−第32話− |
たった一度でいい。 君のその声で、呼んで欲しい。 そうすれば、オレは。 「す〜ぎなちゃ〜ん!」 冬休みが明けて数日経った頃、姫条はル○ン三世のようなイントネーションで、珍しく一人で廊下を歩いていた杉菜に声をかけた。 「……あ、ニィやん。何か用?」 「ま、用ちゅうたら用やな。なぁ、18日の日曜日、空いてへん?」 「18日?」 「そ、18日」 「……その日なら空いてる。先生の都合でお休みだから、お稽古」 「それやったら、臨海公園に行かへんか?」 「臨海公園?」 「そや。ホラ、臨海公園の大観覧車、15日にオープンやろ?オレ、冬休みにしとった臨海公園でのバイト絡みでタダ券もろてん。まぁタダ券ちゅうか整理券みたいなもんやけどな。オープンして最初の日曜やからて予約制にしとるやろ?そんでそれがゲットできたよって、杉菜ちゃんと一緒に行きたい思てんねんけど」 「私と……?」 「たまにはエエやろ?今まで杉菜ちゃんとデートっちゅうのしたことないんやから、一度くらいはつきあってほしいねん」 「デート……去年の夏、ショッピングモールに行く途中でしなかったっけ?」 「あれは偶然バッタリ会うたからやん。そうやなくて、前もって約束してっちゅうのは初めてやろ?杉菜ちゃんさえよかったらやけど」 「……うん、いいよ。予定、ないし」 「ホンマ?そらよかったわ〜!なら、新はばたき駅で待ち合わせってことでエエか?」 「うん、わかった」 「よっしゃ。ほな、またな〜!」 頷いた杉菜に手を振って去りながら、姫条は笑う。 ずっと引きずっていたもの。 それにケリをつけるタイミングが、ようやく来た。 約束の1月18日、曇りがちの空からうっすらと太陽が姿を現す午後の煉瓦道を、姫条と杉菜は二人連れで歩いていた。 「いや〜、あないな杉菜ちゃんの食事風景拝んだの初めてやな」 「そう?」 「そや。いつもの食べっぷりの良さに慣れきっとったから、さっきみたいに優雅に食べるっちゅうのはメッチャ新鮮だったわ。フォークやナイフ捌きの上品なこというたら、単なるチェーンのイタメシ屋が高級フレンチレストランに早変わり、てなもんや」 せっかくだから昼食も一緒にという事で早目に待ち合わせて、ショッピングモールにある全国チェーンのイタリアンレストランで食事をしたのだが、さすがの杉菜もいつものかっ込み食いはナリを潜めていたようである。 「お母さんに躾けられたから。テイクアウトや身近な人の前でならともかく、レストランや料亭ではマナーや作法を守りなさいって。でも、ニィやんも使い方、綺麗だった」 「あー、まあなぁ。俺も小さい頃躾けられたクチやから。仮にも社長令息がマナー知らんでどうする!とか言われてな。躾けてくれたんは主にオフクロやったから、反発はせぇへんかったけどな」 「社長令息?」 「あ……、ああ、言うてへんかったっけ。ん〜、まあな、一応。社長いうても成り上がりやし、そんな大層なもんとは違うねんけどな」 「そう。……そういえば、話した?夏から、今まで」 言いたくなければ言わなくてもいい、という空気を滲ませて杉菜が訊ねた。姫条の方は今さら隠してもどうしようもないと思っているので、苦笑しながら答える。 「……や〜……それがなぁ、オヤジの声聞くとま〜だ怒りゲージが瞬間沸騰してまうねん。こないに引きずっとる限り、オヤジを越えられへんっちゅうのは重々承知しとるんやけどな」 「……お父さんを、越える?」 「ああ。……オレな……自分のチカラで、会社つくりたいねん」 照れくさいのか恥ずかしいのか、杉菜から視線を外した姫条がわずかに顔を赤らめて言った。 「そりゃ、何をやるかも、どういうふうにやるかも、決まってへんけど……。けどな、ガキっぽくても、先が見えへんでも……夢って、そういうもんやろ?」 道端の小石をつま先でこつんと転がして、姫条は続けた。 「そらまあ夢は夢やし、途中で現実に打ちのめされる時もあるやろうけど、そんなの関係なしでやってみたい、とことんまで自分のチカラを試してみたい、そう思うねん。せやから今は資金を溜めつつそれに繋がる『何か』を探し中……ってとこなんやけど、将来企業を背負って立ちたい思とるヤツがオヤジの声聞いただけで激昂してたらアカンわなぁ。……って、そないいうたら杉菜ちゃん、自分は将来何になりたいんや?」 「私……?」 「考えてみたら、杉菜ちゃんからそういう話聞いたことあらへんかったやろ。やっぱり投資家かなんか?」 「……それ、前に千晴にも言われた。違うけど」 「あれ、そうなん?杉菜ちゃんの体質やったら普通の務め人は無理やろうし、それしかないて思たんやけど。それやったら何になりたいんか訊いてエエ?」 重ねて問うと、杉菜はほんの少し迷うような素振りを見せたがすぐに返答した。 「…………翻訳家」 「翻訳家?―――ああ、せやな。杉菜ちゃんの英語力やったら軽くいけそうやもんな。時間も締め切りさえ守れば融通利くし」 彼女の語学の点数を思い返して姫条が言うと、杉菜は軽く首を振った。 「……英語じゃなくて、ドイツ語」 「へ?ドイツ語?……ドイツ語言うたら、あのドイツ語か?ダンケやらグーテンタークやらバウムクーヘンやらの?」 「そのドイツ語。ドイツ語の翻訳家。それ」 「―――ってことは、杉菜ちゃんて実はドイツ語もできたんか!?」 「うん、興味あって、ずっと前から習ってる。バイオリンと、同じくらい」 「ハァ〜……オレなんて日本語だけでもアヤシイっちゅうのに、えらい多才やなぁ……。せやけど、なしてドイツ語?杉菜ちゃんやったら何となくフランス語とかの方が似合いそうな気ィするねんけど。いや、あくまでイメージやけどな」 姫条の言葉に杉菜はやや考え込むような表情をした。 「…………はじまりだったから、かな」 「はじまり?」 「うん、はじまり」 「なんの?」 「……色々。自分の中の。うまく言えないけど」 本当に表現しづらい口調だったので、姫条はそれ以上追及するのを止めた。 「……なんやよう解らんけど、杉菜ちゃんやったらなれるで、ドイツ語の翻訳家。きっとな」 「ニィやんもなれると思う、社長」 「ホンマ!?」 「うん。それに平成15年2月1日から中小企業挑戦支援法が施行されたから、たとえ資本金が1円でも会社設立は可能だし。一定の手続きをした上で、5年以内に規定以上の資本金を準備しなくちゃいけないけど」 「……さっすが現実的やな、杉菜ちゃん。けど杉菜ちゃんにお墨付き貰たんやから頑張らなアカンなぁ、オレ」 苦笑する姫条を、杉菜はふと見つめる。 「ん、どないしたん?―――あ、ひょっとしてさっきのパスタソースでも顔に付いてるんか?ど、どこや?!おかしいなぁ〜、チェックしたはずなんやけど」 「ううん。……今日のニィやん、楽しそうだと思って」 「そらもちろんやろ!杉菜ちゃんとの念願のデートやからな、楽しくないわけあらへんて」 「そうじゃなくて……ここのところ、ずっと元気、なかったみたいだから。よかったなって、思って」 いつも通りにさらりと言う杉菜に、姫条は苦笑の度合いを増した。が、すぐに力を抜いたような笑みに変わった。 「…………そか。ま、原因は自分で判っとるからな。それに……それももう終わりやし」 「……終わり?」 「っと、アカンアカン!今日はそないな顔したら!このオレが付いてて杉菜ちゃんにそないな表情させるわけにはいかんて。さ、元気出して行こか!」 「……うん」 時間となったので、姫条と杉菜は目的の大観覧車に乗る為にゲートへ向かった。 臨時予約制にもかかわらず、大観覧車の前には長蛇の列ができていた。係員に整理券を見せて、列に混じった二人は順番が来るのを待ちながらその巨大な鋼鉄のオブジェを眺めた。 「ハァ〜、近くで見ると迫力やなぁ」 「うん、そうだね」 頷いてやや黙った杉菜を不審に思って、姫条は恐る恐る訊ねた。 「杉菜ちゃん……もしかして自分、高所恐怖症だったとか?誘っておいてなんやけど、それやったら無理せんでも……」 「ううん。もし倒れたら、どれくらいの範囲で被害が出るかなって、シミュレートしてただけ」 「……杉菜ちゃんらしいなぁ」 思わず乾いた笑いが面に浮かぶ。 (なにが『らしい』て、他の子がそないなこと言うたらなんやヘコむのに、杉菜ちゃんが言うとそれでこそ杉菜ちゃんやなぁて安心するトコやな) そうこうしている内に順番が回ってきて、二人は係員の誘導に従ってゴンドラに入った。 ゆっくりとしたスピードで上っていくにつれ周りの景色が日頃の物とは変わっていき、見慣れたはずの街が違った土地のように思えてくる。今日は生憎雲が多いが、晴れていればかなり遠くまで見渡せそうだ。 「……見晴らし、いいね」 「そうやなぁ。こんだけ高いと大空に浮かんでるっちゅう表現がピッタリくるわ。……オフクロが生きとったころは、よう家族3人で乗ったもんや。楽しかったなぁ……って、杉菜ちゃんと一緒の今ももちろん楽しいけどな」 「そう……?なら、いいけど」 「ま、二人っきりでいろいろお話っちゅうんもエエけど、せっかくやからしばらく外の景色でも眺めよか。違った角度から自分らの住む町を見るんもなかなかオツやしな」 「うん」 姫条に頷いて、杉菜は顔を外に向ける。姫条も同じように顔を外に向けたが、視界の端で杉菜を捉えたままで彼女の方に意識を向けていた。 ほっそりとした華奢な輪郭に、繊細で儚げな顔立ちと表情。初めて会った時のようにともすれば大気に溶けてしまいそうなその姿は、けれどかつてほど非現実的ではない。少しずつ僅かずつ変化してきたからこそ、それがまた目を奪う。 「……そういえば杉菜ちゃん、最近葉月とは上手くやってるんか?」 一周30分は要するその半分を過ぎた頃、姫条はわずかに杉菜に顔を向けて彼女に訊ねた。訊かれて杉菜も少しだけ姫条に顔を向ける。 「上手く……って?」 「あ〜その……学校の外でもちょくちょく会ったり出かけたりしとるんかな〜、ってこと」 「べつに……ふつう。用事があれば連絡はするけど、なければそんなに。珪も忙しいから」 珪。 文化祭が終わった後から、杉菜は葉月をそう呼ぶようになった。 あまりにも自然に呼ぶものだから、皆最初は聞き流していたものだ。実際杉菜にとってはそれはごく自然な呼び方なので、周りもそれほど気に留めるほどではなかった。後になって気がついて慌てて振り向くくらいのものだ。 けれど姫条から見れば、葉月とそれ以外の人間を呼ぶ時の杉菜の印象は違っていた。 どこがどうとはハッキリ言えないが、何かが違う。そう思わずにいられなかった。それがまた彼にとっては決定的なものでもあった。 けれど今はそれには触れず、彼は話を続けた。 「それもそうやな。秋からこっち、一緒にいようとする意思はハッキリしとるけど、それはそれとして忙しいんも事実やしなぁ」 「うん。今日も一日中仕事だって言ってた。体、壊さないといいけど……」 「アイツ、栄養偏っとるもんなぁ。前に一人暮らし同盟で『食生活抜き打ち調査』したったんや。したらな、見事なくらいにビタミン群がスコーンと欠けてんねん!特に緑黄色野菜やな。いっちゃん栄養摂らなアカン時期にそらヤバイやろ言うたんやけど、ちーとも聞こうとせんのや。しまいには『面倒……』とか言いよるし。面倒や言うたあげく体壊して寝込んだら、その方が面倒やっちゅうのが解らんのかいな、アイツは」 「解らないわけじゃない、と思う。ただ、本当に面倒なのかなって。一人だと、そんなものなの?」 「う〜ん、それは確かに否定でけへんけどな。せやけど体壊したらその方が物理的にも精神的にももっとツライわ。……まあ、葉月のことやから『しっかり食べて健康キープせんと杉菜ちゃんが哀しむで〜?』て言うたら少しは生活習慣改めるかも知れへんけどな」 「……そうなの?」 「絶対そうや。試しに今度言うてみるか?―――ん、せやけどアイツって料理まともにできるんか?葉月が料理しとる姿って、なんや想像つかんけど。塩水で里芋のぬめりとっとるトコとか、米ぬかでタケノコ茹でとるトコとか」 「できなくはないみたい。年末、うちでおせち作る手伝いしてくれた時、手際よかった」 「えっ、あれって葉月も手伝っとったんかいな!?」 「うん。お父さんに年越しマージャンに呼ばれた時に、手持ち無沙汰だった時間」 日頃から美しく保たれている東雲家では、大晦日にやる事といえばおせち作りくらいだ。杉菜は寝てしまうので家族マージャンには面子が足りない。ならばと呼ばれたのが、徒歩10分強の場所に住む葉月だった訳だ。 大晦日だからといって大掃除に興じる事もなく家でのんびりとしていた葉月だが、杉菜にリアルタイムで「明けましておめでとう」を言えるチャンスを逃すはずもなく、結構あっさりと寂尊の呼び出しに応じたものだ。二年参りならぬ二年マージャンで果てた後は何とも当たり前のように客間で就寝し、うまいこと杉菜との初詣にまでこぎつけた。新年初の挨拶はウッカリ寝過ごして尽に先を越されたようだが。 ちなみにマージャンの結果は接戦の末、桜が1位で寂尊・葉月が同点2位、尽が最下位である。尽の名誉の為に各人の成績は実に僅差だった事は記しておこう。 「うちに来ると、ちゃんとご飯も食べるから。だから、お母さんとも話して、なるべく呼ぶようにしてる。食事に」 「そらまた羨ましいこっちゃなぁ。てか、なんや葉月ほとんど家族みたいなもんやないか?」 「お父さんとお母さんは、そんな感覚みたい。尽も近い、かな。楽しそう、話してるの見てると」 「ほな、杉菜ちゃんは?」 さりげなさを装って訊くと、杉菜は少し黙ってから答えた。 「……それ、よく訊かれるんだけど、よく判らないの、私」 「判らへん?」 「そう。不思議な人だとは思う。いないと、何か違和感があるのは解る。でも、それを何と言うのかは解らない」 藤井が以前言っていた。杉菜はおそらく自分の感情に気がついていないと。葉月に対する自分の感情に、自身が戸惑っているのではないかと。 「家族みたいなもの……といえば、近いのかもしれない。けど、やっぱり違う気もする。色々、考える。考えて、でもやっぱりよく解らなくて、それで混乱してる時がある。自分で、そういうのが増えたって、解る。…………けど、無理するなって、言われたから」 「……『無理するな』?」 「そう。考えてても、答えが出ない時は出ないからって。だから、解らなくても、受け止めておけばいいって。それで、どうしてかホッとした気がした、私」 「…………そか」 「うん。…………ごめんなさい。変な事、言ったね」 「いや、変やなんて思わへんで?オレの方こそ言わそうとしてスマンかったわ。……せやな、解らんのやったら無理して解ろうとせんでも、その内ヒントが見つかるかも知れへんもんな。葉月もなかなかエエこと言うわ。せやけど……答えが解りきっとるのにそれでも手をこまねいて、誤魔化しとるのはどうなんやろな……」 「……ニィやん?」 目を伏せて静かに話す姫条に杉菜が不思議に思ったのか覗きこむように声をかけた。 「ニィやん……」 再度声をかけられて、姫条は真正面から杉菜の顔を見つめて何かを言おうと口を開いた。どこかとても言い難そうに。 「なぁ、オレ、みんなが思うほど軽い男とちゃうねんで。ホンマの気持ちは重すぎて、舌がよう回らへんねん。せやからつい軽口でごまかしてまうんや。けど……オレは――――――」 「はい、お疲れさまでした!気をつけて降りてください」 話している間に一周し終わったのか、気がつけば係員がゴンドラのドアを開けて二人の退出を促していた。 「……ハハ、アカンなぁ。タイミングまで失敗や。慣れへんことしようとするとこれやからなぁ……。さ、気ぃ取り直して、次行こか!」 苦笑しながら姫条が先に出て、杉菜をエスコートするように手を差し伸べる。杉菜はわずかに首をかしげてから、得心したように彼の手を取ってゴンドラを降りた。 出口側の通路を未だ並ぶ行列を見やりながら離れ、二人は煉瓦道を散策する事にした。大観覧車に集中している分、冬の煉瓦道は歩行者もカップルもいつにもまして少ない。観覧車から離れるほどにその影はまばらになった。風が冷たく吹き通る中、観覧車の感想を含めてとりとめのない話をする。 「さっき……」 ふと、杉菜が立ち止まって姫条を見上げた。 「ん?」 「さっき、言ってたことだけど……」 「言ってたこと……ああ、アレか」 降りる直前に言いかけた事。 「うん。……私、ニィやんのこと、軽い男の人って思ったことない。身近な人を、とても大切にする人だって思う」 雲間から差し込む光が柔らかく当たって、風に揺れる彼女の髪がさらりと暖かな色を紡ぐ。 「ずっと、そう思ってる。お父さんの事も、大切に思ってるからこそ、逆に許せないのかなって。深いところで、人を大切に出来る人だって、そう思う」 真っ直ぐに姫条の瞳を見つめる杉菜の言葉に、姫条は微笑った。 どうしてこないに言ってほしい言葉、簡単に言ってくれるんやろな。思わずそのノリに全部委ねてしまいたくなるやんか。 けど、タイミング、はずしたらアカン。 今日だけは、今回だけはアカンのや。 「おおきに、杉菜ちゃん。…………なぁ」 「何?」 「一つだけ、一回だけでエエねんけど、頼みきいてくれるか?」 「頼み?私にできること?」 「杉菜ちゃんだけにしかできんことや」 「私にしか、できない事?」 小首をかしげてキョトンと見上げる杉菜に一つ頷いて、姫条は言った。 「一度だけでエエから、オレのこと、名前で呼んでくれへん?」 「名前で?」 「初めて会うた時は嫌や言うてたけどな。なんかそのあといろいろ気持ち変わったりしたんや。せやけど、一回だけでエエ。それだけでエエねん。あとはいつも通り『ニィやん』でかまわんし」 それ以上は望まない。けれどただ一度だけ、それが欲しい。 そうすれば、オレは。 ジッと見上げて彼の真意を測っていたような杉菜だったが、やはりよく解らないようで、ただ姫条の言った頼み事だけを叶えようと、口を開いた。 「…………まどか……?」 たった一つの単語。 自分がかつて拒んで、後悔し続けてきたそれ。 その一言が紡がれて、姫条は咄嗟に杉菜を抱きしめた。 「…………!ニ―――」 「スマン、今だけや。今だけ、少しの間こうしててくれるか……?」 「…………」 遮るような、けれど切実な姫条の声を聞いた杉菜は、そのまま黙って彼に身を預けた。抵抗のない事に安堵して、姫条は杉菜の背に回した腕に力を込める事なくただ彼女の体に添っていた。 華奢な体。触れたかった体。彼女が目覚めている時には一度も触れられなかった、確かな形。暖かい存在。 あの日、あの教会の中で。 彼女は抱き起こしていた自分すら見えないように、ただ一人にだけ手を伸ばした。 そう。 無意識の内に彼女が選んだのは、自分ではなく葉月だった。 答えは出ていたけれど、それが突きつけられたのはあの時。 『どうして目が覚めたのか、解らない。けど、起きなきゃいけないって、思ったの。…………珪くんが、泣いているような、傷ついているような、そんな気がして。そしたら、目が覚めてた』 あの事件の後、不思議そうに呟いた杉菜の言葉を聴いた時。 ここまでだ、と思った。 自分が彼女を動かす事は絶対にできないと、まざまざと思い知った。 ここまでなのだ。 彼女に、この恋心を少しでも受け止めてもらえるかも知れない、そんな淡過ぎる期待を持っていていいのは。 どうやったって、彼女の中には入りこめないのだ。 葉月以外に、それは許されていないのだから。 それでもあの日から2ヶ月もの間、思い切れなくて悩んでいた自分がいた。悩んで、考えて、苦しんで。 けれど、結局は一つの考えに辿り着く。 彼女が幸せになってくれる方が、何よりもいい。 大観覧車の整理券はそんな時に手に入れたもの、丁度いいタイミングだと思った。 自分の心にけじめをつける、絶好のタイミングだと。 「オレな……杉菜ちゃんのこと、好きやった」 「…………」 「ホンマに、好きやった。自分でも信じられへんくらいに好きやったんや。せやから……」 「ニィやん…………私、は……」 「せやからな、絶対に杉菜ちゃんには幸せになってほしいねん。不幸になんて、なってほしくないねん」 何かを言おうとする杉菜を遮って、姫条は続けた。 彼女はいつも、自分のせいで誰かが傷ついたりする事を厭う。 だから、姫条が彼女を想い、それが叶わない事で傷つくのを見るというのなら。 ならば、その想いは溶かしてしまった方がいい。吹き荒ぶこの風の中にでも。 甘えてほしかった。頼ってほしかった。笑ってほしかった。―――自分だけに。 けれど、それは葉月だけに許されたものだから。 だったら、自分に出来る事はただ一つ。 「オレはどんな時でも杉菜ちゃんの味方や。困ったことがあったらいつだって駆けつけて手ェ貸したる。葉月に泣かされたりしたら、オレに言うてや?鉄拳制裁加えて、杉菜ちゃんを泣かせるような根性、しばき倒してやるよってな」 「…………」 好きになったのは、自分の勝手。君に向けられる感情のすべてに、君が責任を感じることはない。 心の中で呟いて、おとなしいままの杉菜の頭をその大きな手の平で軽く撫でてから、姫条はそっと彼女を離した。 「……スマンな、苦しかったやろ」 「……ううん」 いきなり抱きすくめられて驚いただろうに、それでも相変わらずの無表情で首を横に振る杉菜に、姫条はほんの少し苦笑した。 (葉月相手やったら違うんやろうな、きっと) そう思ったが、それはおくびにも出さず別の事を切り出した。 「風、冷たなってきたし、そろそろ帰るか。杉菜ちゃんに風邪引かせでもしたら、本末転倒やもんな」 そう言って笑った後、姫条は杉菜を促して近くのバス停へと向かった。 お互い特に何を言う訳でもなく、煉瓦道をはずれたバス停へとゆるゆると歩く。停留所に到着して時刻表を見れば、もうすぐ杉菜の家の方向に行く路線バスが来る時間だった。 その短い待ち時間の間、姫条はふと思い出したように杉菜を見た。 「そうそう、杉菜ちゃんには言うとかなアカンな」 「……言う?」 「オレが言うのもなんやけど、杉菜ちゃん無防備すぎやで?男なんてモンはいつ狼になるか判らへんのやから、さっきみたいにいきなり抱きしめられるような隙は見せたらアカン。友だちの前であっても、や。エエな?」 まったくもって彼が言うのもおかしな話なのだが、姫条は人差し指をピッと立てて「メッ☆」という風に注意する。 杉菜はキョトンとしたような顔で姫条を見返したが、すぐに頷いた。 「うん、わかった」 「ならエエんやけどな。杉菜ちゃんは案外ぽややんとしてるとこあるからなぁ」 「けど……さっき、ニィやんはそれ以上のこと、しようと思ってなかった。でしょう?」 今度は姫条がキョトンとする番だった。 「…………ホンマ、かなわんなぁ」 言われた方はバツが悪そうに笑って頭を掻く。 (ぜ〜んぶ、お見通しかい。ホンマ、こういうところは鋭いんやからなぁ) 抱きしめたのは衝動の限界。それ以上はできなかった。するつもりもなかった。 拒まれるのが怖かったのもあるけれど、それ以上に彼女の枷にはなりたくなかった。 他人を思いやり気遣う彼女の心の中に、煩わしい重さを増やしたくなかった。 何よりも誰よりも大切だから、いつだって軽やかにあって欲しい。 それが、唯一君に望むこと。 「……かなわない……そうなの?」 「そや。ぜーんぜんサッパリかなわん。そういうんも、悪くないけどな。――――――お、バス来よったで」 視線を巡らせれば、確かにバスがやってくるのが見えた。 「オレはこれから夕飯の買出しやさかい、送っては行けんけど、気ィつけて帰ってや」 「うん。今日、誘ってくれてありがとう」 「こっちこそ、誘われてくれておおきに」 バスが停留所に止まり、昇降ドアがプシューと音を立てて二人の目の前で開いた。乗り込もうとする杉菜に、姫条は気がついたように声をかけた。 「そや杉菜ちゃん、いつも作ってくれとる弁当のことなんやけど」 「お弁当?」 「あれな、もうエエわ」 「……え?」 「今までず〜っと、杉菜ちゃんに甘えっぱなしやったからな。そろそろ自立せんと」 杉菜は姫条の顔を見返したが、そこにはいつもの姫条の笑顔。人懐こい明朗な表情で笑う姫条に、杉菜は何秒かの時間差のあと軽く頷いた。 「……わかった」 「ん。ほな、また学校でな」 「うん、また明日。…………ニィやん」 「なんや?」 「…………好きになってくれて、ありがとう」 最後のセリフはドアの閉まる音にかき消されるように聞こえなくなった。 間もなく走り出したバスにひらひらと手を振って、姫条は一つ息を吐く。白く染まった空気が名残惜しそうにその不透明度を引きずって、けれどすぐに風に溶けて透明な大気になる。 その様子を見遣った後、姫条は踵を返して煉瓦道をそぞろに歩く。適当な所で足を止めて、フェンスに体を預けて海を眺めた。 これでエエ。 次に『本気で好きなコ』が現れるまで『恋する青年・姫条まどか』は、しばらく休業や。 ……まぁ正直なトコ、弁当はかなり惜しいんやけどな。 頭の端でそう思って、一人クスリと笑ったところで誰かの気配が近づいてきた。 「……姫条!?アンタ、こんなとこでなにしてんのよ?」 聞き慣れた高いトーンの声に振り向けば、藤井が驚いた顔で姫条の目の前に立っていた。 「なんや、自分か。自分こそ花の日曜になに一人でぶらついてんねん」 「アタシは買物。志穂の誕生日があさってだからプレゼント探しにきたの。商店街よりこっちの方があのコ好みの雑貨とかあるしさ」 言葉通り、彼女の手にはプレゼントと思しき雑貨屋の紙袋が握られている。 「そか、20日生まれやったな、有沢ちゃん。いつも世話かけとるし、オレもなんかプレゼントのひとつでも用意しとかんとなぁ」 「で、アンタは何してたワケ?そっちこそ一人なんて珍しいじゃん。しかもこんな寒風吹き荒ぶ中でさ」 「まぁな」 姫条は近くにあったベンチに腰かけて、海の方を眺めたまま言った。 「杉菜ちゃんにフラレてきた」 「…………え……?」 いつものような飄々とした笑顔のままで言われ、藤井は一瞬思考が停止した。 「杉菜に……フラレてきた?」 「そや。答えは判っとったからな、告白して、幸せになって欲しい言うてきた」 約二年分の片想い。 それにしてはあまりにもあっけらかんとした物言いで、藤井は言葉に詰まる。何秒か呼吸を整えてから、ようやく口を開いた。 「アンタ……は、それで、いいの?」 思わず素直な感想が出た。 姫条がフラレなければ自分に幸せが巡ってくるチャンスもない、その皮肉な展開が実際に起こって。 何よりもまず、それが浮かんだ。 「それでいいんか、言われたかて他にどないせえっちゅうんや。オレには杉菜ちゃんを振り向かせるだけのもんがあらへんかったんやし、それに自分かて杉菜ちゃんの恋路応援したいんやろ?そないなこと言うてどうすんねん」 「いや、どうするっていうか……」 「これでエエんや。オレはあくまでも杉菜ちゃんの『友だち』なんや。それ以上を望んだかて手には入らん。判りきったことを認めただけや、今さらあれこれウジウジズルズルしたかて何にもならんわ」 あまりにも。 あまりにも、あっさりとした顔で。 「姫条…………」 「ま、なんやこれでスッキリしたわ。その分ポッカリ抜けた気ィするけど、それはそのうち埋まるやろ」 あくまでも、清々した顔で。 どこか肩の荷が下りたような、そんな顔で。 そんな姫条を見ている内に、藤井の口が勝手に動いていた。 「…………あのさ、姫条。その抜けたポッカリの分、アタシが埋めちゃ……ダメ?」 「へ?」 ハッと気がついて、藤井は自分が言った言葉に自分で驚く。別の本音を思わず口に出してしまっていた。こんな時に言うなんて、呆れられるか怒られるかのどっちしかない、そんな本音。 「―――だからっ!その、アンタの心のスキマをこのアタシが埋めてあげようかって言ってんの!ホラ、相方がヘタレてちゃツッコミだってし甲斐がないし!!」 顔を真っ赤にして、慌てたように付け足す。 ずっと思ってた事。ずっと想っていた事。 コイツにバレてないはずがない。コイツほど他人の心を読むのが上手い奴なんて、アタシは知らない。 だからアタシの気持ちだって絶対バレてる。 アタシの醜さや浅ましさ、そんなものだって全部バッチリ解ってる。 …………でも―――でも。 そういうの全然指摘したりしないで、いつもアタシとつるんでくれる。 一人の人間として、いつだって対等に向き合ってくれる。 そういうトコ、すごく好きで。大好きで。 だから、いっつも素直になれないけど、アタシもアンタを支えてあげたくて。 杉菜と葉月みたいに、お互いを支え合えるようになりたくて。 だから。 だから、アタシは。 『……頑張って』 ――――うん。 うん、杉菜。 アタシは、アタシらしく、アタシのままで、アタシの心の望んだように頑張らなきゃ、ダメ。 ダメなんだよね、杉菜。 仁王立ちになって拳を固く握り締めながら叫ぶ藤井を、姫条はしばらく目を見開いて呆気にとられたように見上げていたが、ややあって眉を思いっきり顰めて怒ったように答える。 「ツッコミて……自分、この状態のオレにまでツッコミかますんかい!」 「そ、そりゃドツキ漫才コンビの片割れとしちゃそうしてやんのが親切でしょーが!」 「自分なぁ……」 頭を抱えるように俯いて、姫条が大げさに溜息を吐く。が、わざとらしく考えるフリをして、しばらくしてから上目遣いに藤井を見ながらニヤリと笑った。 「…………せやなぁ。自分もう少し可愛く振舞うっちゅうなら、考えてやらんこともないで?」 すると、藤井は更に真っ赤になって目を吊り上げた。 「……どーせカワイクないわよ、アタシは!」 「言っとるそばからそないでどうすんねん。そない言うとる内は、まーだまだやな」 からかうような物言いで人を食った笑いを浮かべた姫条だったが、やがて力を抜くように息を吐いた。 「……せやけど、おおきに。あーそうそう、失恋したてでみじめになっとるオニイサンに肉まんでも奢ってくれたりすると、少しはときめき度が上がると思うで?」 軽い口調でそう言うと、相方は一瞬ポカンとしたがやがて眉を思いっきり顰めた。 「……ちょっとぉ、アンタの心のスキマってその程度で埋まるワケ?なんっちゅー厚みのない心なんだか」 「こら!その言い方はあんまりやと思わへんのか?―――あーダメダメや、自分まだまだオレのモグロッチにはなれへんなぁ」 「なによ、そのモグロッチって。んなもん誰がなりたいかっつーの」 「あれ?心のスキマを埋める言うたらモグロッチしかあらへんやろ」 「あんなんとアタシを一緒にすんなーっ!」 言葉の応酬が繰り返されて、冬の風の中に消えていく。 冷たく刺すような風だけれど、時間がたてばその内風向きも変わる。運ぶ温度も変わる。 肺の中に凍みこむようなそれに慣れる頃には、季節も移り変わるはず。 暖かい風が、世界を満たしているだろう。 見上げる空には雲が立ちこめているけれど、いつしか晴れ渡った青空が望めるから。 だから、今は少しくらいこの風に揺られてみよう。 なあ、杉菜ちゃん。 ホンマ、好きやったで。 こないなどーしよーもないオレやけど、心の底から好きやったで。 『…………好きになってくれて、ありがとう』 ……こっちこそ、おおきに。 誰かをこんなに好きになること、教えてくれて。 王子が魔女の森にたどりついたそのころ。 日ごと王子の無事を祈りつづける姫のために王が選んだ話し相手の中で、特にすぐれた者がおりました。 彼は身分なども姫とつりあいがとれる隣国の青年貴族で、王子と同じくらい素晴らしい人物でした。 ただひたすら森の教会に通いつめる姫の気を晴らそうと、いろんな話をしてくれました。 舞踏会やお祭りに姫を誘っては、彼女の心の重荷を解こうとしてくれました。 それでも姫は、祈りつづけることをやめません。 「そのように思いつめなさいますな。 かの王子が旅立ったのは、彼自身の意思なのです。あなたのせいではありません」 青年貴族が言いました。 彼は王子をよく知っていて、そのひととなりを立派なものだと思っていました。 しかし、愛する姫を苦しめていることには少し怒ってもいたのです。 姫はそんな青年貴族の言葉にも、首を振って答えるばかり。 「私はあの方になにも差しあげられないのです。 私のために、明日の身をも知れぬ旅へと向かわれたあの方のために。 できるのは、ただご無事を祈ることのみ。それしかできないのでございます。 どうか、好きなようにさせてくださいませ」 自分からは何も望まない、そう噂されていた姫はかたくなに言いました。 青年貴族はそんな姫の姿にいつしか心を打たれていきました。 「王子よ、あなたが帰らねば姫君はけっして心晴れることがないだろう。 旅立たれたとき、あなたは姫に魔女のものとは違う呪いをかけてしまったのだ。 それらの呪いがすべて解けるのは、あなたが戻ったとき以外にありえないのだから」 心の中でそう呟いて、彼はみずからも王子の無事を祈るのでした。 |
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