸籍上は『じゃくりん』って表記だけどね。まったくウチの親ってのも洒落っ気があるんだかグローバルなんだか訳解らないねぇ、アッハハハハ!」 姐さん口調で呵々大笑とするその様は実に寂尊の血縁である事を窺わせる。が……本当に何を考えているのだろうか、東雲家祖父母。 まったくどーでもいいが、寂尊の実家は由緒正しいお寺の家系である。長男が家を継いでおり、次男・寂尊がエリート商社マン、その双子の妹である若鈴が医者という訳だ。ちなみに長男の名前は剛呑(読み:ゴードン)である。 「…………」 「それはともかく、はーさんの気分も良さそうだし、お杉借りていきたいんだけど構やしないかい?」 若鈴が昼休みに入ったので、ご相伴に杉菜を連れていきたいという事らしい。モテる割には何となく独身のままの彼女だが、たまにしか会えない姪っ子は可愛いのである。にしても『お杉』と言うとなんだか別人のようだ。 「はい、大丈夫です」 「あ〜、オレもまだしばらくいますよって、かまわんですわ」 「そうかい?それじゃ後は頼んだよ、姫の字」 姫の字? 普段呼ばれ慣れない呼称に再度頭をひねりながらも、姫条は出ていく二人を見送った。 「……マイケルよりは馴染みやすい思うねんけど、なんやあの人もビミョ〜にずれとる感じやなぁ」 「……けど、優秀」 「せやろなぁ、マイケル一族の血縁者やもんなぁ。……しっかしリッチやな、過労入院で個室待遇とは」 姫条はぐるりと顔を巡らせて、こぢんまりとしながらも開放感のある病室を眺める。窓から差し込む日の光が盛夏を過ぎた落ち着きをもって淡く揺らめいている。 「空いてるとこ、ここしかなかったらしい。けど、大部屋よりは休める」 「そらま、自分が大部屋で他の患者の皆さんとコミュニケーションとっとるトコなんてサッパリ想像つかんけどな。……なんや?妙に憮然としとるやないか」 「……べつに」 「アカンなぁ、そないな顔しとったら元気も体力もなかなか戻って来ぃへんで。って、オレが来たからストレス倍増、なんちゅー友だち甲斐のないセリフは勘弁したってや」 「そういうわけじゃ……ただ、さっき母さんがいた時に、洋子姉さんが俺が倒れた時の説明したから……」 「倒れた時?なんでも杉菜ちゃんと洋子さんが現場に居合わせたて聞いとるけど、その他になんやあったんか?」 訊ねると、葉月は憮然とした顔のまま瞼を閉じた。 「…………運ばれた、らしい」 「運ばれた?そら倒れた人間がここまで自力で歩いてくるはずないやろ。救急隊員に運ばれるのがどっかおかしいんか?」 「そうじゃなくて現場から、車まで。…………杉菜に」 「…………はへ?」 「救急車じゃなくて、洋子姉さんの車で来たんだ、病院。その時」 「…………そらまた……なんちゅうたらエエやら……」 病院には直ちに連絡を入れたものの、脈拍・血圧・体温等々、バイタルに大きく異常がなかった為、後の事を考えて葉月の搬送は洋子の車で行われた。 が、その車までどうやって運んだものか……と洋子が一瞬悩んだところ、杉菜は無言の内に支えていた葉月の体を抱き上げ、あろう事か姫抱っこ状態で車まで移動させたというのである。合理性を考えてそのポーズをとったらしいが、洋子はそらもうビックリしたらしい、杉菜に声をかけられても尚しばらくは口をポカンと開けて立ち竦んでいたそうな。 米だわら一俵分の重さと押入れ一間分の長さを誇る有機物を軽々とお姫様抱っこする152pの可憐な美少女。驚くなという方が無理である。された方は意識がなかったとはいえ、男としてそれはどうか。憮然とするのも当たり前だろう。 「まぁ……人生長いんやから、そういう経験もあるってことで……」 「いらない、そんな経験」 「せやかて、そんな経験引き起こしたんは自分やないか。前に言ったやろ?『断れるモンは断って、自分大事にせい。そうでないと杉菜ちゃんが哀しむで』ってな。自業自得や、ホンマに。―――大体なしてそないに仕事受ける必要があったんや?」 杉菜が座っていたパイプ椅子にどっかり腰掛けて、姫条が単刀直入に訊ねる。 「…………」 「断ろう思たら断れたんやろ?こないにギッチギチになって杉菜ちゃんにも会えなくなったりして、それでも断らんかった理由があるんやないか?なんかの雑誌で進学費用貯めとるとか答えとったけど、それで体壊してたら元も子もないわ。ホントのとこは、違うんやろ?」 姫条は真っ直ぐに葉月を見据えて重ねて訊ねる。葉月はその視線から逃げるように俯いて、しばらく黙った後にポツリと言った。 「……不安に……なったんだ」 「不安?」 眉を顰めて、言い難そうに語り始める。 「あいつ……どんどん変わっていく」 「あいつって……杉菜ちゃんか?」 「そう。変わっていってる、だろ?」 「……まあな。けど、それがどないしたん?端から見てても、エエ感じに変わってきとるやろ。そらゆ〜っくりとしたもんやけど、それがなんやマズイんか?それとも自慢かノロケかい?」 「いや……まずいとか、自慢とか、そういうんじゃない。あいつの変化、俺だって嬉しい。それは確かだ。…………けど……逆に、怖い」 呟くような言葉に姫条が眉を顰める。 「……怖い、やて?」 「俺は……本当に、あいつの助けになれてるのかって。あいつ、変わった。それが俺のせいかどうかは判らない。もしそうだったら、それは嬉しい。嬉しいけど、けど、それと同じくらいに膨れ上がるんだ、不安」 変わっていくおまえ。変えていったのは俺なのか? おまえを変えていく事が、おまえの中に影響していく事ができるなら、それは本当に幸せな事で。 けど、みんなは俺も変わったって言う。どんどん変わっていってるって。 もし、おまえを変えたのがかつての俺なら。今、これからの俺はおまえに届く事ができるのか? 変わり続けるお互いの中で、それがとてつもない不安になった。 ……自信、なくなったんだ。 元々乏しかったそれが、嬉しさが増すたびに逆にすり減っていって、心を捕えるようになったのはいつ頃からだろう。 傍にいたい、傍にいたい、傍にいたい。 けど、それとは裏腹な感情も渦巻いてて。 怖くて。 「……仕事、断ろうと思えば断れた。けど、自信、つけたかったんだ。正直言って、今でもこの仕事、苦手。本当ならやりたくない。けど、苦手な事だからこそ、やって、自信つけたかった。そう思ってたら……限界超えてた。超えるような無茶、してた。見えてなかった、自分も、周りも」 入院したその日、マネージャーと二人でこれまでの事、これからの事、他の事、色々と話し合った。何より先に頭を下げて謝ったマネージャーは、自分が冷静に状況を見ようとしていなかったと言っていた。 だが、それは葉月も同じだったのだ。自分の不安に囚われて、仕事を片付けていく事で自信を少しでもつけようとして、その結果周りも見ずに無茶をして倒れる羽目になった。そんな結果になれば、周りに迷惑をかける事なんて判り切っていたのに。 ―――しかも、そんな自分の感情に気がついたのは、ごくごく最近だった。 「…………アホやなぁ、自分」 しみじみと言った姫条に葉月も苦笑する。 「そうだな、アホだ、俺」 「アホもアホ、不器用にも程があるわ。ちゅうか大体、あんだけの成績やらなにやら叩き出しといて、な〜にが『自信ない』や、フザケとる。第一、杉菜ちゃんのこともそうや」 一旦切って、また続ける。 「どうやったって、杉菜ちゃんが認めとるんは自分一人なんやで?恋愛感情からかとかそういうんは判らんとしても、自分以外に杉菜ちゃんを変えたり出来るんはおらんのや。それって、めっちゃ自信持ってエエことやろ?他の誰にも、家族にだって出来んことをしとる。自分を動かす杉菜ちゃんがすごいのと同じように、自分もすごいんや。これで自信失うわけが解らんわ、ホンマに。ハァ〜、オレはこないな奴に負けたんかいな、やってられんわ」 わざとらしい大きな溜息を吐いて、姫条が頭を振る。 葉月の言う事は理解出来なくもない。あくまでも想像の域は超えられないが、自分が葉月の立場だったら同じように思ったかも知れない。 互いに影響し合うこと。その中に潜む表裏。 良い方向に影響するのか、悪い方向に進んでしまうのか、それはどうしたって判らない。 今は、今までは『今』の自分で良かった。けど、これからは? 大切な相手だからこそ、不安になる。このままでいいのか、と。変わるべきなのか、変わらないべきなのか、と。 傍にいたいと願うからこそ、強く、激しく、自分の中に渦巻く不安。 だが。 「……せやけどそないに悩んどったりしても、結局最後には一つの結論に辿り着くんとちゃうか?」 「…………そう、だな」 彼女が、何よりも大切だということ。 彼女を望む自分。 全ての想いはただ一人の為のもの。 どう足掻いても、その事実は変わらない。 「……そういえば、おまえだろ?」 「?なにが」 「入れ知恵したの。……『わがまま』」 それでピンと来たのか、今度は姫条が葉月から視線を逸らして宙に泳がせた。 「……あ〜、まぁ近いことは言うたなぁ。けど、単にアドバイスしたっただけやで?言うか言わんかは杉菜ちゃんの自由やし」 「けど、効いた。かなり。だから、しばらくは休む。本気で」 「本気でって、自分今まで本気で休んどらんかったことがあるんかい。―――あー、せやけどそうもいかんで、自分」 姫条は真剣な口調を一転して、何やら楽しそうな物言いになった。 「……どうして」 「藤井から聞いたんやけど、学園演劇の出演者投票、一学期の内からしとったやろ?中間報告やけど、予想通り圧倒的多数で自分が男子の一位にノミネートされとるらしいわ。多分休み開けたら鈴木ちゃんから出演交渉入るで」 「……面倒だな」 「そう言うと思たけど、女子の一位は杉菜ちゃんで、既に交渉済みの承諾済みや」 ピクリ、と葉月の肩が揺れる。それを満足そうに見遣って、姫条がニヤリと笑った。 「ついでに男子の二位は当然ながらこのオレや。自分が断ったら杉菜ちゃんの相手役はオレっちゅうワケやな。ま〜そーゆーことやから、面倒やったら辞退してもかまわへんで〜?眠れる可憐なお姫様を目覚めさせる王子がこのオレになるだけやからな〜。楽しみやなー、『眠り姫』のクライマックスいうたら王子と姫のキスシーンやもんなー!」 ギロッ!と擬音を立てんばかりに葉月の殺人光線が姫条に向いたが、姫条はげらげらと腹を抱えて笑うだけ。 「ホンマに自分解り易すぎやなー!ま、これ以上言うと殺されそうやからこの辺でからかうんはやめとくわ」 「……殺してやろうか、たった今」 点滴の管という武器を握って葉月が言うが、姫条はまったく痛痒を受けていない。 「遠慮しとくわ、まだまだ人生楽しんどらんし。まぁそういうこっちゃ、深く考えんとも、そうそうヒマにはなれへんで〜?」 涙を流してヒーヒーと笑い続ける姫条に葉月がますます憮然とすると、軽いノックがして杉菜が戻って来た。 「おかえり、もういいのか?」 「うん、ただいま。……どうかしたの、ニィやん」 笑い転げる姫条を不審に思って杉菜が訊ねるが、男二人は一瞬顔を見合わせてすぐにそれぞれ元の憮然と破顔に戻る。 「……べつに、なんでもない」 「そうそう、大したことやあらへんで〜!ちーとばっかり本音の語り合いにからかいモード発動させただけや♪」 「?」 なおも不思議そうな顔をする杉菜に椅子を譲って、姫条は改めて葉月に向き合った。 「で、自分退院はいつやったっけ?学校には間に合うんか?」 「一応、30日の予定。洋子姉さんが、この際休めるだけ休んどけって言うから。学校は行ける……と思う。―――そうだ、キャンセルの電話、入れとかないと……」 「キャンセル……29日のこと?」 「そう」 「なんやねん、29日て。用事でもあったんか?」 「フリーマーケット。参加申込み、してたんだ。けど、今回は無理だから」 「フリマって、森林公園の駐車場でやるヤツか?なんや自分、古着の整理でもするつもりやったんか?」 「そうじゃなくて、……シルバー。趣味で作ってるヤツ。作り貯めてたの、売ろうと思ってた」 「シルバーっちゅうと、アクセサリーとかなんかか?ほぉ〜……自分、そういうんもやっとったんか」 「……まあ、一応」 葉月がアクセサリーデザイナーを目指しているのを知っているのはごく小数だ。別に隠す事でもないのだが、夢というのは何となく気恥ずかしくてそうそう暴露できないものである。 「べつに照れる必要あらへんやろ。あーけど、その日やったら藤井も参加する言うとったで。オレも手伝いで呼ばれとるから、なんやったら自分の分一緒に売ってきたろか?委託販売っちゅーことで」 「委託販売?」 「そ。せやなー、アガリの半分くらいで」 「……やめとく。暴利」 「そらジリジリ焼ける太陽の下で接客するんやからそれくらいの見返りは欲しいやんか。半分がアカンなら4割5分でもエエで?」 「やめとく。次の機会に回す」 「4割2分5厘」 「却下」 「4割!」 「論外」 「3割9分9厘9毛!」 「世迷言」 おーい誰か止めてやれ。 というツッコミをする人間がこの場にはいなかったので、二人は心置きなく交渉し続けて、結局1割8分5厘で交渉成立と相成った。 「フッ、自分意外と粘りよったな。オレ相手にここまで食い下がったヤツはそうそうおらんで」 「原価くらいは回収したいんだから、当然だろ」 「カァーッ、そないなおキレイな顔して案外計算高いやっちゃなぁ。ま、エエわ。交渉が成立したからには責任持って全商品売り捌いてみせるで!」 自分の食費がかかっているので、この辺は信頼して間違いないだろう。 「私が予定空いてれば、代わりに参加したんだけど……」 「……空いてても、おまえにそんなことさせるつもり、なかった。気にするな」 しばし二人の舌戦(?)を傍観していた杉菜が申し訳なさそうに言うと、葉月が困ったように笑った。不特定多数の人間が訪れる場所に、どうして杉菜を一人で行かせられるものだろうか。本当に解ってないお姫様である。 「杉菜ちゃんも予定入っとるんか?―――そか、日曜やから稽古か」 「うん。それと教習所」 「……そういえば、免許取ってるんだったな、今」 そう、杉菜はこの夏休みを利用して運転免許を取得しているのである。しかも普通自動車第一種と普通自動二輪のダブルで、その上普通自動車の方はマニュアル車である。 基本主人公もあまり車を運転する図が想像できないが、杉菜のこれも想像しがたい光景だとは思えまいか。少なくとも筆者に出来ない(きっぱり)。 なんにせよ葉月の入院騒動で、本来終わっているはずの教習が少しずれ込んでしまった。葉月の調子が新生児並みの睡眠摂取によって徐々になんだか急速になんだか判らないスピードで戻って来ているので、再開する事にした訳だ。9月半ばにはレンタルビデオ屋の会員になる為の必要書類の選択肢が増えるのは間違いないだろう。 「せやったな。そや、免許取ったら一緒にツーリングでも行かへん?バイクは桜さんが持っとるやろ、それ借りて。な?」 「べつに、かまわないけど。お母さん、最近750しか使ってないから、250は空いてるし」 限定解除のバイクを乗りまわす美女。悪くはないが、なんとも微妙な違和感がある。ちなみに桜は大型並びに大型特殊免許も合わせ持っているらしい。一体何の為に取得したのであろうか、それは謎に包まれている。 「ま〜葉月も免許取ったら付き合うてやってもエエでー?」 思いっきり挑発モードを発動させてニヤニヤ微笑うと、予想通りのムスッとした葉月の顔。こうなるとすっかりオモチャである。下手に反論すれば堂々巡りでからかわれるので、葉月も特には言い返さない。 「さてと、自分の不機嫌そうなツラも拝んだことやし、オレはそろそろ帰るわ。後でまた来るよって、そん時にフリマの打ち合わせやらもするっちゅうことで。ほなまたな、杉菜ちゃんも」 「うん、また」 「……見舞い、感謝。……一応」 ひらひらと手を振ってさっさと病室から姫条は出て行った。真の勝者はズルズルと居座らないものである。 「……あ、じゃあ私もそろそろ行くね」 時計を見た杉菜がおもむろに問題集をバッグに仕舞いこみながら言った。これから午後の教習らしい。 「終わったら、また来るから」 「……無理しなくていい。行ったり来たりだと、おまえも疲れるだろ?」 度々来てくれるのは葉月としては嬉しい限りだが、それで杉菜が体調を崩しては困る。まだまだ暑気が厳しいのだ。 だが杉菜はいつものように軽やかに首を横に振る。 「無理、してない。というより、無理だとか、思ったこと、ない」 本当に。 その気持ちが伝わってきて、葉月は再度笑みを浮かべる。 本当に。 おまえがいると、どんな感情の中にあっても笑ってしまうな、俺。 「……じゃ、待ってる。気をつけろよ」 「うん。珪も、ちゃんと休んでて」 「了解……あ」 立ち上がりかけた杉菜の手を思い出したように握って引き止める。 「……何?」 「リクエスト。桃缶一つ」 「桃缶?」 「そう。出来れば、冷えたの」 言われて杉菜はわずかに首を傾げてから、すぐにこくんと頷いた。 「……わかった。出来るだけ、冷えたの」 「頼んだ」 「うん」 握られた手を静かに握り返してから、杉菜はそっと葉月から離れる。 「ちゃんと持ってくる、桃缶」 甘くて涼やかな、熱を。 ドアを閉めて去って行く杉菜の足音を追いかけるように、葉月は瞼を落とす。窓の外では暑気を払うかのように風が吹き、木々の梢を揺らす音がさやさやと流れ込んでくる。その音に合わせるように息をして、思った。 色んな事を考えて、色んな事に悩んでも、結局はおまえに辿り着く。 ずっと心の奥底で思い悩んでいたのは、おまえに執着する事で保っている今の自分が、おまえにこのまま受け入れられるのかどうかだった。そんな重荷を受け入れてもらえるか、不安だった。 けど、おまえがそれを受け入れてくれるのなら、どれほど深い闇に閉ざされた世界にも、必ず光が差すんだ。 どんな時も、どんな場所でも。 静かに。 密かに。 微かに。 けれど――――確かに。 暗闇に身も心もむしばまれていく王子でしたが、ふと不思議な感覚にきづきました。 冷たくこごった闇の中にほんのひとしずく、どこからか流れるような暖かいものがあったのです。 それはわずかな間ですぐ消えてしまったのですが、しばらくたつとまた同じように現れました。 目に見えず、ただ肌で感じるだけのそれを、王子は追いかけるように歩きつづけました。 王子を絡みとろうとする闇の触手を振りきるようにして、彼はただ歩きつづけました。 暖かな、光のようなその場所へと。 |
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