−第23話− |
灼けつくような日差しの下、カランと音が鳴り響く。扉を開けて入って来た藤井は喫茶店に満ちる冷気に心底感謝したような表情をした。 直射日光と照り返しで屋外はヒートアイランド現象真っ只中の酷暑。それにひきかえ冷房の効いた屋内は実にパラダイスの具現である。 「ふぅ〜、あーもう暑かったー!まったくもう、こんな日にクーラーなしでいられるかっつーの」 手でパタパタ仰ぎながらぐるりと店内を見渡せば、奥の席で有沢が軽く手を振っているのを見つけた。小走りに近寄って挨拶をする。 「お待たせー。ゴメンね〜遅くなっちゃって」 「気にしないで、呼び出したのはこっちだし。悪かったわね、せっかくの休みに暑い中呼びつけちゃって」 「いーのいーの!アタシもヒマだったしさ。それに志穂からお誘いなんて珍しいしね。―――あ、アタシ、アイスミルクティーとフローズンタルトね」 有沢の向かい側に座りながら、藤井は寄って来たウェイトレスに注文する。 「いやでもホンット暑すぎ!梅雨が結構冷え込んでたってのに、明けてからこっちず〜っと猛暑だもんねぇ」 「本当ね。人工建造物が増えたから、その輻射熱も大きいし。高層建造物緑化条例もまだまだ効果ないみたいね」 「ああ、あの屋上に庭作れってヤツ?ムリムリ、そんなんこの不景気の世の中でやってる余裕なんかないって」 藤井が顔をしかめながら置かれたお冷をゴクゴクと飲むと、有沢が苦笑する。確かにこの御時世、企業もエコロジーだのなんだの言っている余裕はないだろう。エコロジーは案外金がかかるのである(姫条の水着の好みは例外として)。 「で、一体どうしたっての?アンタが用もなしにアタシを呼び出すワケないし。てゆーか、今まで予備校だったんでしょ?図書館にも寄らずに喫茶店なんてホント珍しいじゃん」 ようやく汗が引いたのか、グラスの中のお冷を飲み干した藤井がおもむろに問い掛けた。 「ええ。でもなるべく早く伝えておいた方がいいと思ったから……東雲さんと葉月くんのことだし」 「杉菜たちの?」 「ええ」 頷いて、有沢は少し声を低めて話し出した。藤井もやや身を乗り出して、有沢の話に耳を傾ける。 「……さっき、私が通ってる予備校の知り合いから聞いた話。その人、葉月くんのファンなのよ。ファンといっても彼のプライバシーには全く興味がなくて、単純にグラビア内の葉月くんのファンってだけの人なんだけど……その人が言うには、最近葉月くんの私生活を調べようとしている人たちが目について来てるんですって」 中学時代からモデルを続けている葉月のファンは多い。その中には当然マナーをわきまえたファンもいればストーカーまがいに追いかけたりするファンもいる。去年から急増したマナーを知らないファンには、彼の事務所も対策に頭を悩ませつつあった。 「彼ってああいう人だから、あまり騒がれたりするの嫌いでしょう?以前からのファンはそういうの解ってる人が多くてそんなに派手に動かないらしいんだけど、ここ数ヶ月でファンになった人たちは少し違うみたいなの」 そこまで言って、有沢は自分の前に置かれたアイスティーを一口飲む。対する藤井は何も言わずに真剣な表情で有沢の話を聴いていた。ちょうどウェイトレスがオーダーの品を持ってきて、藤井は藤井で喉を潤す。ウェイトレスが去ってから有沢は話を続けた。 「その彼女が言うには、グラビアでの葉月くんの表情があきらかに変わった事が影響してるらしいわ。……つまり結論から言うと、去年あたりから柔らかくなってきた彼の表情が、自分に向けられたものだと勘違いしてしまう、そういうファンが増えたんですって。そんなわけないのにもかかわらず」 「…………それで、その勘違いした連中が、最近葉月と一緒にいるという女に目をつけ始めた――ってトコ?」 藤井が言うと有沢が眉根を寄せて頷いた。 「―――ええ。それでどうやら、その……東雲さんの名前がその人たちにもれ出しているみたいなの。教えてくれた彼女、きらめき高校の生徒なんだけど、きら高にもそういう熱狂的な人たちがちらほらいるらしくて、やっぱり噂になってるそうなの。『はばたき学園のシノノメっていう女の子が葉月珪の恋人らしい』って。それも……かなり悪い印象と言われようで」 「その噂ならアタシも聞いてる。他校の友だちにもけっこう葉月のファンいるから訊かれたよ、杉菜のこと。もちろんとぼけて答えたけど」 「そう……。東雲さんには一点の非も曇りもないけど、こんな事に巻き込まれでもしたら馬鹿馬鹿しいわ。それで、ファンの間でもそういう人たちが問題になってるってこと、奈津実にだけでも早く言っておこうと思ったの。あなたのことだからこんな情報はもう耳に入れてるとは思ったけど、念のためと思って。もちろん、あとで葉月くんにも教えるつもりだけど」 そこで息を吐いて、有沢は姿勢を戻す。 「そっか。―――じゃあアタシも一応話しとく」 有沢の話が終わったとみて、今度は藤井が口を開いた。つられて有沢も再び顔を近付けた。 「え?……何かあったの?」 「昨日の夜なんだけど、シノがバイト終わって帰る途中、数人の葉月ファンに声かけられたんだって」 「シノ……篠ノ目さん?D組の?」 篠ノ目とは杉菜と同様にはば学高等部に編入してきた女子で、クルクルと変わる可愛い表情と気立てのよさ、そしてその天然っぷりで杉菜に次ぐはば学男子の人気を得ている藤井らの友人だ。今でこそクラスは違うが、1年の時は葉月や杉菜と同じA組氷室学級だった。吹奏楽部に所属しながら喫茶店アルカードでバイトをし、なおかつ学力なども優秀な氷室自慢の生徒だ。同じ編入生でかつ苗字の読みが同じなので、杉菜にはかなり親近感を抱いているらしい。 「うん。それで『葉月くんと付き合ってるシノノメってあんたのこと?』って訊かれたんだって。もちろんあの子は葉月とも仲いい方だけど、他に好きな人いるじゃん?ヘタすると葉月よりもっとモノスゴイ難関が。で、ちゃんとそう言ってなんとか事なきを得たらしいんだけど、相手の態度がかなり嫌な感じだったからってことでアタシに連絡よこしたのよ。『多分杉菜ちゃんのこと言ってたんだろうけど、彼女になにかあったらまずいから、なっちんも気を配ってて』って」 「……そうだったの。確かに彼女はずっとアルカードでバイトしてて、仕事がら葉月くんと会う機会もなくはないわね。むしろ東雲さん……杉菜さんの方より目立つ場所にいるのかも」 「あの子の話じゃこの辺では見かけない連中だったって言うから、はばたき市の人間じゃなさそう。少なくとも市内の高校生なら、はば学の超絶天才美少女の話は知れ渡ってるはずだし。ま、シノも美少女に分類して間違いじゃないけどさ」 「そうね。それに森林公園での東雲さんのバイオリンはもうほとんど名物になってるから、顔だって割れてるわ。……でも変ね。確かに2人とも目立つ方だけど、葉月くんはともかく東雲さんみたいに行動範囲が狭い一般人の名前がどうして割れるのかしら。学校内に情報を流す人間がいるってこと?」 「だったらすぐに杉菜のことバレてるじゃん。そうじゃないってことは、やっぱりその森林公園とかからもれてんじゃない?とりあえず今のとこ判ってんのは、ファンの間で葉月に彼女がいると噂になってる、それがシノノメという苗字だと知られてる、そんなとこかな」 「ええ。そしてそれが気に入らないと思っている人たちがいる……ということね」 藤井は体を椅子に預けるようにハァ〜ッと大きく溜息を吐いた。 「……ホント、バカバカしいよ。あの2人見て納得できないなんてさ。葉月には杉菜、杉菜には葉月、これ以上ないと思えるくらいのベストカップルじゃん」 「東雲さんを見れば、そんなこと考えるまでもないのにね。容姿ももちろんだけど、彼女ってあんな不思議な性格なのにどこか人を癒してくれるところがあるもの。私、彼女に直接会って彼女を嫌いだって言った人を未だ見たことがないわ。嫌いだと言うのなら、よほどひねくれてるとしか思えない。…………でも思うんだけど……あの二人って、付き合ってるの?」 「そこがねぇ〜……。ハタから見るとカップルなんだけどね〜。こないだも葉月に誘われて潮干狩り行って来たみたい。花火大会は行けなかったからそのかわりだって。でも杉菜って相手が信用できるヤツなら、体質の件と先約がなければ大体OKしてくれんのよね。夏休み前も守村くんちにお邪魔してたみたいだし」 「…………そう」 「あれ?どしたの志穂?眉が寄ってるよ?」 「っ、な、なんでもないわ」 「アハハ、安心しなって。園芸部で紅茶の話した時に話題に出た守村くんお勧めの銘柄をおすそ分けして貰っただけで、すぐに帰ったらしいから」 「そ、そう!―――って、べ、べつにそんな、安心とか気にするとか、そういうんじゃ、なくて……ッ」 「ハイハイ、慌てんでヨロシイ。――――――ま、それはともかく……気をつけないとね、杉菜の周り」 「……ええ、そうね」 頷き合って、二人の女は氷の溶けかけたアイスティーを飲み干した。 臨海公園地区にはショッピングモールの他に多くの施設が存在する。急ピッチで開発が進められている地区でもあり、真新しい無機物の巨大なオブジェが日を追う毎に増えていく。目下の目玉は9月にオープンするイベントホールだ。現代建築の粋を凝らしたその建物はオープンの為の予備段階、多くの市民がこけら落としを楽しみにしている。 「こけら落としはKCH交響楽団のコンサートらしいですね。何年か前、アメリカ公演を聴きに行ったことがありますが、とても素晴らしかったです。杉菜は聴いたことがありますか?」 蒼樹が隣にいた杉菜に訊ねた。 「一度だけ。一昨年の11月3日に、家族で」 「そうですか。ああ、ぜひもう一度聴きに行きたいです」 イベントホールが見える街路を新はばたき駅へと歩きながら話す。道端には多くの街路樹がその恩恵を人間に与えてくれているが、立ち昇る陽炎は相変わらず強い。 この2人、いわゆる学術的施設の利用に関しては気が合う。夏休みに入ってからちょくちょく予定を合わせて図書館で勉強をしたり博物館見学に赴いたりと傍目には硬派人種らしいデート(?)をしている。もっとも誘うのは主に蒼樹の方からで、杉菜は暇ならばそれに付き合うといった感じ。 もちろん葉月はいい顔をしていないが、今のところは杉菜の意思を尊重しているらしい。葉月自身、休み中は仕事が忙しくてあまり杉菜の傍にいられない。まだ知った人間が傍に付いてるだけマシだ、そう自己暗示をかけて泣く泣くスタジオに向かう日々を送っている。 そういう訳で、蒼樹と杉菜の2人組は今日も臨海地区にある歴史資料館に赴いて資料を閲覧して来たところ。古文書などはさすがに蒼樹には判読不可能なので、杉菜に解説をして貰うのである。 「今日も付き合わせてしまいましたが、おかげで助かりました。本当に杉菜はいろんな事を知っています。ありがとう」 「べつに……。役に立てたなら、それでいいし」 「それはもう!杉菜がいなければこの課題は進みませんでした。……日本の歴史はまだ把握できてなくて大変です。ですが一流大学に進むためには必須ですし」 「法学部……だっけ。外交官、目指してるんだよね」 「はい。外交では各国の歴史を把握していることが非常に大事です。大変だけど、頑張ります。ところで杉菜も同じ一流、でしたよね?」 「うん。家から一番近いし」 「あはは、ある意味うらやましいです、そういう決め方」 「……そうなの?」 「そうです。大体の人はまず自分の学力を考えてしまいますから。でも……杉菜の成績だったら間違いなく入れますよ。この前の全国統一模試でもベスト10に入っていましたし」 控え目に表現するが、毎回全教科満点の杉菜が全国模試だろうとその習性を狂わせるとは今一つ想像ができない。 「そういえば……杉菜は将来は何の職業に就きたいのですか?」 街路樹の枝が張り出した下を日差しを避けるように歩きながら、蒼樹は杉菜に訊ねた。 「将来……?」 「はい。僕の学校では休みに入る前、進路希望調査票を渡されました。僕の夢は外交官で、そのためには一流大学の法学部が最もそれに近い通過点です。日本に来た時からそれはずっと変わっていません。ですが他の友だちはまだ決めかねているようです。学力などの要素ゆえではなく、自分の希望や夢、将来のビジョンが見えないから。日本にはそれに苦しんでいる人が多いような気がします。杉菜もそんなふうだったりするんでしょうか?」 言ってから、ふと気が付いたように慌てて言い加える。 「―――ああ、無理にでも訊きたいというわけじゃありません!ただ、周りにそういう友だちが多いから、気になって……」 「……希望……って、いうのかな……」 蒼樹の言葉を気にした様子もなく、杉菜はやや考え込んだあと呟いた。 「え?」 「……目指している職業は、あるけど……」 「なんですか、それは?―――ああ、もしかして投資家ですか?」 「ううん、違う。……そうじゃなくて………」 言葉の途中で、ふと携帯の呼び出し音が聞こえた。 「ああ、僕の携帯です。杉菜、ちょっと失礼します」 鞄から携帯電話を取り出して、蒼樹は相手を確認して電話に出た。 「はい、蒼樹です。―――ああ先輩、どうかしましたか?…………本当ですか!?わかりました、今すぐ行きます!」 何やら緊急事態が発生したらしい、慌しく会話をして電話を切ると、蒼樹は杉菜の方を見て謝った。 「ごめんなさい杉菜。どうやら部活の方で何かトラブルがあったらしいんです。OBの召集なので今すぐ学校に行かなくてはいけません」 「そう……わかった」 「本当にごめんなさい……。それじゃ、くれぐれも気をつけて!」 走り去った蒼樹を見送って、杉菜はしばしその場に佇んだ。しばし木漏れ日色に染まった空を見上げて、思う。 ……私が目指してる職業。 それは、あの日にはもう決まってた。 あの時私を変えたもの。 『それ』にたずさわれるものになろうと、あの日に決めた。 ………不思議。 やっぱり私を変えるのは、あなたなのね。 そう考えたところで、ふと全く関係ないある事を思い出して、杉菜は踵を返し駅ではなくショッピングモールへの進路を取った。 すると歩き出したその時、知った顔が前方から近付いてきた。 「あれ―――杉菜ちゃんやないか!奇遇やな」 やってくるのは姫条。いつもなら数人でつるんでいるだろうに、今日は珍しく1人だ。 「……あ、ニィやん。こんにちは」 「ああ、こんにちは。どないしたんや、1人やなんて珍しなぁ。最近は物騒な事件も多いさかい、街中いうても杉菜ちゃんみたいなか弱い女の子の1人歩きは危険やで?」 友好的な笑みを浮かべて、姫条は杉菜の目の前で立ち止まる。藤井が一緒なら「アンタ以上に危険なヤツがいるかっつーの」とでもツッコんでいただろうが、生憎彼女は女同士で密談の最中だった。 「さっきまでは千晴もいたんだけど、急用ができて」 「千晴……て、あの蒼樹か?なんや急用が出来たからて杉菜ちゃん放ったらかしていくなんて、男の風上にもおけんやっちゃなぁ」 「でも……聞こえて来た携帯からの話だと、千晴が所属してる電脳部の部員の違法ハッキングが当局にバレたとかそういうことらしいから……」 「……違法ハッキングて……。……あ〜、ところで杉菜ちゃん、これからなんか用でもあるんか?」 「うん。デパートで食材買ってから帰る。頼まれてたの、さっき思い出して」 「なら、オレが荷物持ち兼ボディガードとしてお供しましょ。ヒマでプラプラしとったとこやったからちょうどええわ。かまわんやろ?」 「うん……べつに、かまわない」 「ほな決まり。それじゃさっそく参りましょか」 そうやって幸せ一杯ににっこり笑った姫条の携帯が、突然鳴った。どうやら今回は『デート中に携帯がかかってくるイベント』強化キャンペーン中のようだ。 「お、ちょいタンマ。オレに電話みたいや。ハイハイッと……!!」 電話に出た瞬間、姫条の顔が一気に不機嫌になった。 「―――なんや、アンタか。何の用や」 声もドスの効いた怒りのこもったものに変わっていた。少なくとも、杉菜の前では出したことのないような声音だ。 「……卒業後の進路?そんなん、オレの勝手やろ。なに言われても、オレは当分そっちには帰れへん。自分の力で生きてくんや!ホンマに、仕事人間のアンタに、ようこんなヒマがあったもんやな。……はいはい。都合のいいときだけ、オヤジ面せんといてくれ。オフクロに……何もしたらんかったくせに!」 姫条の表情がなお一層険しくなった。目の前に相手がいたら、即殴りつけてしまいそうなくらいの勢いで。 「オレには、オフクロが残してくれた貯金があるし、バイトかてしてる。もう、アンタの指図は受けへん。ほんじゃな。せいぜい会社を大きくしてくれ」 断ち切るように携帯を切って溜息を吐いたあと、姫条は杉菜に向き直って先程のようににっこりと笑った。 「あー、スマンな。いらん話、聞かせてもうて。忘れてくれ」 「……ニィやんの、お父さん……?」 「ん……まあ、な。けど、杉菜ちゃんが気にすることやないで。ホンマにスマンかったなぁ」 どこか張り付いたようなその笑顔をしばらく見上げて、杉菜は首をかしげた。 「……どないしたん?」 「……うん……私が言うことじゃ、ないだろうけど……」 「ん……?」 「夫婦のどちらか一方だけで、貯金なんてできないと思う。……どんな形でも、それは、お父さんとお母さんが2人で、ニィやんのために貯めたお金ってことじゃない?」 真っ直ぐに姫条に視線を向けて、杉菜は淡々と言う。 「………………」 淡々としたその口振りが逆にスンナリと姫条の心に響いて来て、彼は思わず黙り込んだ。 「……ごめんなさい。よく事情を知らないのに、余計なこと、言って」 「あ、いや……。謝るんはこっちや。見苦しいとこ、見してもうたな。……せやな、杉菜ちゃんとこは家族仲ええもんな。気になるのも解るわ」 だとしたら自分の親子関係の軋轢は彼女にとって酷く理解しがたいもの、醜いものに映っただろう。 そう思ったのだが、杉菜は首をふるふると振った。 「…………そうじゃなくて……」 「?そうやない……て、したらなんや?」 一瞬躊躇したように口篭もったが、杉菜はそのまま続けた。 「ニィやん……辛そうだから」 「オレが?」 「うん…………お父さんに、怒っていることが」 「…………そか」 姫条は見上げてくる杉菜の目を見て、軽く苦笑した。 (……ホンマ鋭いわ、杉菜ちゃん) 内心見透かされた気分で姫条は笑う。 「まあ、家族にはいろんな形や事情があるっちゅうこっちゃな。……わかっとんのや。オヤジかて寂しいんやってこと。…………オレのオフクロな、大分前に死んでしもたん」 杉菜から視線を逸らし、遠く陽炎の揺らめく先にある海の方を見て姫条が静かに話し出した。 「オフクロが危篤状態にあったとき、オヤジは仕事でどうしても病院に来れんかった。死の床で苦しんでるオフクロに、会ってもやれんかった。死に際にも間に合わんかったんや。それだけやない。オフクロが死んだあともすぐに仕事に戻って、働きアリみたいに金稼ぎに夢中やった。それしか目に入っとらん、そう思えてくるくらいに」 遠くに向けた目を細めて、何かを―――誰かを睨む表情になった。 遠い場所にいる、ただ一人血の繋がった人間を。 「―――そら仕事は大事や、それは解る。けど、自分の大事な人が死にかけててもしがみつく仕事ってなんや?そんなんおかしいわ。そう思て、オレはずいぶん荒れた。反発して、家飛び出して……挙句こんな縁もゆかりもない知らん土地まで来てしまったくらいにな」 そこまで言って、フッと笑う。 「……せやけど……オレも、いつまでもガキとちゃう。オヤジのこと、金儲けしか頭にない冷たい人間やと思とった。けど、離れてみてわかったんや。オヤジは、仕事に没頭することで寂しさから逃げてたんやな、って。そう、わかったんや。好きな人間を失って、悲しくない人間なんか、おるわけない。……最近、ようやくそう思えるようになった」 「ニィやん……」 「けどなぁ……頭では解ってても感情はついていけへん。オヤジの声聞くとこう頭にカァーッと血が上ってアカン。オレもまだまだガキやなぁ……って、ははっ!なんやエライ暗いこと語ってしもたなぁ〜。杉菜ちゃん、静か〜に聴いてくれるよって、こっちもついつい口が滑ってしもたわ。気ィつかわんと、途中でストップかけてくれてええんやで?こんな話聴くんはイヤやろ?」 杉菜に向き直り、照れたように笑いに紛らせた姫条だったが、杉菜はまたも首を横に振って答える。 「……べつに、嫌じゃない。口にしてみてスッキリするってことも、あるでしょう?……聴くことしかできないけど、私」 彼女の言葉をゆっくり反芻するように黙ってから、やがて力を抜いたように姫条が微笑んだ。 「…………そやな。ホンマ、おおきに。…………うん、まあ、なんやしんみりしてしもたけど、今日んとこはもう気にせんとパーッと行こうや。せっかくのデートなんやしな」 「……デート?」 「そや。杉菜ちゃんと2人っきりで歩ける機会なんてそうそうあらへんもん。たまにはオレにも付き合ってもらいたいわ」 「……今付き合わせてるの、私だと思うけど……」 「ええねんええねん、オレはあくまで杉菜ちゃんの下僕やからな。姫君に付き従うのはオレの生きがいやし。さ、行こ行こ!」 強引に話を切って姫条は杉菜を促して歩き出す。杉菜もそれ以上追求することもなく彼と一緒に連れ立っていく。 (……ホンマに喋りすぎやな、オレ) けれど杉菜は聴いてくれた。 自分の中にあるジレンマ。怒り、共感、哀情、そういったもの。 許せなかったのは、大好きだった父が大好きだった母を裏切ったように思えたからだ。 哀しくて、悔しくて、どうしようもなくなってそこから逃げる道を選んだ。父の悲哀を理解しようともせず、見える部分にだけ囚われていた。父だって、辛かったに違いないのに。 (自分、わかっとるか?こんなこと……考えられるようになったんは、自分のおかげなんやで) 行きどまりだと判っている逃げ道を選んだはずが、違った。逃げて、逆に自分を追い詰めていく迷宮に入りこんだと思っていたけれど、そこは行き止まりなどではなく、彼が捜し求めていた出口だった。 (自分が、杉菜ちゃんがおったから―――) 怒りと哀しみに支配された荒んだ心。それが彼女に会うたびに不思議と癒されて、いつのまにか冷静に物事を考えられる自分になっていた。自分の心も、父の心も、ちゃんと受け入れられるまで。 (……ま、どうしてもケンカ腰になってまうのは仕方ないっちゅうか……何年もこうやったから、どうにもクセになっとるしなぁ。それに今さら悪かったちゅうのもなんや照れくさいし。……せやけど) 杉菜ちゃんが言ってくれた、オヤジを憎むのがツライっちゅう、オレのホントの奥っこの気持ち。 それを乗り越えんことには、たとえ将来会社の社長として腕を振るったとしても、オヤジを超えたことにはならへんもんな。 「杉菜ちゃんにはやっぱりかなわんなぁ」 「え……何が?」 「いろ〜んなことや。ホンマ、ちーっともかなわん」 「…………?」 謎だらけの姫条の言葉に杉菜がいつものように首をかしげる。サラリと音を奏でるように髪が揺れる、その大好きな仕種を見ながら姫条は思う。 たとえ望む未来が待っていなくてもかまわない。 既に判っている結末を受け止められなくて足掻いているだけのは自分ただ一人だから。 だから、先送りにした結論がハッキリとその形を示す時までは、どうか。 どうか、許してほしい。 君の隣に、いることを。 |
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