−第33話− |
ピーヒョロロロロ。 「……平和だねぇ」 昼休み、窓から差し込む穏やかな日差しと鳥の鳴き声に、藤井が机に頬杖をつきながら呟いた。サンドウィッチを頬張りつつなのであまり行儀はよろしくないが、こんな日和には似つかわしい。 「いい事じゃない。おかげで勉強もはかどるし」 「ちょっと〜、そんな受験生みたいなこと言わないでよ!」 片手におにぎり、片手に参考書を持ちながら、機嫌良さ気に言う有沢に藤井が情けなさそうな声で抗議すると、言われた方はムッとした顔になった。 「……私は受験生なんだけど」 「わ、わたしも一応……」 有沢に追従するように、おずおずと紺野も主張した。彼女は有沢とは違って両手がお弁当箱と箸とで塞がっているが。 一流大を目指す有沢と栄養士の専門学校を目指す紺野。高校も最上級生になった今、確かにフリーター志望の藤井だけが受験生ではない。 「そりゃあ解ってるけど、お昼休みまでソレ、やめてくんない?なんかこっちまで気が滅入るって」 藤井は有沢の学習スタイルを非難するが、有沢は不機嫌な顔をやや弛めて反論した。 「『こっちまで』というけど、私は全然滅入ってないわ。むしろ勉強するのは楽しいもの。光陰矢の如し、少年老い易く学成り難し、よ」 「あ〜もう、志穂までヒムロッチみたいなこと言うのやめてよね〜!勉強なんて興味がなけりゃ楽しくもなんともなーい!!」 「奈津実ちゃん、それ大声で言うことじゃないと思う……」 苦笑しながら紺野がツッコむ。 「……とはいっても……確かに平和ね、ここのところ」 「そーそー。大したイベントもないし、これといって事件もないし、ついでに葉月のファンも静かなもんだし。ま、最後のはそれでいいんだけどね」 「そうだよね。あの事件からずっとファン絡みのゴタゴタって起こってないし、良かったよね」 「うん。あーあ、でもこのままだと本ッ気で文化祭くらいしかイベントなさそ。今年は鈴木ちゃんが実行委員長兼学園演劇の総監督だから、盛り上がることは間違いなさそうだけどね」 「文化祭かぁ。今年の学園演劇は何やるんだろうね」 「鈴木さんの事だから、また変わった事しそうな気がするけど」 「聞いた話じゃ演目は基本に忠実に『眠り姫』だけど、アレンジをバリバリにするらしいよ。もうそんなとこまで決めてんだもんなー」 「『眠り姫』ってことは、もしかして配役はあの二人の予定?……ピッタリ。特に杉菜ちゃん」 「……それ以外にいないわね。多分、出演者推薦投票でもあの二人が一位を占めるでしょうし。もっともあの二人に演技ができるのか、非常に不安なところだけど」 「それは言えるね……」 「ウ〜ン、案外ケロッとやっちゃいそうな気がするんだけどねぇ。問題は杉菜の笑顔が引き出せるかだって、鈴木ちゃん唸ってたけど。にしても気が早いよねぇ」 「そうでもないでしょ。時が過ぎるのは本当に早いもの。ついこの前入学したばかりだと思ったら、もう3年生だし」 「うん。この前1年の頃のと今の写真見比べてたんだけど、なんだか不思議だったよ。自分は全然変わってないと思ってたのに、結構変わってるんだもん。あと1年しないうちに卒業かと思うと、なんだか妙に感慨深いものがあったなぁ」 三年に進級し、残りの高校生活もあと一年を切った。とはいえこの春うららな陽気の下では、まだまだ焦燥感は少ない。奇妙な感覚を覚えるのももっともだろう。 「変わった、かぁ。確かにねー、珠美ってば最近とみに綺麗になってきたし?どっかの激ニブの誰かさんがようやく気づき始めてくれたみたいじゃな〜い?なんでもしょっちゅう休みの日に一緒に出かけてたりするんだって〜?」 「え、え!?あ、その、それは!―――そ、そういう奈津実ちゃんだって急激にきれいになってきたよね?!」 「うっ、そうきたか!」 「ヤブヘビね、まったく……」 「って、涼しそうな顔してらっしゃる志穂オネエサマこそ、メガネの似合う知的な心優しい青年との親密度がずいぶんと上がってらっしゃるって聞いてますけどー?」 「っ、な、何を言い出すの奈津実!私と守村くん、べつにその、まだ、そんな、その……」 「あっれ〜?アタシべつに守村くんのこと言ったんじゃないけど〜?」 「奈津実!それ以上言ったら次の数学のテストのヤマ、教えないわよ!」 「げっ、それはカンベンして!ヒムロッチの説教はゴメン〜!!」 非常に女の子らしい(?)遣り取りの末、各自真っ赤に火照った顔を落ち着かせるように咳払いをした。 「そういえば、東雲さんと葉月くんはまた例の場所?」 有沢が話題を変えると、藤井がフルーツ牛乳を飲みながら頷く。 「言わずもがな。ここんとこ天気いいしね〜、はば学昼休み名物の『眠れる校舎裏の美男美女(膝枕&猫布団のオプション付き)』実演してるよ」 今年のクラス替えで藤井は杉菜とは別のクラスになったものの、隣のクラスゆえ情報には事欠かない。昼はこうやってC組の有沢・紺野の元にやってくる事が多いが、様子を観にちょくちょく杉菜の元にも訪れている。となれば、相変わらずの杉菜の習慣を目にする事も多い訳だ。 「名物……確かに言えるわね……」 「うん……。でも、見てるこっちまであったかい気分になれるし、いいんじゃないかなぁ」 紺野が笑って言うと、何かを思い出したように藤井が切り出した。 「そういえば、こないだちょっとビックリ……というか、大ウケしちゃったんだけど。葉月のことで」 「葉月くんの?」 「ホラ、アイツって校舎裏に住みついてる猫の世話してたりするじゃん。アタシたまたま杉菜探してて通りがかったんだけど、葉月が甘ったる〜い声で杉菜の名前呼んでるもんだから、こりゃなにげにコッソリLOVE×LOVE進展してる!?とか思ってついつい覗いちゃったのね。そしたらさー、……ぶっくくく!」 「奈津実ちゃん?」 「奈津実……話の途中で笑われても私たちには解らないんだけど」 「ご、ゴメンゴメン。いやさ、よ〜く見てみたら杉菜はいなくて葉月が子猫とじゃれあってただけなんだけど。なんとその子猫の名前が『杉菜』!葉月って実はこういう奴なんだーとか思って思わず大爆笑しちゃった!!」 「そ、そうなんだ……。で、でも、大爆笑はどうかと……」 「だってさー、いっつも杉菜以外の人間にはあんなクールにしてるくせにそのギャップがもう!」 「だからといって覗くのはどうかしら……」 「え〜、前置きのセリフが『こら、杉菜、くすぐったいだろ……?』とか『やめろよ、そんなとこ触るなって……』とかだよ?姿見えないで声だけ聞こえてきたら気になるじゃん!」 けたけた笑い泣きしながら藤井が言うと、有沢と紺野も顔を赤くしつつも吹き出した。藤井の言ではないが、あの葉月が子猫相手に蕩けるようなグリーンリバーライトヴォイスでもってそんな事を言った挙句、その子猫に想い人の名前をつけていたとあれば、笑うなという方が無理である。 「しかもこっちに気づいた葉月、スッゴイ恥ずかしかったらしくて一気に顔真っ赤になってさー!睨んでんだけどぜんっぜん怖くもなんともないの!アタシ初めてだよ、葉月がカワイイとか思っちゃったの」 9割方笑ったままで藤井が続け、他の二人もその微笑ましい様子を想像して肩を小刻みに震わせる。 「ちなみに杉菜、まるっっきりフツーにそれ受け入れてました。解ってんだか解ってないんだか、あの子もかなりの天然だよねぇ」 「本当ね。最初はずいぶん変わった人って思ってたけど、よくよく考えてみるととても解りやすい性格かも知れないわね」 「あ、葉月くんにも言えるよね、それ。1年の頃はちょっと怖い人だなって思ってたけど、杉菜ちゃんと一緒にいるようになってから、すごく優しい人なんだなっていうの、見えてきた。けっこう解りやすいっていうのもちろんだけど」 「なんだかんだ言って似たもの同士なのかもね。でもさぁ、あの二人って結局今んとこ付き合ってるのかねぇ?なんかあんまり進展してないように見えるんだけど」 「……何を期待してるのか知らないけど、あの二人の性格で劇的に進展すると思うの?」 「だってさ、去年の事件からもう半年以上経ってんだよ?いくら杉菜が寝てたからって、葉月のあのモロ告白な発言聴いてなかったワケないじゃん。姫条に聞いたところによると結構お宅には行ってるみたいだけど、ご飯食べに」 「あ、でもあんまりデートはしてないみたいだよ?日曜日は杉菜ちゃんがお稽古あるし、そうじゃない日は葉月くんがお仕事あるし、すれ違っちゃうことが多いみたい。それにここのところ、葉月くんのお仕事、冗談抜きで余裕がないくらいに忙しくなってるから……」 「そうね。仕事絡みの欠席や遅刻・早退が増えて来てるらしいわね。彼も受験生だし、どうかと思うんだけど」 「ポスターやらCMやら露出多くなってるもんねぇ。『虫』の方は古参の理性的な頭脳派ファンがうまいこと口八丁手八丁で抑えてるからいいとして……本人が忙しいんじゃ、杉菜も寂しいだろうな〜。すごい心配してるしさ」 「……そういう部分が傍目にも見えてきた事が、彼女の一番変わった部分なのかも知れないわね」 「うん……そうだね」 穏やかな日差しに感化されたように、三人は微笑った。 昼休み終了の10分前、5時限目の予鈴がなるきっかり5分前(進級→教室変動により移動時間が増えた為余裕を持って10分前らしい)、いつものようにパチリと目を覚ました杉菜は自らの足を枕にスヤスヤと気持ち良さそうに眠る葉月の肩に手をかけて揺らした。 「起きて、珪」 よほど深く眠っているのか、なかなか葉月は気がつかない。さすがに肘鉄を落とす訳にもいかないので辛抱強く揺り動かしていると、ようやく重そうに瞼を開く。 「………ん……?」 「午後の授業、始まる。起きて」 杉菜の言葉にうっすらと開けた目で彼女を見上げたが、すぐにまた瞼を閉じてしまった。 「午後…………眠い。このまま、寝てる……」 「けど、出席はしてた方がいいと思う。眠っててもいいから」 よくはありません(たまにOKな教師もいるが)。 「早退とか増えた分、出られる時に出た方が、いい。だから起きて」 それでも葉月は閉じた瞼を持ち上げるのが苦行なようで、そのままの姿勢で横たわったまま。硬い机と椅子で寝るよりは杉菜の膝枕の方が何十倍もいいと思っているのは確かだろう。本能に忠実な上に、ほとんど確信犯である。 が、次の杉菜のセリフでそれも無駄と悟った。 「……じゃあ、運ぶね。足、引きずるかも知れないけど」 運ぶ。 つまりそれは、身長152pの彼女が身長180p・体重60kgの彼を担いで校内を教室まで移動するという事で。 「…………起きる」 やろうと思えばやってしまいそうな彼女ゆえ、葉月は極上の心地良さを捨てて己の男としてのプライドを守ろうと、体を起こした。 が、やはり眠い。とにかく眠い。べらぼうに眠い。 そんな葉月は、体を起こすも再び倒れ込みそうになって杉菜に支えられる羽目になった。 「……やっぱり運ぶしかない、かな」 「―――おりょ?杉菜ちゃんやないか。なんやまたかいな、葉月のヤツ」 「あ、ニィやん」 杉菜が軽く息をはいたところで、校舎の窓からひょこっと姫条が顔を出して声をかけてきた。 「しゃーないなぁ、また姫条運送の出番やな。ちーと待っててや、すぐそっち行くわ」 そう言うと姫条は少し離れた通用口から外に出てきて、杉菜たちの所にやってくる。手馴れたもので、そのままゾンビ化しかけている葉月の腕を取って、肩を貸すように歩かせる。杉菜は荷物を持って姫条達と一緒に教室へ戻る。 「ホレ、自分シャンと歩かんかい。歩かんのやったらこのまま抱き上げて校内一周お姫様抱っこしたるで〜?」 「…………やめろ」 「イヤなら歩けっちゅうねん。ま、オレかてそんなんはゴメンやけどな。杉菜ちゃんならともかく自分抱き上げたかてキショイだけやし」 「……俺だって、気持ち悪い……」 「とか言いながら首締めるんはやめい!まったく、言葉のアヤっちゅうもんが解らんのかい」 これはこれでまた違った漫才の様でもあるが、生憎相方の色白王子は本気で睡魔に敗北したようで、姫条にのしかかるように深い眠りの森に呑み込まれてしまった。 「かぁ〜!子泣きジジイかこいつは!ホンマにしゃあないなぁ……よっと」 ぶつくさ文句を言いながらも、姫条は葉月を担ぎ上げて運んでやる。まるで米俵のような運び方だが、男相手に姫抱っこはさすがに双方共に嫌なので、ここらが妥協点というところだろう。ちなみに葉月、この体勢でも熟睡している。さすが葉月。 「ありがとう、ニィやん」 「エエってエエって。オレが好きでおせっかいしとるだけやからな」 「お節介じゃない。助かってる、いつも」 「そらよかったわ。杉菜ちゃんのお礼の言葉がもらえるんやったら、いつだってオレは力になるで。ちゅうか本来礼を言うんは葉月の方や思うねんけど、わかっとんのかいな、こいつは。……にしても、最近冗談抜きでヘロヘロになっとるなぁ」 「うん……。仕事、切れないみたい。今、ほとんどないって言ってた、お休み」 「この不況の中、仕事があるだけでもありがたいっちゅうけど……だから言うて体壊しかねんほど忙しいのもアカンよなぁ」 時を追うごとに仕事が増え、火・木曜以外の平日にもどんどん撮影が舞い込むようになっていた。ましてや休日などは格好の撮影日、折角春だというのに深夜までスタジオ詰めの日々が続いていた。おかげで杉菜との恒例の森林公園デートもままならず、心身共に疲労が溜まっている。現在の葉月にとっては学校にいる時だけが心から休める状態だ。 ここまで多忙になったのは、無論葉月の内面の変化が元々際立った存在感を増幅させた結果ファンが増加した事に起因するが、それ以上に仕事熱心なマネージャーの手腕によるところが大きい。モデルとしての葉月を高く評価している証明でもあるのだが、人間は疲労する生物である事を忘れているのかと思う節もないではない。おみくじで大吉を引いたくらいにストレスが減少する杉菜の膝枕でも回復できないとなれば、あとは氷室の黄昏浪漫スチルでも持って来るしかないだろう。 「せめて、ゆっくり休める時間が取れればいいんだけど……」 食事に招く事で栄養は摂取させているが、さすがに睡眠時間までは提供出来ない。出来ることといえばせいぜい眠っている時には静かに眠らせてあげる事だけ。本当ならこのまま陽だまりの中で眠らせてやりたいが、出欠を考えると最低でも教室にはいさせないといけない。3年になって再び同じクラス(当然氷室学級)になったので、可能な限り便宜を図っている。 だが、やはり自分に出来る事には限界があるのだ。 こんなコンディションでも自分の傍にいてくれる彼に何も出来ない。 それが、苦しい。 「……いざとなったらワガママ言うてみ?」 姫条が心配そうに俯く杉菜に微笑んでそう言った。 「……わがまま?」 「そや。こいつ、こう見えて頼まれると断れへん性格しとるやないか。仕事の方もそんな感じでごり押しされて受けとる部分が大やろ。けど、杉菜ちゃんが傍にいてほしい言うたら十中八九、仕事ほっぽって自分の頼みきいてくれるで」 そう言うと、杉菜は首をかしげる。 「……わがままで仕事を放棄させるのは、駄目だと思う」 「う〜ん、そうやなくて、体壊しそうになったらブレーキかけてみぃっちゅうことや。こいつのことや、いつものこの調子でグースカ寝てて、そのままバタッと倒れて病院送りなんちゅうことにもなりかねんし。とことん自分の健康管理に疎いヤツやからな〜」 わざとらしい溜息を吐きながら、3−Aの教室に入って葉月の机に主を下ろして座らせる。座らされた葉月は熟睡したまま机に突っ伏して睡眠続行。ガヤガヤと騒がしいクラスメイトの声などまったく聞こえていないようで、この分では多分授業が始まっても掃除が始まっても、下手をすると下校時間になっても寝ているだろう。 「オレが言うんもなんやけど、ホンマに何しに学校来とるんかわからんな、こいつ」 少なくとも勉学に勤しむ為ではあるまい。杉菜の膝枕目当てなのは確実だろうが。 「ま、エエわ。ほなまたな、杉菜ちゃん」 「うん。本当にありがとう」 「どーいたしまして」 笑顔で手を振って、姫条は自分のクラスへ戻る。 「あれ、姫条。また運び屋やってたの?」 有沢達の元から戻った藤井にかち合って、訊ねられた。姫条と藤井は同じB組である。ちなみに鈴鹿も腐れ縁につきまたも姫条と同クラス。クラス替え発表の際、お互い心底うんざりした表情で顔を見合わせていたものである。 「まぁな。あそこまでボケとるヤツ、さすがに放っておけんわ。あーオレってホンマ義理人情に厚いエエ男やな〜」 「自分で言ってる内はまだまだだねー。しっかしまぁ、最近アンタ、葉月にずいぶん甘くなったじゃん」 「そらそうやろ。葉月がヘコんどると杉菜ちゃんが落ち込むからな。杉菜ちゃん親衛隊々長として、そんなことできへんわ」 「確かにね。…………ふぅ」 「なんやねん、らしくもない溜息なんぞついて」 「いや、杉菜のこと。初めて会った頃に比べると、ずいぶんあの子も変わったな〜って思って。さっき志穂たちとも話してたんだけどさ」 「変わった?」 「なんか人間臭くなってない?最初の頃はとにかく綺麗なお姫様で、こういうとナンだけどちょっと人形みたいなとこあったじゃん。淡白っていうかクールっていうか。けど最近は違うでしょ。対象が葉月だとすごく感情揺れてるなーって見てて分かる」 「せやなあ……。葉月限定っちゅうのはムカツクけど、ホンマ変わったな。けど、悪い方に向かっとるとは思えんし、このまま見守っててやってかまわんのとちゃう?」 「まーね」 そこまで話したところで本鈴が鳴り、二人は自分の席に着いた。 (……アンタもずいぶん変わったよね) 横目でチラリと姫条を見ながら、藤井は思った。 冬における姫条曰く『杉菜ちゃんにフラレてきた』の一件以来、確実に姫条の杉菜に向ける表情は変わっていた。以前のような切なさや恋しさを必死で押し隠そうとするものではなく、それらを全部含んだ上で一歩引いて見守ろうとする態度が全面に出てきた。いわば理解者のお兄さん的なスタンスだ。その境地に至るまでは相当煩悶もあっただろうに、それを乗り越えて先程のような会話を穏やかに出来るのが不思議といえば不思議である。 実のところ姫条と藤井の関係は紺野にからかわれるほどには大して進展してもいないのだが、シリアス会話もドツキ漫才も両方こなせる女子は藤井一人なのも手伝って、あまり突っ走り欲も強くない今日この頃だった。 (ま、杉菜を諦めたってことで希望を持った敵も増えたし、油断はならないけどさ) 少なくとも、何かがあると一番に声をかけてくれる。それだけでも今の自分には充分。 そのうちまた焦ったりバタバタしたりすることはあるだろうけど、今はこの陽だまりに浸ってみてもいいよね。 窓から流れ込んだ暖かい風に、藤井は一つ大きな欠伸をした。 「――――どうして受けたんだ!!」 スタッフがスタジオの片隅から聞こえてきた声に振り向いた。普段は滅多に荒げられる事のないその声の持ち主は、休憩中にもかかわらず強張った険しい顔で相手の女性と対峙していた。 「どうしてって、もちろんこの仕事があなたの為になると思ったからよ。全国展開している大手ブランドの総合イメージモデルよ?向こうから打診して来たくらいあなたのことを買っているし、今後の仕事の展開にも有利に働くと判断したからだわ」 「そんなの関係ない。ただでさえずっと忙しいのに、これ以上はごめんだ」 「忙しいのは確かだけど、でもこれはチャンスなのよ?このメーカーはアパレルから宝飾関連まで手広く手がけているし、評判だってかなりいいわ。そのイメージモデルに選ばれる事はすなわち将来が保障されたようなものよ。提示されたギャラだって相当の額だし、何が不満なの?」 対峙しているのは葉月のマネージャー。葉月の視線を真っ向から受けてなお、彼に反論できるのは事務所や撮影スタッフの中では彼女しかいない。 「全部だ。忙しくなるのも、勝手に受けたのも、全部不満だ」 「それは……、事後承諾になったのは謝るわ。けど今受けている仕事が終わってからだし、レギュラーのはばたきウォッチャーとの2本だけになるから、それほどきつくはないはずよ」 「それでも総合イメージモデルって事は、拘束時間は変わらないだろ」 「仕方ないわ。けどできるだけ学校に影響がないようにスケジュールを組むから、それでいいでしょう」 「そういう問題じゃない!」 とげとげしい雰囲気の会話が続いて、休憩中の他のスタッフまでもがシンとする。 「…………ハァ」 やがてマネージャーは大きく息を吐いて頭を押さえた。 「言っておくけど、もう契約はしてしまったのよ。この仕事に穴が開けば、二度とこんなチャンスは巡ってこないわ。それどころか仕事自体が回って来なくなるかも知れないのよ」 「べつに回ってこなくてかまわない。俺はやりたくてやってる訳じゃない」 「ええ、そうね。頼まれたから始めた仕事ですものね。けど、始めたからには途中で簡単に辞める訳にはいかないの。これだけ人気が出て、その分責任も生じているのに、それを放棄したら周りが黙っていないわ」 「周りなんて知らない。勝手に押し付けられた仕事なのに、放棄するな、なんておかしい。やりたい奴にやらせればいい」 「やりたくても、やらせてくれるかどうかは本人が決める事じゃないわ。逆もまた然りよ。とにかく、この仕事は絶対に外せないの。先方もあなたのイメージでコンセプトを構成してるんだから、今から辞退する事で出る損失を考えたら個人的な理由や好き嫌いでキャンセルする事は不可能なのよ」 最後のセリフに含まれる非難の響きを感じ取って、葉月はピクリと反応した。 「……ファンの間でずいぶん話題になっているそうね、『東雲さん』」 「……あいつには、関係ない」 「関係ない?本当にそう?その子と一緒にいる時間が欲しいから、これ以上仕事を増やしたくないんじゃないの?本当に関係ないって言えるの?最近ずいぶんと電話やメールを受け取ってるみたいなのに?」 「…………」 「去年の秋、あなたが怪我をした時にはぞっとしたわ。その数ヶ月前には恋人なんていないって言ってたのに、好きな子の為に怪我までするなんてね。どういう訳か、その辺りの事情が私の耳に届いたのはかなり後になってからだけど」 「……恋人じゃ、ない。第一、それがあんたに関係あるのか?」 「あるわ。私はあなたのモデルとしての才能を高く評価してる。まだまだ伸びるって事も判る。そんな逸材に出会えるのなんて十年に一度あるかないか、奇跡のようなものなのよ。それなのに、この大事な時期に女の子にかまけて将来を棒に振るような事、して欲しくないのよ」 「…………勝手な話だ」 「お互い様でしょう。――――いいわね?今回の仕事、これはビジネスなのよ。始めたのがどんなきっかけであろうと、それを継続してきたのはあなた自身。その延長なの。辞退は許されないわ。スケジュールは調整します。けど、それはあくまでも学業と両立できる範囲で、よ。女の子と遊ぶ余裕までは取れないわ」 マネージャーがキッパリ言うと、葉月は苦りきった表情のままその場から立ち去ろうと踵を返した。 「どこへ行くの?」 「時間、まだあるだろ。外の空気、吸ってくる」 それだけ言って、足早に扉を開けてスタジオから出て行った。 「いやはや、久々に葉月ちゃんのあの鋭い眼光見たよ。最近はすっかりご無沙汰だったんだけどね。――――ハイ、コーヒー。マネさんも一息どう?」 苦笑しながらカメラマンの山田がカップを持ってマネージャーの所に寄って来た。 「山田さん……ありがとうございます、頂きます」 マネージャーは山田からカップを受け取って、すっかりぬるくなったコーヒーをゴクゴクと飲んだ。さすがの彼女も葉月とガチンコ勝負で疲れたようである。手近な椅子に座って脱力したように息を吐いた。 「俺が言うのもなんだけどさ、最近ちょっと頑張りすぎじゃない?葉月ちゃんもあの性格だし、あんまり無理させても良くない気がするけどねぇ」 マネージャーが落ち着いたのを見計らうように、壁に寄りかかった山田が言う。 「そうかも知れませんけど、今の葉月は本当にこれからこの業界で生き残れるかどうかの瀬戸際なんです。それに大体、才能がなかったら最初からこんな無理はさせません」 彼女は真剣な表情のまま言った。葉月との付き合いは長い。葉月の視線に臆さず対等に渡り合える唯一の人物である事ももちろんだが、何よりも彼の才能を誰よりも高く評価しており、それを伸ばす事が自分の生きがいに繋がると感じているからだ。 葉月がこの仕事を好きではないのは承知している。しかしだからといって埋もれさせるのはあまりにも惜しい。エゴといえばエゴだろう。けれどそう非難されても、それでも葉月に活躍の場を与えたいと願い、動いてしまう。 実のところ、彼女自身も内心そのジレンマで悩んではいるのだ。 そんな心境を感じ取ってか、山田がフゥッと軽く息を吐く。 「それも解るんだけどね。あんまり無理させてるとそれが表面にも出てきちゃうからさ。今みんなが葉月ちゃんに求めてるのはギスギスしたのとは正反対のベクトルだし、撮る側としても多少の余裕があった方がいい絵撮れるんだよね。ちょっと最近は昔の葉月ちゃんに戻ることが多くて、撮ってて痛い時があるよ」 「…………」 「それとさぁ、少なくとも東雲ちゃんと出逢った事は葉月ちゃんにはプラスになったし、その結果が今の人気だし、その事についてまで詮索したり束縛したりしなくてもいいんじゃないかって思うんだよ。人間余裕や秘めてるものが多い方が魅力が増す事もあるしさ。……まあ、葉月ちゃんの怪我については俺も負い目があるから、強く言えないけどさ」 山田はバツが悪そうに笑う。去年の文化祭での事件が自分の写真が原因だった事で少なからず葉月と杉菜に申し訳ないと思っているのである。 「……山田さんは、葉月の彼女に会った事があるんですよね?」 「ウン。すごい美少女で、葉月ちゃんとはまた違った存在感がある子。初対面で思わずシャッター切ってたくらいだよ。森山も言ってたけど、機会があったら一度でいいから撮ってみたいと思う被写体だな」 「森山さんも?……そんなにすごい子なんですか?」 「そう。マネさんはまだ会った事ないんだっけ。――――そうだ、葉月ちゃんがオフの日曜日に森林公園行ってごらんよ」 「……森林公園?」 「マネさん、市外に住んでるから知らないでしょ。もうすっかり名物になってるから、ぜひ一度行ってみて。葉月ちゃんが変わった理由、ひと目で解るから」 そう言って山田は思わせぶりに笑ってみせた。 すっかり暗くなった屋外で、街灯の明かりを頼りに葉月は携帯の液晶画面を見つめていた。そこに表示されているのは一つの電話番号。 21時を軽く越していて、もしかけたとしても決して相手に繋がらない事は解っているが、それでも葉月はしばらくその番号を見つめていた。 「……べつに、そんな事、望んでない」 モデルで出世したいとか、そんな事は。 望むのはただ一つ、彼女の傍にいる事だけ。 彼女が眠っているこの時間に、その傍で寝顔を眺めながら穏やかな時間を過ごす事。 それは、そんなに望んではいけない事なのだろうか。 会いたい。声を聴きたい。傍に居たい。ただそれだけなのに。 「上手く、いかないな……」 葉月は手元の携帯の画面をメールのそれにする。一番最後に届いたメールは18:59の着信。 『お疲れさま。明日、お弁当持っていきます。おやすみなさい』 簡潔な文章に、逆に笑みが浮かんでくる。 「疲れてるみたいだから、せめて栄養だけでも摂れるように」 今日の帰り際、彼女が言った言葉。 それを思うだけで、心が暖かくなる。 会いたいけど。今は、まだ。 葉月は相手が受信したメールを読む時間を考えながら、それに返信した。 『おはよう。これ打ってる今、仕事中だけどな。 ――――弁当、サンキュ。けど、なるべくカイワレ、入れるなよ』 |
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