−第35話− |
「もしもし……ああ、父さん?久しぶり。元気でやってる?……そう、なら良かった。……俺?まあまあ。……ああ、洋子姉さんに聞いたんだ?そう、少し仕事、忙しいから……。うん、けど今の仕事が終われば少し余裕できるし、心配しなくて大丈夫だよ。ちゃんと食べてるし。…………え?洋子姉さん、そんな事まで言ってたの?……べつに、恋人ってわけじゃ…………まあ、そんなとこ。 そっちの仕事はどう?……そう、良かったね。母さんも最近は公演先からよくメール送ってくるよ。うん、楽しそう。仕事、やっぱり忙しいみたいだけど、元気だって。 ……あいつのこと?って……っ……あ、その、なんていうか、うまく言えないから……。 けど……そいつといると、知らない世界が広がる感じがして、それが好きなんだ。満たされるって感じがする。……いや、満たしてくれる、かな。あいつにふさわしい男にならないとって、いつも気が気じゃないけど。……笑わなくたっていいだろ。…………うん、いい奴だよ。父さんも会えば気に入ると思う。 ……え、本当に!?あ、けど、無理しなくても…………ごめん、そういう意味じゃなくて…………うん、分かった。楽しみにしてる。それじゃ、体、気をつけて」 パシャパシャパシャ! スタジオ内は熱気もさることながらフラッシュによる光で冷房が効いているにも関わらず、外気に負けない暑さに満たされていた。 「そう、顔はその向きで目線だけこっち向けて!―――いいよ葉月くん、その表情キープして!」 森山の楽しそうな声がスタジオに響く。 「葉月くん、本当にいい表情多くなりましたよねぇ。上の方が絶対に彼じゃなきゃダメだって主張してたの、解りますね」 「ホントだな。社運賭けるだけの価値出てきたよなー」 スタッフが邪魔にならないように小声で話すのを聞きながら、同じように壁際で撮影を見守っているマネージャーが表情を弛ませた。 夏休みに入り、前に契約したアパレルメーカーの仕事が連日続いていた。イメージモデルに葉月、スチルカメラマンにかの森山を起用したこの撮影は思った以上に順調に進んでいた。葉月にとっては全く望んでいなかった仕事だが、森山が撮影担当という事で多少は気分の棘も和らいだらしい。懐いた相手に対しては寛大になる辺り、葉月が犬っぽいと言われる事がある所以だろう。まあ葉月としても別の意図が大いにあったのではあるが。 「それじゃ、ここらで少し休憩!」 一段落したのか、森山の声が飛ぶ。アシスタントがバタバタと次の撮影の準備をする中、主役達はスタジオ内に設けられた簡易休憩椅子で息をつく。 「実にいい仕事だよ、今回は。最初は断ろうかと思ってたけど、君がモデルと聞いて了解して大正解だったな。去年の秋に会った時より、もっとずっといい顔になってる」 森山がコーヒーを飲みながら意味ありげに微笑うと、葉月は居心地の悪そうな表情で見返す。 「そう、ですか……?」 「ああ。カメラマンとしては一瞬たりとも見逃せないな。いい写真が撮れてるし、スチル自体はそんなに長くかからないで終われると思うよ。その後はCM撮りだったっけ?」 「はい。……けど、CMは経験が少ないから、てこずるかも……」 「大丈夫だよ、今の君ならね。けど、そうだな……少し疲れが溜まっているみたいだから、CMの前にしっかり休まないとキツイかも知れないな……」 そんな話を葉月達がしている一方で、スタッフ達はバタバタとスタジオ内を動き回る。撮影の順調さゆえに皆一様に機嫌も良く、勢い仕事の進みも早まろうというもの。サクサクと次の撮影の準備ができては主役達に声がかけられる。 短い休憩が終わって葉月がカメラの前に立とうとしたが、ふと思い出したように自分の手を見た。 ジッと凝視して、やがて答えが出たようにボソッと呟く。 「……あ、指輪忘れた……」 どうやら次の撮影で使う小物の一つを控え室兼更衣室に置いてきたらしい。それを耳にした彼のマネージャーは『またか』の意味を込めて苦笑を浮かべる。 「じゃあ私が取ってくるわ。葉月はここで待ってなさい」 そう言ってマネージャーはスタジオを出て控え室に向かった。 (この仕事も予想してた以上に順調だし、もう一つ二つくらいは入れられそうね。大学は受験するって言ってたから、葉月の成績から考えて10月くらいまでなら平気でしょう。ここでペースダウンするのは惜しいけどそれが条件だったし、大学に入ってからも仕事は継続できるものね) 葉月が仕事をスムーズに進行させているのは、勿論早く仕事を終えて寛ぎたい一心からなのだが(姫条あたりの入れ知恵かも)、そうすると今度はマネージャーが張り切って次の仕事を取ってきてしまう。 マネージャーからすればもう少ししたら葉月が受験態勢に入る為、今の内にしっかり地盤を固めて仕事の本格的な再開への足がかりを作っておきたいのである。熱心なのはいいのだが、一応葉月も自我を持った人間であるのでその辺を失念しているようなきらいがある。そして葉月もそれに応えてしまう程の逸材だからこそ、悪循環は断ち切れない。 頭の中で数年後までシミュレートしながら、マネージャーは控え室に入ってテーブルの上に置かれたままの小物ケースを手に取った。 と、そのすぐ横にあった葉月の手荷物からはみ出ていた携帯電話が、メロディーを奏でてその存在を主張した。 「あら、電話?まったく、仕事中は電源を切っておきなさいって言ったのに……」 かつんと触れたその携帯の液晶画面を見て、マネージャーは目を見開いた。 液晶に表示された名前は―――『東雲杉菜』。 (……東雲……例の子……?) ここ半年以上、葉月がこの名前との電話やメールを多く交わしている事は知っていた。 一言言ってやりたい気持ちも大きかったが、内心好奇心が勝った事も否定しきれず、気がつけば携帯の通話ボタンを押して電話に出ている自分がいた。 そして聞こえてきたのは、鈴の鳴るような澄んだ声。 『もしもし、珪?東雲です』 控え目に響いてきたその声に、マネージャーは一瞬聞き惚れて言葉に詰まった。 『もしもし?……こちらの番号、葉月珪さんの携帯、ですよね?……眠ってたのかな』 沈黙を不審に思ったのか、相手がポツリと呟いたのにハッとして、マネージャーは慌てて口を開いた。 「確かに葉月の携帯ですけど、あなた、どこでこの番号聞いたのかな?」 『……どなたですか?』 不審そうではあっても、あまり表情の無い声と口調で聞き返してくる。 「私は葉月のマネージャーよ。―――……悪いけど、葉月は今が一番大切な時期なの。これ以上個人的な用件で連絡してこないでちょうだい」 耳元から聞こえる美声に毒気を抜かれそうになりながらも、できるだけ硬い口調で厳しく言い、そのまま電話を切ろうとしたが、その前に相手の言葉が早かった。 『マネージャーさん……?あ……それじゃ、伝言をお願いできますか?』 「伝言?あなたね―――」 何を厚かましい―――と思ったのも束の間。 『次の日曜、16時から博物館で課外授業を行うので、参加希望の場合は明日17時までに氷室先生に連絡するように、とお伝えください』 沈黙。 たっぷり5秒は経過してから、マネージャーはようやく思考回路が繋がったように復唱した。 「…………課外……授業……?」 『はい。班内での連絡網なので。次の人には私から連絡しますので、よろしくお願い致します。では、失礼致します』 ピッ。ツーツーツーツー……。 あっさり切れたその電話を握り締めたまま、マネージャーはしばらく呆然と立ち尽くした。 「……連絡網……」 まずい。 デートの誘いと言うなら葉月に伝えなければいいだけの話であるが(←よくありません)、この場合は―――まずい。 スケジュール管理をしている身から言えば、日曜も葉月には撮影が入っていて課外に出る余裕など無いが、だからといって学校内での連絡事項を伝えない訳にはいかない。 しかしそれを伝えるとなれば、自分が勝手に電話に出て、しかもちょっとばかり嫌味なセリフを吐いた事も伝えなければならない。 伝えなければ、それはそれで後になってエライ事になりそうな気がする。 普段無気力な葉月が怒るとどうなるか、マネージャーは長い付き合いからよ〜く理解していた。 一気に血の気が引く。 「…………これは……まずいわね……」 「何が」 背後から聞こえたぼそりとした声に驚いて、マネージャーは飛び上がるように振り向いた。 「!!は、葉月!?どうしたの!?」 「遅いから。それに、ちょっと…………ん?それ、俺の携帯……」 マネージャーの手にあったままの携帯に目を留めて、葉月は軽く眉を顰めた。 「あ、ご、ごめんなさい!いきなり電話かかってきちゃって!ウッカリ通話ボタン触っちゃったから、その、出るしかなくって……」 大ウソをつく訳にもいかないので小ウソをチラリと織り込んだものの、これはこれでかなり胡散臭い言い訳である。事実葉月の目は『疑問』から『不審』へと変わっている。 「電話……誰から」 「……その……『東雲さん』……」 その単語を言うと、葉月の顔色と表情が『不審』から『警戒』に豹変した。 「……なんだって?」 「……日曜に課外授業があるから、参加希望なら明日の17時までに氷室先生に連絡のこと……ですって」 「……そうか」 かつかつとマネージャーに近寄って携帯を取り上げると、その着信履歴を確認する。 「……余計なこと、言わなかっただろうな」 画面から目を離さずに、葉月が訊いてきた。一切の嘘を許さない声色に、マネージャーともあろう人間が一瞬怯む。 「よ、余計っていうか……気になってる事は、訊いたけど。どうやってこの番号知ったのか、とか」 その後に言った事の方が余計極まりないセリフなのだろうが、今のこのアドレナリンが過剰分泌されている状態で葉月と対決するのはあまり得策でないので、その件については秘めておいた。もしかしたら杉菜の口からバレるかも知れないが、その時には心構えも出来ているだろうし。 「葉月って自分の携帯の番号を教えるって事が無いでしょう?だからクラスメイトとはいえどうやって知ったのかと思って……ってもちろん、連絡網があるならと納得したけど」 内心のハートビートを押さえつつ努めて冷静に言うと、葉月は携帯をパタンと閉じて軽く息を吐く。 「……俺が教えた」 「え?」 「俺が、自分で教えた。あいつに。……それだけ」 実際は尽の画策によるものだが、結果的にその番号にかけて自身の番号を教えたのは彼自身だから間違ってはいないだろう。 「……ところで、着替えるから出てってくれないか?」 携帯をしまうついでに何故か自分の荷物を片付け始めた葉月が、マネージャーに顔を向けて言った。 「え?まだ撮影は終わってないでしょ?」 「……今日は終わり」 「終わり?え、もう!?」 時計を見れば予定していた時間の三分の二しか経っていない。いくら順調だったとはいえ、こんなにサクッと終わるものだろうか。 そう考えていると、葉月がフウ、と溜息を吐いた。 「……顔色悪いから、休めって。森山さんがスタッフや会社の人と相談して、急なオフ。詳しい事はそっちで聞いてきてくれ」 言われてみれば葉月の顔色は少し悪い……ような気がする。 「わ、わかったわ」 頷いてマネージャーは急いで控え室から出た。 思ったよりもツッコまれなくて良かったものの、今度は撮影の中断の方が気になる。スタジオに戻って森山やその他メーカーのスタッフが集まる場所へ駆けていく。 「ああ、マネージャーさん。お疲れさま」 「お疲れ様です、森山さん。あの……葉月、急なオフって言ってたんですが、何か問題でも?」 「問題でしょう、顔色の悪さは。室内でのスチルならともかく、これからは屋外での撮影がメインですからね。メーカーの予想より遥かに撮影は進行してるし、少し休みを入れられないか俺の方で交渉したんです。せいぜい二日ですけど、摂らないよりはマシでしょう」 「そう、ですか……。申し訳ありません、マネージャーとして管理不行き届きでした!」 「いや……表面上、パッと見た限りでは判らないと思いますよ。ファインダーを覗く立場だからこそ気がついた。それにどうも、彼はそういうのを隠すのが上手だから」 森山が苦笑する。とはいえ他人が気づいてマネージャーの自分が気がつかないとは、なんて事だ。 「……今回の仕事に携わってる身で言うのもなんだけど、彼は周りが気をつけて休ませないと、無理してしまいそうな気がしますよ。周りの期待に出来るだけ応えようとする部分が、哀しいくらいに強い人間だから」 森山はそう言って他の撮影スタッフに指示を出しにその場を去った。マネージャーもメーカーのスタッフに次回撮影のスケジュールを確認して、手帳に書き込む。 (仕方ないわね、カメラマンがああ言うんじゃ。そうね、ここしばらくまともな休みがなかったから、ここらでしっかり休養を摂ってもらわなきゃ。…………あら?) 手帳を見て、ふと気がついた。急なオフとして言い渡された二日間は上手い具合に日曜日が入っている。 (日曜日……そういえば山田さんが、葉月がオフの日曜に森林公園に行ってみろって言ってたわね) 朝に確認した天気予報ではここ数日は晴れ間が覗く。 さっき耳元で聞いた、あの声の持ち主。もしかしたら、彼女に会えるかも知れない。 葉月を支配する『東雲杉菜』に。 次の日曜、葉月のオフに便乗して自分もオフをとり、マネージャーははばたき市の森林公園に来ていた。 「それにしても、本当に広いわね……。きらめき中央公園よりも全然規模が大きいし、人出も多いし」 マネージャーはきらめき市在住なので、仕事以外でこの森林公園に来る機会は極端に少ない。なので微妙に馴染みが薄いのではあるが、とりあえずメインストリートや並木道の辺りをぐるりと散策してみた。 (大体時間は今くらいだって言ってたけど、本当に大丈夫なのかしら。第一、場所だって『北口にやや近い芝生公園の辺り』って、ずいぶんアバウトな情報をくれるわよね、山田さんも) ほどよく風が吹いて爽やかな晴天の下を一通り廻ってみても、葉月らしい人物は見かけない。彼に見つからないよう普段の仕事服とは全く異なるプチ変装をしては来たが、無駄足に終わったらそれも情けない。二日前に別れる際、しっかり休むように言い残してきた事もあり、果たして今日現れるかどうか疑問だ。 だがおそらく予想では葉月と『彼女』はデートの約束をしていると思われる。そういう点では葉月は期待通りの行動をする男だ。第一葉月が現れないと『東雲杉菜』にも会えない――というか判らないし、本当に徒労に終わったらどうしよう……と思いつつきょろきょろと辺りを見渡していた、その時である。 「……何か、お探しですか?」 背後から、鈴の音のような少女の声が聞こえてきた。 聞き覚えのある、控え目な声。 「え!?あ、いえ、探してるっていうか、別にそういう訳ではあるような、ないような……!」 ビクッとして慌てて振り向くと、そこに立っていたのはバイオリンらしきケースを持った高校生くらいの美少女であった。 その姿を目にして思わず息を飲み、次いで少女の姿をまじまじと見つめる。 (……な、何この超美少女!!嘘、こんな子はばたき市にいたの!?なんて事、どうして今まで気がつかなかったの!!) 多くの美男美女に囲まれているはずのマネージャーですら、こんな美少女は初めて見た。 立ち姿は嫋々として可憐。面差しは繊細で儚げ。 しかし、それに貫かれてあるのは凛として清雅。そして何よりも辺りを包み込む優麗さ。 目を奪われるどころか、心奪われる程の『空気』を持っている。 葉月とも共通する、他人を魅了してやまない存在。 ――――――彼女だわ。 声ではなく、その『空気』でマネージャーは直感した。その辺の勘はさすが、若くして数多くの才能を発掘して来ただけの事はある。 「あの……?」 彼女――杉菜の玲瓏な声が再び響いて、マネージャーはハッとした。 (いけない、直接会った事はなくても声は知られてるし、気をつけないと) 「いえ、ここには滅多に来ないから、物珍しくていろいろ眺めて歩いてるだけなんですよ。気を遣ってくれてありがとう」 できるだけ先日とは話し方を変えた上で人好きのする表情でにっこり笑うと、杉菜は二・三度瞬いてから軽く頷いた。 「それなら、いいです。失礼致しました」 綺麗で完璧な所作で一礼して、杉菜はそのままケースを持って芝生公園の奥の方へ歩いて行く。 「……なんだか、淡白っていうか無表情な子ね。昔の葉月に似てるかも……」 そんな子が、あの葉月を変えた。どうやって? マネージャーは歩み去っていく杉菜の後ろ姿をさりげないフリをしながら付かず離れず追いかける。すると、その方向に行くにつれて何やら人が多くなってきた。 「何かしら……?」 疑問符を浮かべた頭のままコッソリ近づいていくと、その一角にちょっとしたテント……いや、巨大な白いパラソルが設置されていた。その周りには謎の黒服集団がポジショニングして立っており、それを取り巻くようにギャラリーが輪を描いている。 「東雲さん!もう、いつもより遅いから心配したのよ!?」 黒服集団の中から、特徴あるソプラノ声が聞こえた。 「ごめんなさい瑞希さん。お稽古、少し長引いたの」 「あら、東雲さんのレッスンが長引くなんて珍しいわね?何かお話でもあったの?」 「ううん、違う。単に長引いただけ。曲が長いから」 「まあ、そんなこと?だったらミズキに連絡くらい入れてくれればいいのに。待ってる時間がもったいでしょ?ミズキの時間は色サマの時間と同じくらいに貴重なんだから!」 「うん。次からは連絡、入れる」 「ならいいわ。さ、時間も惜しいことだし、早く始めましょ」 人込みの中から頭を差し入れるように見てみると、杉菜ともう一人、同年代の少女が会話していた。 (あれって確か、須藤グループの令嬢だったわよね) 記憶のハードディスクから財界に関するフォルダを引っ張り出して、マネージャーが頭の中で照合すると、二人の更に向こうの方から若い男性の姿がやってくるのが見えた。 「……また、いるのか」 辟易した顔で須藤グループの令嬢の方を向いたその顔は、紛れもない自分の担当モデル。 「いつもながら失礼ね!ミズキと東雲さんは9月の発表会で演奏するデュエット曲の練習をしなきゃいけないんだから、そんな風に言われる筋合いはないわ!」 須藤はお嬢様の嗜みとしてバイオリンを習っている訳だが、その講師は実は杉菜の講師と同一人物である。それなりのランクの者以外教えないという敷居も高ければ技術も芸術性も高いその教室では毎年9月に発表会が行われており、今年はどうやらその中で二重奏を演奏するらしい。多分須藤がごり押ししたものと思われるが。 「大体あなたこそ、どうしてわざわざミズキたちのジャマをしに来るのかしら!?せっかくのお休み、ゆっくり自宅で休んでいたらよろしいんじゃなくって?」 「休む場所がここだって、おまえには関係ないだろ」 「だったらミズキがここにいるのだって、あなたには関係ないじゃない!」 犬猿の仲と言おうか、どうもこの二人はソリが合わないようである。葉月としては杉菜を独占したいし、須藤もまた然り。三年生になって同じクラスになってからはこの二人の言い争いが絶える事はない。わたわたと仲裁する守村(やはり同じA組)が哀れなほどである。 「瑞希さん、始めよう。私も、16時から課外があるから長居できないし」 「それもそうね。誰かさんに付き合って危うく時間をムダにするところだったわ」 バイオリンをケースから出して調弦を済ませた杉菜が声をかけると、須藤はあっさり葉月を見離して友人に頷いた。実にいいタイミングで舌戦を止めたように見えたが、別に杉菜にはそういうつもりはなかったらしい。 「…………」 葉月は葉月で眉を顰めはしたものの、すぐにその辺の芝生に座ってそのままごろんと寝転んだ。ギャラリーはそんなのは慣れっこなのか大して気にも留めていない。寝転んだ人気急上昇の高校生モデルよりもバイオリンを構えた女子高校生の方が大事らしい。 図りかねておとなしくその様子を眺めていると、眺められている女子高校生二人が短い合図を取ってから演奏を始めた。 須藤の演奏が花ならば、杉菜の演奏はそれを引き立てる葉。艶やかなかつ華やかな須藤の旋律に、控え目かつ上品に杉菜の旋律が絡み合う。技術的には申し分なく、その上芸術性に優れた二人の演奏は実にタダで聴かせるには勿体無いほどのもので、聴衆だけでなくただの通行人も足を止めて聴き惚れる。 夏の青空に映える白いパラソルの下、演奏を終えた二人がそっと弓を下ろすと、周りの聴衆から盛大な拍手が起こった。 「Merveilleux!なかなかいい仕上がりよ、東雲さん。ミズキ、とっても気に入ったわ!」 上機嫌に話す須藤に比して杉菜は……言わずもがな。 「そう?ありがとう」 「ええ!それにこうして戸外で演奏するのも楽しいわね。大道芸人みたいでどうかと思ったけど、直接賛美を贈られるのって、やっぱり気分がいいわ。ま、ミズキの演奏なら当然ですけど。誘ってくれたあなたにも感謝してあげてよ?」 とかなんとか言っているが、その習慣に則って杉菜とデートを、と思ったのは須藤の方である。上手いこと誘導させて今日のような演奏会をするようになってから、割と経つ。まあ一応、杉菜の護衛役も果たしているのではあるが。 その後、仕上がりに満足した須藤は自分は用意させたテーブルセットの椅子にゆったり腰掛けて優雅にお茶を飲みながら、杉菜の演奏を請う。杉菜はそんな須藤の態度もさほど気にせず、請われるままに音を奏でる。穏やかな選曲から、どちらかといえば須藤の為というより芝生に寝転がったままの大型哺乳類の為だったようだ。 合計一時間ほど弾いてから、杉菜はバイオリンを下ろして聴衆に向かってペコリとお辞儀をする。盛大な拍手が返ってきて、それを合図にそれぞれ三々五々散って行く。 楽器をケースに仕舞った杉菜は須藤と一言二言交わしてから、眠っている葉月に声をかける。珍しく葉月もすぐに目が覚めたようで、覗きこんでくる杉菜に微笑って起き上がる。 「それじゃ、これ……」 「ああ、ちゃんと家に届けとく。気をつけろよ」 「うん。もうすぐ桜弥たちも来るし、大丈夫」 目覚めてややぼんやりはしていたものの、杉菜の顔を見て葉月は心得たように頷く。そして杉菜の持っているバイオリンケースを大切そうに受け取ると立ち上がって、目線を合わせるように座っていた杉菜に手を差し伸べる。杉菜はその手を自然に取って自らも立ち上がるが、それら一連の動きがあまりにも流麗で、未だマネージャー(コッソリ隠れ中)の周囲にいた人々が感嘆の溜息を上げた。 「まったく、もう!ミズキに言ってくれればちゃんとギャリソンに届けさせるのに!水臭くってよ、東雲さん?」 「……帰り道なんだから、べつにいいだろ。忘れ物もあるし」 「あ……そういえば今日は帰るの?」 「ああ、明日は仕事だからな。家、戻らないと」 「じゃあ、お弁当だけ?」 「だな。頼む」 「うん」 どうやら葉月、完全オフの前日は東雲家にお泊りしているようである。勿論杉菜はグースカ熟睡しているので、主に語り合う相手は家長・細君・若君辺りだが、かなり慣れたせいか結構平気で眠れてしまうようだ。東雲家の面々も全くその辺は頓着しない人種なのでノープロブレムなのだろう。時折姫条や蒼樹もごちそうになりに来る辺り、すっかり御食事処の様相を呈しているような気もするが。 ちなみに課外授業がある日は、大抵参加しない葉月(この眠いのにレポートなんて書いてられない、らしい)が杉菜専属の運び屋となってバイオリンを家までお届けしている。確かに今日のようで森林公園地区で課外が行われる場合、一旦森林公園からはば学近くの家まで戻って更にまた森林公園まで戻ってくる、なんざ面倒な事この上なかろう。 「……ほんっとうに家族みたいなものね……」 呆れたように言う須藤だが、杉菜への好感度が勝っている為かそれ以上は執着せず、なんの気の迷いか葉月を送っていこうかと言い出す始末。 「そんなにぼ〜んやり頭で歩いてて道端で寝られでもしたら、東雲さんの楽器が傷ついちゃうもの。あくまでも東雲さんのためよ?」 「…………【怒】」 杉菜はそれならばと気乗りしない葉月を例によって鶴の一声で説得し、さっさと車に乗せるよう仕向ける。少しでも休んで欲しいという気持ちが受け取れるので、葉月も強いて断りはしない。須藤は須藤で出番が少ないがゆえにこういう所でポイントを稼がんとしているので、文句は言いつつあっさりそれで承諾した。いいタイミングで杉菜同様課外授業に赴く守村その他が現れて、昼下がりのミニコンサートは幕を閉じた。 葉月達が解散したのを見届けてから、ほとんど忘れ去られていたマネージャーは踵を返してその場を離れた。 メインストリートの並木の下、日陰になる部分を歩きながら彼女は自分の見た『東雲杉菜』を思い返す。 (なるほどね…………) 百聞は一見に如かず、山田や洋子が言っていたのがあっさりと理解出来た。 一目で判る、まったくだわ。 モデルとしてもあんな逸材は滅多にいない。葉月と同等の空気を持ってるなんて。 何よりも、葉月の彼女に対する表情。それは確かに一年以上前から彼に備わってきた、柔和で穏やかな視線。愛しい者にだけ与えられる視線で、けれど今の葉月には決して欠かせないものだ。 (けど……参ったわね) 感情としては、葉月が入れ込むのも無理はない、そう瞬時に思わせるだけの物を持っていると思う。 だが、理性としては。 (……今の葉月があるのがあの子のおかげだとしたら、それは素直に認めるけど、かといって葉月の才能を埋もれさせるのはあまりにも勿体無いわ。何よりも周りが放っておかないもの。そう考えると、やっぱり交際を認めるっていうのはちょっと厳しいわね……) ――ああでも、ネタとしては個人的にはオイシイかも。『今大人気の天才美形モデル・葉月珪の純愛発覚!』とかワイドショーみたいだけど、上手く演出すれば逆に好感度アップを狙えるかも知れないわ。実際問題として去年みたいな陰湿な事件が起こってしまわないように予防手段は必要だし、あの子の容姿ならほぼ間違いなく暴走するファンも負けを認めるだろうし、これはいい考えかも。 そうと決まれば(決まったのか)ひとまず『東雲さん』の身辺調査ね。まずはアルカードのバイトの子にでも訊いてみようかしら、同じはば学だから多少は判るでしょうしね――。 マネージャーは既に理性と感情がごった煮になっているのに自分で気づかないまま、これからの事に必要以上に脳味噌をフル回転させていた。 有能で公私混同を嫌い、優れた手腕を持っているが、時々勇み足と先走りが限りない妄想とブレンドされて暴走する事がある。 ――――洋子は、友である葉月のマネージャーをそう評価しているそうである。 問題は、本人がそれに全く気づいていない事だった。 |
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