−第26話− |
…………どれくらいそうしていたのだろう。 視覚も聴覚もかき消すような驟雨の中、二人はずっと抱きあったままだった。 通り過ぎる人の影もなく、ただ引力に従順な樹木の枝が時折耐えかねたように跳ねる。 聞こえるのは降り続く雨音だけで。 感じるのは互いの熱と鼓動だけで。 時が止まったかのように、一つになった影は長い間そこにあった。 「雨……止まないね……」 やがて葉月の胸にもたれかかったまま、杉菜がポツリと言った。 「空、さっきよりずっと明るいのに、太陽が出ない……」 「…………。太陽なんて……出なくていい……」 「……でも……」 「雨なんて、やまなくていい……」 「……珪くん?」 「このまま、世界中に雨が降りつづけて、このまま世界の終わりがきても、おまえがこうして、傍にいてくれれば、俺は……」 静かな声で葉月が言う。一言一言、心の大切な部分から引き出すように穏やかな熱と想いを込めて。 そう、こうしていられるなら。 おまえをこうして、抱きしめていられるのなら。 たとえ今この瞬間に世界が滅んでしまってもかまわない。 この腕の中にある、ただ一人の奇跡ゆえに。 すると杉菜は、そのままの姿勢で戸惑ったように答えた。 「……けど、雨が止まないと洪水の危険性があるし……。それに、農作物に与える影響も大きいと思う。疫病が発生したり……それは動物もそうだけど……」 ガクッ。 葉月にしてはこの上なく真剣に自分の気持ちを語っていただけに、彼女のセリフに相当ダメージを喰らったように脱力した。杉菜の濡れた頭に自分の顔をうずめる。 「…………バカ」 「え……間違ってはいないと思うけど……。1993年の大冷害だって、低温と日照不足による稲、特にコシヒカリのいもち病の発生が大きな原因だったし……」 思わず出た単語に、杉菜が真剣な声で反論する。 「そうだけど……今のはそういう意味合いじゃなくて」 「じゃあ、何?」 無表情+真剣な声といういつものスタンスを守りながらなおも訊ねる杉菜に、葉月は一つ小さな嘆息をして何かを言おうとした―――が、すぐに思い直したように口癖の一つを言った。 「…………やめとく」 「……やめとく?」 「その内、ちゃんと……そう、解りやすく言うから。……悪かった、いきなり抱きしめて」 そう言って、葉月は名残惜しそうに杉菜の背に回した腕を解いてその戒めを解いた。離れる瞬間、そこにあった熱が掻き失せて、冷たい風がふと通り抜ける。 それを彼女も感じたのだろうか、杉菜は無意識に葉月に触れていた指に少し力を入れた。まるで彼を放したくないかのように。 だがすぐにその力は抜けて、かわりに小さく首が振られた。 「……ううん。……ありがとう」 「……ありがとう?」 「うん。何だか……少し、軽くなった感じがしたの。自分の、中。ホッとした……っていうのかな、これって……」 「……落ち着いたのか?あれで?」 「うん」 「…………そうか」 真っ直ぐに瞳を見つめてくる杉菜から顔を逸らして、葉月が呟いた。 「それなら、いい」 彼の頬が赤いのは気のせいだろうか。 「…………あ……雨……」 「ん、ああ……弱くなってきたな」 陰鬱だった空がその重さを急速に失っていく。太陽が出るまでにはまだ少し時間がかかりそうだが、豪雨の域は完全に脱した。地面ではあちこち大きな水溜りと急流が繋がってランダムなステンドグラスを作っているが、そこに映る空気の色も、表面を叩く雨粒も、大分軽いものに戻っていた。 「これなら、買いに行かなくて良さそうだな、傘。……タオルは欲しいけど」 「うん。けど、ホテルに戻った方がいいかも。荷物になるし」 「それもそうか……。他に行きたい所ないんなら、そうするか?」 「私はべつにない。珪くんは?」 「俺もない。先生に連絡入れて、一旦戻ろう」 「うん、わかった」 それぞれが携帯で自分の担任に連絡をとって、事情を説明した。氷室などは呆れたように二人の迂闊さを注意したが、それでもちゃんと許可をくれた。自分も一度戻るかと訊かれたが、せっかくお気に入りの生徒と一緒にときめき修学旅行を楽しんでいるのに悪いと思い、杉菜はそれを断った。単に雨に濡れただけだからそれでも構わないだろう。 パラパラと名残雨のちらつく中を、葉月達は一つの傘を共有して植物園の出口に向かった。今さら傘を差したところでずぶ濡れな姿には変わりはないのだが、荷物が濡れると困るのでやむなくだ。端から見れば奇妙な光景ではあるが。 整備された石畳を歩いていると、何やら杉菜が考え込むような顔をしている。 「どうした?不思議そうな顔して」 「うん……。初めて言われたと、思って」 「初めて?」 「そう。『バカ』って。生まれて初めて、言われた」 「……ああ、さっきの……」 脱力のあまり呟いた一言。確かに杉菜に言う言葉としては様々な点で相応しくない。 「悪い言葉だって教わったから、言ったこともないし。けど……不思議と嫌じゃない」 「……そうなのか?普通、嫌な言葉だろ?『バカ』って」 「うん。…………珪くんが言ったからかもしれない」 「俺が……言ったから?」 「珪くんの言葉は、いつも落ち着くの。だからかも知れない」 さらり、と。 注意していなければ、うっかり聞き逃してしまいそうなくらいに自然な口調で杉菜が言った。 「――――――おまえ……」 「何?」 「……いや、なんでもない」 「……顔、赤いけど……もしかして、風邪引いた?」 「…………バカ」 「え?」 「いや……風邪じゃない。心配するな」 「でもさっき、交感神経が少し失調してたみたいだから……」 落ち着いた結果なのか、杉菜は完全に復調してしまっていて先程の戸惑った様子の欠片など微塵も残っていない。 (こいつって…………実は相当、鈍い……?) いや、それ以前に、さっきの出来事は夢だったんじゃないだろうか。 本当は、俺はずっと眠ったままで夢を見てるだけなんじゃないのか? だってまだ信じられない。 あんな言葉を与えられるなんて、願望の具現もいいところだ。 やっぱり、幻だったんじゃないのか? だが抱いている肩から伝わってくる体温は確かにさっきまでのものと変わりなく、自分の傍に寄り添っている。 自分の隣に。 確かに。 「…………珪くん?私、何か悪いこと、した?」 沈黙した葉月を不審に思ってか、杉菜が顔を上げて訊ねてきた。 「……いや、そうじゃない」 「そう?…………ごめんなさい」 「?どうして謝るんだ?何もしてない、おまえ」 「さっきの。私、おかしかった時。いてくれて、ありがとう。けど……迷惑、かけちゃったから」 「…………」 (……こいつ、やっぱり鈍い。どんなに俺が嬉しかったか、全然解ってない) 再度脱力したものの、何だか可笑しくなってきて葉月は吹き出した。 「珪くん?」 突然笑い出した葉月に、杉菜が目を見開いた。 「迷惑だなんて、思ってない。――――――ここにいる」 「…………え……」 「おまえの傍に、いる」 見上げる瞳に応えるように、ゆっくりと。 「おまえが言ったからじゃない。俺がそうしたいから、おまえの傍にいる。だから―――」 杉菜の肩に回した手に力を込めて、言葉を紡ぐ。 「だから―――おまえにも、俺の傍にいてほしい。いつでも……どんな時でも」 届いてくれ。 少しでもいいから。どうか、わずかでもいいから。 この想いがおまえの中に。 杉菜は、しばらく押し黙っては葉月の言葉を反芻していたが、ようやく答えが出たようにこくんと首を縦に振った。 「――――――うん」 「まったく、ビックリしちゃったよー!」 呆れと怒りをまぜこぜにした表情で、藤井は主張した。 「そりゃ、びしょぬれになったからホテルに戻って着替えるってのは聞いたよ?そのまま休んでるだろうってのも予測してたよ?けどさぁ、さすがに葉月と寄り添って眠ってんの見た時には、そりゃもうかなり!!ビックリした!」 「……雨で、あまり眠れなかったから。私も、珪くんも」 「それは解るけどさ。いくらなんでも他に誰もいない女子部屋でうら若き高校生男女が一つ布団にくるまって寝てたら、驚かないはずがないでしょーが!」 「私、べつに驚かないけど……。話してたら眠くなっただけだし。布団も、他の人の分使うの、悪いと思っただけだし」 「アンタねぇ……」 こういうコだとは解っちゃいるが、それにしたってどうなんだ。藤井はドッと疲れが出たかのように大きな大きな溜息を落とした。 豪雨が過ぎ去った後、杉菜の携帯に藤井は安否を問う連絡を入れた。何しろ藤井達もあの雨にはバッチリ降られて、濡れ鼠にはならないまでもしばらく立ち往生していたのである。昼寝している事が容易に想像される葉月・杉菜コンビなどはどうなっているか知れない。案の定濡れ鼠になったと聞いた時はその場にいた皆が「……やっぱり」と呟いたものであった。 ともあれ杉菜達二人は一足先にホテルに戻るという事を聞いて、藤井らもそれぞれ自分達の予定をちゃっちゃと消化して、様子を見に早目にホテルに帰ってきた訳だが……割り当てられている部屋に入って目にした物は、前述の通り一つの布団を共有してスヤスヤと眠る王子と姫の姿であった。 「なにやってんのアンタらーーーッッッ!!」 建物中を震わさんばかりに藤井の怒号が響き渡り、あれやこれやの大騒ぎとなった。幸い時間が早くて氷室達教師陣も戻っておらず、お説教だの正座1時間だのの刑には至らずに済んだが、ホテルの人に詫びるやら口止めを頼むやらでえらい苦労をしたのである。当の本人達はまったくもっていつものペースだったのだが。 「シャワー浴びて、暖まったから。それでつい、眠くなった。それだけ」 とは葉月の談。 「それやったら自分の部屋で寝ればええコトやないか!」 「様子、確かめたかったから。あいつもかなりずぶ濡れになったし」 それで様子を確認しに行ったらば、丁度杉菜が一組だけ出した布団の横でお茶を頂いていたので、ご相伴させてもらったところ眠くなったらしい。 「なんっていうか……、マジで心配して損した」 「な、奈津実ちゃん。そんな言い方、しない方が……」 「紺野、心にもないこと言うんじゃねえ。おまえだって顔に出てるぞ、藤井と同じ感想」 「え、ええ?!」 「私も悪いけど、同じだわ……。この二人にとっては本当に余計だったかも知れないわね」 「えぇと……何と言ったら良いんでしょう、この場合……」 「メガネくん、そういうんは正直に言うたらええんや。アホらしわってな」 それぞれが口々に言うが、はっきりいって聴いている者はいない。何故なら杉菜はタイマーがまだ鳴らないようで熟睡中だし、葉月は葉月で馬耳東風で杉菜を見つめたまま。冒頭の杉菜と藤井の会話は、杉菜が目を覚ましてから交わされたものである。 「あーもうアレだわ。アンタたち二人っきりにしとくとこっちの心臓に悪い!あさっての自由行動はアタシたちも一緒に付いてくからね!」 何を言っても効果がない二人に業を煮やして藤井がそう宣言すると、葉月が見るからに迷惑そうな顔をした。 「……いらない」 「いらなくたって知るもんですか。言葉じゃ解んないんなら行動で示すまでよ。アンタたちには誰かしら常識をわきまえた人間が付いてないとダメ!」 「オレも同意見や。まったく、しっかりせんとアカン奴がこんなボケボケやったら、杉菜ちゃんがどんなトラブルに巻き込まれても文句言えへんで。自分らにはキチンとしたフォローができる人材がおらんと何しでかすかわからんわ、ホンマ」 ニィやんネェやんが揃って言うと、他の面々も強く頷く。こうして自由行動2日目は確実にお邪魔虫にひっつかれる事が確定して、葉月は完全に憮然とした表情になった。しかも姫君の方は異論もないようで、あっさり「うん、わかった」という始末。哀れ、葉月。 「ハイ、それじゃあ話もまとまったところで解散!他の子たちもぽつぽつ戻って来たみたいだし、時間も時間だから、杉菜はごはんを食べに行ってきなよ。他の者は各自部屋に戻って夕飯開始までおとなしく待機のコト!」 藤井が一本締めをして、各人を促す。 「悪かったな……」 「え……?」 部屋を出ようとする杉菜に、葉月は囁くように謝った。 「今の。それと……結局、2ヵ所しかまわれなかったから」 「ううん、珪くんのせいじゃないし。ただ……」 「ただ?」 「うん……最近珪くん、忙しそうだったから。ゆっくり休めなくて、残念だったね……」 杉菜がそう言うと、葉月は微笑む。 「…………平気。休めた、充分。おまえのおかげ」 「……そうなの?」 「ああ。……サンキュ」 「……どう、いたしまして……?」 最後のクエスチョンマークに、葉月が苦笑する。 「バカ、そこは断定でいいんだ。疑問形じゃなくて」 「……じゃあ……どういたしまして」 「そう。―――それじゃ、また明日な。おやすみ」 「……うん、お休みなさい」 「ハイハイ、甘々会話はそこまで〜っ!杉菜は食事、葉月は部屋!あ、杉菜。アタシ売店に用があるから途中まで一緒行こ」 入口付近で繰り広げられる糖度高めな雰囲気をばっさり切り捨てて、藤井が杉菜の腕を取って歩き出した。有沢や紺野もそれぞれ自室に戻るために部屋を出た。 「まったく……自分案外他人の目を気にせんとこあるなぁ。まさかオレに見せつけてんのとちゃうか?」 最後になった姫条がジト目で葉月に話しかけた。こういう話題に極めて疎い鈴鹿は口を挟みはしないものの非常に面倒くさそうな視線を二人に投げかけるだけだ。 「べつに……けど、結果的にそうなるか?」 「シラッとした顔してよう言うわ。…………にしても、自分、ずいぶんとサッパリした顔しとるやないか」 覗きこむように葉月の顔を観察して、姫条が面白くもなさそうに言った。 「サッパリ……か。そうだな。……決めたから」 「決めた?」 「ああ」 「何をや?」 「おまえに言う必要があるのか?」 「……ええ度胸やな、ホンマに。ま、オレかてそういうところはあるし、深く詮索するんはやめとくわ。けど自分のことやから、どうせ杉菜ちゃんがらみなんやろ?」 それさえ判れば充分。葉月が杉菜を傷つけない事が確かなら、姫条はそれで納得できる。 「……ああ」 「フン。……それはそれとして訊きたいんやけど、自分、二人っきりで杉菜ちゃんに不埒なことせぇへんかったやろうな?」 「不埒って……姫条よりは葉月の方がまだ信用おけんじゃねえか?」 「和馬!こういう時だけそういうツッコミするんはエチケット違反やで!」 「だってよ、事実だろうが」 「カァー!ホンマに自分は普段大ボケかましとるくせにごくごくまれに変に鋭くツッコミ入れるんやからなぁ……って、そんなことはどうでもええねん。葉月!ホンマに杉菜ちゃんに何にもせぇへんかったやろうな!?」 「べつに……大したこと、してない。…………あ……」 ふと思い出したように、葉月が指を顎に当てて考え込んだ。 「なんや?なんかあったんか?」 「どうしたんだよ、おい」 端正な口元から、ほんの少し時間を置いて出て来たのは次のセリフ。 「いや……あいつ…………意外と胸、あったなって」 駆動停止(×2)。 ピキーン、と音を立てるが如く固まった補習コンビを不思議そうに見て、葉月はそのままスタスタと自分の部屋に戻って行った。残されたのはしばしリセット→エラーチェック中の男二人。 「な…………」 先に再起動を果たしたのは姫条。しばしタイムラグが生じたものの、何とかまともに起動出来たらしい。我に帰って第一声を上げた。 「なにしとったんやオノレらーーーーーーッッッ!!!」 建物中を震わさんばかりに姫条の怒号が響き渡り、あれやこれやの大騒ぎとなった。不幸にも既に戻って来ていた氷室達教師陣に駆けつけられ、お説教と正座1時間の罰(+やはり夕食抜き)が与えられ、姫条とそして再起動に時間がかかりその場に立ちすくんでいたままの鈴鹿の2人はまたもドツキ小突きの噛みつき合いを繰り広げる事となった。 「土産か……。おまえ、何か買うって言ってなかったか?」 土産物屋が建ち並ぶ小路を練り歩きながら、葉月は杉菜に問いかけた。 その後も順調に日程は進み、自由行動2日目もそれなりに楽しく過ごしていた。二人だけではなく他の友人連も一緒の為、周りの喧騒に負けないくらいに賑やかな小集団となっていた。 葉月としては、予告通り藤井らもしっかり付いて来ているので不本意といえば不本意だが、杉菜と二人っきりではない点を除けば何となく悪くもない、そんな気分だ。 (不思議と言えば不思議だな……) 杉菜がいなければ、こんなふうにクラスメイト達と出歩くなんて事もなかった。かつては避けていたそれが、どうしてか嫌ではなくなっている―――そんな自分がいるのは我ながら不思議でもあった。 「うん。清水焼の茶碗、お母さんに頼まれてるの。いつも買い付ける馴染みのお店があるから、そこで」 「あ〜、あの茶道の先生もやってるキレイなお母さんね。あ、じゃあもしかして、杉菜って結構京都来てんの?」 「小さい頃にときどき。最近はそうでもない」 「なるほど、だから観光地の歴史や背景にも詳しかったんですね。納得しました」 「あら、じゃあ今回の旅行はあまり新鮮味がなかったんじゃない?」 「べつに。視点を変えれば、変わってるものは結構あるし」 「そっかぁ、それもそうだよね。―――あ、それじゃ、先にそのお店行こうよ。そんなに遠くないんだよね?」 「うん、こっち」 ぞろぞろと連れ立って古都の街角を歩く。通りの店を冷やかしつつなのでその歩みはゆっくりだ。 「ったくおっせえぞ、おまえら!もう少しさっさと歩けよな」 「ご、ごめんね鈴鹿くん」 「あのねー、土産もの選びって言ったら、旅行中の楽しみベスト5に入る大事なイベントだよ?だいたいアンタだってジャンケンに負けて部員の土産買う係になったらしいじゃん。なに買うか決めたわけ?」 「う……そうなんだよなぁ。土産っつってもなに買ってきゃいいってんだよ。おい姫条、おまえなんかいい案ねえか?」 「人に頼るなっちゅーねん。俺は店長にツケトドケするためのグッドなブツを探索中なんや。自分のことやら気にかけてられるかい」 「ツケトドケって、あなたね……」 「ま、まあまあ有沢さん。やり方はどうあれ、姫条くんも色々と切実なんですよ……多分」 「そういえば……珪くんは何か買うの?」 「そうだな…………孫の手、とか?」 「……そらまたずいぶんシブイお土産やな」 「……親父用」 「あ〜なるほどね。自分の分は、なにも買わないワケ?」 「俺は……べつに」 「ちょっとちょっとぉ、テンション低いよ?せっかく来たんだから、なにか買っていきなってー!」 「そうですよ葉月くん。せっかくみんなでこうやって来れた記念なんですし、小物の一つでも」 「そうか……?じゃあ、バスの中用にアイマスクでも買うか……」 「……マジか?」 「京都まで来て、アイマスクって……そりゃウケは取れるだろうけどさ。……ん?どしたの杉菜。何か面白そうなものでもあった?」 「ん……アイマスクって聞こえたから。そこに西陣織のが置いてあったの。いい織りだなって、思って」 「西陣織ってアンタ……」 「こらまたシブイな……。―――って、ひょっとして買うんか、葉月?!」 「……記念にはなるだろ」 「……本気かよ」 「愛の力は偉大だねぇ……」 あーでもないこーでもないと雑談を交わしながら、若者達は一つ二つと荷物を増やしては買物に興じる。こういう時間は一瞬で終わってしまうからこそ、今を愉しむに限るもの。 東雲家の馴染みの店とやらで茶碗を購入した後は、手近な御茶処で休んでみたりそぞろに裏道を探索してみたり女性陣が人力車のナイスガイに執拗に声をかけられてみたりと、楽しく慌しく時間を潰す。そうこうしている内に日は暮れて、今日という日も終わる。ホテルに戻った生徒達の抱えた荷物の多さが、それぞれの楽しい時間を形にしたようだ。 最後の晩餐ならぬ旅行最後の夜、入浴後にお菓子を持ち込んでは部屋を行き来して、各人はおしゃべりに興じていた。当然ながら杉菜は既に押入れで熟睡中である。 「しっかしアレには参ったね。葉月の『売約済み』宣言!どこまで本気かと思っちゃった」 E組の女子部屋にお邪魔している藤井がしみじみと昼間の感想を述べた。 「うーん……葉月くんのことだから、9割方は本気なんじゃないかなぁ?」 「相手の男の人、すごく驚いた顔してたわね。まぁ……目の前でいきなりお姫様抱っこを披露されれば無理もないけど」 たまたま男性陣としばし別行動を取っていた時、人力車の兄ちゃん'sに仕事以外の意味でも声をかけられた杉菜達であったが、途中眠気に耐え切れなくなったらしい杉菜がいつものようにぶっ倒れ、幸いとばかりに彼らが手を貸そうとしたところ、颯爽と現れて前述のセリフを決めたのが葉月その人であった。挙句当然のように眠った杉菜を姫抱っこしてはブリザードな視線を彼らに投げかけて去って行った。無論、その間他の女性陣は完全無視である。 「あはは、それ見たかったなぁ。何はともあれ絵にはなるもんねぇ」 「言えるよね。どうせ東雲さんにはかなわないって解ってるもん、だったら特等席で観てやりたいよねー。奈津実、あんたそれデジカメに撮らなかったの?」 「そりゃもう撮らないワケないじゃん!けどね〜、自分で楽しむ以外ないしね、コレ」 「え、売らないの?結構高値つくと思うよ?はば学のプリンスとプリンセスのツーショットだもん」 「んー、そうなんだけどね。ちょっと今はあんまり杉菜の情報流出させたくないんだよね」 「あ、あれでしょ?葉月王子のファンの件。……そういや私聞いたんだけどさ、杉菜姫の写真って結構裏ルートで出回ってるじゃない?それでさ、なんかここんとこ姫の写真買ってる他校の女連中がいるらしいのよね」 「他校の女ぁ?」 「でも別におかしくないんじゃない?わたしだって去年のメイド服写真、大事に持ってるよ?あれって鈴木ちゃんが出したオフィシャルの注文だけで軽く3桁行ったっていうじゃない」 「そうなんだけど。でもそれがさ、バイヤーの話だと、そういう……なんていうの?好意的とはちょっと違うんじゃないかっていう感触の子たちだったらしいんだよねぇ。それもジワジワっとじゃなくて、ここにきて急激に取り引き量が増えたっていうか……」 「……ちょっと、それ、なんかヤバくない?」 「奈津実……」 「奈津実ちゃん……」 「…………そっか。やっぱそこまで来ちゃったか……」 一同がシーンと押し黙って、藤井に注目する。 「やっぱってことは……やっぱりそういうこと?」 「だと思う。ますます杉菜から目、離せないな。眠っちゃった時とかに来られると、対処できないもんね、あのコ」 藤井は改めて決意を込めて、皆に強く頷いた。 修学旅行は最終日を迎え、往路と同じく長き苦痛の果てに生徒達を乗せたバスははばたき市へと戻って来た。とはいってもほとんどの生徒は窮屈さも忘れて夢の世界に浸っていたようで、行きほど文句は多くなかったようだ。 「それじゃ杉菜ちゃん、またあさって学校でなー!」 「葉月ぃー、しかと杉菜のこと送ってくのよー!?そんじゃね、杉菜〜!」 ブンブンと手を振る姫条らに応えるように軽く手をヒラヒラ振って、杉菜は自分の荷物を持つ。 「少ないな、おまえの荷物」 他の者はパンパンに詰まって下手をするとバッグの金具が壊れそうなほどの荷物を抱え持っているのだが、杉菜の荷物は行きと全く変わらない。大体にして行きの時も非常に少なかった。せいぜい2泊くらいの貨物量だ。 「お土産は先に送っちゃったし……足りない物は、向こうで買えばいいと思ったし。けど、珪くんも少ないでしょ?」 「まあ……あんまり物持ち歩くの、好きじゃないから」 その通りで葉月の荷物も杉菜の物と大差ない。1泊分のインナーが増えた程度。 「貸せよ、持ってやる」 葉月が手を差し出すと、杉菜は一瞬考えたがすぐに首を振る。 「ううん、重くないし、平気。それに珪くん、疲れてるのに送ってくれるから。それだけで、充分。ありがとう」 こういう時の杉菜は割と頑固だ。なので葉月は強いて荷物を奪おうとはしないで、笑って歩き出す。帰る方向がほとんど同じなので、否応なしに送迎係と相成った。否というはずもないが。 「どうする?うちでご飯食べていく?」 「……いや、さすがに疲れたし、帰って寝る。ああ、その前にあいつらの様子、見に行った方がいいかな……」 あいつら、とは校舎裏の猫一家の事。一応園芸部の猫マニア部員にも頼んではおいたがどんなものかと気にかかった。 「私も行こうか……?」 「いや、今日はいい。月曜の昼でも、あいつら安心するだろ」 「……うん、わかった」 頷いた杉菜の髪が揺れる。数日前、間近にあった柔かな波。あの時は雨に濡れて重たげだったそれは、今では軽やかに風に吹かれて踊っている。 「……どうかした?笑ってる、珪くん」 「ああ……。綺麗だな、と思って」 「綺麗?…………あ……空?」 夕刻が近づいてきたのか、東の方から淡いライラック色の天幕がゆるりと青空に溶け込んでくる。絶妙なグラデーションが空を支配する、その前のわずかな一瞬。明日の太陽を予感させる、光の満ちる場所。 「……そうだな。空、綺麗だ」 空も、おまえも。 「……そうだね。空……綺麗ね」 見上げて、杉菜も同じ感想を呟く。それを聴いて、葉月は思わず彼女の顔を見た。 (……以前、似たような事、話した……。けど、あの時は……) 何か大切な事を掴めそうな、そんな気分がよぎった時、二人は東雲家の門前へと辿り着いていた。それと同時に葉月の思考も中断された。 「それじゃ珪くん、私ここで……。送ってくれて、ありがとう」 「ああ。……杉菜」 「何?」 「明日……また、あの場所で、あの時間。かまわないか?」 「え?……私はべつに、かまわないけど……珪くん、お仕事は?」 「明日はないから。久しぶりに、おまえのバイオリン聴きたい」 葉月の言葉に、杉菜はややあってしっかりと頷いた。 「……うん、わかった。それじゃ、また明日」 「ああ、また明日」 微笑んで、玄関へと入っていく杉菜を見送る。 行かないで、と言った。ここにいて、と言ってくれた。 たとえそれが知らない場所で独りきりにされる事に対する忌避感から出た言葉であっても、それでもかまわない。 おまえが望むなら、俺はおまえの傍にいる。 他の全てを失ったって、おまえがわずかでも俺を必要だというのなら、何が惜しいって言うんだ。 守ってみせる。 おまえを、おまえを傷つけようとするすべてのものから。 だから、傍にいさせて欲しい。 いつでも、どんな時でも。 「おっかえリー、ねえちゃん!」 「おかえりなさい、杉菜」 家に入ると、尽と桜が杉菜を笑顔で出迎えた。お土産各種は一足先に届いているが、やはり本人が帰ってくると嬉しさもひとしおというものだ。 「ただいま、お母さん、尽。……お父さんは?」 「友だちの家に行ってるよ。もう少ししたら帰ってくるんじゃないかなぁ。それよりねえちゃん、旅行楽しかった?」 尽が興味半分、お約束半分で訊いた。すると杉菜はやや考え込むような仕種をした。 「旅行……どう、なんだろう……。そうなの、かな……」 その常とは違う表現に、尽は瞬きをして目を見開いた。 「……ねえちゃん……」 「何?どうかした、尽?」 「え、いや、だっていつもは『べつに、ふつうだった』って言うじゃん。今みたいに言いよどむなんてこと、なかったからさ」 「……そう、だったっけ?」 「そうだよ。……なんかあったの?行く前と、ちょっと違う感じがする」 「違う感じ……?」 「うん。うまく言えないんだけど……なんていうか、どこか……う〜んと……」 本当にうまく表現できないらしい尽を見て、桜が笑った。 「尽、杉菜も疲れてるんだから、今日は早く休ませてあげなさい」 「あ……うん、ゴメンねえちゃん。――そうだ!ねえちゃん宛ての郵便物とか、机の上に置いといたから。中学の時の友だちとかからも手紙来てたよ。相変わらずモテモテだな、さっすがオレのねえちゃん。いまどきメールじゃなくて手紙ってところがニクイよな」 「そう?でもわかった、ありがとう。それじゃ、部屋に行って着替えてくるね」 そう言って自室に戻り、杉菜は旅行鞄を机の脇に置いた。机の上には尽の言ったとおり、何通かの郵便物がちょこんと乗っていた。幾つかのダイレクトメールや知人からの手紙や葉書、それらにざっと目を通して、杉菜はふと気がついた。 差出人の住所も名前も書いていない、白の封書。それが3通ほどあった。消印ははばたき市以外の場所だが、皆バラバラだ。知人が住んでいる地域でもなく、杉菜は首をかしげた。 「…………?」 重さは大した事がない。軽く振ってみたが、紙以外は入ってないようだ。ペーパーナイフで口を開き、中身を取り出そうとして―――ぱさり、と零れ落ちたそれが机の上に折り重なった。 「これ…………」 細かく千切られた紙片は、杉菜の写真。他の二通も開けてみたが、同様に破られた彼女の写真が入っていた。それも顔の部分を真っ二つにするわざとらしさだ。 そして、それらの中にくしゃくしゃの紙が混ざっていた。そこに踊るプリンターで印刷された文字は、ほんの短い単語の羅列。 消えろ。邪魔。ウザイ。いなくなれ。――――死ね。 短さと単純さゆえに悪意が凝縮されたその単語を、杉菜はジッと見つめていた。机に散らばった紙片はそのまま重みを増すように積もったまま。 時計の秒針が大きく部屋に響く。 それが何度か回った後、やがて杉菜はポツリと呟いた。 「…………MS明朝体……」 ……尽や藤井がいたら間違いなくツッコんでいるだろうセリフを紡いで、彼女はただ目の前の紙面に視線を注いでいた。 |
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