−第24話− |
「ハイ、今日もお疲れさまー!」 最後のスチルを撮り終えて、カメラマンの締めの一声がスタジオに響く。 スポットライトが消され、胸に溜まった空気を吐き出して、葉月は撮影用の厚手のジャケットを脱いだ。いくらクーラーが効いていても、さすがにまだ夏を引きずる季節に暑いスタジオで秋冬物の撮影は辛い。冬場の春夏物も辛いが、やはり暑いのも嫌なものだ。 「お疲れさま、葉月。今日もいい出来だったわよ」 タオルを差し出しながら、葉月の傍に彼のマネージャーが近づいて来た。タオルを受け取って、葉月は汗を拭う。 「お疲れ……」 「本当に疲れてるみたいね。それじゃ次の撮影の確認、ここでしちゃうわ。次の日曜だけど、あなたが旅行に行く間の分を先に撮ってしまうから。午前10時には撮影開始で時間厳守よ、絶対に寝坊しないこと!」 「……ああ、わかった」 「最近ははばたきウォッチャーだけじゃなくて他からのオファーも多いし、忙しいけど遣り甲斐が出てきたわね。雑誌のアンケートでも人気が上がってるし、いい傾向だわ」 「…………」 「……相変わらずどうでもいいみたいね。けど人気が出てきた分、身辺には気をつけなさいよ?この頃はマナーが解らないファンも増えてきて、スタジオ前での入り待ち出待ちで周辺住民との摩擦が起こってるし……。そういえば、この前アルカードのバイトの子がファンに絡まれそうになったって聞いたけど」 「……ああ、聞いた。関係ないのに、悪いことした」 「そう。……ところで訊くけど、葉月、あなたまさか恋人がいるということはないわよね?」 「……いない、そんなヤツ」 今は、まだ。恋い慕う者ならいるけれど。 「ならいいわ。ただでさえ大事な時期で、恋人がどうこう言える立場じゃないんだから。いいわね?くれぐれも隙を見せるような真似はするんじゃないわよ」 「…………わかった」 敏腕マネージャーとして今まで多くのモデルを支えてきた彼女は、経験上そういう話題が無鉄砲なファンに与える影響を熟知している。葉月の表情の変化もよく理解はしているが、それはそれとしてモデルとしての葉月珪に対して非常に価値を見出しているのも事実。できれば自ら壊すような真似はしてほしくない。恋愛沙汰ゆえに消えていったモデルも多かったから。 それが伝わってくるだけに、葉月は頷くフリをするしかなかった。 「それじゃ、また日曜にね」 「ああ」 去って行く彼女の後ろ姿を一瞥してから、葉月は控え室へと戻った。 「乾坤一擲大勝負!!負けても外れても恨みっこなしだぞ、いいな皆の衆!?」 「「「おおうッ!!!」」」 HRの後半、所用のある氷室が教室を去ったあと、2年A組男子の大部分が轟くような喚声を上げて高校生活最大の一大勝負(大げさ)に挑もうとしていた。 「なにやってんだか……」 女子の同情と呆れ顔を向けられてもなお血気盛んな若人達を眺めつつ、藤井が馬鹿馬鹿しそうに言った。 「アンタらねー。たかが旅行の班決めごときで、なにそんなに窓震わすほど熱くなってんのよ。ただでさえ残暑でクソ暑いんだからこれ以上むさ苦しいのやめてよね〜。てか単なる団体行動時の班ってだけじゃん、実質」 だが、水を刺すような台詞に対して男どもは拳を握り締めて反論する。 「何を言う藤井!修学旅行の班決めといえば、気になるあのコと一緒の班でしあわせ指数を増やす絶好のチャンス!この機会を俺たち男子が逃すと思うのか!?」 「おまえら女子には解るまい。同じクラスでありながら常に他クラスの葉月と姫条という2大バリアーに阻まれて、教室の外で彼女に話しかけることもままならないオレたちの哀しみを。せめて団体行動の時だけでも、東雲さんに近づく大義名分がほしいんだ!!」 「そうだそうだ!こんな時でもなければ『同級生』という特権を活用することができないと日々枕を濡らしている我らの心を慮ってくれてもいいだろう!?」 その他大勢の男子が同じように熱弁を振るうが、藤井はさも暑苦しそうに手をヒラヒラさせて白けた表情を浮かべた。 「べつに誰が同じ班だっていいけどさ、いざって時杉菜守れるだけの腕っぷしや機転がないヤツは認めないからね」 東雲杉菜親衛隊女子部隊々長がキッパリとそう言うと、騒いでいた男子がグッと言葉に詰まる。藤井は杉菜と同じ班になるのが確定済み。この親衛隊長のお眼鏡に叶わなければ杉菜の傍には近寄れない。 夏休みが明けてすぐ、9月半ばの修学旅行に向けて班別行動の為の編成が始まっていた。もっともクラスごとの団体行動時はともかく、自由行動の日などは各自入り乱れて混沌とした組み合わせを形成して好き勝手廻るのだから、藤井の言う通りさほど熱くなる事でもない。 ……が、このクラスでは例外だった。 哀れなA組男子の主張のごとく、教室を1歩出ればそこには葉月と姫条が存在している。プライベートな事を杉菜に話しかけようとしても、かの2人に鋭く突き殺されるようなガンを飛ばされて、敗退しない者は実に稀少。自由行動を一緒にとか2人きりでとかといった大それた望みを抱く者は皆無だが、せめて名目上だけでも学園のプリンセスの傍に居たいと思うのが一般男子諸君のささやかな夢であった。 「でも、私立で今時京都・奈良なんて遅れてるどころか化石だよねー。海外とまでは行かなくても沖縄とか北海道とかあるのにさぁ」 「そうだよね。マジでケチくさいったら」 「あれなんでしょ?先生たちの世代が京都だったから、それ引きずってるってゆーか。時代に乗り遅れすぎだよ」 「え、私は結構京都や奈良好きだよ〜?神社仏閣一杯あるし〜」 「そりゃあんたはそういうの好きだから。フツーはあんまし興味ないって」 女子は女子で男子の事などお構いなく勝手に話を進めている。杉菜ファンの心情については多少なりとも理解を持っているので、今さら取り立ててツッコむ程でもない。 「ま、でもイベントには変わりないし、せいぜい楽しもうよ。せっかくの高校生活最大のイベントだしね。……もっとも」 藤井がチラリと後ろの席を見る。 「この子はそーゆーの、全然興味なさげだけど」 そこには男子の夢を一心に背負った可憐な姫君が気持ち良さそうに熟睡していた。 「なんか、最近騒がしいな、校内」 帰り道、海の見える坂を下りながら葉月は隣を歩く杉菜に言った。 「ああ……もうすぐだから、修学旅行」 杉菜が答えると、葉月はやや黙ったあと呟くように彼女の言葉を復唱する。 「……修学旅行……ああ、そういえば……」 「?……もしかして……忘れてた?」 「覚えてる、それくらい。……一応」 HR中は熟睡しているから詳しいことは判らないし、先日マネージャーに旅行がどうのと言われた時もしばらく「旅行って……なんだったっけ……」と考え込んでいた彼である。クラスの女子が眼の色を変えて班決めに挑んでいた事など、露にも想像がつかないのだろう。 一応、という彼の最後の言葉に首をかしげた杉菜が訊ねる。 「じゃあ、どこか覚えてる?行き先」 「行き先…………三択にしろよ」 「三択?…………その1、奈良・京都。その2、北極点。その3、バグダッド」 「……1しか選択権ないだろ、それ」 「そう?じゃあ、奈良・京都」 無表情に真面目くさって言う杉菜にほんの少し苦笑して、葉月はふと思いついた。 「修学旅行っていえば……おまえ、自由行動の予定、決めたのか?」 「秘密」 「……秘密?」 「うん。奈津実がね、ギリギリまで伏せておけって言ったの。だから、秘密」 「どうして?」 「さあ……。便乗して押しかけてくる連中が出てくるからって、言ってた。よく解らないけど」 「そうか……」 賢明な判断だな、と葉月は珍しく藤井を褒めてやりたい気持ちになった。事前に行動予定が知らされていれば、同方面に群がる男子が続出するのは目に見えている。気になった事が一つ解決して、彼はホッとした。 そして、頭に浮かんだある事を聞こうと、やや躊躇ったあと口を開く。 「……杉菜」 「何?」 「自由行動、一緒に行かないか?よかったら……」 葉月の言葉を聞いて、杉菜はほんの少し目を見開いてから訊き返した。 「でも珪くん、観たい所あるんじゃ……」 「いや……俺、特にないから。おまえと一緒の方が、楽しそうだし。……駄目か?」 わずかに縋りつくような、不安そうな瞳で見下ろす葉月に、杉菜は軽く首を振って答える。 「……ううん、べつに、かまわない」 「そうか。じゃあ、自由行動の日、おまえのこと迎えに行くから」 「うん、わかった。……けど……」 「けど?」 「実は……どこ廻るかとか、まだ決めてないの」 「……そうなのか?行きたい所とか、ないのか?」 「とりあえず、お昼寝できる場所がいいかなって……」 なるほど。確かにそれは絶対必要な条件だ。 「尽は『せっかくなんだから京都っぽい所行ってこいよ〜』って言うんだけど」 「京都っぽい所……清水寺とか、金閣とか?」 「平安神宮とか、壬生寺とか。……あ、そうだ」 「ん?」 「府立植物園……ラフレシア=アルノルディイの標本、観たいかも……」 「ラフレシア……」 わざわざ京都に行ってまで観る物だろうかと首をかしげたが、彼女としては珍しく自分の希望があるようなので葉月は頷いた。 「じゃあ、自由行動の一日目、植物園に行ってみるか。途中他の場所にも寄りながら」 「それなら、少し歩けば上賀茂神社や下鴨神社に行ける。そこも、観にいく?」 「ああ、そうだな。じゃあ決まり、それで」 「うん」 このところ校外で杉菜と2人で行動する事が少ない。仕事が忙しいこともあるが、何よりファンの行動を考慮しているがゆえだ。藤井や有沢、マネージャー、そして篠ノ目から聞いた話。それを考えると無闇に杉菜と二人きりになる訳にはいかない。 勿論、彼女の傍にいたいという気持ちは変わらない。むしろ増していると言っていい。 しかし、その結果杉菜が傷つけられるような事があればその方が苦痛だ。 自分が傷つくならかまわない。けれど、彼女だけは傷つけたくない。 そう思って、春頃から敢えて彼女との距離を保つようにしていた。目立つ場所では2人きりにはならない、こちらから誘うのはなるべく控え目に、会う時は偶然を装って。登下校だけは家が同方向なので仕方ないが。 そんな事が続いていたから、まったく知らない土地でファンの目を気にする事なく一緒にいられる機会があるのは嬉しかった。彼女がそれを受け入れてくれる事も。 (言ってみて、良かったな……) よほどの事がない限り誘いを断らない彼女だから、早めに約束を取り付けた方が勝ち。いくら葉月(と姫条)が牽制しているとはいえ、杉菜に声をかけてくる男子は居ない訳ではない。まこと先手必勝なのだ。 「……笑ってる?珪くん」 「ん?……ああ、そうかもな」 「楽しみなのね、修学旅行」 「そうだな……楽しみだ、俺」 クラスは違うし、部屋だって違う。けど、おまえが傍に居るってことには変わりない。 そんな一週間が楽しみじゃないはず、ないだろ? 「あ……そういえばおまえ、夜はどうするんだ?7時って多分夕飯の時間だろ?大丈夫なのか?」 「うん、何とかなると思う。奈津実たちにも言ってあるし、それに夏休み前の保護者面談の時、お母さんが氷室先生にナシつけといたって言ってたから」 「……ナシつけ…………」 時々とてつもなく似つかわしくない言葉を使う人だなと、葉月は心から思った。 「ハイ、チーズ!」 ピッ、とシャッターを押す音がして、風景とそこにある笑顔とが切り抜かれて記録される。 「奈津実ぃー、今度はあたしが撮ってあげるから、東雲さんと一緒に写りなよ」 「そう?じゃ頼むわ。す〜ぎなっ!ほらほら、ツーショットツーショット♪」 「あ……うん」 再びカメラのシャッター音が軽く響く。するとそれにつられた男子が期待に満ちた眼差しで杉菜に声をかけた。 「東雲!俺も一緒に写っていい?」 「あ、僕も!」 「……べつに、かまわないけど」 「よっしゃあ!藤井カメラマン、頼んだぞ!」 「一生に一度あるかないかの記念品だ、バッチリきれいに撮ってくれよ!!」 「あ〜ハイハイ、わかったから興奮すんなって。……ちょっと!もう少しキリッとした顔じゃないと杉菜とつり合わないっつーの!」 晴天の下、三重塔や経堂を背景に、制服姿の高校生が喜び楽しみ浮かれつつカメラや携帯で記念写真を撮影していく。 「ハイ、じゃ次行こ次!混んでるからあんまり長居してらんないしね」 藤井の言う通り、境内は次から次へと押し寄せてくる観光客及び修学旅行生の群れでうかうかしていられない。ぼんやりしていると人波に押されてどこへ漂着するか知れない。 大部分の生徒が待ちに待った修学旅行が始まり、今日2日目の団体行動で、はばたき学園の2年生は定番観光地の一つ・洛東は清水寺に来ていた。さすが修学旅行の定番だけあって、門前の駐車場はバスだらけ、歩く人々も信心とは縁遠そうな制服姿の若者が大半を占めている。 「しっかし昨日の疲れ抜けねぇよな。バスに何時間も揺られて現地入りってなんだよ」 「ホントホント。今時海外じゃない上に京都までマイクロバスで移動して一日潰れるって、スッゴイ馬鹿馬鹿しくない?」 「わたしまだ肩とかバリバリいってるよ〜。あれなら動いてた方がぜんっぜん楽!でも、帰りもバスなんだよね〜」 「まったく何で新幹線じゃないんだよー!一体どこにあるんだ、はばたき市は!」 昨日の疲れとやらで体が悲鳴を上げている生徒達がぼやく。実際彼らの言葉通り、上洛の交通手段は往復共に貸し切り観光バスである。修学旅行の最初と最後が大移動なのはどこでも同じだが、交通手段が異なれば快適さの差も大きい。バスに揺られてン時間という苦行を経験した生徒達は、今から帰りの行程を想像しては嘆いてしまう。 そんな生徒の中、相変わらずのテンションなのはもちろん杉菜である。 「そんなに、辛かったかな……」 「アンタはバスに乗ってる間熟睡してたしねー。そりゃアタシたちだって寝たりしてたけど、やっぱ自由に体動かせないのはキツイって。電車なら他のクラスの車両にお邪魔したりできるけど、バスじゃそうもいかないじゃん?座席は狭いしさ」 「……ああ、そういうこと……」 納得したように杉菜が瞬きをした。本当に納得したかは不明だが。 それなりにほどよく生徒の気分が盛り上がってきた(?)ところでいよいよメインの清水の舞台が見えてきて、引率の氷室が改めて生徒を誘導する。 「それではこれより本堂の拝観をする。各自2列になって入場するように。―――そこ、列を乱すな!まったく、君たちは小学生か?」 氷室が声を張り上げて注意すると乱れた列はすぐに整然となり、2年A組の生徒は順次轟門をくぐって先へと進んだ。下手に氷室に逆らってレポート倍増というのは御免だから、こういう時は皆素直なものである。 「この本堂は幅36m強、奥行き約30m、棟高18mという大規模な物だ。堂内は外陣・内陣・内々陣の3つに巨大な丸柱の列によって分割されているが、一番奥にある内々陣の大須弥壇上に据えられた国宝の厨子3基の内部に、本尊である十一面千手観音と脇侍の地蔵菩薩・毘沙門天がそれぞれ祀られている。なお本尊は秘仏ゆえに直接観ることはできないが、そのかわりとして厨子の前に『お前立ち』と呼ばれる仏像が安置されている訳だ」 公式ホームページを熟読して来たかのような氷室の解説を聞き流しながら、生徒達は本尊そっちのけで舞台からの眺めに感動していたり、こっそり隣の地主神社に駆け込んでいたりと忙しい。 「へぇ〜、ホントにこれは絶景だよね」 「うんうん。錦雲渓がすごいきれいだしね。あ、でも本当にこの舞台ってちょっと傾斜してんだ」 「高所恐怖症の奴にはちょっと辛いかもな」 そんな一般的な感想を述べ合いながら、道なりにてれてれ歩いていく。各自班ごとになって巡り歩くので、整然とした列はすぐにちぎれ雲のようにほどけていった。 杉菜や藤井の班もそぞろに歩いて境内を眺めていくものの、十数分後にはあっさりと舞台の下に辿り着いた。楽しい気分は気分として、興味がなければ寺の境内を歩いたところで後ろ髪を引かれる場所もない。しかも人が多くてゆっくり鑑賞していられないとあればなおの事だ。 「う〜ん、やっぱりこういう寺にこういう集団で来るのってなんか間違ってるよなぁ」 「音羽の滝の水も飲んでみたかったけど、あの行列じゃとてもじゃないけど待ってらんないしね」 長蛇の列を横目にクラスメイトの面々が口々に言う。すると飄々とした呆れた声が賛同の意を表した。 「ホンマやで。もっとも昔っからこういう場所やから、今さらシーンとしてたらそれはそれで違和感あるけどな」 「べつにシーンとしてようと騒がしかろうと寺は寺だろ?辛気くさいことには変わりゃしねえよ」 見れば姫条と鈴鹿の補習コンビが杉菜たちの班に紛れるように立っていた。 「あー!ちょっとなんでアンタらが混じってんのよ?クラス抜け出してきたの?」 「人聞きの悪いやっちゃな。オレらのクラスはA組のすぐ後ついて来てたんやけど、肝心の担任がアレやからおとなしゅうその近くで待ってんねん。そこに自分らが出くわしたっちゅうとこや」 くいっと指差した先は音羽の滝。多くの旅行生に混じってB組の担任教諭が3本に分かれた滝の水を口にせんと行列の中に混じっていた。その目は何とも焦りと真剣さを宿していて、イイ歳して……と止めるのもはばかられる迫力に満ちていた。ちなみにB組担任は今年30になる独身女性である。実家に帰るたびに結婚はまだかと訊かれ諭されちらつかされる彼女にとっては、たとえ迷信だろうと何だろうと縋りつきたい切実なものがあるのだろう。 「なるほど」 苦笑しながら藤井らが頷くと、背後から今度は今年28になるA組担任がやって来た。 「どうした君たち、もう御堂の観察は済んだのか?……ん?姫条、鈴鹿、境内を拝観している割にはずいぶんと妙な場所にいるものだな」 「氷室センセ。いや、それが……」 姫条が事情を説明すると氷室が眉を顰めた。 「まったく……教師がそのようでは生徒に示しがつかないだろうに。……まあいい。さいわい集合時間まではまだ余裕がある。君たちは本堂以外の場所もよく観察しメモをとっておくように。旅行終了後のレポートの参考となる事柄は多いからな」 「はーい」 生徒達は素直に頷く。言葉だけなのがありありと判るが、それはそれで後々苦労するだけの話だ。 頷いたあと、1人がふと舞台を仰いだ。 「こうやって見上げると結構迫力あるねぇ」 「だな。枠組みとか、下からみると結構面白いじゃん。このアングル撮っとこ」 つられたように他の生徒もそれぞれに舞台を見上げる。すると、藤井が何かを思いついたように氷室を振り返った。 「そういえばせんせい、清水の舞台から飛び降りた人ってどれくらいいるんですかぁ?」 「……藤井、君はそういうことにしか興味はないのか?懸崖造りの妙について考察するといった知的好奇心はないのか?」 「ちっとも興味が湧かないよりはいいと思いますけどー?」 シラッとして答える藤井に複雑な表情を返して、氷室は眼鏡のフレームを指で押さえて解説し始めた。 「……清水寺成就院の記録によると、元禄7年から元治元年にかけて欠損部分を除いた148年分の記録が残っているが、未遂も含めて234件の飛び降り事件が発生している。男女比はおよそ7対3、年齢は12歳から80歳台と幅広いが 10代又は20代が約73.5パーセントを占める。明治5年に政府が飛び降り禁止令を出した事で数自体は減少したが、それでも飛び降りる者がいなかったわけではない。もっとも生存率は85.4%と高い。10代又は20代では90%以上の確率で生存している。ただし60歳以上では全員が死亡しているそうだ」 「……なんで死亡率まで知ってんの、数学教師のクセに」 「何か言ったか?」 「い〜え、なにも?でも案外死んだ人は少ないんだぁ」 「舞台の高さは12〜13mだ。反射神経や運動神経が最もピークを迎える年齢であればこれくらいの衝撃は耐えられるだろうし、途中樹木によるクッション効果もある。そもそもこの舞台から飛び降りるというのは単なる自殺志願ではなく、清水観音信仰から発する願掛けが多い。手を合わせて後ろ向きに落ちる、というのはそのあらわれだ」 「へぇ〜」 なんで氷室がそんな事まで知っているかというのはともかく、生きる上ではまったくどうでもいい雑学を入手した生徒達はそれぞれに頷いた。 そんな中、藤井が改めて頭上の舞台を見上げた。そして何やら考え込むように首をかしげる。 「ん?どないしたん?」 「いや、思ったんだけどさ。葉月あたり、杉菜が下でナンパされてたりなんかしたら、迷わず飛び落ちて来そうじゃない?空中で回転しながら華麗に着地決めちゃってさ」 「アホか自分、そんなんあるワケ…………」 笑いかけた姫条並びに周りにいたはば学構成員(氷室含む)が一瞬沈黙し、恐る恐る頭上を見上げた。 丁度タイミングよくF組の生徒達が舞台の際にいて、かの君の亜麻色の髪がよぎった。軽く眼下を一瞥した彼の姿を目にして、舞台の下にいた面々は思った。 (((…………奴なら、やりかねん))) 彼らの心が一つになった瞬間だった。 ただ一人、当の杉菜だけは参道の先にある茶屋のメニューに目を向けていて聞いていなかったようだが。 清水寺の後、慈照寺銀閣や二条城などこれまた定番どころを廻り、ホテルに戻ったのは5時半過ぎだった。 「お、杉菜ちゃんやないか。なんや自分、せっかくの自由時間に外出ぇへんの?」 「あ、ニィやん」 ホテルの廊下を自室に向かって歩いている杉菜に、通りがかった姫条が声をかけた。 戻ってきてから夕食までの時間、生徒達には短い自由時間が与えられている。繁華街に繰り出して買物する者あり、最寄の遅くまで拝観可能な寺社を巡っている者あり、部屋で買って来たお土産を広げている者あり、それぞれが楽しい一時を過ごしていた。杉菜に訊ねた姫条自身も現在の自由時間に外出をする事もなくホテル内にいる訳だが、別段女子の部屋に潜り込んでいかがわしい事をしていたとかそういう訳ではないらしい。 「うん。時間ないし、先にご飯食べさせて貰ってきたの。部屋のお風呂に入ったら、すぐに眠れるように」 「あぁ、なるほどな。夜にみんなと遊べんのは寂しいやろうけど、体が第一やからな。……そういや藤井から聞いたんやけど、杉菜ちゃん……昨日の夜は押入れで寝てたってホンマ?」 「うん。邪魔になっちゃ悪いから」 19時には入眠かつ人のいいなりになってしまう杉菜ゆえ、同室の女生徒達には随分と気を遣ってもらっている。起床時間も微妙に旅行中のそれと異なる為、押入れで隔絶されていた方が本人は楽らしい。 もっとも杉菜の体質は今に始まった事でなし、藤井達はあまり気にしている様子もない。せいぜい昨晩の杉菜の寝入りっぷりの見事さに改めて感嘆したくらいだ。 「体質のぴ太のトラエもんか……。杉菜ちゃんにはなんちゅーかこう、天蓋付きのお姫さまベッドの方が似合うんやけどなぁ。まぁこんなホテルやし、しゃあないか」 「瑞希さんが自分で取ったロイヤルスウィートルームはクィーンベッドらしいけど……」 「……なんで高校生が修学旅行で泊まるようなホテルにクィーンベッドのロイヤルスウィートがあるねん……」 姫条が冷静にツッコむ。が、それに答えを出す人間は生憎ここにはいない。 そこでハタと気がついて、姫条はおもむろに切り出した。 「な、なあ杉菜ちゃん」 「何?」 「明日の自由行動やけど……オレはひとりやし、よかったらふたりで一緒に回れへん?」 2人っきりのこのチャンス、活用しなかったら勿体無い。 そう思っての勇気の振り絞りであったが、次の杉菜の言葉で姫条の淡い期待はあっさり砕かれた。 「……やめとく」 「……そ、そか……」 見るからに肩を落とした姫条だが、念のため確認をした。 「っちゅうことは……もう誰かと約束しとるんやな?」 「うん。珪くんと」 「……そか」 予想はしていたが、やはり本人の口から聞くとダメージはでかい。愕然として床に膝をついて嘆かんばかりの姫条を見て、杉菜が首をかしげる。 「……私、何か悪いこと、した?」 「いや……そういうワケとちゃうねん。オレの勝手な物思いや、気にすることあらへん」 一気に急上昇した傷心度を隠し、姫条は無理に笑ってみせた。惚れた弱みで爆弾を点灯させないあたり、大人である。 「そう……?」 「そや。……せやけど……ホンマに仲ええな、葉月と。いつも一緒に出かけたりしとるんやろ?」 「……どうだろう。日曜日の午後、お稽古の帰りに森林公園で会うくらい。特別約束してってこと、ほとんどないし」 「そうなんか?」 「うん。春のお花見と夏の潮干狩りくらい、かな。それに最近は仕事が忙しいみたいで、日曜日もそんなに会ってない」 「確かに、ここんとこまたエライ人気出てきとるもんなぁ。学校早退する日も増えとるらしいし」 葉月の仕事が多忙になっているのは事実だ。夏休み以降レギュラーの撮影以外にも大きな仕事が入ってきて、休み返上でスタジオに行く日が多い。結果として杉菜と一緒にいる機会が少なくなり、それは姫条を始めとする他者の目にも明らかだった。もっとも校内では相変わらず一緒の時が多いが。 だが、姫条は別の要素を考えた。 あれだけ杉菜に独占欲を剥き出しにする葉月が、仕事くらいで彼女と距離を置くはずがない。彼女を放ったらかしにするくらいなら仕事の方を捨てる、葉月がそういう男だという事は姫条も薄々理解している。 だから、その葉月が傍目にも判るほど杉菜と距離を置くという事が何を意味するのか、巷の噂や話題に敏い姫条には容易に想像がついた。 (杉菜ちゃんをファンの目から隠そうとしとるっちゅうことやな。藤井も言っとったけど、ここんとこその噂があちこち飛びかっとるからなぁ) 杉菜個人を見れば、彼女に害を加えようとする者はほとんど皆無だろう。 しかしそこに恋愛要素や熱狂的ファン心理が絡んだ場合、その先にあるものは想像しがたい。おとなしく引き下がるのか、それとも完全な逆恨みに変わるのか。まったく見当がつかない。 そんな状況では、葉月が杉菜を守るためには距離を置くしかできない。それは姫条にもよく解る。自分だってそうするだろうから。 だが。 「……せやけどいつも一緒にいるし、なんや物足りんのとちゃう?寂しいやろ、杉菜ちゃん」 「……寂しい……?」 何気ないフリをして訊ねる。ほんの少し、自嘲を込めて。 (……なにもこんな自虐的な質問せんでもええのにな、オレ。執行猶予を長引かせとるくせに、自分でトドメ刺してどうすんねん) 姫条の想いには気づかず、杉菜はいつものように考え込むような顔をした。 「……どうだろう。珪くんが仕事忙しいの、事実だし。それは私に関係することじゃ、ないし。……よく解らない」 本当に解らない様子で杉菜が答える。近頃こういう表情が多くなった気がする、彼女の顔を見ながら姫条はそう思って苦笑した。 葉月が関わる時だけ、彼女の無表情がほつれる。笑顔こそないものの、葉月の存在によって彼女の心が乱されているのが手に取るように伝わるほどに。 微妙な変化。けれど、確かな変化。 「そうなんか?ま、寂しい時はいつでもオレがお傍に上がりますよって、気軽に声かけてや。―――と、噂をすればなんとやら、やな」 「え?……あ、珪くん」 廊下の先から葉月が現れて、2人きりの時間は終了と相成った。 「杉菜……ここにいたのか」 「うん。部屋に戻るところ」 「そうか。……送ってく。明日の打ち合わせもしとこう」 「わかった。それじゃニィやん、お休みなさい」 「おお、お休み。いい夢見るんやで〜」 にっこり笑って手を振る姫条に葉月がチラッと視線を向けたが、そのまま杉菜と連れ立って廊下の角へ消えて行った。 「……ハァ。ホンマに杉菜ちゃんのこととなるとカンが鋭いっちゅうか」 腕を下ろし、思いっきり溜息をついて、姫条は実にクサった表情をした。 いつも思う事だが、本当に葉月と杉菜は似合いの1対で、姫条が入り込む隙などないように見える。王子と姫君というビジュアル的な要素以外で、同じ空気を共有できる2人。 口惜しいけれど、それは認めざるを得ない。 諦めたくはないけれど、既に諦めている自分がいるのも事実。 矛盾している。 けれど、杉菜にとって一番いい状況になることの方が、自分の幸せよりも大事なのも真実。 そんな事をつらつら考えて立ち竦んでいると、背後から知った足音が聞こえてきた。 「……なんかよ、俺っていつもショボくれてるおまえの傍に居合せてるような気がすんだけど、気のせいか?」 「……筆者がドキリとするようなこと言うなや、デリカシーないで。てか盗み聞きしとったんかい、自分」 「たまたま居合わせただけだっつーの。マジで今来たばっかだぜ、俺」 バツが悪そうに、しかし筆者のシチュエーション設定能力の無さをツッコむように、鈴鹿が喋った。 「まったくなぁ。葉月のヤツ、いつの間に杉菜ちゃんと約束しとったんやろ。みんなが紳士協定守ってギリギリまで声かけんかったちゅうのに、なんや要領いいやっちゃな〜!なみいる敵をかき分けて姫君のもとに辿り着いたオレは一体なんやったんや……」 姫条は先ほどまでの神妙さを振りきるように大仰に息を吐いて、後ろに立つ補習コンビの片割れに芝居がかって愚痴る。鈴鹿も姫条の様子には気がつかないフリをして(本当に気づかないのかも知れないが)、彼のセリフに応えた。 「おっまえなぁ……。紳士協定って、んなもん決めてるなんてバッカじゃねえの?バスケだってなんだって、自分からガンガン攻めてかなきゃ勝利なんてつかめやしねえよ」 「……自分、恋したことないんか?あるわけないか、和馬やもんな」 「どーゆー意味だよ」 「そーゆー意味や。攻めてばっかやったらどっかで歪みが来るねん。恋愛っちゅうんは駆け引きや。押して引いての綱渡りや。その匙加減が微妙なとこなんやで?自分にはわからへんやろけどな」 「悪かったな!…………つーか、おまえって本ッ気で東雲にマジなんだな……」 「今さら何言うとんねん」 「いや、俺そういうのわかんねえし。つうか、おまえにしろ葉月にしろ、周りのヤツが結構アイツのこと好きだのなんだのって騒いでるだろ。俺にとって東雲ってのは頭良くて運動もできる友だちって程度で、それ以外でもなんでもねーから、どうしてそんなふうにこだわるのかサッパリなんだよな」 「そら……自分は迷いがないからなぁ」 「迷い?」 「アメリカ行ってバスケやるっちゅう目的がしっかりガッチリ固まっとって、それ以外のことが入り込む隙があらへん。そらテストがどうとか進級がどうとか、そういう細かい悩みはあるけどな。せやから、わからんのや。迷った時にどれだけ彼女が心を癒してくれるかっちゅうことがな」 そう言うと、鈴鹿はますます訳が解らないような顔になった。 「そんなの……自分の中で晴らすもんだろ?」 「まあな。けど、迷いや悩みを晴らすためには、それなりの条件や環境が必要なんや。オレが言いたいんは、杉菜ちゃんはそういう条件を無意識の内に作ってくれてるってことなんや」 「……やっぱりわかんねえ……。けどよ、それってつまり東雲にすがってるってことにならねえか?それ、恋とかそういうのとは違うんじゃねえのか?」 鈴鹿のセリフにどこか貫かれるものがあって、思わず姫条は目を見開いた。少しの間頭の中で反芻して、小さな溜息を落とす。 「……そやな。違うかも知れんな…………」 心奪われているのは確かでも。 その核となる部分は一体どれが本当なのだろうか。 「…………て、なんで和馬に恋について諭されなあかんねん!アカン〜、オレ相当ヤバイわ〜」 「なッ、お、おまえなぁ!人がせっかく心配してやってんのに、その言い方はねーだろ!?」 「あ〜も〜アカンわ〜!まさか和馬に心配されたあげく恋心を説かれる日が来るなんて、明日にでも世界は終りを迎えるんとちゃうか〜!?」 「だぁーーーっ!!もういいっつーの!だいたい、俺がこんなこと話すなんてガラじゃねえんだよ!なのにおまえがらしくもなくヘコんでやがるから……」 「ちょい待てや、それ、オレの責任かい!?」 ホテルの廊下という公共の場所で恒例の口喧嘩を始めた2人は、その後氷室に怒鳴られて夕食抜き+1時間正座を命じられた後もひたすら噛みつきあう事となる。 「さっき、何の話してたんだ?姫条と」 廊下を歩きながら簡単な打ち合わせをした後、葉月が杉菜に訊ねた。 「明日、一緒に自由行動行かないかって。珪くんと約束してたから、断ったけど……」 「そうか……」 「どうかした?」 「いや……なんでもない」 「……?」 「少し、気になっただけだ。おまえが気にすることじゃない」 自分の心の狭さを見せないように、不思議そうに見上げてくる杉菜に笑ってから葉月は先へと進む。 杉菜はそんな葉月の横顔を1歩分後ろの距離から見つめながらついて行く。 いつも微笑んでくれることが当たり前になっていて、それ以外の表情が思いつかないひと。 いつも傍にいてくれることが当たり前になっていて、それ以外の状況が思いつかないひと。 6月に見舞いに行った時から学校以外で会うことが少なくなって、それが不思議と違和感がある。 お互い予定もあるからそうそう度々会うわけじゃなかったとしても。 『なんや物足りんのとちゃう?寂しいやろ、杉菜ちゃん』 ……どうなんだろう。 寂しいってどういうことか解らないから、『そう』なのかが解らない。 けど、この人が隣にいると、『大丈夫だ』って感じがするのは、本当。 どうしてなんだろう。 「ん……どうした?」 杉菜の視線に気がついて、葉月が彼女に振り向いた。だが杉菜は常のように軽く頭を振って答える。 「……ううん、なんでもない」 「そうか?……それじゃ、また明日。おやすみ、杉菜」 疑問に思った葉月だったが、杉菜の部屋に着いたのでそれ以上追求せずに彼女を中に促した。 「うん、お休みなさい」 扉を閉じて、向けられた優しい微笑に別れを告げる。誰もいない部屋の中で1人佇んだまま、杉菜はしばらくその閉じられたドアを見つめていた。 ……うん、なんでもない。 なんでもない、はず。 だって、私が『そう』感じるはずがないから。 だから、なんでもないの。 ………多分。 |
|