−第17話− |
姫の呪いを知った王子でしたが、それでも姫への愛が変わることはありませんでした。 王子はそれまでのように姫に会い、いろいろな話をしました。 姫もそれまでのように王子に会い、いろいろな話を聞きました。 世界中の美しいものや楽しいこと、王子は心ひかれたすべてのことを話しつづけました。 姫はそんな王子の話を、いつもおだやかに聞きつづけました。 そんなある日、二人のことを聞いたこの国の王が、怒りのあまり王子を捕らえてしまいました。 王は娘である姫をとても愛していましたので、姫をたぶらかす者は誰一人として許さなかったのです。 しかし王の前に引き出された王子は、とても素晴らしい青年でした。 身分や容姿、教養や心ばえに至るまで、王が会ったことのある誰よりも優れていました。 王は自らの非礼を詫びたあと、王子にこう言いました。 「旅の王子よ。王として、父として、そなたを姫の相手と認めることには反対はすまい。 だが、姫自身が愛していない者に、姫を嫁がせたくはないことも解ってほしい。 もちろん、姫の呪いを解けるというなら話は別だ。 だが、世界のいや果て、深き森に巣くう魔女の呪いを解けるはずがない。 どうか、姫のことはあきらめてもらえまいか」 しかし王子は、王の言葉を聞いて決心しました。 「いいえ。 少しでも姫の呪いを解く可能性があるのなら、私はいかなる困難にも立ちむかいましょう。 姫は私の心の幸い。姫の愛さえあれば、いかなる試練も喜びに変えることができます」 そうして王子は姫の国から旅立つのでした。 世界の果て、遥か彼方の遠つ国に棲むという、深き緑の森の魔女のもとへと。 出発の日、旅立とうとする王子を姫が止めようとしました。 「あなたがそんなことをする必要はありません。 私には、あなたに差し上げられるものなど何もないのです。 そんな私のためにこのような苦難を受けるなど、どうかそんなことをなさらないで。 私のために苦しまないでほしい、私が望むのは、ただそれだけなのです」 姫はそう言いましたが、王子は首を振って答えました。 「これは私が決めたこと。私がそうしたいと願ったからこそ、旅立つのです。 たとえ世界の果てからでも、どれほど時間がかかっても、必ずあなたの元に帰って参ります。 私を案じて下さると言うのなら、私が戻ったその時に、ただ一瞬でかまわない。 私のためだけに、微笑んでください。 あなたは、私に心をあげられないと、愛するということが解らないと、おっしゃった。 けれど、それでもいいのです。 私の心は、あなたのもの。 あなたが私のために微笑んでくれる、そんな途方もない望みのためならば。 私は、どんな試練であろうと、立ち向かう事が出来るのです」 王子が旅立ったあと、姫は毎日、森の教会で王子の無事を祈りました。 たとえそれが虚ろな形だけのものであっても、それが姫のできるすべてだったからです。 せめて、私ができるすべての事が、あなたが私にくれたすべての事へのお返しとして渡せたら。 姫はそう考えながら、ただ王子の無事を祈りつづけました。 ――――何かが変わりつつあったことに気がついたものは、まだ、誰もいませんでした。 赤と緑、青と金のオーナメントが凍るような街中をあざやかに染める季節。 臨海地区のショッピングモールは祝日+クリスマス直前の雰囲気があいまって、華やかな空気を演出していた。ジングル・ベルの音楽や鐘の音が高らかに響く中、沢山の人々がその空気のおこぼれに預かろうと街を闊歩して、並々ならぬ盛況振りだ。 「ねー杉菜、どうかな?コ・レ!」 モールの一角にあるブティック・ジェスでは年に一度の大バーゲンで賑わっている。そんな中でドレスをとっかえひっかえ選んでは連れの少女に感想を求めているのは藤井である。 「……悪くないと思う。奈津実、肌の色がはっきりしてるし。かえって似合う、そういう色」 くるりと回る藤井に頷きながら答えるのは杉菜。藤井は身に纏ったエメラルドブルーのチャイナドレスに満足そうに目をやった。 「ホント!?杉菜のお墨付きならダイジョブだよねー。うん、サイズもピッタリだし、値段も手頃だし、これにしよっと!明日のパーティはこれでバッチリ決めてくぞー♪」 藤井は楽しそうに笑ってから、着替えて会計を済ます。 「やっぱ杉菜に付き合ってもらって正解〜!アンタホンットにセンスいいんだもん。プレゼントもイイ感じの見つかったし、ありがと♪」 「べつに……大したこと、してないし」 「大したことかどーかは、アタシが決めること!そういう時は『どういたしまして』とか言えばいーの」 「……じゃあ、どういたしまして」 「そーそー」 モールの洒落た廊下を歩きながら二人は他愛もない話に興じる。というか一方的に藤井が話を振って、杉菜が言葉少なにそれに答える、という感じだが。 「でもさ〜、仕方ないんだけどやっぱ残念だな。杉菜がパーティ来られないの。ドレス姿見たかった〜!」 「……もたないから。けどドレスなら、さっき試着したけど……奈津実に言われて」 「うん、そうなんだけど。理事長ん家って、すっごい豪華でパーティも本格的らしいから、その場でこそ着飾った杉菜見たいってのがあったんだよねー。あ、もちろんさっきのドレス姿も可愛かったよ〜♪アンタってホント白似合うよね。白似合う女ってすっごい貴重だし、うらやましいなぁ」 「そう……?自分じゃ、よくわからないけど」 「じゃあいっつも服選んでんの誰よ?」 「尽」 「……なーるほど。アイツもなかなかいい目してるよ。小学生のくせに、侮れん」 毎年12月24日は、理事長宅でクリスマスパーティが行われる。参加者のほとんどが高等部生という事もあって、時間自体はそれほど遅くもないのだが、如何せん杉菜の体質上夜の催しには参加不可能。もっとも周囲の落胆に比べ当人はそれほど気にもしていないが。 杉菜のドレスアップを拝めずにガッカリした藤井だったが、だったら買物に付き合ってくれという事で、パーティの前日である今日23日に上手いこと彼女をデートに誘う事に成功した。混雑は覚悟の上だが、思いもかけず杉菜と遊べるのは嬉しい。単にウィンドーショッピングをするだけでも楽しいのだが、杉菜に付き合って普段は入りづらいショップに入ったりするのも面白かった。何より杉菜のセンスがすこぶるよろしいので、意見を聞きながら買物ができるのはラッキーなのだ。 そんなこんなでウキウキとした少女と無表情の少女が連れ立って歩いていた訳だが、ふと前の方から騒がしい嬌声が聞こえてきた。 「……あっれー?あそこ、なんか人だかりができてるけど、何かの撮影とか?」 藤井が不自然な若い婦女子の群れに気がついて目を向けると、どうやら撮影らしきものが終わったばかりのようだ。囲まれた輪の中から群れのボス、もといミツバチを引き寄せる花のような姿が現れた。花は花でも端正過ぎるが。スタッフの一人がその人物に向かって手を振っている。 「おつかれ、葉月ちゃん!今日もいい写真撮れたよ〜、ありがとねぇ」 「……それはどうも。俺はこれで……ん?……杉菜?」 疲れたような不機嫌な顔を隠そうともせずに現れたのは葉月だった。しかし杉菜の姿を認めると、打って変わって上機嫌な微笑みを浮かべる。 そして周りのファンを振り切るように、真っ直ぐ杉菜達の元に歩いて来た。 「ちは、葉月〜!」 「こんにちは、珪くん」 「ああ。…………いいな、その色」 「え……?」 「おまえ、やっぱり白が一番似合う。好きだよ、俺……そういうの」 杉菜の着たオフホワイトのコートを目に留めて、葉月が褒める。藤井も言っていたが、真に白が似合う女性は少ない(男性もだが)。それを見事に着こなして調和させている辺り、杉菜のセンスと彼女の持つ雰囲気の素晴らしさが判ろうというものだ。 「そう……?ありがとう」 「いや……得したな、今日。おまえに逢えて」 「……ちょっと葉月!アタシもいるんだけど!?」 半ば二人の世界化しているところに、思いっきり無視された藤井が声をあげる。それでようやく杉菜に連れがいた事に気がついて、葉月が藤井を見た。一瞬にしていつもの無表情に変わる。 「おまえか……。……フジキ、だっけ」 「フ・ジ・イッ!!アンタねー、こないだは『ツジイ』とか言わなかった!?人の名前くらいちゃんと覚えなさいっての!ったくアタマいいくせして!」 プンスカプンと藤井がふくれるが、葉月にとってはそれはどうでもいい事らしい、真っ直ぐ杉菜の方を見て訊ねる。 「おまえ、明日じゃなかったか?例の」 「うん。今日は奈津実と買物」 「そうか。……必ず聴きに行くから。1時から、だったよな」 「そう」 「ちょっとちょっと、何の話してんのよ?杉菜、明日なんかあるの?」 慌てて藤井が話に割り込んで来た。葉月と杉菜の会話は余人には理解しにくい単語と短文節の羅列が多く、周囲の人間は話の把握にいつも苦労するのである。 「うん。明日バイトでバイオリン弾くの。1時から、モールの一階中央ホールでやるクリスマスミニコンサート。それ」 「……えぇッ!?コンサート!?明日!?なんで、どうして!?」 「バイオリンの先生から、頼まれて。予定、なかったし」 「いや、そーじゃなくて、なんで言わなかったのー!?言ってくれたらみんなで聴きに行く段取りつけたのにぃ〜!」 「……訊かれなかったから」 キョトンと首を傾げて答える杉菜に、藤井は見るからにガックリと肩を落として脱力した。 友だちの自分にくらい教えてくれたって……と思わずにいられないが、杉菜らしいといえば杉菜らしい。 「……じゃあなんで葉月は知ってんの〜?」 バイオリンを習っている事は、以前日曜に遊びに誘った際に稽古を理由に断られた経緯があるから知っていたが、こういうイベント情報がどうして葉月には知られているのだろうか。まさか杉菜が自発的に教えたとか? 「……たまたま。明日の撮影、ここでロケだって話をしたら、杉菜もその日はモールで仕事だって」 「なるほど」 やはり自分からではなかったらしい。この辺そういうラブチャット展開をできる話題を確保している葉月の方が上手である。(←だからゲームが違います) 「でも珪くん、今日もお仕事なのね。さっきの、春に会った山田さんでしょう?」 「ああ……雑誌の取材だったんだ。他の日が都合つかなくて、今日になった」 「へぇ〜、スゴイじゃん!ねぇねぇ、取材ってどんなこと話すのよ?」 藤井が目をきらめかせて訊くが、葉月は実にやる気のなさそうな声で答えた。 「……はい。……いいえ」 「…………はあぁ???ちょっと、なによ、それ」 「……コメント」 「コメントってアンタ……『はい』と『いいえ』だけで記事になるワケ〜〜〜?」 「さあ……読んだことないから、俺。どっちみち、ヤツら書きたいこと書くし……」 淡々と話す葉月に、杉菜が「大変ね……」などと言っているが、藤井は横で頭を押さえた。 (んな身もフタもない……。でもなんかわかってきたぞ、葉月の性格……) 中学の頃、藤井も葉月の載った雑誌を見ることは多かった。人間の心理として、身近に存在する人間が雑誌やテレビに出れば、しかもそれが極上の美男子とくれば多少の興味は湧くものだろう。もっとも「雑誌見たよ〜!」と言っても「……それで?」と冷ややかに答えられるに至って、彼に対する一抹の夢はあっさり潰れてしまったが。 しかし杉菜を通して見ていると、「……もしかして、コイツってば単なる天然?」と思う事がもっぱら多い。つまりはそういう人間なのだろうと、藤井なりに薄々理解してきている。雑誌のコメント云々も実際そんなものなのだろう。何より面倒くさいのが一番なんだろーな、と思ってる辺り、藤井の葉月に対する理解度はかなり上がっていると見える。 そう思って藤井が内心呆れ笑いをすると、遠巻きに葉月のファンらしき女性の声が聞こえてきた。 「イヤー!なんであのコたち、葉月クンとお話ししてんの!?」 「信じらんない!!厚かまし過ぎ!」 葉月と藤井の陰になって、彼女たちからは杉菜が見えないようだ。杉菜を見れば厚かましいのはそんなセリフを言う自分達の方だと思うだろうが、それはそれとして杉菜を矢面に立たせる気はさらさらない。 「なにあのウルサイの。葉月、アンタのファン?」 「さあ……よく見かけるとは思うけど。じゃあ杉菜、俺……行くから。気をつけて帰れよ」 「うん。それじゃ、また」 軽く手を振って葉月がその場を去っていった。 「あんにゃろ、最後もアタシのこと無視してったよ〜。ったくもー!」 藤井が怒るが、逆の立場なら自分も葉月は無視して杉菜にだけ声をかけただろうからお互い様である。 「…………奈津実。ちょっと、べつの買物したいんだけど、いいかな」 怒る藤井の横でしばし考え込むように俯いていた杉菜が声をかけた。 「え?あ、いいよ、モチロン!アタシにつき合わせるだけじゃ悪いしね。どこ行くの?」 「こっち」 二人はその足で最寄のデパートに入った。そして杉菜が向かったのは服飾雑貨のコーナー。シーズンパーツのマフラーや手袋が色とりどりに所狭しと並べられている一角だった。 「なに?手袋でも買うの?でもここってメンズだよ。レディスだったらあっちだけど……」 「いいの、メンズで」 杉菜はそう言って手近にあった大きい手袋を手に取る。皮革製でしっかりとした造りながら洗練されたディティールのそれを眺める。 「……もう少し、薄手の方がいいかな」 「…………杉菜、それってもしかして……葉月用?」 藤井が訊ねると、杉菜はこくんと頷いた。 「うん。さっき、手、冷たそうだったから。手袋、あまり好きじゃないみたいだけど、薄手のだったら邪魔にならないと思うし」 表情も変えずに、杉菜は別の手袋を手に取って感触を調べていく。 「……よく見てるねぇ、葉月のこと」 「そう……?」 なぜそんな事を言われるのか解らない、といった表情で杉菜は藤井を見返す。だがすぐに目を商品に戻して選ぶのに専念する。藤井は何とも複雑な溜息をこっそりと吐いた。 文化祭後、葉月が杉菜を下の名前で呼ぶようになった事で、葉月の杉菜に対する想いというのが周囲にもバレバレになってちょっとした大騒ぎだった訳だが、やっぱりこの二人の関係はあまり変わっていないのだ。 杉菜は相変わらず淡々としているし、葉月は葉月で独占欲はあるものの必要以上に杉菜に纏わりつく訳でもない。優しく見守る態度は以前よりはっきりしているし、不埒な男が寄ってくればガンを飛ばして撃退する。しかしそれ以上彼女に踏み込む事はない。 ただ、やはり杉菜の友達として常に傍にいる藤井には、葉月と接する時の杉菜の態度―――というより空気が、彼以外の人間に対するものとは違う、そういう気がするのだ。 とても暖かいものだと。 けれど、どうも杉菜自身がそれに気がついていない節がある。これだけ頭が良いのに、意外とそういうところは鈍いのだろうか。いや、こういう人間は案外そういうものかも知れない。頭が良いといえば有沢もそうだが、彼女は杉菜達とは人種が違う。旧友の趣味に思いを馳せて藤井は苦笑した。 「……これ、かな」 藤井が思考の海に頭を投げ出している間、真剣に手袋を比較検討していた杉菜が結論を出したようだ。濃いブラウンのそれを持って、最終確認をするかのように眺める。 「どれどれ……へぇ、イイじゃんコレ。色が上品だし、なんかシャープ。あんまりゴワゴワしてないし、たしかに葉月に似合いそ。喜ぶよ、アイツ」 杉菜からのプレゼントだったらたとえ猫缶でも喜びそうだと思ったが、それはあえて言わないでおいた。 「……だと、いいけど。それじゃ、お会計してくる。少し待ってて」 「うん、ここにいるから」 レジに向かった杉菜を見送って藤井は自分もメンズの手袋をぐるりと見渡した。 (アタシも姫条にあげよっかな……。でもアイツ、受け取ってくれない気もするしなぁ……) 第一自分は姫条のサイズを詳しく知らない。指輪と違って多少の誤差はカバーできるが、それでも手袋のフィット性というのは結構重要なポイントだ。まして姫条の手には普通のメンズサイズでは小さいだろうし、バイクに乗っているならばピッタリした物の方が好ましい。やはりその場の思い付きでは選べない。 (……杉菜だったら、わかるかな。葉月の、サイズ気にせず選んでたくらいだし) そこまで考えて、自分の考えにジクリと胸を痛めた。 自分は姫条の手のサイズすら知らない。そんな話をした事もない。杉菜の場合は見ただけでサイズが判ってしまう特殊能力を持っているが、自分にはそんな便利なものはない。 (…………アタシって、何一つ杉菜に敵うトコないじゃん) 容姿は杉菜の可愛さに敵わないし、成績なんか比べものにならない。運動だってあの子の方が得意だし、家事全般は脱帽もの。 何より、杉菜は無垢だ。真っ白な子。 自分みたいに、こんなどす黒い感情抱えてない。 だからこそ、姫条も、あの子に――――――。 「…………奈津実?どうしたの?」 いつの間にか戻ってきていた杉菜が声をかけてきて、藤井はハッと気がつく。 「……あ、杉菜。会計済んだの?」 「うん。待たせてごめんなさい。……具合、悪いの?顔色、少し良くないけど……」 眉を顰めて顔を覗いてくる杉菜に藤井は無理矢理笑顔を作った。 「ううん、そういうわけじゃないんだ。あ、でもちょっと人込みに酔ったかも。すっごい人だもん。―――ね、せっかく出てきたんだし、臨海公園ぶらついてみない?潮風吸ってスッキリしたいな」 「うん、べつにかまわないけど……」 「じゃ、行こ!」 12月の臨海公園はさすがに風が冷たい。季節柄カップルの影はない事もないが、やはり暖かい場所で寛ぎたいというのが人間の本能、ショッピングモールに比べると人数は悲しいくらいに少ない。 「う〜さむっ!頭はスッとするけど、体は冷えるなぁ。杉菜、大丈夫?寒かったら言ってよ?言い出しっぺのアタシが言うのもなんだけど、アンタに風邪ひかせるわけにはいかないし」 「ううん、これくらいの気温なら、全然平気」 「見かけに反して丈夫だよね、アンタって。今年の夏なんかヒドイ猛暑だったのにピンピンしてたもんねー。あの和馬でさえ調子崩してたのに」 熱い缶コーヒーで暖をとりながら、藤井が笑った。煉瓦道の脇にあるベンチに座って、二人は寒風の中で脳に酸素を取り込んでいた。寒い事は確かだが、それを補ってあまりあるほどの澄み切った風。海流の影響で刺すようなものでもなく、日差しさえ出ていればこれはこれで良い場所だ。 「しっかしアレだよね。いくら晴れてるって言っても、この季節にこの場所で女二人でベンチに腰掛けてデートってのは、なんか寂しいったら。杉菜と一緒ってのは嬉しいけど、やっぱ見た目には男がいた方がいいかも」 「そう?」 「だってさ〜、周りにいるのカップルばっかなんだもん!何も外でいちゃつかなくてもいいじゃん。そっちがそうくるなら、こっちだってベタベタして見せつけてやる!!とか思っちゃうよ。ま、そんな相手はいないけどさぁ」 大げさに溜息を吐いて藤井は杉菜を見る。冬のか細い日差しが髪に当たってほのかに反射している。 「杉菜には葉月がいるけどね〜?」 「……珪くん?……そういう相手、じゃないと思うけど……」 「なに言ってんの。あんだけラブラブビーム出されていながらそれはナイっしょ。鈴木ちゃんも言ってたけどさ、葉月、アンタの事すっごい特別扱いしてるよ?中学の頃から知ってる身としちゃ、ぶっちゃけ今の葉月は信じらんないもん。ま、とことんアンタ限定だけどさ」 「……………」 「杉菜?」 「……ううん、なんでもない」 押し黙った杉菜だったが、声をかけると首をふるふると横に振って答える。 その様子を見て、ふと藤井は訊いてみたくなった。 「……ね、杉菜はさ、葉月のことどう思ってるわけ?」 「珪くんのこと……?どう、って……」 「好きなの?」 そう言うと、杉菜は少しだけ藤井を見たあと、視線を前方に広がる海へと巡らせた。 「…………わからない」 「わからない?」 「親切だとは、思う。優しいと、思う。いい人だなって、思う。……けど、好きとか、嫌いとか、そういうこと、わからなくて。迷惑かけてるなって、思う。でも、それでも笑ってくれる。そうしたいからって言って、笑ってくれる。それが、不思議だと、思う」 「不思議ってことないと思うけど?好きなら当然じゃん、そんなの」 「……なのかな。けど……彼にそう言ってもらうと、いろんな事が、少し、楽になる気がする。気にしないで、済むの。…………だけど、好きとか、そういうものかはわからない…………」 一瞬泣いているような錯覚を覚えて藤井は杉菜の顔を注視したが、杉菜の表情は変わっていない。感情の読み取れない、夢想的で儚げな美しい横顔のまま。 「杉菜、アンタ…………」 『アンタそれ、葉月のこと、好きなんだよ』 そう言おうとして、藤井は口を閉ざした。何故かそれを言ってはいけないような気がした。 いつも感じている、どこか踏みこめない部分、それに触れてしまうような気がして。 (…………葉月は、知ってるんだろうな。けど……それはアタシが触れちゃいけない気がする) 触れてしまえば、何かが壊れる。 壊れてしまうこの子なんて、見たくない。 想像すら、できないけど。 「………私が、何?」 「ううん、なんでも。……………………それじゃさ……杉菜、アンタ……」 大分ぬるくなったコーヒーの缶を両手で握り締めて、藤井は俯いた。 こんな事訊いてどうするの。 杉菜は多分、葉月の事が好きだ。本人が気がついてないだけで、それは間違いない。 だから、気にする必要なんてないのに。 なのに、アタシは。 ア タ シ は ――――――。 「……杉菜、アンタ、その、…………姫条のこと、どう思ってる…………?」 どうしてこんなこと訊くの。 どうして、この子にこんなこと訊いてるの。 「……ニィやん?」 「そう……姫条」 「…………大きな人」 「確かに――ってそういうことじゃなく!……あ、だからつまり、その……」 「……そういうことじゃないって、いうと……」 ――――――わかってる。 「………………姫条のこと、友だちとかじゃなくて…………その……男として、好き…………?」 わかってる。 安心したいんだ、アタシ。 杉菜が、姫条のこと好きじゃないって、そういう意味で好きじゃないって、確認して、言質とって、安心したいんだ。 姫条が杉菜とくっつくなんてありえないって、思い知りたいんだ。 なんて。 なんてアタシは。 どうして、こんなにも醜い――――――。 「……男としてって、…………私は――――――」 ――――――ダメだ!! 「いい、言わなくていいッ!!」 言いかけた杉菜の言葉を、藤井は激しく頭を振って遮った。 「ゴメン!!アタシが訊くようなことじゃない!言わなくていい、答えなくて、いいから………………ッ!」 浅ましい。 好きな人が、不幸になるのわかってて。 好きな人が、哀しい思いをするの、知ってて。 それでも、その状況が自分の幸せに繋がるかも知れないと、心のどこかで思ってる。 ううん、どこか、どころじゃない。 心の全部で、そう願ってしまってる。 浅まし過ぎる。 こんな浅ましいアタシを、アイツが好きになってくれるはず、ないじゃない……――――。 「……奈津実は……ニィやんのこと、好きなのね…………」 しばらく沈黙が訪れた後、伏せた頭の上からとても小さな声が降ってきて、藤井は思わず杉菜の顔を見上げた。ほんの少し眉を顰めているが、それは藤井を心配してのようだった。 「杉菜…………アタシ、は……」 「うん」 杉菜がこくんと頷いたと同時に、藤井の目から涙が零れた。 「アタシ……アタシは、藤井奈津実は、姫条まどかが好き!!誰にも渡さない!たとえ……たとえアンタにだって、絶対に渡さないんだから!!」 ボロボロ落ちる涙を拭きもせずに、藤井は一気に叫んだ。 杉菜はそんな藤井を見つめたまま、もう一度頷いた。 「うん」 「……けど、アンタだって、好きなんだからね!?相手があの葉月じゃなかったら、絶対誰にも渡したくないってくらいに、好きなんだからね!?そこんとこ、誤解しないこと!わかった!?」 「うん。……ありがとう、奈津実」 もう一度、深く頷いた杉菜を見て、藤井は持っていた缶コーヒーを放っぽりだして杉菜に怒鳴った。残り少ないコーヒーが、投げ出された先で地面に染みを作る。 「〜〜〜ったく、なんでそこでお礼を言うわけ!?なんでアンタって、そんなに真っ白なわけ!?アタシなんて、こんなに弱くて汚くて醜くて浅ましくって、グチャグチャのドロドロなのに、なんでアンタはそんな女に『ありがとう』って言えるのよ!!アタシ、そんな価値ないってば!!」 グチャグチャのドロドロと言えばまさに今の藤井の顔そのものなのだが、そんなのはおかまいなしで藤井はまくし立てる。 杉菜はそんな彼女を見つめていたが、ややあって小さく首を横に振った。 「……価値がないなんて、そんなこと、ない」 「……え?」 「自分のこと、汚いって、浅ましいって、認めるの、勇気要ると思う。奈津実、そういうの真正面から認めて立ち向かおうとしてる。それが伝わってくるの。……だから、価値がないなんてこと、ない」 真っ直ぐに藤井の瞳を見据えながら、杉菜が続ける。 「それに、奈津実、はっきり自分の言いたいこと、言うもの。それって、とても難しいと思う。それが出来る人を、どうして価値がないなんて、言えるの……?」 「…………アンタって……」 杉菜の言葉に一瞬呆気にとられた藤井だったが、次の瞬間には杉菜に抱きついていた。 「アンタって、ホント……」 上手く言葉にならず、藤井は杉菜の肩に顔をうずめながら嗚咽だけを響かせた。 どうしてこの子の言葉は、真っ直ぐ届くんだろう。感情もこもっていないような、そのくせ鈴のような軽やかな声で、心の中まで染み渡ってくる。 どうしてこんなに、真っ白なんだろう。 どうしてこんなにも、真っ白でいられるんだろう。 大好きで、大嫌いで、けどやっぱりその捕えられない空気に捕われたいと思うほど、泣きなくなるくらいに真っ白な子。 アタシ、やっぱりアンタのこと大切なんだ。 「……私、ニィやんのこと、親切だと思ってる。いい人だなと、思ってる。けど、奈津実が彼を想うほどの感情は、私、持ってない」 静かに、囁くように伝わってくる声。 「他に言い方、知らないけど…………頑張って」 藤井を抱き返しながら、杉菜は言う。その声に更に涙が溢れてきて、藤井はただ泣き声をあげ続けた。 (……ごめんなさい) 泣き続ける藤井とは反対に、杉菜は押し黙ったまま、心の中で呟いた。 好きとか、そういうことがわからない自分。 誰かを好きになることで、これほど慟哭できる藤井の心を、理解できない自分。 醜いというなら、自分の方。 浅ましいというなら、偽善のような言葉を口にしている自分の方。 けれどそれすらも、どこか遠いもののように感じている、それもまた、自分自身。 (……ごめんなさい) もう一度、杉菜は心の中で謝った。 藤井にでもなく、姫条にでもなく、葉月にでもなく。 自分以外の、すべてのものに。 |
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