−第22話− |
王子が国を発ったあと、姫のもとには多くの求婚者が訪れました。 なにしろ姫の美しさや聡明さは世界中に広まっていることでしたので無理もありません。 しかし、ほとんどの求婚者は姫に会うことすらできませんでした。 姫の父王が、姫にふさわしくない者を決して近づけようとはしなかったからです。 それは姫のために旅立った王子に対して、希望を持っていたからでもありました。 とはいえ、姫の呪いを解くことができるのが彼だけだとは限りません。 父王は姫への求婚者のなかでも特にすぐれた何人かを、姫の話相手として認めることにしたのでした。 旅の道中にある王子はその噂を風のたよりに聞きました。 王子はそれを聞いて、姫の元に戻りたいと強く願いました。 ですが、自分には姫の微笑みを得る手段がこれしかないと思い直し、世界の果てへと旅を続けるのでした。 「…………だるい」 朦朧とする頭を押さえ、葉月は壁に身を預けた。預けついでに壁に沿ってずり落ちて、ぺたんと床に座る。 数日来しとしととしつこく降り続ける雨にでも濡れたかのように、纏ったパジャマは汗で湿っていて気持ち悪い。が、それを着替える元気も体力もない。体中がズキズキして凄まじい悪寒がするのに、そのくせ異常に喉が渇く。 確実に、熱がある。 「…………風邪、かな……」 ポツリと呟いた自分の掠れた声が頭にジャ○アンソングのように響き、思い切り顔を顰めた。 頭痛・悪寒・咽喉痛・関節痛、そしてとどめの発熱とくれば、風邪の諸症状オンパレードである(鼻関係は王子たる彼には相応しくないのでこの際無視しておくように)。 原因は判っている。昨日の夜、土砂降りの中で行われた撮影だ。 編集の都合上どうしても降雨時かつ夜間戸外でのカットが必要となったのだが、ただでさえ梅雨の真っ只中で雨続きなところにこれがまた非常に気温が下がり、6月末とは思えない極寒のステージが出来上がったのである。 撮影自体はさくさく進んだものの、低い気温と雨に体温を奪われた葉月は大層疲れて帰路についた。珍しく湯舟を張ってしっかり暖まってベッドに入ったものの、その程度では自然現象の猛威には勝てなかったらしい。 そして今、自分の部屋を出もしない内に力尽きて座りこむほどの熱を出してしまった、というわけだ。 「熱……ある、けど……体温計、どこだっけ……」 しかし普段使いもせず忘却している物の場所が今の状況で思い出せるはずがない。 土砂降りではないものの外は未だ雨が降り続いており、暗鬱な色の雲が厚く太陽を閉ざしている。 ………………。 ………………。 ………………。 ………………学校、休もう。 窓の外に映る灰色の世界を見やりながら、葉月はぼやけた頭でそう結論を出した。 こんな状態で学校に行っても保健室に直行するだけ、家で寝てる方が移動と着替えの時間の分お得だ。ズルズルと引きずるように体をベッドに戻す。 そして大きく脱力の吐息を吐いた時、枕元の携帯電話が鳴った。 「――――――え……?」 「ええ。朝、熱があるから休むって電話連絡があったそうよ。あの葉月くんでも風邪をひくことがあるのねって、ミズキ、少し驚いたわ」 授業が終り、放課後の廊下。バッタリ会って立ち話に興じた須藤が杉菜にそう言った。杉菜の隣に立つ藤井が呆れたように返事をする。 「アンタさぁ、犬だって風邪ひくんだよ?葉月がひいたっておかしくないじゃん」 「あらだって、『あの』葉月くんよ?何だかそういうものとは縁遠いと思わない?あれだけ寝てるのに」 「ま〜ね〜」 珍しく喧嘩もせずに藤井と須藤が言葉を交わしていると、杉菜が得心したように頷いた。 「そうだったの……それで、お昼に来なかったのね……」 「ああ、例の温室ね?東雲さん、彼とランチを食べる約束でもしていたの?」 「べつに。けど、いつも起こしに来てくれるから……」 「いつも、ねぇ。ホント、杉菜の番犬ってゆーか忠犬ってゆーか。ま、ビジュアルはウツクシイけど」 園芸部の温室は、冬を過ぎた後も杉菜の休憩所として継続して使われている。雨の日などはさすがに校舎裏では眠れないので、園芸部の好意のもと悪天候時用の憩い場となっているわけだ。杉菜も教室よりは温室の方が環境がいいらしく日々快眠を貪っている。 それはともかく、杉菜はやや顔を伏せて指を顎に当てた。 「ん?どしたの杉菜?」 「……どうしよう。お見舞い、行った方がいいかな……」 「お見舞い?そんなの、東雲さんがわざわざ行く必要はないんじゃない?」 「けど……珪くん、1人暮らしだし。休むほどの事だから、具合、かなり悪いと思う。看病する人、誰かいるのかな……」 真剣に考え込んだような杉菜を見て、藤井は笑った。 「だよねー。アイツって1人暮らしの上に日頃の栄養状態悪そうだし、杉菜が行って面倒みてやった方がいいよ。アタシとのデートは次の機会でいいからさ」 「………うん」 帰りに一緒に喫茶店に寄る予定してたんだけど、こういう事態ならまあ許そう。 そう考えて藤井が勧めると、須藤が眉を顰めた。 「ちょっと藤井さん!東雲さんにそんなことさせる必要なんてないわ。葉月くんの体調が心配だっていうんなら、ミズキの専属ドクターを派遣してあげたってかまわないんだから!」 「アンタねぇ……。もし三原くんが風邪で寝込んでたとしてもそんなこと言えんの?」 「ぅ…………そ、それは……」 常々杉菜には葉月が付いていて杉菜と語り合う機会が少なく、葉月がいない今日こそ好機と考えていた須藤だが、おまけの藤井が言った言葉でシュンとした。確かに三原が倒れれば、自ら見舞いに行きたいと考えるだろう(看病はできないので専属ナースをお供につけて、だが)。 藤井ほどではないものの、須藤も杉菜の葉月に対する感情についてはうっすら見当がついている。というよりあれだけ引っ付いてくる葉月をむしろ受け入れている杉菜を見ればよほど鈍くない限り解ろうというものだ。 「……わかったわ。あ、なら、リモで送ってあげましょうか?雨も降っていることだし」 「ううん、近いから平気。ありがとう。それと……ごめんね、奈津実」 「謝るこっちゃないって。ま、早く元気になれって言ってやんなよ。アンタが言えば、効き目バツグンだよ〜?」 「……?それじゃ」 挨拶をして去って行く杉菜に手を振りながら、藤井と須藤は軽く息を吐く。 「東雲さんって、やっぱり葉月くんが好きなのかしら」 「本人気づいてないっぽいけどね〜。ま、ふだん積極的とは正反対にいるあの子が自発的に行こうって思ったんだし、それを止めるのもヤボでしょ」 「それはそうだけど……やっぱりミズキには理解できないわ。どうしてよりによってあの葉月くんなのかしら。そりゃあ東雲さんと出会ってからの彼はずいぶん変わったように思えますけど」 「そ〜お?アンタが三原くんを好きだっていうことの方がアタシには理解できないけど」 「ちょっと、色サマを侮辱する気!?―――言わせてもらいますけどね、ミズキにはあなたがあのウドの大木を好きだっていうことの方がサーッパリ理解できないわ!」 「ウドの大木って、アンタねぇ!あれでもいいトコあんのよ、見えないだけで!てゆーか、ウドだって頭痛・めまい・歯痛に効くっていう立派な効用があんの知らないの!?」 「Oh,LaLa…そぉ〜んな原始的なこと、このミズキが知ってるわけないじゃない。所詮は庶民の知恵ってやつですもの〜?」 「……アンタとは一度他人に対する礼儀ってものについて、じっくりたっぷり語り合ってやりたいと思ってたのよね!」 「Oui,望むところよ!」 周囲に雷フラッシュを飛ばしつつ、2人は舌戦を繰り広げながら喫茶店へと至るであろう廊下を歩き出した。 犬猿の仲に見えるが、結局のところ似ているんである。 ぽつ。 「…………ん……?」 とめどなく降り続ける雨が窓や屋根に当たり、その内の幾つかの音でふと葉月は目を覚ました。 目をうっすらと開けてぼんやりと天井を見上げてから、未だ重い首を巡らせて傍らにある時計を見た。 「……結構、寝てたな……」 既に学校は終わっている時間。朝からずっと熟睡していたようだ。まだまだ体の節々が痛く、熱があまり下がった気がしないが、頭の方は少しクリアになってきたようだ。自分の声も通常のトーンに戻ってきている。あと二眠りもすればほとんど治るだろう。 「休みたく……なかったんだけどな……」 再び天井を見上げてポツリと呟く。 もうすぐ期末テストだからという訳ではなく、ただひたすら杉菜に逢いたいからだった。 クラスが離れて3ヶ月、登校時と昼休みとバイトがない日の帰り道くらいしか彼女に逢えない。梅雨に入ってからは森林公園で会うこともできなくなった。ただでさえ杉菜に気がある男子連中が姫条を筆頭にうようよいるところに、蒼樹、そして何故か葉月に弟子にしろと言ってきた日比谷などが出て来て気が気でないのに。 (まさかあいつ、杉菜に近付くとは思ってなかった……) しかも杉菜が会話相手として一応認識しているのだから厄介だ。 数ヶ月前はほぼ毎日、彼女が起きている時間の大部分、彼女の近くにいることができたのに。 スラスラと問題を解くその流れるような姿を眺めるのも。 机に突っ伏して眠った時にふと見える気持ち良さそうな寝顔を眺めるのも。 窓を開けている時に流れ込んだ風が彼女の髪をふわりとなびかせるのを眺めるのも。 声をかけて振り向いたその一瞬の横顔のかたちを眺めるのも。 近くにいれば、毎日見ていられるのに。 (俺……寂しいんだな、やっぱり……) クラス替えの時に彼女は『変わらない』と言った。それを受け入れたはずの自分がいた。 なのに、彼女の姿が見えないだけでどうしようもなく寂しくなる。 彼女と距離が開くのが怖くてたまらない。 あいつが、いないと――――――。 目を閉じて暗くなった世界を雨音がシトシトと包む。 ぽつ。 ぱた。 ぴしゃ。 繰り返される静かな交声曲を聴き続けていると、言い様のない寂しさと共に昔の思い出が蘇ってくる。 (…………祖父さんが死んだ時も……雨だった……) 葉月にとって、一番の理解者であった祖父。彼がいなければ、自分の心なんてとうの昔に朽ちてしまっていただろう。 今日のような雨音にくるまれて天へ召された祖父を思うと、いつも胸が締め付けられる。 優しく、時には厳しかった、大好きな祖父。彼が亡くなった時、自分もこのまま死にたいと思うくらいに苦しかった。 (……………けど……) 今は、彼女がいる。 彼女がいればそれだけで充分だと、思えるほどの。 彼女の為に生きていたいと、思えるほどの。 これほど強く誰かを想うことがあるなんて思わなかった。まるで狂気だ。 けど、彼女は自分にまだ心が残っていることを教えてくれる。 人を愛するその心地よさ。 その心地よさに酔えることが、何よりも嬉しい。 だから、逢いたい。 いつだって、その傍に、いたい。 「…………喉、渇いたな……」 粘つく口の中に耐え切れなくなって、葉月は目を開けて体を起こした。痛みはあっても動けないほどではなさそうで、いつもの倍の時間をかけてベッドから降りる。足もキッチンへの往復くらいなら何とか行けそうだ。ついでに何か腹に入れて薬を飲もう。早く治して、あいつに逢いに行きたい。 冷蔵庫に入っている食材を思い出しながら部屋から出ようとして、葉月は少し外の雨の様子が気になった。校舎裏の猫たちに過酷なものではないだろうか、この春生まれた子猫達は大丈夫だろうか、そう思って踵を返して窓際に寄る。 カーテンを半開きにして外を眺めると、大分雨は弱くなっていた。煙ったような雨霧は相変わらずだが、激しさはそれほどでもない。風邪が治る頃には上がっているだろう。 ホッとしてカーテンを占めようとしてふと下の方を見ると、葉月家の塀に沿って歩いている人物が見えた。傘で顔は見えないが、その流れる動きと見覚えのある傘に気づいて葉月は目を見開いた。 (…………まさか……?) 傘が葉月家の門の中に入ってくるのを見て、慌てて葉月は部屋を出る。フラフラなのに驚くほど迅速な動きだった。そして玄関に直行し、そのままの勢いで鍵を開けてドアを開ければ。 そこには、彼が今最も逢いたい少女がそっと佇んでいた。 「杉菜―――。おまえ、何、してるんだ……?」 「……呼び鈴、押そうと思って……」 突然出て来たパジャマ姿の葉月に驚いた杉菜が、不自然にあげられた己の片手についてそう説明した。 「……いや、そうじゃなくて……。―――あ、とにかく玄関入れ。濡れるから」 促して招き入れる。杉菜も素直に傘を閉じて玄関に入った。制服姿のままで、スカートの裾が少し濡れていた。 「どうしたんだ、一体……」 「お見舞い」 「……わざわざ、来てくれたのか?」 「……具合、どう?」 「え、ああ。眠ってたから、朝よりはマシだけど……っ!」 不意に杉菜がスッと手を伸ばした。葉月の前髪を掬い上げて、その額に直接触れる。ひんやりとした感触がとても気持ちよかった。 「……38.6℃。熱……高いね」 「……そんなにあったのか……道理で……」 今それだけあるということは、朝はもっとあったはず。某菱沼○子並みの低血圧・低体温を誇る葉月がそんな高熱を出すなんて何年振りだろうか。今のところ体は辛くても頭はハッキリしているが。 それにしても手を当てただけで温度が分の単位まで判るとは。 「まだ、休んでた方がいい。パジャマも着替えて。お薬は飲んだ?」 すっと引かれる手の感触がとても惜しかったが、葉月は軽く首を振った。 「いや……今までずっと寝てたから。喉、渇いて。それで起きてきて、おまえが来たのが見えた」 「ああ……そうだったの。……ね、キッチン借りてもいい?」 「え?」 「家から少し食べ物持ってきたから。お薬飲めるくらいの軽い物、用意する」 見れば杉菜の手にはカバンではなくて手提げのビニール袋が握られていた。確かに中身は食べ物のようだ。 「……いいのか?」 「うん」 「悪い……見舞いに来てくれただけで充分なのに……」 「その為に来たから、いいの。場所、教えてくれる?」 「ああ、こっち。……あ、何のお構いもできませんが」 「あ……いいえ、どうぞお気になさらず」 杉菜を案内して自分は水を飲んだあと、葉月は杉菜の言葉に従って部屋に戻って予備のパジャマに着替える。乾いたパジャマに着替えただけでかなり気分的には良くなった。着ていたパジャマを適当に畳んで部屋の隅に置いてから、再びベッドに横になる。 10数分後、開け放していた部屋のドアがノックされて、杉菜がトレーを持って入って来た。葉月も上半身を起こして彼女と向かい合う。 「大丈夫?」 「なんとか。着替えたら少し、楽になった。…………桃?」 水や薬、そして小さな洗面器と一緒にトレーに乗っているのは、ガラスの器に盛られた桃のシロップ漬け。 「基本だから、桃缶」 「確かに……」 杉菜から器を受け取って葉月は一口大に切られた桃を口に運ぶ。食べさせてもらうまでに体力は落ちていないようで少し残念な気分ではあったが、ほどよく冷えた蜜がするりと喉を通って火照った体を冷やしていく。 「美味い……」 「よかった」 「けど、今冷やしたにしてはずいぶん冷えてるな」 「冷蔵庫に入れてたから。常備なの、家」 「常備?」 「常備。家族が熱、出した時のために。いつも2つは入れてるの」 なるほどと二口目を食べる。甘い果実が熱で疲労した体を潤す内に、早くもブドウ糖が回ったのか葉月の頭が動き出す。 まさか来てくれるとは思わなかった。 まさかこんな状態の時に会えるとは思わなかった。 嬉しいけど、これは本当に現実なんだろうか。朦朧とした頭が見せてる幻覚なんじゃないだろうか。 そう不安になって顔を向ければ、そこには確かに杉菜がいる。幻覚なんかじゃなく、儚げなようでいて確かな存在感で。 ここに、傍に、いてくれる。 「……ごちそうさま」 「うん。はい、お薬」 手渡された薬を水で流し込んで大きく息を吐くと、それだけで1度は熱が下がった気分になった。 「他にもいくつか、食べられそうなの持ってきたから。お腹空いたら食べて」 「ああ。…………サンキュ。おまえが来てくれて、助かった」 「……どう、いたしまして」 か細い声に葉月は笑う。ずっと見てきて判った事だが、杉菜はお礼を言われると少し戸惑ってから返事をする。 無表情だから単なる「ありがとう」に対する返事かとも思えるが、葉月からするとどこか照れているようにも感じる。感情がないという人間が照れるなんてありえないはずなのに、どうしてもそう思えてならない。そして葉月はそんな杉菜を見るのも好きだった。 「……横になる?その方が、楽だと思うけど……」 「そうだな……そうする」 答えて葉月はベッドに横たわる。杉菜は水の張った洗面器の中のタオルを絞って、彼の額に当てた。腫れぼったい顔が落ち着いていって、葉月は安堵したように目を閉じる。 「……冷たい……けど、気持ちいい……」 「本当は腋窩にもした方が効くんだけど……どうする?冷湿布も持ってきたけど」 「冷湿布?……そうか、冷罨法……いや、今はいい。辛くなったら自分で貼る。手の届く所に置いててくれればいい」 「うん、わかった。……………………」 頷いてから不意に黙り込んだ杉菜に、葉月はタオルを押さえながら顔を向けた。 「どうした……?」 「うん……早く、良くなるといいね」 「ああ……。大丈夫、多分、すぐ治る。おまえが来てくれたから」 「私が……?」 「そう。本当に、サンキュ。来てくれて……嬉しかった、俺」 そう言って微笑むと、杉菜が軽く目を見開いてから俯く。そして、やがてポツリと呟いた。 「…………不思議、なの」 「……不思議?」 「珪くんが、いなくて。お昼とか、いつも一緒だったからかな。いないのが、変な感じ」 杉菜が顔をあげた。そこにはいつもの無表情。しかし何かが判らない、そんな空気で。 「……その……たとえば、いつもそこに置いてある物がそこにないと、何だか違和感がする、そんな感じ、なの」 置物なのか、葉月は。 だが葉月はそんなツッコミも思い浮かばずに、ただ瞠目して杉菜を見つめていた。杉菜はそんな葉月の視線からなぜか目を逸らして言葉を続けようとする。本当に判らなくてそれに自分で戸惑っているように。 「…………杉菜……」 「だから……早く良くなって、学校に来て……その、っ…………」 私、何を言おうとしてるの? 私、何が言いたいの? 何なの?この、わからない『何か』は。 ……けど……本当に、変な感じなの。 いつも私に注がれている、あなたの優しい視線。 2年になって、クラス替えがあって、でも同じ学校で、同じ校舎で、同じ階で、変わらないはずなのに。 登下校する時やお昼休み、あなたに会うと何かが違う。 自分の中の、何かが。 「……珪くんがいないのは、不思議、だから……」 「…………杉菜」 上手く言葉にできなさそうな杉菜を見ながら、葉月は再び上半身を起こした。ぽすんとタオルが落ちてブランケットに淡く染みを作る。 ……なあ。 つまり、それって、そういうこと……なのか? おまえが。 俺がおまえの傍にいることを、おまえが、望んでくれるなんて。 これは、本当に現実なのか? 「珪、くん……?」 吸い寄せられるように、腕が伸びる。杉菜がその手を払いのけようともせずにただ葉月を見つめているのを見て、彼の腕は更に彼女の方へと近付いていく。 抱きしめたい。 抱きしめて、夢や幻じゃないって、確かめたい。 この腕の中に、おまえを。 何よりも愛おしい、花を。 この手に、この腕に、この胸に。 魂ごと、満ち足りるくらい。 伸ばされた指が、杉菜の頬に触れる―――寸前。 『ピンポーン』 階下から呼び鈴の音が聞こえて、葉月の腕はそのまま空で止まった。 ハッと気がついて葉月は瞬きをする。そして慌てて手を引っ込めて、顔を逸らした。 「……珪、くん」 「その……髪に何か付いてると、思って……。何でも、なかった」 「ああ……そう、なの。……顔、赤い……熱、上がったの?」 「いや、そういう訳じゃ……」 来た時と同様に熱を計ろうとする杉菜に手を上げて止める。 熱が上がった、と言えば嘘じゃない。けど、風邪の熱とは違うもの。 (良かった……) いきなり抱きしめてたら、どう思われることか。そう考えると実に今の呼び鈴はお約束ながら大いにグッドタイミングだった。 「そう……。ところで、お客さんみたいだけど、出ようか?」 「いや……インターホンで確認してから、俺が出る」 最近はタチの悪いセールスも多い。そんな連中に杉菜を見せたくない。 そう思ってベッドから立ち上がろうとした……が。 「―――危ない!」 警告が飛ぶやいなや、葉月はガクッと膝が崩れた。 「――――――ッ!!」 バタァッ!! いきなり立ち上がったせいで眩暈を起こした葉月はそのまま倒れこんだ。しかもこれまたお約束、見事に杉菜を巻き込んだ上で、である。 (………なんだ?すごく、気持ちいい……) 倒れたにしては柔らかい感触を頬に感じて、葉月はクラクラする頭を持ち上げる。 「悪い杉菜、大丈夫か……――――――!!」 そして更にお約束。葉月は杉菜の胸をほとんど枕にして倒れこんでしまっていたのである。 その事実を認識して、葉月は一気に顔が赤くなった。もっとも一歩間違えばセクハラな目に遭った彼女の方は何ら気にしていないようだが。 「……私は大丈夫。ごめんなさい、支えられなくて。ぶつけたり、してない?」 「支える……つもりだったのか?」 体温がまたも急上昇した状態で質問する葉月に、杉菜が仰向けに倒れたままでこくんと頷いた。 「タイミングが間に合わなくて。合ってれば、支えられたんだけど……」 米俵1俵はある大の男を支えるつもりだったとは。確かに杉菜ならやりかねないが、それは男としてどうか。 「ちょっと〜、何で鍵あいてるのよ。まったく不用心なんだからぁ。―――珪、いるんでしょ!?寝てるのー!?」 葉月が戸惑っていると、1階から玄関を開ける音、玄関に上がる音、廊下・階段を歩く音に並行して元気な女性の声が聞こえてきた。慌てて身を起こそうとするが、薬が効いて来たのか力が入らず上手く起き上がれない。そうこうしている内に足音は部屋の前まで来て、ピタリと止まる。 開かれたドアの脇に立ち、部屋の中の光景を目にした快活そうな20代後半〜30歳前半と思しき女性は、これ以上はないくらいに目を見開いた。 「――――――あら、……お邪魔しちゃった?」 しばしの沈黙の後、戸惑いがちに、けれどどこかからかい気味にその女性が言う。 「洋子姉さん……誤解」 葉月が見るからに眉を顰めて答えると、彼女が更に言った。 「だって、熱出して休んでる珪が心配で来てみれば、当の本人は女の子押し倒してるんですもの。誤解するなっていってもねぇ」 「……ハァ。杉菜……本当にどこも打ってないか?」 「うん。珪くんは?」 「ああ、俺も何とか……悪い、力、入らなくて……」 杉菜の手を借りながら、ようやく体を起こした葉月が改めて謝った。セリフによる状況把握のあと、彼のその心底だるそうな様子を見て、洋子姉さんと呼ばれた女性はようやくからかいの表情を消した。 「―――あら、本ッ気でまだまだ具合悪そうじゃない。薬飲んだの?お医者さまは?」 「……薬はさっき飲んだ。医者は、それどころじゃ、なくて。ずっと寝てたし、動けなくて」 「それもそっか。じゃあどうする?辛いようなら連れてくわよ?」 「……やめとく。今動くの、かなり面倒……」 「仕方ないわね。それじゃしばらく様子を見て、どうしてもって時は往診を頼むわ。ほんと、マネージャーから聞いて朝の内に連絡してみてよかったわ」 杉菜と一緒に葉月がベッドに戻るのを手伝いながら洋子が言った。 「ごめん……」 「いいわよ。あたしはあんたの保護者なんだから、これくらいはね。今日は早く終われたし。―――ところで……珪、この可愛い子、あんたの彼女?」 隣の杉菜に目をやって、洋子が笑う。葉月に向ける目はやはりからかいの要素が強い。 「……友だち。見舞いに来てくれた」 「初めまして、東雲杉菜と申します」 綺麗な所作でお辞儀をして挨拶をする杉菜に、洋子がホウッと感嘆の溜息を吐く。 「こちらこそはじめまして。珪の従姉で、珪の両親が海外にいる間の保護者をしている葉月洋子です。よろしくね、杉菜ちゃん」 「はい」 頭を上げた杉菜の顔を、洋子はジ〜ッと眺める。それを見て、葉月が言った。 「洋子姉さん……こいつは、ダメだから」 「え、な、なにが?」 「……モデルの代役で使おうとか、考えるなってこと」 「……鋭いわね、珪……」 「やっぱり……。俺の二の舞、させるつもりないから」 もっとも杉菜の体質ではモデルは無理だろう。……寝顔モデルとしてならいけるかもしれないが(←なんだそれは)。 「二の舞?……そういえば、珪くんってどうしてモデルの仕事始めたの?自分からするタイプじゃ、ないよね……?」 杉菜が葉月の方を見て訊ねた。そういえば、話したことはなかったか。 「ああ……。洋子姉さん、雑誌の編集してて。中学の頃、怪我したモデルの代役、頼まれた」 「うん」 「その次の月も、頼まれた」 「……うん」 「その次の月も……」 「……その調子で、今までずっと?」 「そう」 頷く葉月に、けらけらと洋子が笑った。 「そうなのよぅ。この子ったら何だかんだ言って頼まれると断れない子でね〜。おかげであたしは助かったんだけど」 「……おかげで俺は、苦労したんだけど。現在進行形で」 「あはは……それを言われちゃうと、ねぇ……」 苦笑いをしてあさっての方向を見る。それに嘆息してから、葉月は杉菜に言った。 「杉菜、おまえもう帰れよ」 「え?」 「洋子姉さん来たから、あとは大丈夫。それに、あんまり長くいると時間になる。だろ?」 本音を言えばいてほしいが風邪を移したくないし、何より今は自分の理性をセーブできないし。 杉菜は葉月と洋子をしばし見比べて考えてから彼の言葉に頷いた。 「……じゃあ、そうする」 「ああ。俺、送っていけないけど……」 「ううん、近いから平気。明るいし。それじゃ洋子さん、あとはお願いします」 「わかったわ。ありがと、杉菜ちゃん。ああ、玄関まで送るわ」 挨拶をして杉菜と洋子が部屋を出て行こうとするのを見遣って、ふと葉月は思いついたことがあって杉菜に声をかける。 「杉菜」 「―――何?」 振り向いた杉菜が問いかける。 「俺……風邪、早く治す。そして早く学校に行く。そしたら……昼飯、一緒に食おう、また」 少し目を見開いて、杉菜は葉月を見つめた。そしてやや間をおいてからこくんと首を縦に振った。何かの回答を得たような空気で。 「…………うん」 「杉菜ちゃん、かぁ。溌剌としてるわけじゃないけど、礼儀正しくて可愛い子ね」 杉菜を見送って戻って来た洋子がにこやかに言った。 「……ああ」 「あ、でも笑ってくれなかったなぁ。……やっぱり凝視しちゃったの、まずかったかしら。あんな美少女滅多にいないからついつい魅入っちゃったけど、初対面で嫌われちゃったかなぁ」 「そうじゃない……。あいつ、表情出ないんだ。けど、よく知らないで相手を嫌ったりするような奴じゃないから」 「あ、そうなの?へ〜え、よく見てるじゃな〜い?」 「っ、べつに……」 「あら?どうしたの珪?顔が赤いわよ〜?」 「……俺、病人なんだけど」 からかいモードに入った従姉に鋭く言い放つ。 「ごめんごめん。でもそっかぁ、あの子が珪の、ねぇ」 「……なに」 「うん。……最近の珪の表情の変化、あの子が原因なのね?」 からかいの瞳は消えて、弟を見守る姉の表情になって洋子が肯定を求めた。 「…………ああ」 「あんた、最近すっごくいい表情してるのよ。中学時代みたいにすべてを諦めたような瞳じゃなくて、ちゃんと周りに目を向けてるっていうか、生きてる瞳してるっていうか。見ててホッとする」 同じことをカメラマンの山田にも言われた。以前のただひたすらクールな雰囲気もいいが、今の少し和らいだ雰囲気はもっといいと。 「杉菜ちゃんのこと、好きなんだ?」 「…………ああ」 あっさり答える。 「……あいつといると、優しくなれる。笑ったり、怒ったり、哀しんだり、楽しかったり、そういう自分の中で死んでたと思ってたものが、生き返る感じなんだ。……それが、嬉しい」 葉月が静かに言うと、洋子は彼の顔に見惚れたようにますますにっこりと笑う。 「すごいわね、彼女。この珪に、そんな表情させちゃうんだから。……でも良かった。あんたがまだそんなふうに笑えるってこと、わかっただけでも」 「洋子姉さん……」 ほのかにしんみりした……と思ったが、すぐに彼女の表情は元に戻った。 「ねぇねぇ、もう告白はしたの?彼女の方は、あんたのことどう思ってるの?お見舞いに来たんだから脈ナシってことはないわよね」 女性が興味を持つには当たり前の質問をされて、葉月は息を吐く。 「告白は……してない。あいつの気持ちも、わからない。まだ」 「あらら。言えばいいのにぃ。それとも、勇気が出ない?」 「……それもあるけど……色々あるんだ、事情」 「ふーん?よくわからないけど……ま、いいわ」 葉月の顔に一瞬よぎった真剣な色を見て、洋子はそれ以上詮索しなかった。 決して悪い方向に行ってるわけじゃない。普通の高校生らしい悩みだし、ならば静観していても大丈夫。 …………だが。 「……ねぇ、珪?話変わるんだけど……あんた、最近仕事が多くなったわよね。あんたの表情が変わった頃……去年の秋頃から」 「ん?……ああ、増えてきた」 「うん。それって……『モデルの葉月珪』のファンが増えて来たって事だって……解ってる?」 「……ああ、解ってる」 「なら、言いたい事はわかるわね?」 「…………ああ」 頷くと洋子は眉を顰めた。 「有名税って言えば聞こえはいいけど、気をつけてね。中にはとても熱狂的な子もいるから。……あんた自身もそうだけど、あんたの大切なあの子、巻き込まれないように」 真剣な顔で言う洋子に葉月は頷く。 「ああ、わかってる」 『……最近はうるさい『虫』も増えてきたことだしさ』 4月に藤井が言ったセリフを思い出す。 わかってる。 誰にも、傷つけさせたりなんか、しない 彼女だけがただ一人、俺を動かす姫なんだから。 |
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