−第25話− |
修学旅行3日目の朝は、カラリと晴れ渡った青空が昼間の暑さを予感させるように広がっていた。 自由行動日として設けられた今日であるが、本来行動を共にするべき班員はホテルを出た段階で散り散りになり、気の合う仲間で徒党を組んでいる。最寄のバス停で各自目的地へと通じるバスに乗り込んでは楽しそうに各地へ散っていく様は、昨日の団体行動時より遥かに生き生きとして、まったくもって青春謳歌まっしぐらな表情だ。 そして当然ながら、お馴染みGSメイトもご多聞に漏れなかった。 「そんじゃ杉菜、またあとでね!なんかあったらすぐに連絡するんだよ!?いつでもどこでも駆けつけるからねーッ!」 「うん、わかった。―――それじゃ」 念には念を押すように言う藤井に別れを告げて、杉菜は葉月と連れ立ってバスに乗り込んだ。ブンブンと手を振って見送る藤井に隣にいた有沢が苦笑する。 「本当に心配性ね、奈津実は」 「ん〜、葉月がいるから大丈夫だってのはわかってんだけどね。ただあの二人、一度寝るとなかなか起きないじゃん?その隙になんかされたりしないだろーなってこと、つい考えちゃうんだよねぇ」 「確かにそれは言えますね……」 「でも葉月くん、なんだかとても嬉しそうだったね。やっぱりここ最近、杉菜ちゃんと一緒に外を出歩いたりしてなかったからかな」 「だろーね。アイツって意外と解りやすいっていうか、結構感情ストレートだよね。距離置いてるのだって、事情知ってるとああなるほど、ってすぐにわかるもん」 「本当に優しい人ですよね、葉月くん」 守村がほんわかした笑顔で言った。自分も他者から『優しい』と言われることは多い。だがそれは本当の優しさとは違う、そう思っている。ただ他人との衝突を避けたいから――もちろんそれは大切だが、時としてぶつかり合わなければならない時もそれを避けようとし続ける為の、一種の自己防衛手段。優柔不断に基づくもので、偽善と言えなくもない代物だと、そう自分では認識している。 だが葉月は違った。一見優しさとは正反対の場所にありながら、その心根は優しい。自分が認めた相手に対しては惜しみなくその持てる全てを注ぎ込んでも構わない、そんな情の深さがある。いっそかえって脆く映るほどに。 杉菜というファクターが加わった事で知った葉月の本当の姿に、守村は強く安堵したものだ。枯れた植物のようだった葉月が、実は瑞々しい豊かな心を隠し持っていた事。それは葉月に友情のようなものを感じていた守村にとって何故か嬉しい事実だったのだ。……それは勿論、軽い羨望の気持ちもあるけれど。 「優しいのか、あれ?東雲以外には大して変わんねえ気がするんだけどよ」 「杉菜ちゃんに近づく男は完全に敵視しとるで、ヤツは。友だちやろうとおかまいなしや、あきらめい」 「女友だちも似たようなもんよ。でも杉菜を守ってる限りはそうそう引っぺがせもしないでしょ。今は少しでも保険かけときたいだろうからね」 藤井がそう言うと、皆が一瞬押し黙った。 「……あの……やっぱりその件、まだ続いてるんですか?」 守村がおずおずと言うと、一番事情に通じている藤井と姫条が頷いた。 「ああ。『はば学のシノノメ』のこと調べとる連中はまだおるらしいで。理事長のオッサンにそれとな〜く訊いてみたけど、ウチの学校で『シノノメ』いうたら杉菜ちゃんにD組のシノちゃん、あとは3年の男子と1年の男子・女子に1人ずつや。『葉月に恋人が居るらしい』っちゅう噂自体が流れ始めたんは去年の暮れ頃からやから、1年の子については時期がずれる。シノちゃんは一度絡まれかけて否定しとるから、これまた除外やな。となると、残りは杉菜ちゃん1人や。ほとんど確定しとる思て間違いないやろうな」 「それとやっぱりはばたき市の人間じゃないみたい。アルカードのマスターに訊いてみたけど、シノが声かけられたっていってた連中、土日しか来たことないって。高校生くらいって言ってたし、学校があるから平日は無理なんだよ、きっと。あの喫茶店ってよく葉月のファンがたむろってるじゃん?マナーが悪いの増えたからって、マスターも覚えてたんだって」 真顔で言う二人に、その場にいた他の面々は溜息を吐く。 「ったく……バカバカしいったらないぜ。勝手に勘違いしたあげく逆恨みってのはよ。これだから女ってのは……」 「アホゥ!女かていろんな子がおるやろ。ひとくくりにしたらここにいる珠美ちゃんや有沢ちゃんに失礼やで!?」 「ちょっと姫条、そこでどうしてアタシの名前が抜けてんのよ!」 藤井などよりよっぽど鈴鹿の偏見に満ちたセリフが該当している2人の名前だけが出て、名指しされた女性陣は黙然とする。ゲームをやっているとこの二人のはまさに勘違い&逆恨みだろうと思うのは筆者だけではあるまい。 「あ、あの、今はそういうことを言っている場合では……」 最後の良心こと守村が尖った雰囲気を執り成すかのように話を元に戻そうとする。わたわたとした声を聞いて、姫条達も我に帰って咳払いをした。 「コホン……ま、それはともかく。こういう事態が続いとるし、それぞれ可能な限り杉菜ちゃんのガードに回っとった方がええやろな。せめてヤバイ形で吹きださないことが判るまではな」 「う、うん」 「解ってるわ。きら高の知人も協力して情報を教えてくれるって言ってたし。……私じゃ役に立たないかも知れないけど」 「僕もです……。いざという時力になれるか……あ、嫌と言うわけじゃないんですけど!ただ、非力な僕に彼女が守りきれるかどうか、不安で……」 「んなことないって!大勢で絡んでくる連中ってのは、相手が一人っきりじゃなきゃ狙ってこないもんなんだから。自分たちが絶対的に有利だって思わなきゃ、動けないんだ。だから、傍にいるだけでも充分牽制できるよ」 「そういうもんなのか?さすがに女に手ェ上げるわけにはいかねえから、守るっつってもどうしたもんかって思ってたんだけどよ」 「そういうもんなの。そういう汚いところがあんの、女にはね」 杉菜のように汚いところがあるのかすら判らない、そんな稀有な存在もいるけれど、多かれ少なかれ女の中にはそういう面が潜んでいるのは事実だ(勿論男にもあるが)。藤井は自嘲の笑みを浮かべながら俯いた拍子に落ちてきた前髪をかき上げた。 「ムカツクけど須藤にも話して手伝ってもらう。アイツのボディガード、頼りになるしね。三原くんは微妙だけど、彼は彼なりのやり方でやり過ごしてくれる部分はありそうだし、一応伝えとく」 鹿苑寺あたりでゴールドのマイホームが云々と謳っているだろう芸術ペアに思いを飛ばしてから、藤井は葉月達の乗ったバスが消えた方向を見る。 「なんとか穏やかに済んでくれればいいんだけどね……」 葉月が杉菜との距離を保っている今の内に沈静化してくれれば。せめて『葉月珪の彼女』ではなく『東雲杉菜』を理解できるだけの余裕があってくれれば。 けれど、引き絞られようとしている網は未だ綻びを見せない。 「…………暑いなぁ」 9月半ばにもかかわらずジリジリと地上を焦がす太陽が、千年の都を覆うコンクリートに陽炎を立ち昇らせていた。 「…………暑いな」 頭上に広がる青空を目を細めて見上げながら、葉月がポツリと言った。 「そう?盆地だし、残暑が厳しいのかな」 「かもな。強い日差しは嫌いじゃないけど、今日は木陰で休んだ方がいいな」 「うん。……あっちの方、人も少なくてゆっくり休めそう。行ってみる?」 「ああ」 葉月と杉菜は皆と別れてから一旦上賀茂神社を訪れた後、鴨川沿いの半木の道をゆるゆると歩いて当初の予定通り府立植物園に来ていた。温室を巡り目的のブツをじっくり観察した後、園内で早目の昼食を摂った後はしばし休息、という予定である。今はその昼食を摂るところ。 ちなみに昼食だが、杉菜がいつの間にか京料理の弁当をしっかりと予約していたので、途中それをゲットしての自由行動だ。葉月が食にこだわらない分(偏食はあるが)、杉菜がそういう方面のフォローをしているとも言える。何だかんだいって本能には忠実な娘である。 「けど、標本だと、やっぱり印象が違うのね……」 「そうだな……。けど、あれが道端に転がってたら、やっぱり驚くと思う」 「……かな」 「模型見たろ?あの大きさであの色彩だし、いきなり現れたら一瞬なんだって思うだろ?」 「……うん、そうかも。……ただ、思ったんだけど……」 「ん?」 「どうせ複製を作るなら、臭気も復元してほしかったな……多分、ブチル酸あたりを原料にすれば、できないことはないと思うけど……」 「……それ、入ってくる奴困るだろ……臭くて」 話題に上っているのはかのラフレシア。温室の入口にあった標本と模型を見て当座の目的は果たした訳だが、姫君には少々物足りなかったらしい。観られたのは良いのだが、それはそれとして完璧を期したいというところか。妙なところで妙なこだわりがあるようだ。どうでもいいがブチル酸とは汗や腐敗物などに含まれる悪臭の成分、という事で簡単に理解しておこう(←間違ってたらツッコミ可)。 「ウェルウィッチア・ミラビリスも観られたから、いいけど」 「ウェル……ああ、『奇想天外』か。すごいよな、あれも。あんなヘンな姿してるのに、上手く育てば1,000年以上も生きてられるんだから」 「うん、すごい。……来てよかった。他にも観てみたいものはあるけど、それはいつか現地に行って観てみよう」 「他に観てみたいもの?」 「スマトラオオコンニャクの、開花してるとこ」 「…………」 世界で一番背の高い花に思いを馳せる杉菜のセリフに、葉月は何とも複雑な表情と沈黙で答えた。3mはあろうかというかの巨大花(腐敗臭付き)の前に立つ杉菜を想像して、あまりの似合わなさに葉月は内心頭を押さえる。時々彼女の興味の対象は理解の範疇を超える。いや、むしろこれもお約束か。 温室を出て園内をゆったりと歩きながら、取りとめもない話を続ける。平日ゆえに人出はあっても混雑には程遠く、修学旅行生もわざわざ京都に来てまで植物園でもないのだろう、ちらほら歩いている程度だ。守村や有沢などはもしかしたら来ているかも知れないが、今のところ遭遇するには至っていない。 穏やかな時間、穏やかな場所。 ここ数ヶ月色々と張り詰めていたものがあった為か、葉月にとってこの時間は非常に寛げるものだった。人の目を気にすることなく外を歩くのも、杉菜と二人でこうやって話している事も何だか久しぶりのような気がする。 そんな葉月の気分を慮っているのか、杉菜もその歩みをゆっくりとしたものに変えている。それがまた葉月には嬉しかった。 休むにほどよい場所を見つけ、弁当を広げて昼食を摂る。さすが杉菜の選ぶ店の弁当だけあって極上の味だ。お互い土産品等に金をかける予定が大してないので、食事の予算に関してはかなり余裕がある。こういう贅沢も可能という訳だ。 「……ふぅ……ごちそうさま」 例の如くあっさり食べ終わって手を合わせる杉菜を、葉月は苦笑して見遣った。 「今さらだけど、本当に食べるの早いよな、おまえ」 「そう……みたい。自分では、ちゃんと味わって食べてるつもりなんだけど……そう、見えないのかな……?」 弁当の容器を袋に入れながら、少し困ったように杉菜が答える。 「べつに、悪いって言ってるわけじゃない。ギャップに驚くだけだ」 「ギャップ?」 「そう。何となくゆっくり食べるイメージあったから、おまえって」 「そうなの?」 「ああ。あくまでイメージだから、それが絶対ってことはないけど。大分慣れたし。逆に、ゆっくり食べてる方が今は違和感あるな」 「……そう?」 「そう」 頷きながら箸を置き、空になった容器を同じように袋に入れて口を閉じる。杉菜には到底敵わないが、葉月も葉月で早食いのタチだ。1人で食事をする時間が多かったから、何となくそういう習慣になってしまった。杉菜といる時はその寝顔に見惚れてゆっくりペースになるようだが。 食事を摂ったとなれば、次は昼寝の時間。木漏れ日の差す梢の下で、眠そうな目を擦る葉月を見て杉菜が訊ねた。 「……昨夜、あんまり寝てないの?朝からずっと眠そう」 「ん、……ああ。部屋で枕投げ始まって、寝るとこなくて。他の所で寝ようかと思ったけど、巻き込まれた」 「そういえば、志穂がそんなこと言ってた気が……うるさくて仕方なかったって」 「そう。それで、バタバタして……。後悔した、俺も押入れ、確保しておけばよかったって」 「じゃあ、今日はそうしたら?……あ、駄目かな。身長と間口……」 「……引っかかるな、確実に」 お互いに悩み顔で考え込む。普通の押入れの間口寸法が180p、葉月の身長も同サイズ。入る事は可能だが、足も伸ばせずファラオの棺桶状態で収まらなければならない計算だ。姿勢を変えればいいとはいっても限度があるだろう。 「それじゃ、どうしよう……」 「ホテルに戻ったら、先に適当な場所探す。それに、明日はバス移動が多いし、その時間眠っていればいい。昨日の分は、ここで寝ればいいし。心配するな」 「そう?なら、いいけど……」 「おまえこそ、ちゃんと休めてるか?団体行動の日とか、辛くないか?」 「私?……うん、大丈夫。移動で寝てるし、足りない時は氷室先生に断ってバスで寝てるから。昨日も清水寺の後は眠ってたし」 それでは修学旅行の意味がないのでは……と思うのだが、如何せん彼女の体質と性格ゆえ仕方ないだろう。そのたびに行ったり来たりで様子を見に来る氷室にとってはいい迷惑かも知れないが。 「そうか」 「そう。―――あ……私もそろそろ休んでいい?」 時計をチラリと見て、杉菜は葉月に訊いた。最近は1年の頃のようにマイペースでとっとと眠る事が少ない。葉月が断る事はありえないが、必ず訊ねてから眠るようになった。これは葉月しか知らない、かなり大きな変化だった。 「ああ、もちろん。おやすみ。時間になったら起こしてくれ」 「わかった。それじゃ、お休みなさい。……あ、珪くん」 睡眠補給の為に背後の木の幹に背中をもたれ掛けた杉菜が、目を閉じる瞬間何かに気がついたように再び葉月を見た。 「なんだ?」 「膝、使う?」 「膝?……おまえの?」 「うん。珪くん、眠る時何かに寄りかかることが多いけど、それじゃ辛いだろうから、姿勢」 「………悪いだろ、それじゃ。その……痺れるし、おまえだって辛いだろ、姿勢」 「べつに平気。足痺れたこと、ないし。嫌ならいいけど」 「………………」 あまりにも普通に言ってくれるので、しばしどうしたものかと真剣に悩む。が、すぐに答えが出た。 「……それじゃ、ありがたく」 どうやら本能が理性に勝ったらしい。少し視線を逸らして照れたように言った。 「うん」 去年も杉菜の膝枕で眠った事があったが、あれは記憶がない状態での不可抗力だった。何でも眠った葉月の肩に杉菜が軽く手をかけたところ、そのまますとんと体が滑り落ちてきたのだとか。無意識に膝に頭を乗せてるあたりさすがは葉月、天然エロと囁かれるだけの事はある。 だが今回は眠いとはいえ覚醒している。そして何より心理状態が大きく違う。照れくさいながらも多大な幸運を得た気分で横たわると、確かに木に寄りかかったりするより全然楽だった。物理的にも、精神的にも。 「……俺が言うのもなんだけど……おまえ、他の奴にこんなことするなよ」 横になると同時に訪れてきた強烈な眠気に耐えながら、葉月は杉菜の顔を見上げて少し憮然とした顔で言った。 「こんなこと?」 「だから、……膝枕」 「1人しかしたことないけど。珪くん以外には」 「……誰だ?その『俺以外の1人』って」 付け加えられた文節が気になって、眉を顰めて訊ねる。が、答えは明快。 「尽」 「…………それなら、百歩……いや千歩譲って許す。けど……」 「けど?」 「もうするなよ」 「……どうして?」 「どうしても」 「…………?」 首をかしげたままの杉菜に答えないでいると、彼女はふと身じろぎをした。 「……どうした?」 「眩しくない?」 木漏れ日が落ちかかる顔に手をかざして杉菜が訊いた。とろんとする瞼を引き止めるように開けて、彼女に答える。 「平気……。…………ああ、綺麗だな……」 「え?」 「おまえの手。光が当たって、白を増してる気がする。光ってるように、見える」 包み込むような、何よりも清らかな白い光に。 「手……私の?」 「ああ……俺、好きなんだ……この手……」 この手が示す、その光が。 半分以上夢の世界に捕われた状態で、葉月は片腕を上げて杉菜の手をそっと握る。握ったままゆっくりと自分の胸元に下ろして、その動作と共に眠りに落ちていった。 「…………」 間もなく聞こえてきた葉月の寝息に、杉菜は聴き入るように呼吸を合わせる。彼の深い呼吸と同じリズムで、深く息を吸って、吐き出して。それを繰り返しながら杉菜は思った。 (…………これは、何?) この感じは、何? 不思議な感じが、する。 あたたかい。 いつも――そう、いつだって、あなたが起こす『何か』。 どんな時だって、感じているはずなのに、どこか違う。 あたたかい。 どんなものよりも、あたたかい。 私の――――中が。 「気持ち良さそう…………」 見下ろしたその先で穏やかな顔で眠っている葉月を見て、小さく呟く。 いつもの大人びた、見守るような顔とは違う、子供のようにあどけない顔。時折風に揺られてさざ波のように揺れる柔らかい髪。本当に、本当に気持ち良さそうで。見ていて――――なる。 ここにいる、たしかなあたたかさ。 ここにある、たしかなあたたかさ。 これは、なに? ―――……春の陽だまりとか、校舎裏の、あいつらの体温とか。そういう暖かさが、自分の中からゆったりと立ち昇ってくる。体中が、その温もりで満たされていく。……そんな感じ、かな。外からじゃ、なくて。 「………………嬉しい……?」 広がってくる温もり。立ち昇ってくる暖かさ。 それは確かに外からだけじゃなくて―――内側から、生まれてくる。 自分の、心の、中から。 生まれている―――たった今、自分の中で。 「私…………嬉しいの……?」 突然蘇ったいつかの葉月の言葉が、頭の中で響いて踊る。無意識の内に目を見開いて『それ』を表す単語を言葉に変えていた。 どういうこと? こんな感じは今まで知らない。感じたこと、ない。 解らない。何が何だか、理解出来ない。 何が、一体。 どうして。 「…………っ……?」 混乱した頭で考えていると、葉月が握ったままの手にほんの少し力を込めた。だが起きた様子はなく、未だ眠りの中にあるようだ。 「珪……くん……」 声をかけたが目を覚ます事はない。その寝顔を見ながら、杉菜はふと以前言われた別の事を思い出した。 『俺は嬉しかった。だから、それでいいんだ。……余計な事、考えなくていい』 余計な事は考えないで。 ただ、受け止めればいい。 「受け止めれば、いい……」 この不思議な熱を。 不可解なら、不可解なままで。 理解できないなら、理解できるその時まで。 大事に、持っていればいい。 「…………うん」 杉菜は呟いて、もう一度背中を木にもたれ掛けて目を閉じた。葉月の手に応えるように、自分もわずかに握り返して。 「うん、そうだね…………」 上がる温度に寄り添うように、杉菜もすぐに眠りに就いた。 しかし目を閉じてからきっかり30分後、杉菜は再び目を開けた。体内タイマーが働いての事であったが、それ以外の要因もあったようだ。開いたその視界に、心配そうな顔の老婦人が映っていた。 「―――起きたんやか?ああよかった、なんぼ声かけてもちいとも目ぇ覚まさへんから、病気かと思ってしもたわ」 「あ……すみません」 見るからに安堵した顔のその老婦人は杉菜の謝罪を軽く流して笑う。 「ええんよ。それより気持ち良さそへんに寝てるとこ可哀想やけど、雨が降り出して来やはったから、はよう雨宿りした方がええわ。ほなな」 用事だけ言って足早に去って行くその周りでは、確かに水滴がパラパラと空から降り落ちて来ていた。見れば空の色は先ほどとは一転して掻き曇り、暗澹とした色の雲がたち込めていて、それと同時に地面を揺らすような轟音が近づいてくる。 「……積乱雲……気温、高かったから……」 盆地という地形特性からただでさえ積乱雲が発生しやすいところに今日の気温の上昇が加われば、驟雨の可能性は非常に高い。その可能性を考えて、睡眠時間を細かく調整する事にしていたのは正解だったようだ。 「…………ん……?」 ポツ、と頬にかかった一滴に気がついたのか、葉月が身じろぎをした。 「珪くん、起きて」 とても心地よさそうに眠っているのを起こすのは忍びないが、かといってこのままではずぶ濡れになりかねない。近づいてくる雨音の強さからそう判断して、杉菜は葉月を揺り起こす。何度か揺らしていると、ゆっくりと瞼を開けて葉月が目を覚ました。 「…………杉菜……?……どうかしたのか?」 「雨、降って来たの」 「雨?」 重たげな頭を振るようにしながら起き上がって、葉月は周囲を見渡した。太陽は完全に雲に覆われて、幾重にも重なり盛り上がった雲が高く低く空を支配している。そして暗く翳った雲の下、広遠な帯を描く最大出力の天然シャワーを遠目に認め、彼は眉を顰めた。密集した梢の合間から零れてくる水滴も、量・大きさ共に本降りの様相を呈してきており、既にたくさんの染みを服に作っている。開けた所ではしのつく雨が既に場を攫っていた。 「ほんとだ……。まずいな、結構雨足強い」 「そう。だから、どこかに移動したほうがいいと思う」 「わかった。それじゃ、荷物まとめて…………あ」 「どうしたの?」 「しまった……ホテルに忘れてきた、傘」 眠かった為か、それとも浮かれていた為か、本来持っているはずの雨具を装備してこなかった事に葉月は舌打ちをした。 「私、持ってるけど……」 杉菜はさすがに用意がいいものでショルダーバッグから折りたたみ傘を取り出したが、携帯性を重視した代物ゆえにサイズの面では不十分だった。 「2人が入るには小さいな……。少し先に東屋みたいのあっただろ。しばらくそこで雨宿りしよう」 「うん、わかった」 急いで荷物を掴み、2人は雨が次々と降り注ぐ木立の中を走った。だが2人の並み外れた脚力でも自然界のスピードには完全に敵わず、しばらく行った先に設けられている東屋に辿り着いた時には、それぞれかなりの濡れ鼠になっていた。荒い呼吸を繰り返しながら髪をかき上げると、その先から水滴が何十も飛び散るが、それでもまだ足りないようにポタポタと滴り落ちていく。 「参ったな…………大丈夫か、杉菜?」 「うん、濡れただけ。珪くんは?」 「俺も濡れただけ。それにしてもひどいな、この雨」 ほんの数十秒の間に折りたたみ傘程度では役に立たない降雨量になって、十数m先の視界すら曇らせる程の豪雨に変わっていた。地面を見れば、土の起伏に沿って濁流が何筋も出来上がっている。 「うん……降り方と雲の動きからして、長雨にはならないだろうけど……でも、1時間かそこらは止まないと思う」 「1時間か……」 雨だけでなく遠雷までもが轟く今、屋根のない場所を傘も差さずに歩く訳にはいかない。1時間くらいなら避難している方が問題ないだろう。据えられた椅子さえ濡れていて、立ちどおしでいなければいけないとしても。 「待つしかないか……」 「そうね……」 一人でいる訳ではなし、それも已む無しと考えて、二人はおとなしくその場で雨が弱まるのを待つ事に決めた。ついでに端にあったゴミ箱に先程食べた弁当の空箱を入れて。 音も光も閉ざす雨を眺めていると、杉菜が何かを思い出したようにバッグの中を探った。 「どうした?」 「ん、これ」 取り出したのはハンドタオル。濡れていないそれを手に取って、杉菜は腕を伸ばして葉月の額や頬に当てた。 「おい……」 「まだ使ってない、予備のだから。珪くん、私を庇うようにしてたでしょ?その分余計に濡れてるから」 30p近くある身長差を生かし、ここに来るまで杉菜を雨から庇うようにしてきたのは本当だ。だがこの雨量では葉月も杉菜も大差ない。濡れていると言うなら、杉菜だって同じくらいびしょぬれだ。 「…………」 「全然足りないけど、少しはマシかも知れないし……」 そう言いながら、背伸びして葉月の髪にタオルを当てる。乾いた小さなタオルはすぐに水分を吸い込んであっという間に重くなる。そのたびに絞って、また同じように手を伸ばす。どうやっても無理があるというのに、それでも繰り返し彼女は葉月が纏った水を拭き取ろうとする。 しかし、葉月は何も言わずなすがままにされていた。 (…………バカ) 俺のことなんてどうだっていいのに。自分が先に拭けばいいのに。 どうしてこんなに俺が喜ぶこと、簡単にしてくれるんだろう。 葉月は改めて杉菜の姿を見つめる。 濡れた髪が頬に張り付いて、その儚げな輪郭を強調している。水を吸った制服も重く肌によりかかって、彼女の華奢な体には不釣合いなほど。 綺麗なのにどこか痛々しくも見えるその様を眺めて、葉月は眉を顰めた。9月中旬の気温だ、それほど身体を冷やす事もないはずだが、万が一という事がある。 葉月は今一度空を見上げて、雨音に負けないように声を出した。 「―――杉菜、悪いけど少し傘借りていいか?」 「え?」 「入口の売店に売ってないか見てくる、傘。あと、タオルも」 無ければ一旦外に出て最寄のコンビニで購入してきてもいい。とにかく杉菜をこのままにしておきたくない。 そう思ったのだが、杉菜は手を止めてやや眉を寄せた。 「……でも、待ってれば止むと思うけど……風向きと風力からすると、多分あと30分もすれば小降りになりそうだし……」 「それまで濡れたままになってるつもりか?風邪、引くだろ」 「あ……そうか、風邪引くと困るもんね、珪くん」 「……俺じゃなくて、おまえ」 「え?」 「そう。おまえに風邪、引いてほしくない」 意外な事を聞いたように杉菜が目を見開く。 「…………私?」 「この状況で、俺が自分の心配なんかすると思うのか?」 (本当に、わかってない……) 杉菜が葉月を心配するように、葉月だって杉菜の方が心配なのだ。自覚している分、その思いは葉月の方がより強い。 葉月は押し黙った杉菜に笑いかける。 「……大丈夫、すぐ戻る」 そう言って杉菜の手にある傘を取って東屋から出ようとした。雨はまだまだ強いが、急げば10分もしない内に戻って来れるはず。そう予測を立てて、半歩、屋根の外へと足を踏み出した。 ―――だが。 「…………待って!」 くん、とシャツの袖を軽く引っ張られて、葉月は進みかけた足を止めた。 「……杉菜?どうした?」 彼女らしからぬ感嘆符に驚いて振り返ったが、杉菜は葉月の上腕に添えた己の手を見つめて戸惑いの色を浮かべていた。 「あ…………私……」 自身で自分の行動が理解できないような、そんな表情と声。 「どうかしたのか?―――具合でも悪いのか?」 「そうじゃ、なくて……」 葉月の言葉は否定しながら、けれどやはり困惑しているような声色のまま続ける。 「私、風邪引いたことないし、雨も……その内止むし、だから…………だから、私…………」 「…………杉菜」 「その、これ以上濡れると、珪くんだって風邪ひくかも、知れないし……」 杉菜はブンブンと首を振った。葉月に触れる手はそのままで。揺れる髪から、雫が舞う。 「……ごめんなさい、私、何をしてるのか、解らなくて。自分でも何が、ううん、何を言いたいのか、よく、解らなくて……」 変だ、私。おかしい。 このままここにいたら身体だって冷えるし、雨だってそうすぐには止みそうもない。 だから、珪くんの分も傘を買ってくれば、少なくとももう少しちゃんとした場所で雨宿りできる。 それくらいの時間、待ってるなんて平気。 それなのに。 それなのに、どうして。 「…………見たく……ないから……?」 「……見たくない?」 「……うん。そう、思ったみたい、今。だから…………」 でも、何を? 何を見たくないの、私? 「杉菜」 呼ばれて杉菜は葉月の顔を見た。わずかに屈んで杉菜と視線の高さを合わせた彼を。 「珪くん、私……」 「―――ちゃんと聴くから」 遮るように、彼女にだけ許された微笑みを浮かべて、葉月は静かに言った。 「いつまでだって待てるから。だから、焦るな。焦らないで、ゆっくり考えていい。、おまえの言葉、絶対に聞き逃したりなんか、しない。……だから、無理しなくていい」 優しい声。暖かい声。深く穏やかに響く声。 「珪、くん………」 私。 私は。 「俺が戻るまでの間にでも、考えてればいい。だから、焦るな」 ―――見たくなくて。 あなたを。 あなたの、背中を。 遠ざかって行く、あなたの後ろ姿を。 見たく、なくて―――。 「…………ない……で……」 「…………え?」 「……行かないで……」 葉月のシャツの袖を掴んだままの指がかすかに震える。葉月の目が大きく見開かれて、自分の姿が映っているのが解った。自分ですら初めて見る、こんな自分は。 「すぎ…………」 「…………ここに、いて」 私の、傍に。 私の、隣に。 背中を、後ろ姿を、見せないで。 あのときみたいに、いかないで。 「ここにいて――――――珪くん」 囚われる。 かすかな、小さな、確かな音に。 体も、心も、魂も。 すべてがその声に支配され、何も考えられなくなって。 「――――――!!」 カシャン、と傘が地面に落ちる音がした。 音に気がついた時には、杉菜は葉月に抱きしめられていた。 「………珪、くん」 抱きすくめられた杉菜がか細い声を上げて彼の名を呼んだ。だが腕の力が弱まることはなく、いや増して杉菜を引き寄せる。何者からも引き離されないよう、強く願うかのように。 鼓動が早鐘のように打っているのを皮膚越しに感じる。 けれどその落ち着かないはずの律動が逆に確かなものに思えて、杉菜は体ごと葉月の胸に抱きこまれた手をかすかに動かして、胸元のシャツに添えられた指に力を込めた。 葉月の鼓動に耳を傾けて、目を閉じる。 外からだけじゃない。 内側からも。 温もりが、暖かさが、立ち昇ってくる。 …………熱が、生まれてくる。 二人を覆い隠すように、雨はまだその濃い紗幕を降ろし続けていた。 |
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