−第36話− |
どうして――――? そう訊かれたら、上手く答えられる自信がなかった。 近づくたびに増えるのは、嬉しさだけじゃなかったんだ。 そのことに気付いたのは、本当に、本当に遅かったから。 街中を歩きながら、日差しを避けるように手をかざして葉月は帰り道を急いでいた。 夏の日差し、それはいつもなら好きなものだ。 だが、今の彼にとってそれは不可触の拷問道具のようなものだった。 「……暑い……クラクラする……」 眩暈がする。熱気に中てられたんだろうか。 一週間前には帰って来たっていうのに、まだ体が慣れてないんだろうか。 ああ、けど早く帰らないと。 あいつが、待ってる――――――。 吐き出す息は、陽炎の浮かぶ大気と大差ない熱を帯びていた。 「―――あら?杉菜ちゃんじゃない?」 後ろから声をかけられて振り向けば、杉菜の目の前には車のキーを持った女性が立っていた。 「あ……洋子さん。こんにちは、ご無沙汰しています」 「こんにちは、こっちこそ久しぶりね。元気だった?」 洋子がにっこり笑いながら訊ねると、杉菜はこくんと頷いた。 「はい。洋子さんもお元気そうで何よりです」 「まぁねー、あたしの場合はそれが取り得ですから。ところで、珪に何か用?」 二人が立っているのは葉月家の玄関前。杉菜が今まさに呼び鈴に手を差し伸べんとするところに、脇にある駐車場に車を停めた洋子が丁度やってきたという寸法だ。 「はい。園芸部の友人から野菜をたくさん頂いたので、おすそ分けしようと思って」 杉菜の手には大きな紙袋が下げられていた。中を見ればトマトやキュウリやナス、その他代表的な夏野菜の数々がズッシリと詰まっていた。猫一家の様子を観に学校へ行ったところ、圃場作業中の守村に会って貰って来たらしい。一応食えるものも栽培しているようだ。 「電話をしたら、今日は仕事は午前中で終わるから、この時間なら帰ってきている、という事だったんですけど……」 そこまで言って杉菜は片方の手で呼び鈴を押す。ついでに玄関のドアノブにも手をかけて回したが――望む反応はゼロ。 「……まだ帰宅してないみたいで」 「あらら。長引いてるのかしらね。実際今日は雑誌のインタビューだけで、あとは何も予定は入ってないはずなんだけどな。ま、いいわ。ちょっと待ってね、今開けるから」 洋子は合鍵をバッグから取り出して、玄関を開ける。ドアの中からこもった空気がどよんと流れ出してきて、暑気に満ちた外気と融け合う。 玄関には2・3の靴が整然と並べられているものの、その主が在宅している様子はなかった。 「さ、どうぞ入って」 「あ……はい。それじゃ、お邪魔致します」 冷蔵庫に野菜を入れるという任務があるので、杉菜は断りもせず素直に洋子に続いて家の中に入った。勝手知ったる何とやらでキッチンに向かうと、手早く野菜を洗ってその冷却効率の著しく高い冷蔵庫にしまっていく。その最中に、一旦リビングに行った洋子が同じようにキッチンに入って来た。 「はぁ〜、暑い暑い!まったくもう、お盆も過ぎたってのにこの暑さはないわよね。待っててね杉菜ちゃん、冷房入れたからもうすぐ涼しくなるからね。あ、麦茶飲む?」 「どうぞ、おかまいなく」 「いいのよ、あたしが構いたいんだから。時間あるんだったら涼みがてらお喋りしていって」 冷蔵庫から麦茶らしきペットボトルを取り出して、グラスに注いで氷を入れる。飲み物に関しては、いつ洋子や杉菜が訪れてもいいように何かしら葉月によって用意されているらしい。たまたま今は夏なので麦茶だったようだ。 「去年ほどの猛暑じゃないって言うけど、やっぱり暑いのには変わらないわよねぇ。杉菜ちゃんのご家族も、体調崩したりしてない?」 常日頃従弟がお世話になっているという事で、洋子も東雲家御一同には一応面識がある。 「はい、皆元気です。弟が少し夏バテ気味でしたけど、朝晩が涼しくなったので、今は」 「そっかぁ。確かに朝晩はね。でも昼間の暑さはまだ堪えるわよね。珪もね、屋外でのスチル撮りやCM撮影が続いてたから、ここのところ疲れが余計に溜まってるみたい。しかもちょっと前まで南半球で真冬の空気に晒されてたじゃない?いくら仕事自体は進んでるといっても、ちょっとこれじゃねぇ……」 カランと氷を鳴らしながら、ダイニングのテーブルに頬杖をついて、洋子は溜息を落とした。 8月上旬、葉月は10日間ほどオーストラリアに赴いていた。CMとスチルの演出上、真冬のロケーションを求めての撮影の為だ。お盆にずれ込んだところで戻って来たが、まだ帰国して一週間ほどしか経っていない。最大気温差が30℃は越すような状況で、疲労の溜まった体にはどれだけ堪えた事か。 もっとも撮影自体はこれまた拍子抜けするほどあっさり終了し、メインの部分は大方消化している。夏休みをフル活用した短期決戦的な怒涛のスケジュールはひとまず落ち着いてきたといってもいい。無論まだまだ仕事は詰まっているが、連日終日駆り出される事は減少していく予定ではあった。 「あの子ってやたらと自分で背負っちゃうところあるのよね。頼まれ事を断れない性格っていうのもあるけど、気を遣い過ぎるというか。大変な時に大変だって、弱音吐けない性分で。元々の原因のあたしが言うのもなんだけど、仕事だってもう少し休んでもいいのに、って思っちゃう」 そうぼやくと、杉菜は考え込むように手の平に包まれたグラスを見つめた。 「……どうして、なんでしょう」 「え?」 「どうして、そこまで仕事を続けるのかなって、思うんです。もちろん、仕事は大事だから、それを否定する気はありません。けど、見ていても辛そうなのに、それでも続けてるのって、どうしてなのかなって、思って……。経済的に困っている訳じゃないし、頼みを断れない性格でも、自分を犠牲にして欲しくはない……そう、思います」 「……ウ〜ン、そこのところは珪本人に訊いてみないとねぇ。でもあたしには教えてくれなさそうだけど」 苦笑しつつグラスに口を付ける。 「ただ……少なくとも、マネージャーが張り切りすぎな感は否めないわね。彼女、あたしの友だちでもあるんだけど、珪のモデルとしての才能を高く買ってる分、期待してしまうところが大きくて。受験の事があるから10月くらいまでしか大きな仕事は入れないって言ってるけど、ちょっと最近怪しくなってきたなぁ。珪もあれで結構、疲れとか体調が悪いのが表に出ない方だし、そろそろセーブかけないと厳しそう」 ストレスの大半は『睡眠不足』というものに転化されてしまうので、確かに葉月の不調というのは気付きにくい。マネージャーやカメラマンからの報告もあり、最近できるだけ頻繁に様子を観に来ている洋子は、さすがに葉月の顔色にも気付いている。顔色の悪さが面に出ない分、出た時にはかなり悪化している可能性が高い。葉月の保護者として、そろそろ待ったをかけるべき時期だとは感じていた。 「けどあれよね、杉菜ちゃんも珪で遊べなくて残念でしょ?」 「遊ぶ……珪で、ですか……?」 「そうよ〜。杉菜ちゃんと知り合ってからの珪、本当に面白くなったもの。それはまあ、一般的高校生男子の基準からすればまだまだだけど、実にからかい甲斐があるというか、昔に比べて遥かに解り易くなったわ。ホント、遊び甲斐が出てきてるわよ?」 藤井と気の合いそうな意見を上げると、杉菜はなんとも不思議そうな顔をする。彼女にとっては『人で遊ぶ』という感覚は実に理解しがたいものだからして、それも仕方ないだろう。 「…………あ、帰って来た、かな」 不意に杉菜が玄関の方を向いたので、洋子もつられてそちらに注意を向ける。確かに何か物音がする。靴を履き換えて、上がってくる音。 「そうみたいね。やっぱり仕事が長引いたのかしら。もう2時近いもんね」 掛時計の針を一瞥すると、確かに午前中で終わる仕事にしてはかかったようだ。 「……足音、何だかだるそう……」 杉菜が呟くと同時に、葉月家の暫定的主人がダイニングに現れた。二人が座っているのを見て、少し目を見開いたもののすぐにいつもの表情に戻る。 「……ああ、ここにいたのか。洋子姉さんも、来てたんだ」 「お帰りー、珪。お邪魔してるわよ」 「悪い、杉菜。遅くなったな……」 そう言って微笑う葉月に、杉菜はすっくと立ち上がって近づいた。 「…………?」 見上げてくる杉菜の顔に浮かんだ表情に戸惑ったような葉月だったが、杉菜は眉を顰めたままポツリと言った。 「……顔色、悪い」 「……ああ……そう、か?そうだな……少し、疲れ溜まってる……か……」 「珪?」 葉月の様子があからさまに変なのに気がついて、洋子も立ち上がって従弟の顔を覗きこんだ。 「―――ちょっと!あんた、顔、真っ青じゃない!?大丈夫なの!?」 「平……気……。ね……むいだ……け…………」 そのまま。 真正面に立つ杉菜の肩に頭を委ねるようにして、葉月はゆっくりと倒れ込んだ。 「―――珪!?」 「珪!?ちょっと!?どうしたのよ!寝てるの!?」 杉菜の華奢な体には似つかわしくないほどの体躯の持ち主は、明らかに意識を失っていた。 普段の眠りとは違うほどの深さで。 事務所の椅子に腰掛けて、アイスコーヒーを飲みながらマネージャーは自分の手帳を眺めていた。びっちりと書き込まれた葉月のスケジュールの横には、ここ数週間で調べたある女子高校生の情報が記載されている。 「……調べれば調べるほど、すごい子ね……」 感嘆とも呆然ともいえる溜息を吐いて、彼女はカップに口をつける。 ほんの少し調べただけだが、調査した対象人物の業績はお見事としか言いようがない。成績優秀・スポーツ万能・感性抜群・容姿端麗・その他諸々。まったくもって葉月の女版である。 何より周りの評判がすこぶる良い。アルカードに務める篠ノ目にそれとなく訊いたが、学内での評判は睡眠体質以外に関してはオールOK。悪評の欠片もない。学外でも高い評価を得ており、ゲームがゲームならプリンセスを通り越して女王EDまで迎えられてしまいそうである(←また懐かしいゲームですね)。 「まぁ……それくらいじゃないとファンも納得しないでしょうけど、それにしても出来すぎって気もするわね。どっちにしても話題性はある事には違いないか」 しかしてこれからどうするか。 交際を認めるとなると(って別にマネージャーに認めてもらう筋合いのものではないが)、どうあっても葉月が仕事に従事する時間は短くなる。それは困る。となれば、そういう相手がいる事だけを仄めかして、交際自体は控えてもらう。 「でもそんな事、あの葉月がする訳ないか……変なとこでやたらと頑固だし」 それ以前に彼女をモデルとして採用するっていうのはどうかしら。そりゃ背は低いけど、スチルモデルやCMモデルならかなりいけそうな気がするんだけど。そうすれば仕事場で会えるでしょうし、そんなに葉月も反対しないかも知れないわ。 ……完璧に頭の中が妄想モードに入っている。真夏の国と真冬の国を往復して頭が壊れてるのは実は彼女の方かも知れない。 そんなことを無駄にずらずら考えていると、マネージャーの携帯が鳴った。ハッと我に帰って手に取れば、そこには友人の名前。こんな時間にかけてくるとは珍しい、とマネージャーは電話に出た。 「もしもし?洋子?」 慌しく車が駐車場に止まり、ドライバーがヒールの音も高らかに病院内に飛び込んだ。 「――――――洋子!」 マネージャーが受付で場所を訊いてから内科病棟のロビーに着くと、ベンチに座っていた洋子が彼女に気が付いて立ち上がった。 「本当なの、葉月が倒れたって……大丈夫なの!?」 「ええ。命に別状があるとか、そういう事はないわ。…………自律神経の不調よ。過労による、ね」 険しい表情と固い声色で洋子が告げた。それを聞いてマネージャーが大きく目を見開く。 「……過労……」 「ええ」 頷いて、洋子はマネージャーの顔を見据えた。 「あなたの管理能力を信頼していたから、今までは静観してた。けど……珪の保護者代理として、これ以上仕事をさせる訳にはいかないわ。解ってくれるわね?」 苦渋の表情で淡々と言う。静かな態度が逆に怒りの強さを示しているあたり、さすが葉月の従姉だけあった。 「あ……ご……めんな、さい……」 「ううん、あたしももっと気をつけるべきだった。……珪って具合悪いのが見えないし、それ以上に見せない子だから、あなただけに責任を負わせる気はないけど……けど、もう少し、余裕を持ってスケジュールを組んで欲しかった」 眉を顰めたまま大きく嘆息して、洋子は続けた。 「命に別状はないけど、疲労が相当溜まってる。最低一週間の入院と、むこう一ヶ月の休養を指示されたわ。栄養状態が思ったほど悪くなかったから、夏休み中しっかり休めば学校に行く分には大丈夫だろうって。……杉菜ちゃんのおかげだわ、本当に」 「杉菜、さんの……?」 「ええ。あの子が珪の食生活に気を遣ってくれてたから、この程度で済んだの。杉菜ちゃんがいなかったら多分もっと早く、そしてもっとボロボロになってたわ、あの子」 洋子は言って、マネージャーを促すように廊下の奥にある病室へと向かう。マネージャーもその後に付いて歩いて行く。 「――杉菜ちゃん、入っていいかしら?」 コンコン、とドアをノックして中の人間に声をかけると、ドア越しに「はい、どうぞ」と答えが返ってきた。 「……洋子、もしかして『東雲さん』がいるの……?」 「ええ、珪が倒れた時、あたしと一緒に家にいたの。――――そういえば、あなたは初めて会うのよね」 ドアノブを回して部屋に入ると、こぢんまりした個室になっていた。一つだけ据えられたベッドには葉月が静かに眠っていて、その傍らには彼を見守るように杉菜が座っていた。洋子達の姿を認めると、パイプ椅子から立ち上がって、会釈をする。 「どう?珪は」 「眠ってます。けど、顔色、少しずつ戻って来てます」 「そっか、なら良かった。――紹介するわ。こちら、私の友人で珪のマネージャー。……こちらは東雲杉菜ちゃん。珪の友だち」 「……初めまして」 マネージャーがバツが悪そうな顔で頭を下げると、杉菜も同様に頭を下げる。 「こちらこそ、改めて初めまして。東雲杉菜です」 「え?『改めて』って事は、会った事あるの?」 「はい。先日森林公園で。やっぱり、マネージャーさんだったんですね。声で、そうか、と」 洋子の疑問に杉菜が答える。やはりバレバレだったようだ。 「……その節は失礼したわ。ごめんなさい」 「いえ……私、気にしてないですから。謝るのなら、珪に」 ちらりと、横たわったままの葉月に視線を向ける。腕に伸びる点滴の管がいかにもな病院らしさを醸し出しているが、それに見合うほどに彼の顔色は悪かった。戻って来ていると杉菜は言ったが、今でこれだけ悪いという事は倒れた時はもっと酷かったのだろうか。午前中、インタビューを受けていた時はほとんど判らなかったのだが。 「―――そうするわ。責任、感じてるし」 葉月とは三年以上の付き合いだ。それにも関わらずこれだけ無理をさせてしまった事実を、マネージャーは今になってようやく自認した。 「…………仕事……」 「え?」 杉菜が葉月の顔に視線を向けたまま、ポツリと呟くように口を開いた。 「仕事……減らせないんでしょうか?」 「仕事……葉月の?」 「はい。これ以上かけさせたくありません、負担」 視線を戻してマネージャーの顔を見上げる。女性としては背の高いマネージャーは、見上げてくる杉菜の瞳に囚われたように見返して答える。静かで無表情な筈のそれに、強い何かを感じてマネージャーは口を開く。 「……とりあえず、こういう事態だから当座の仕事はキャンセル、もしくは延期ね。けど今やってるアパレルメーカーの仕事は、総合イメージモデルって事でどうしても外せないわ。八割方終わっているから尚更。無理をしてでもやってもらわないと、うちの事務所だけじゃなくメーカーにまで大きな損失が出るわ」 正直に回答した。レギュラーの雑誌モデル等については事情を説明して謝罪した上で他のモデルを回す事も可能だが、メーカーの仕事についてはそうはいかない。プロモーション展開は全て綿密なスケジュールで組まれているのだ。撮影が予定より遥かに進んでいるのは不幸中の幸いだが、決して帳消しには出来ない。 「言わせてもらえば……葉月には、あなたと会う時間を減らして欲しいところ。その分休養もできるでしょう?」 「ちょっと……!」 「解ってるわ、勝手だっていう事は。けど、モデル・葉月珪のマネージャーとしてはそういう判断をしたいのよ」 自分でも無茶苦茶な事を言っている自覚はあるのだろう、洋子の詰問口調に苦々しい顔でマネージャーは首を振る。 その内心の煩悶を読み取ったのかどうか、杉菜はわずかに眉を顰めて口を開いた。 「……私はかまいません。珪が無理をしないでくれるなら。けど……違うでしょう?」 欺瞞も詭弁も許さない響きで、杉菜は続けた。 「私に費やさない分、仕事にかける時間が増える。それじゃ同じ。珪が無理する事には変わらない。そうでしょう?」 マネージャーは言葉に詰まる。自分の望んだやり方においては確かにその通りだ。 「私は彼に、無理をして欲しくないんです。……だから、お願いです」 そう言って、杉菜はマネージャーに対して深く頭を下げた。 「――――――!」 「杉菜ちゃん――――!」 マネージャーと洋子が驚いて杉菜を見つめる。 「杉菜ちゃん、何もあなたが頭下げなくても―――!」 「……珪が望むのなら、私にできる事はしてあげたい。私を気遣ってくれる分、返してあげたい。けど、私に出来ることは少ないから。だから、こうして頼むしかないんです」 頭を下げたまま、静かに言う。 「私は……ただ、珪に苦しんで欲しくないの」 たとえ傍にいられないとしても、それでも、彼が無理をしないでくれるなら。苦しまないで、くれるなら。 ……本音は別のところにあったとしても。 「…………ん……」 しばし点滴の雫が落ちる音だけが響いている最中、ベッドを占領していた葉月が声を漏らした。それに反応して三人の女が彼の方に注意を寄せる。 「……珪?目、覚めたの?」 「……ああ……杉菜、か……?」 顔を寄せて杉菜が静かに声をかけると、葉月が眩しそうに目をゆっくりと開いた。ぼんやりと視界を巡らせて、見覚えのない四角の天井と自分の腕に繋がった点滴装置に目を止めた。 「ここ……どこだ?俺、どうしたんだ……」 「はばたき中央病院の、内科病棟309号室。疲れが溜まって、倒れたの。まだ、寝てていい」 「……そう、か。いや、平気……」 そう言って、葉月は空いている方の手を杉菜の方にわずかに動かす。それに応えるように杉菜がその手を取って軽く握ると、弱々しいながらも同じ反応が返ってきた。 「……良かった……」 「え……?」 「夢、見てた……。よく覚えてないけど、嫌な夢。……目が覚めて、おまえがいて、ホッとした。とても」 「そう……なの?なら、良かった」 「ああ……サンキュ」 「……どう、いたしまして」 言葉少なに会話する二人を見遣って、洋子はマネージャーの袖を軽く引っ張って目配せをした。二人に見惚れていたマネージャーもそれに気が付いて、首を縦に振って了解の意を表明した。 「珪、あたしたちちょっと話があるから外に出てるわね。杉菜ちゃん、お願いしていい?」 遠慮がちな洋子の声に振り向いて、葉月と杉菜は頷いた。それを見届けてから洋子とマネージャーは病室の外に出る。先程のロビーに戻り、自販機でコーヒーを買ってから二人はベンチに座った。 「それで、あなたはこれからどうするつもり?」 洋子がマネージャーに訊ねる。 「どうするもこうするも……あそこまでされて、しかも葉月のあの状態で、仕事させる訳にもいかないでしょう。できる限りのスケジュール調整はするわ。……実のところ、オファーもまだまだ来てる。中にはこれは是非、っていうのもある。……けど、しばらくは休養を取らせて様子を見るわ」 マネージャーが大きく溜息を吐くと、洋子も同様に溜息を吐く。 「そうしてちょうだい。できればこのまま受験態勢に入らせてあげたいんだけど」 「……そうね、そうするわ。ああ、でも今のメーカーの件だけは譲れないわよ。今の進行状況でキャンセルなんていったら、違約金でうちの事務所破産するもの、マジで」 「……仕方ないわね。くれぐれも無理、させないでよ」 最大限の譲歩。マネージャーの言う事も理解できるからだ。 「正直言って、かなり痛いけどね。今の大事な時期に倒れられるって。……本当に、何も見えなくなってたのね、私」 洋子の理解を得たからか、マネージャーはどこか安堵の気持ちを掠るように呟いた。友人の言葉に込められた響きを感じ取って、洋子は苦笑する。 「……あなたの気持ちも解るんだけど、ね。モデルとして一番大事な時期だっていう事は。―――でもね、あたし、今の珪には高校生として思いっきり青春を謳歌する方を選んで欲しいの。普通の高校生らしく勉強したり、友達と遊んだり、好きな子とデートしたり、そういう事。あの子……ずっとそういうの、諦めちゃってて。モデル始めた頃なんか頑なに殻固めちゃって、見てて辛かった。でも今は違う。みんなと一緒に笑ったりする事ができるようになって、それがよかったなって思えるのよ。そして―――それは杉菜ちゃんがいたからなの、間違いなく」 洋子は手に持ったコーヒーを一口飲んでから、隣に座るマネージャーに穏やかに話す。 「仕事は大事よね?けど、今のあの子には、自分のプライベートを存分に楽しむ事が必要なんじゃないかって思うの。言うでしょ?『高校時代の一日は大人になってからの一ヶ月より貴重だ』って。あたしもそう思う。そうやって自分の芯の部分を作っているからこそ、モデル・葉月珪もこんなに成長できたんじゃないかしら」 真っ直ぐに目を見て話す洋子に、マネージャーはしばらく沈黙してから視線を逸らす。 「…………そうかもね」 ……ああ、もう本当に何も見ようとしなかったのかも知れない。葉月があまりにも優れた存在である事を免罪符のようにしてたのかも知れない。本当は、そうじゃなかったのに。 杉菜と話している葉月はとても楽しそうで、嬉しそうで、幸せそうで。それは彼の変化に一番顕著に現れているもので。 年相応の感情に満ちた空気。 それは確かに彼女ゆえなのだと、マネージャーは先程の二人の姿を思い出して軽く息を零した。 (……ああもう、完全に負けだわ。認めるとか認めないとか、それ以前の次元の話よね) 彼女は既に葉月の一部で、彼女を否定する事は今の葉月を否定する事になる。 葉月の『今』が杉菜によって導き出されたものならば、それは葉月を通して杉菜を見ている、という事なのだ。 そしてそれが自分たちにとって好ましいと思うものならば、それは葉月以上に杉菜の持つ空気に魅了されているという事。 誰もが最近の葉月の素晴らしさを褒め称えるけれど、実際はその奥に存在する杉菜の世界を感じとって、それを素晴らしいと感じているだけなのかも知れない。我知らぬままに。 だとしたら―――二人を引き離すなんてできっこない。 (…………降参ね) マネージャーは紙コップの中のコーヒーをやけくそのように飲み干した。 病室ではざっと事情を説明された葉月がこれまた嘆息して天井を見上げ直したところだった。 「……そうか……。迷惑、かけたな……」 「ううん。迷惑とか、思ってないから、全然。……あ、けどどうしよう……」 「なんだ?」 「お野菜。冷蔵庫には入れてきたけど、一週間も置いとけないし……」 「ああ、そうか……。一部、洋子姉さんに持ってってもらって、あとは……姫条あたりにでもやるか」 「……うん、そうだね。後で連絡入れておく」 「頼む。……けど、もったいないこと、した」 「もったいないこと?」 「どうせ倒れるんだったら、おまえの作った料理、食ってからにすればよかった。一週間はお預けなんだろ」 午前中で仕事が終わる為、差し入れついでに杉菜が昼食+夕食を作る流れになっていたので、葉月にとっては非常に残念なものだった。姫条その他とてそれには同意するであろう。 しかし今のセリフは実行されていたら病院関係者に不要な誤解材料を与える事にはなったのではなかろうか。この時期は食中毒が多発するからして。 「そう……?じゃあ、退院したら改めて作るね」 「ああ、楽しみにしてる」 大好きなお菓子をもらった子供のようにあどけなく微笑む葉月を、杉菜は見返す。 まだ顔色は悪い。声もいつもより遥かに元気がない(いや、いつも元気ではないが)。 だからこそ彼の中にある優しさや脆さがよりはっきりと伝わってくる。 その伝わってくるものを受け止めるように一旦俯いてから、杉菜はもう一度葉月の瞳を見つめて、呟いた。 「…………わがまま」 「え?」 「わがまま、言ってもいい……?」 杉菜らしからぬ単語に葉月は少し目を見開いたが、すぐに何故か嬉しそうな感情を秘めて訊き返した。 「……なんだ?」 「…………仕事は大事だと思う。けど……珪がいないのは、嫌。珪が傍に居ないのは、嫌。……嫌なんだって、知った」 あなたに会えなかった10日間。ほんの10日なのに、何故かどこか空虚な感じがしていた。 去年の夏、同じように感じた事があったけれど、それよりももっと強く、思った。 あなたに会えないこと。あなたが傍にいないこと。 それが、『いや』だと。 まして、仕事の為にあなたが倒れたりするのは。 「だから……できるだけ、仕事入れないで、その分、私の傍にいて欲しい」 以前あの人が言った『わがまま』。どれだけ効果があるか判らない。 けれど、それで少しでもあなたが苦しまないで済むなら、体、壊したりしないでくれるなら。 縋りつきたい。その『わがまま』に。 今まで縋った事のない、その理不尽で、不可解なものに。 「………杉菜……」 「いて……くれる……?」 念を押すように訊ねる杉菜に、葉月はしばらく呆然としていたが、やがてさっきよりももっと嬉しそうな顔を見せた。 「…………バカ……」 力の入らない顔で精一杯笑いながら、見つめてくる瞳を見つめ返す。 「俺、言っただろ?おまえの傍にいるって。自分がそうしたいから、そうするんだって。……そんなの、ちっともわがままなんかじゃない。…………俺の方こそ……」 少し言い澱んだ葉月に、杉菜は疑問符を頭上に浮かべた。 「……何?」 「……俺の方こそ……おまえの傍に、いていいのか……?おまえの傍に……いさせてくれるか?わがままだとは、思うけど……」 今も、これからも。 ただ、君の傍らに。 ささやかなようで途方もない、大きなわがままだけれど。 「……それ……」 今度は杉菜の方が少し目を見開いて、やや考え込むように小首を傾げて言う。 「ん?」 「それ……わがままじゃない。いて欲しいから、珪に」 嘘や偽善、同情の欠片もなく、さらり、と。 いつもの彼女らしい物言いが、かえって心の中にまで届いて満ちる。 「……そうか。じゃあ、おあいこ、だな」 「うん、おあいこ」 微笑む葉月に対して杉菜はいつもの無表情。 けれど、繋がれた手を握り返す力には確かな意思が篭っていた。 |
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