−第34話− |
玄関のドアを開ける音が聞こえ、各人はハッとしたように息を殺した。 「どうや?」 「―――来た!」 コソコソと姿を隠しながらリビングの壁際にへばりつき、目標が到達するのを待つ。目標――すなわち杉菜がカチャリとドアノブを回して姿を現した瞬間、皆の声が一斉に揃った。 「Happy birthday to Sugina!!」 同時にスパパパーン!!とクラッカーの鳴る音が部屋中に満ちた。 「―――え、みんな……?」 さすがの杉菜もリビングに入った途端振り出したペーパーシャワーに驚いたようで、ほんの少し目を見開いた。 「えっヘッへー、驚いた?せっかくの杉菜の誕生日だもん、祝わなくてどうする!?ってことで、パパさん方の協力のもと、サプライズパーティなんぞを企画してみました!」 主犯と思しき藤井がウィンクしながら杉菜に笑いかけた。 今日は5月5日、杉菜の誕生日だ。例年通り父・寂尊とのデートをして、家族への土産を携えて帰って来たばかり。そこに姫条や藤井を始めとするGSメイト並びに仲のいいクラスメイトの面々が揃っており、しかもリビングが飾り付けられてテーブルの上にはパーティ料理が所狭しと並べられていれば、多少は何事かと思ったらしい。杉菜にしては珍しくきょとんとしている。 「で、企画たてたんはエエねんけど、したらなんやえらい人数膨れ上がってしもうてなぁ。最初は喫茶店でやるか言うてたんやけど、荷物も多くなるよって杉菜ちゃん家に変更したんや。ま、何はともあれ誕生日おめでとさん!」 姫条がそこにいる十数人の意見をまとめるように祝福の言葉を述べると、杉菜は何度か瞬きをしたあと後ろに立っている寂尊を振り返った。彼は愛娘の視線を受けて晴れやかに笑ってウィンクを返す。 「ハッハッハ、驚いたか杉菜?これだけの祝福を直接受けないのはもったいないからな、俺や奥さん、それから尽も協力してちょっぴり企んでみたって訳さ!ビックリしたようで大成功ってところだな!」 さしづめ寂尊は準備の間杉菜を家から遠ざける役回りだったようだ。 「おめでとう、杉菜ちゃん!」 「東雲、その……うん、まあ、めでたいってことで!」 「Bon Anniversaire、東雲さん!このミズキの祝福を受けられるなんて幸せよ?」 「ブラン・プリマヴェラ、君の生まれたこの奇跡の日に乾杯しよう!」 「東雲さん、お誕生日本当におめでとうございます」 「おめでとう、東雲さん」 「杉菜、happy birthday!」 友人達が口々に祝福を述べて主賓の姫君を迎えると、杉菜はやっと気がついたように軽く頭を下げた。 「……ありがとう、みんな」 ほんのりと空気が和らぐ。表情こそは変わらないものの雰囲気はとても暖かいものになる。 「いいっていいって。みんな自分たちがかってに祝いたいだけなんだからさ。ホラねえちゃん、荷物よこしなよ。オレが持ってってやるからさ」 尽が杉菜の手から土産とバックを預かってキッチンと部屋に届ける。全員が揃ったところでおもむろに姫条が音頭を取って乾杯の調べが鳴り響き、非常に賑やかなパーティが始まった。 「本当に、ありがとう……」 友人達から数々のプレゼントを受け取って、杉菜が言った。 「えっへっへー、そう言ってもらえてよかった〜。実のところ、こういうの杉菜は苦手かなって思ったんだけどさ、やっぱどうしてもみんなで祝いたいって気持ちの方が強かったもんだから」 「ううん、そう思ってくれるだけで、充分。だから、驚いたけど、嫌とか苦手とか、そんな風には思わない。ありがとう、奈津実」 「そっか、なら安心した!でも、ちょっと一人足りなくなっちゃったのは申し訳ないんだけどね〜」 「一人……珪の事?」 その通り、葉月という本来最もこの場にいるべき人物が、今日は何故かいなかった。 「うん、まあね。あ、ちゃんと声かけたよ?即答で参加の意思表明してたし。してたんだけど……ねぇ?」 藤井が隣の姫条を振り仰いで説明を求めるように呼びかけた。それに気づいて姫条もやや眉を顰めて口を開く。 「あ〜それがなぁ、実は今朝連絡があってなぁ……」 「じゃあ次のカットのセット急いで!」 「ちょっと、これ使う小道具と違うよ!?」 「すみません、急なことでそれしか手配できなかったんですっ!」 「あーもうカンベンしてよ!ただでさえ時間ないんだから、そんなトロトロしないでちょうだい!!」 慌しさと焦燥とが支配する撮影スタジオの中で、葉月はいかにもな不機嫌面を隠せないでいた。 この日だけはオフにしてもらえるように半年以上前からスケジュール調整を重ね、本来ならば杉菜の誕生パーティの一員として彼女の傍にあったはずだった。 だがそんな折も折り、葉月がレギュラーを務める雑誌の一つでトラブルが発生したのである。そのトラブルとは男性モデルの一人が派手に問題を起こしてお縄を頂戴してしまった事。印刷に回す前だったので緊急に代役でスチルを撮り直しという次第になったのだが、急な事で他のモデルが手配できず、オフであるはずの葉月が引っ張り出されてしまったのだ。 問題を起こした男性モデルはその雑誌でのメインを占めており、それだけに量も多い。今日丸一日かけてようやくギリギリ間に合うか、といったところだろう。 「ホンットにごめんね、珪!久しぶりの休みだっていうのに、引きずり出しちゃって……」 心からすまなさそうな顔で謝っているのは葉月の従姉の洋子だ。この雑誌の編集に移った彼女の切羽詰った状況がなければ、マネージャーからの急な連絡程度で彼が動く事はなかっただろう。 「いいよ、べつに……」 「う〜、そう言ってくれて正直すごい助かる〜!今回のギャラに関してはもう全っ然惜しみなく大盤振る舞いするからね!」 「……べつにギャラとか、そんなことはいいけど」 「だってだって、それ以外にできる事ないんだもの。ホント、あんたがいてくれて良かったぁ!」 トラブルが発生した一昨日から一睡どころか休憩すらしておらず、目の下のクマとプッツン切れた理性をありありと示して洋子は涙目である。日頃はなんだかんだいっても冷静な彼女がここまで壊れている状態で、結局はなんだかんだいってもお人好しな葉月が否と言えるはずもなかった。 もっとも現在このスタジオにいる人間の9割以上が不機嫌かキレているか壊れているかのどれかなのだが。 「まったくもう、失礼しちゃうワ!このアタシのビューティフルでワンダフルでトレビア〜ンな作品の数々を着ることを許されたモデルが、こぉーんな問題起こしちゃってくれるんだから!ホント、魅羅ちゃんにも迷惑かけちゃったわネェ」 「あら、よろしいのよ花椿先生。先生の最新作を着られる機会なんてそうそうないもの。この私の美貌を最大限に生かしてくれる素晴らしい衣裳をまとえるのなら、これくらいのトラブル、どうってことなくってよ」 「んまっ、嬉しいこと言ってくれるわネェ〜!そうだ、近い内に魅羅ちゃんのためだけにそれはもう溜息の出るようなドレスをデザインしてあげるワ。モチロン、魅羅ちゃんだけの一点物よ?」 「まあ、それは素敵だわ!約束でしてよ、花椿先生」 「ウフフ、楽しみに待っててねぇ〜!」 このささくれ立ったスタジオ内で唯一別世界を形成しているのは、今回の一連のファッションコーディネートを手がける花椿吾郎と、女王のごとき艶麗な美貌と抜群のプロポーションを誇るスーパーモデル・鏡魅羅(最近は女優としても活躍中)の二人である。 事件を起こしたモデルの相手役は彼女……というか男性モデルも代役の葉月も彼女の引き立て役なのであった。花椿と仲がいい彼女だからこそ、今日の撮影が可能になったといっても良い。花椿がいなければとても彼女の協力を仰げなかった事を考えると、たまにはあの人物も必要不可欠であるようだ。 ただしそれでも今日しか彼女の都合がつかなかった点から言えば、葉月にとっては厄介な事この上ない。 (せめて一日ずれてくれてれば……) 今さらだがやり場のない怒りと諦観に身を委ねていると、スタッフと打ち合わせをしていたマネージャーが駆け寄って来た。 「葉月、次のセットに少し時間がかかるみたいだから控え室で休んでていいわ。15分くらいしたら呼びに行くから」 「……解った」 「ごめんなさい、本当にバタバタしちゃってて……」 「仕方ないわ、あなたのせいじゃないし。こういうトラブルはつきものだもの。―――ああ葉月、くれぐれも寝ちゃ駄目よ!」 「……了解」 一瞥して葉月は控え室へと向かう。その後ろ姿を見送って、洋子とマネージャーは溜息を吐いた。 「あ〜あ……ホンット悪い事しちゃったなぁ……」 「いつも以上に不機嫌オーラね。その割にNGも出さずによく頑張ってくれてるけど。久しぶりのオフだから、私としてもここらでしっかり休養を取って欲しかったんだけどね。こればかりはなんとも、ね」 「それだけじゃないのよ、今日は……」 「?それだけじゃないって……何か用事でもあったの、洋子」 洋子とマネージャーは実は以前からの友人だ。最近の葉月のスケジュール編成については色々とぶつかる事も多いのだが、プライベートではごくごく友好的な人間関係を築いている。そのため内部事情も多少は交換しあう事が多い。 「ん〜、ちょっと……ね。クラスメイトの誕生パーティだったのよ、今日。ずっと仲良くしてる子だから、どうしても参加したかったみたいで。それで……」 「仲のいいクラスメイト……それって、もしかして『東雲さん』?」 「ああ、知ってた?……それもそうか、色々噂になってるもんね。うん、その子。だからホントにもう申し訳なくって」 「仕事と誕生パーティを天秤にかけるなんて、子供じゃないんだから……。けどそんなにその子、彼にとって大切な子なの?」 「ん〜、だと思う。感情を露にする事が皆無だった珪があんなに人間らしくなったのって杉菜ちゃんのおかげだし……」 「杉菜さんっていうの?その子」 「え?あ、うん。ものすごい美少女よー。仕事がら美男美女見慣れてるあたしが思わず見惚れちゃったもの。あなたも見たらきっとモデルにしてみたいって思うわよ?ま、珪に妨害されちゃうでしょうけど」 「葉月さーん、ちょっとこっちお願いしまーす!」 「あ、はーい只今!それじゃ、また後でね!」 スタッフに呼ばれて洋子は慌ててそちらへ向かう。一人残されたマネージャーは考え込むように指を顎に当てた。 (山田さんだけでなく、洋子にまであんな風に言わせるなんて……。本当にどういう子なのかしら……) マネージャーが無意識に眉を寄せているその頃、控え室では葉月が大きな溜息を吐きながら椅子に腰掛けたところだった。 慢性的な身体の疲れもさることながら、精神的なものが今日は大きい。 直接彼女に言いたかった。 誕生日おめでとう、と。 生まれて来てくれてありがとう、と。 不器用な自分なりに精一杯の気持ちをこめて言いたかった。 直接、彼女に会って。 なのに。 「本当……上手くいかない……」 椅子に体を預け切って再び大きな息を吐く。マネージャーから寝るなと言われたが、普段ならとてもそんな忠告は聞けない。 今の自分を起こしているのは、ただもう早く終わらせてしまいたいという一心。どんなに長い撮影でも、いつかは終わる。その終わる時が少しでも早ければ、もしかしたら―――。 葉月は自分の手荷物の口から覗く小さな箱に目をやった。 「……とまあ、そういうワケでなぁ。せっかくの杉菜ちゃんの誕生日やっちゅうのに、朝も早い内からスタジオ詰めで仕事しとるらしいんや。くれぐれも杉菜ちゃんによろしく言うとったで」 男性陣の連絡役を務めていた姫条が言うと、杉菜は俯く。 「残念だけど、そういう事情じゃ仕方ないよ。許してあげなよ、杉菜?」 藤井が執り成すように言ったが、杉菜はそれには首を振る。 「許すとか、そんなことはいいの。せっかくお休みだったのに休めなくて、体大丈夫かなって、そっちの方が気になって……」 「そっか……そだね」 自分の誕生日を祝ってもらうより、本人の健康に気を遣って欲しい。 杉菜らしいその意見に、藤井も姫条も頷いた。 「……でも、だからあんなメール入ってたんだ……」 「メール?」 「うん。朝、起きた時間と同じくらいかな。珪からメールが入ったの。『誕生日、おめでとう』って、それだけ。返信はしたけど、それの返事はなかった。きっともう仕事中だったのね……」 「へぇ、朝イチでかぁ。忙しいのにやるじゃん、葉月」 「せやな。ま、それくらいはできんと男としてダメダメやからな。……にしても奴らしいなぁ、それだけって辺りが」 「ホントホント。も〜少しアツイ思いのたけを語ってもいいのにねぇ」 姫条と藤井が呆れたように喋るが、杉菜としてはそれほど気になる事でもなかった。 忙しいのに、疲れてるのに。 それでも自分に気遣ってくれたから。 それでもう、充分。 直接会って、ではなくても。 (せめて撮影が早く終わって、休む時間、とれるといいけど……) 皆が用意してくれた料理を口にしながら、杉菜は違った賑やかさに包まれているだろう彼の事を思った。 スタジオでは相変わらずバタバタした雰囲気の中で撮影が続行されていた。 一つのスタジオでは足りず、同建物内の複数のスタジオを行ったり来たりで駆け回り、普段の仕事の何倍もの労力をモデル達やスタッフ連に強いていた。 「ハイ、ここまでのカットOKでーす!次、Bスタでお願いしまーす!」 スタッフが枯れた声で告げると、一同がぞろぞろと移動する。空いたスタジオではすぐさまセットの変更だ。何しろ一か月分の撮影を一日に凝縮しているので、無茶は承知でも力技で乗り切るしかないのである。その甲斐あってか、思ったよりは早く撮影は進んでいた。 もっともその一因としてモデルの意欲が大きかった事は否定できないだろう。 「いいよその表情!―――ハイ、じゃ次行くよ、葉月ちゃん!」 疲労の極致にあるカメラマンの機嫌良さそうな声が響いて、サクサクと撮影が進行する。 「鏡ちゃん、そこちょっと腕からませて。葉月ちゃん、ちょっと左向いて視線逸らすように!よーし、そんな感じで!」 カシャカシャとシャッター音が鳴り響く。 「なかなかやるわね、あなた」 撮影されながら、共演者の鏡が話し掛けてきた。 「べつに……早く終わりたいだけだから」 「だからといって、出来るかどうかは人それぞれでしょう?もっとも、この私を相手にしてそんなことを言うのは失礼極まりないけど」 それでも鏡は嫣然とした微笑を崩さない。 杉菜が清楚な美少女なら鏡は艶冶な美女の代表例だろう。それだけの美貌ゆえに自信もプライドも相当の高さなのだが、お気に入りの花椿ブランドの服を着られる上にやはり撮影がスムーズに行く事は喜ばしいらしく、葉月の失言(?)に対しても珍しく寛大であった。もっとも数日前に高校の卒業式の日に伝説の木の下で永遠の愛を誓った恋人からプロポーズされたらしいので、多分に浮かれているだけなのかも知れないが。 ところでどうでもいいが、今回はコーディネート・バイ・ゴローの撮影ではあるが、さすが世界のゴロー、一応シンプルな服も作れるらしい。『大人の男の半ズボン』の如き趣味を疑う服ではなく真っ当な衣裳だったので葉月はかなり安心して撮影に挑めたようだ。そうでなかったらこうも順調に撮影できたかどうか。 「花椿先生に伺ったけど、今日は大事な用があったんですってね。先生も残念がってたわ。せっかくの機会なのにって」 花椿はどうやら杉菜の為にこれまた一点物のドレスを用意していたらしい。インスピレーションを授けてくれるものに対して、彼は(相手の迷惑は顧みず)惜しみなくその才能を傾けてくれる。その花椿も直接杉菜を着飾らせる事ができず、ハンケチを噛み締めて悔しがっていた。 「……あんたには関係ないだろ」 「ええ、関係ないわ。けどそのおかげで撮影が早く終わるのは助かるわね。ずいぶんとマイペースなモデルって聞いてたからどうかと思ったけど、私と並んでも釣り合う容姿といい、根性とでもいうのかしら、それも許容範囲だし、割と楽しめてるわ、今日」 「……それは、どうも」 「まあ、その無愛想な口調は気に入らないけど。まったくあなたって幸運よ?この私がこの程度で収めてるんだから」 クスクスと笑いながらポーズをとる。ベテランだけあって実力も半端ではなく、しばらく無言の内にシャッター音とカメラマンの指示が響くのみ。NGが出される事は皆無だ。 「……でも、そんな風に想われるのって、素敵よね」 やがて鏡が呟くように言ったと同時に、一心不乱にファインダーを覗いていたカメラマンが顔を上げた。 「ハイ、鏡ちゃんも葉月ちゃんもお疲れさまー!以上で今日の撮影は終了です!!」 そう言うと、その場にいたスタッフの全員がワァッ!と喚声を上げた。下手をすると真夜中まで軽くかかるだろうと予想されていた撮影がこれほど早く終わるとは。疲労と緊張と焦燥の果てに訪れたこの瞬間に皆が歓喜の声でむせび泣いた。もっとも洋子を含む編集の面々はこれからが真の地獄なのだが。 「お疲れさま葉月!本当に今日はいい出来だったわ。鏡さんも、どうもありがとうございました」 「かまわなくってよ。急なアクシデントだったけどそれなりに面白かったし」 モデル界の女帝と言われる鏡の心証が悪くなかったと見て、マネージャーは内心ホッと胸を撫で下ろす。葉月のあの性格で彼女に目をつけられたらどうしたものかとビクビクしていたので、心底安堵した。 「それは何よりです。―――ああ、葉月。悪いけどこのあと明日の撮影の事で打ち合わせが…………葉月?」 マネージャーが自分の担当モデルを見れば、彼はスタジオの端に掛けられた時計を凝視している。 18時30分には今少し。 スタジオからでは多少時間がかかるが、バスかタクシーを使えば間に合うかも知れない。 「葉月?」 不審に思ったマネージャーが声をかけた刹那、葉月はいきなり駆け出した。 「ちょ……っ、ちょっと葉月!?打ち合わせ―――!!」 背後でマネージャーが慌てて呼びとめようとするが、その声も聞こえないように葉月はそのままスタジオを飛び出した。途中スタッフを弾き飛ばしかねない勢いで控え室に向かい、財布と携帯、それから小さな小箱を引っつかんで外に出て、最寄のバス停に走った。 日が長くなっているとはいえ既に辺りは暗くなり、電気の照明が煌々と街を照らしている。鮮やかな光彩が葉月の着ている衣裳に映りこんでは異質に浮かび上がらせて、通行人が一瞬ギョッとする。が、彼はそんな事も気にせず目的地へと辿り着いた。 しかし街灯に淡く映し出された時刻表をざっと見て舌打ちをする。目的のバスはまだまだ来る様子はなさそうだった。 「……走った方が早いな」 一瞬で判断を下して踵を返し、滑りやすいエナメルの靴で再び全力疾走をしようとした。 するとその時、目の前に突然バイクが飛び出してきて葉月は足を止めた。 「ちょいとそこ行く色男さん、姫条運送バイク便へのご用命はございませんかー?」 葉月の眼前でバイクを止め、ヘルメットを外しながらその乗り手が声をかけてきた。 「…………姫条?」 薄闇に浮かぶシルエットが誰なのかを認めた葉月がその人物を特定すると、その人物――姫条はニカッと笑った。 「ホンマ、待ってて正解やったなぁ。自分のことやから多分こうするやろな思たし、わざわざバイトのシフトを交換して貰うてまで待っててやったオレに感謝するんやで?」 そう言うと姫条は後部座席に据えていたもう一つのヘルメットを葉月に投げ渡した。 「…………?」 「ホレ、早う乗らんかい。お姫様が眠りについてしまうやろ」 「!…………おまえ……」 「閑静な住宅街にバイクの爆音響かせるワケにはいかんから、近くまでやったら送ったる。あー、それなりに飛ばすよってキショクない程度にしっかりつかまっとくよーに。それと曲がる時には曲がる方向に体を傾けること。平気や、慣れると結構ハマるで?」 笑ったままの姫条に促されるように、葉月は無言で渡されたヘルメットを被って姫条のバイクの後部座席に乗り込む。ポケットに入った小さな荷物を落ちないように押さえてから、姫条に掴まった。 「ほな、バイク便出発進行〜!」 葉月が乗り込むや否や、姫条はすぐにバイクを発進させた。いつの間に慣らしたものやら、男二人のタンデムでも見事な運転テクニックを披露しながらバイクは街を走り抜けていく。案外氷室を時々付き合わせて(付き合わされて?)練習していたのかも知れない。 「杉菜ちゃんなー!」 走りながら、バイクの音に負けないように姫条が叫んだ。 「え?」 「自分のことめっちゃ気にしとったでー!?無理させたない、休んでほしいのにってなー!パーティの最中もずっと心配しとったわ!」 「…………」 「せやけど男としては自分の気持ちも理解できるよってなー!あーもうホンマ、恋敵にここまで世話焼いてやるオレってめっちゃイイ奴やっちゃなぁ!」 「……自分で言ってる内はまだまだ、だな」 「はぁ〜、なんや自分藤井と同じようなことぬかしおってからに!実はツッコミ魂が同じ属性なんとちゃうかー?」 なんだ、それ……と心の中でツッコみつつも、葉月は杉菜の事を思う。 心配。 そうとしか言えないものが、彼女から自分に向けられているのは感じている。 それは、どう見ても感情の一つで。 感情がないと言ったおまえにあるはずのない、人間らしい感情の一部分で。 …………なぁ。 俺、おまえのことで、無理なんてしたことない。 おまえの為なら、『無理』だってすべて喜びに変わるんだ。 どうしたら、そのことが伝わる? どうすれば、伝えられる? 賑やかな一日が終わり、杉菜が今日の日に贈られた数多くのプレゼントを分別していると、ふと、少し離れた所でバイクのエンジン音が聞こえた気がした。 「…………ニィやんのバイクに似てるけど……そんなはず、ないか」 祝日とはいえ今日は水曜日。各人の都合もありパーティ自体もあまり長引かせずに終わっている。姫条はガソリンスタンドでのバイト中のはずだ。 「似たようなチューンにしてる人、いるのね……」 そうポツリと呟いた時、机の上の携帯が鳴った。 「……この、メロディ……」 彼女にとっての就寝時間もほど近いこの時間帯に電話をかけてくる人間はほとんどいない。大体は翌朝読まれる事を想定したメールだ。それが今回は『SIGNAL』(尽により着メロ設定済み)が旋律を奏でていて、即座に杉菜は立ち上がって携帯の画面を見る。そしてそこに表示された名前に引かれるように通話ボタンを押した。 「もしもし、東雲です。…………珪、なの?」 名前を呼ぶと、その持ち主の声で答えが返ってきた。 『……杉菜か?悪いけど、今、出て来れるか?』 切らした荒い息の中にある安堵の響きに、杉菜は無意識に息を飲んだ。 「……今?どこ、に?」 『玄関。もうすぐ、着く』 「――――!」 杉菜は軽く目を見開いて、けれどすぐに部屋を出て階段を下りる。 「ねえちゃん?」 軽やかではあっても慌しいその足音に、キッチンで後片付けを手伝っていた尽がひょこりと顔を出した。だが杉菜はそれには答えずそのまま玄関先へと向かって、素早くサンダルを履いて外に出る。 「――――珪……!」 玄関と、そして街灯から降り注ぐ光をまとって、門前に葉月の姿があった。 走っていた杉菜の足が一瞬止まって、やがてゆっくりと彼に近づいて行った。門を開けて彼を迎え入れると、葉月の表情が和らぐ。 「よかった……間に合って」 たくさんの汗を浮かべてなおホッとしたように微笑う葉月に、杉菜は目を見開くばかりだった。 「どう……して……」 「渡したかったから」 「え……?」 「おまえに、直接渡したかったんだ。言葉と……これ」 そう言って葉月はポケットから手の平に乗るくらいの箱を取り出した。パールホワイトのリボンがかかった、綺麗な小箱。 「これ…………?」 「プレゼント」 「……私、に?」 「そう、おまえに。……気に入ると、いいけど」 差し出されるままに受け取って、その箱を見つめる。 疲れてる、はずなのに。 できる限り休んで欲しいのに。 休んで欲しい、こんな事しなくてもいいから、無理しないで欲しい、なのに。 それなのに。 不思議。 こんなに。 こんなにも、暖かくなるなんて。 心、が。 「……あ、りが……とう……」 変だ。 声が、上手く出ない。 さっき皆からプレゼントをもらった時はちゃんと出たのに。 掠れる。 変だ、私。 「……開けてみて、いい……?」 「ああ」 片手に携帯を持ったままだった事に気がついて、杉菜はポケットにそれを仕舞ってからリボンに手をかけた。 シュルリとサテンのリボンが解けて、それを追うように彼女の指が蓋を開く。中にあるものをしばし見つめて、杉菜は葉月の瞳を見上げた。 「……これ……ムーンストーンの、ペンダント?」 「そう。5月の誕生石はエメラルドか翡翠だけど、おまえには、こっちの方が似合うと思って」 そう言うと葉月は彼女の手にある小箱からペンダントを取り出して、腕をスッと伸ばした。 「……何?」 「じっとしてろ。…………ああ、やっぱり似合う、それ」 まろやかに白い、優しい色。彼女に一番ふさわしいと、ずっと思い描いていた色。 首の後ろに手を回し、細いチェーンを繋いで放すと、ころり、と彼女の胸元でわずかに色が揺れる。その色に目を凝らすと、葉月の視線を追うように杉菜はその贈り物にそっと触れた。石を包むように銀色の螺旋が控え目に繊細な渦を描いている。 「この部分、シルバー?手作り……みたいだけど」 「そう。知り合いでそういうの、やってる人がいて。交渉して作ってもらった」 「交渉?」 「工房の雑用と引き換え」 春休み、ごく短い休暇の際に、知り合いのアクセサリーデザイナーの工房にお邪魔したというのは杉菜も聞いていた。葉月の趣味がアクセサリー作りというのはそれ以前から知っていたので、すっかり自身の製作の為だと思っていた。 「……まだ俺の腕じゃ、おまえにふさわしいの、作れないから」 「……けど、デザインしたの、珪でしょう?」 苦笑しながら言う葉月の瞳を見つめて杉菜が訊ねると、葉月は見るからに驚いた顔をした。 「…………正解。よくわかったな」 「わかる。珪の、だから」 杉菜がそう言うと、彼はうっすらと頬を染める。 「そう、か」 「うん」 葉月が照れたように顔を背け、しばし沈黙が訪れた。 「……この言葉が一番正しいのか、判らない、けど」 葉月と同じように視線を逸らし、胸元の石を見遣っていた杉菜がポツリと言った。 「え?」 「多分……一番、近いんだと思う。だから……」 ゆっくりと顔を起こして、葉月の翡翠の瞳を見つめる。 「以前、珪が言ったことが『そう』なら…………私、嬉しいんだと、思う。今」 「……………杉菜……」 あまりにもいつもと変わりない表情で。けれど、いつもと変わりある声色で。 だから葉月はあえて深くは訊かず、ただ微笑んだ。 濃度を増した自身の瞳の色を解き放つように。 「…………そうか。なら……良かった。喜んで、もらえて」 「うん。……この感じが、珪が言ったものと同じなら……そうなんだと、思う」 ふわりと風が渡る。春の穏やかで暖かい風、それにも似た感覚。 心の内側から立ち昇る、不思議な暖かさ。 これがもし、そうだと言うなら。 葉月は微笑んだまま、スッと手を伸ばして杉菜の柔らかい髪を掬う。 「……?」 「髪、濡れてる……」 「あ……さっき、お風呂入ったばかりだから。乾いてないの、まだ」 「道理で……。いい匂い、すると思った」 「……無香料のはず、だけど」 「そう、か?じゃあ……おまえの香り、なのかな」 「私の?」 「ああ。……気がつくと、捕われてる」 そう言って長い指で梳るように杉菜の髪をもてあそぶ。 楽しそうにそれを繰り返していると、玄関の方からそぉ〜っと様子を窺うように小さな人影が姿を見せた。 「あのさ〜、いい雰囲気のとこ水さすようですっっごく心苦しいんだけど、もうあと1分で7時なんだよね〜。ねえちゃん、部屋に戻ったほうがよくない?」 姉思いの心意気ゆえか、はたまた雨宿りイベントのリベンジか、何気に覗いていたらしき東雲家の長男坊が苦笑しながら二人に声をかけてきて、葉月と杉菜はようやく時間に気がついた。 「あ……それじゃ、俺、これで……」 杉菜の髪を指の間から落として、葉月が辞去の挨拶をする。 「あ、うん。……ありがとう」 「どう、いたしまして。…………あ、忘れてた」 「……?」 水分のせいで名残惜しそうに放たれていく彼女の髪を追いかけるように、葉月は杉菜の耳元に口を寄せた。 そして、ただ一人彼女にだけ伝わるほどの小さな声で、低く静かに囁いた。 「Happy birthday to my dear. ……サンキュ、生まれて来てくれて」 そして、俺に出会ってくれて。 「いっや〜、ホンット勉強になったぜ!髪の毛うんぬんのあたりなんてフツーの女の子相手ならマジ効くよなー。なるほどな、ああいうケースはああいうリアクションで対応すると『ストイック系(コッソリ天然エロな)イイ男』の本領発揮って感じでポイント高い、と」 杉菜が部屋に戻るのを見送っていると、尽はどこからか取り出したメモ帳に何やら記録している。よくよく考えれば尽や寂尊(今日は出てこないでくれたが)のお膝元で結構大胆な事を言ったりしていた気がする。それを思うと葉月はほんの少し気恥ずかしくなった。藤井に子猫イベントを見られた時と同じ心境である。 「ところでどーする葉月?一人分くらいだったら夕飯用意できるし、食ってく?」 書き込み終ってパタンとメモ帳を閉じた尽が、立ちぼうけ中の葉月を振り返った。 「いや、一度着替えに戻らないと……。終わってそのまま、出てきたから」 「だろ〜な。そんなハデなカッコで登場すんだもん。まわりの通行人、おどろいてたんじゃないのかぁ?」 「……さあ。近くまで、姫条運送の世話になったし」 「姫条?へぇ〜、あいつもなっかなかイキなことするじゃん!なるほどね、こーゆーところもイイ男ポイントを上げるコツってやつだな、フムフム」 納得したように頷く尽に笑って、葉月は踵を返して東雲家の敷地を後にする。 門を出たところで、とたとたと出て来た尽が声をかけてきた。手には何かタッパーのような物を入れた紙袋が下がっていた。 「葉月葉月、これ母ちゃんが持ってけってさ。夕飯のおかずのおすそわけ」 ……やはり夫婦揃って息子同様覗いていたのだろうか、実にいいタイミングである。 内心苦笑しながら葉月はそれを素直に受け取った。杉菜の手作りでなくても桜の料理も絶品なので、不健康な食生活には何よりの差し入れだ。 「……サンキュ」 「こっちこそな」 「……?」 葉月が疑問符を頭の上に浮かべると、尽は少し苦笑したような表情で言った。 「ねえちゃん。葉月のおかげでどんどん変わっていってる。少しずつだけど、でもそれって嬉しいから。だからその……サンキュな、葉月!」 言い捨ててそのまま家の中に駆けて行く。 葉月はしばらくその場に立っていたが、その内足を進めてスタジオへ戻る道を辿る。 しばらく歩いていくと、律儀に待っていてくれたらしい、姫条がバイクにのしかかるように葉月の方を見て笑っていた。 「その顔やとなんとか間に合うたみたいやな。……って、土産までもらっとるんかい!ちゃっかりし過ぎや自分!」 葉月の持った紙袋を目ざとく見つけてすかさずツッコむ姫条に、葉月は苦笑を返す。 「夕飯のおかずのおすそ分け。……なんなら半分食うか?運賃ってことで」 「ほほぉ、そらエエ心掛けやな。一人暮らし同盟の盟主として褒めてつかわすぞよ」 「……やっぱりやめた。なんか、ムカつく」 「冗談に決まっとるやろ、シャレっ気のわからんやっちゃな。せやけど運賃とは言わんでもガソリン代以上の価値は十二分にあるし、ごちそうになる分には大いに歓迎やで。―――ホレ、とっとと乗らんかい。姫条運送はアフターサービスまでバッチリフォローしてんねんで」 「……サービスする側の口調か?それ」 「細かいことは気にするなて。杉菜ちゃんの笑顔獲得権代と思えば安いもんやろ」 人を食ったように笑ってヘルメットを寄越す。 「おまえ……持ってたのか?その獲得権」 「かぁーッ!!そういう痛いツッコミはルール違反やで!こういう時は『……それもそうだな』言うてニヤリと笑うっちゅうのが大原則や!相手の心をえぐるツッコミはここぞという時に炸裂させな意味ないやろ。まーだまだ自分甘いなぁ」 「べつに、かまわないだろ。…………けど、それもそうだな。―――サンキュ」 「はへ?」 ポカンとした姫条の顔に葉月が眉を顰める。 「……なんだ?」 「いや〜……なんちゅうか、自分から礼を言われる日が来るとはまったくもって想像もしてへんかったからな〜。なんやエライこそばゆいっちゅうか……」 「感謝しろって言ったの、おまえだろ」 「そらまそうやけど……実際言われてみるとミョ〜〜〜な居心地の悪さがあるもんやなぁ……」 「……いいから、出せ。姫条運送はアフターサービスまでバッチリフォロー、するんだろ?」 照れたような膨れたような顔で葉月はヘルメットを被って後部座席に座った。それを合図に姫条も体勢を直して自身のヘルメットを被る。 「はいはいっとな。私情を仕事に交えたらアカンわな、程度にもよるけど。……自分の場合はもう少し交えた方がエエけどな」 「……?」 「仕事は大事やけどな、それを優先させ続けて取り返しのつかんことになったら、そっちの方がもっとずっと苦しいんやで?断れるモンは断って、自分大事にしいや。そうでないと杉菜ちゃんが哀しむわ。杉菜ちゃんの親衛隊々長としては、そないなことは許せへん」 「…………」 言葉に含まれる強い真剣さを感じ取って、葉月は押し黙る。姫条もそれ以上は何も言わず、バイクのエンジンをかけた。 大きな音が辺り一面の静寂をかき乱してから、街の喧騒の中へと吸い込まれていった。 |
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