−第16話− |
こっそり作ったスープを秘密理に平らげて、調理室の後片付けを済ませて教室へ戻ると、こちらもできるところまで片付けが終わって元の姿を取り戻していた。葉月を含めた男子生徒はすっかり居眠りモードに突入しており、女性陣は顔を見合わせてクスクス笑う。 他を巡ってきた生徒達の手土産を頂いて、皆がほんのりしたところで一般公開は終了。各クラスが簡単な後片付けをしたあと、恒例の後夜祭が始まった。 はば学文化祭は日程がタイトな分、前夜祭・後夜祭が盛大なことでも有名だ。人気投票の発表あり、キャンプファイアーあり、フォークダンスあり、ライブあり、ちょっとしたショーあり、できる限りのイベントを盛り込んで夜までお祭り騒ぎが続く。 そしてなんと、集客+売上を加算した人気投票で、氷室学級の『Café glace』は学園演劇と並んで見事一位を獲得した。副賞の『打ち上げ費の5割を提供しちまうぜベイベー権』を手にした1−Aメンバーは敷地外にまで響くような歓声を上げてその成果を大いに喜んだ。 「エクセレントだ、諸君!この学級の担任として、非常に誇りに思う。準備期間を含め、本当にご苦労だった!!」 晴れ晴れとした顔の氷室が、生徒達の健闘を讃えた。直接運営に関わった訳ではないが、保健所の許可取得やその他煩雑な交渉・事務については大いに協力を惜しまなかった氷室に、生徒達も拍手でもって応えた。 仮装大会の結果発表や演劇部門の表彰が行われる中、生徒はそれぞれ集まっておしゃべりに興じる。まだまだ着替えていない人も多く、何とも混沌とした光景だ。 「結局俺、A組行けなかったな。まさかあんなに早く店じまいするとは思ってなかったぜ。ま、別に甘いもん好きでもないからいーけどよ」 「もったいなーい。ま、アタシは杉菜のケーキ、しっかり堪能しちゃったけどねー。も、すっごい美味しかった!!」 「まったく自分いつの間にそんな取り引きしとったんや。オレかて判ってればキープしてたで、ホンマ。あれ、実質4個限定やったんやろ?」 「ええ。氷室先生・須藤さん・鈴木さん・加藤くんの割り当て分は最初から決まっていたわ。あとの4個は情報が出た途端に即予約完了。でも実際、試食した時は私も美味しいと思ったし、当然かも知れないわね」 「奈津実ちゃんはたまたまその場にいたから予約できたんだもんね」 「そーそー。けどけっこう差し入れ貢いだから、バカになんなかったよ〜。その価値はあったけどね♪」 「ところで、姫条くんも鈴鹿くんも藤井さんも、すごい匂いですね、その……たこ焼き」 「そーなんだよな。体中に匂い染みこんじまってよ。着替えたって取れやしねぇ。つーかもう鼻がおかしくなっちまったぜ」 「フッ、たこ焼き職人の勲章や。オレは堂々と自慢したるで」 「Ce n'est pas une plaisanterie(冗談じゃないわ)!あなたたち、そんな庶民的な臭いを恥ずかしげもなくふりまかないでくれない?ミズキの繊細な嗅覚が壊れちゃうじゃない!」 「なに言ってんのよ!クドイ香水ぶっかけてイカレタ鼻にしてんのはアンタ自身じゃない!」 「なんですってぇ!?世界でただ一つ、このミズキのためだけに調合された気品に満ちた香りを『クドイ』ですって!?」 「ダメだよ、須藤くん。こんな華々しい日に怒ったりするなんて美しくない。ボクは哀しいよ」 「色サマ……!いけない、ミズキとしたことが取り乱してしまいました。許してくださいます……?」 「……ホントいい根性してるよね、須藤」 いつものメンバーが楽しく(険しく?)会話している横で、葉月と杉菜はボンヤリと立っていた。二人とも積極的に会話に参加する性格ではないし、何より葉月はひたすら眠かった。 ただでさえ人込みを苦手とするのに、今日一日ごった返す狭い空間に押し込められ、ろくに休憩(睡眠)も取れないまま客寄せパンダになっていたのだ。おみくじで『大凶』を引いたぐらいにストレスが上昇しても不思議ではない。30分やそこら休んだくらいで取れる代物ではなかった。 しかし後夜祭の途中まで杉菜も参加するので、未だ継続中の鈴木の厳命、そして自分の意思に従って眠い体に鞭打って立っているのであった。実に律儀な男である。 「……大丈夫、珪くん?」 「……なんとか。おまえこそ、大丈夫か?時間」 「うん。6時15分になったら先に帰るから」 「……そうか、………………」 話しながらもうつらうつらしているのが自分でも判って、葉月は頭を軽く振る。 「……珪くん、教室で眠ってていいよ。皆いるし、私なら平気」 杉菜がそう言ったが、葉月としてはそうもいかない。かといってこのままフラフラしているのも確かに辛い。 そのジレンマで思い悩んでいると、守村が葉月の様子に気がついて声をかけてきた。つられて他の連中も注目する。 「葉月くん、本当にお疲れのようですよ。少し休んでいた方がいいんじゃないでしょうか……」 「どれどれ……て、ホンマ辛そうやん、自分。ムリして参加せんと、おとなしゅう寝とったらどうや?」 「姫条アンタ、それ下心丸見え。杉菜に近寄りたいのは解るけどさぁ。―――でも葉月、冗談抜きで顔色悪いし、休んでなって。このアタシが付いてんだから、杉菜に変な虫は近づけませんって。もちろん、このデッカイ虫もね☆」 「ってなんでオレを指さすんや!」 「だってそうじゃねーか」 「でも、そうした方がいいんじゃないかしら。東雲さんが参加するのはフォークダンスだけだし、そんなに問題も無いと思うわ」 「そうよ。それに東雲さんのことはギャリソンにリモで家まで送らせるから、心配いらないわよ」 「う、うん。ね、葉月くんは休んでて?帰りはちゃんと声をかけるから」 「そうだよ葉月くん。ボクとキミの間でそんな遠慮はナンセンスさ。そうだろう?ブラン・プリマヴェラはボクたちが責任を持って守護するよ」 口々に言われ、どうしたものかと眉を顰めた葉月だが、次の杉菜の言葉で心を決めた。 「珪くん……辛そうなの、見たくない。だから、休んでて。……お願い」 鶴の一声。 最後の、吐息のようにかぼそく紡がれた言葉に、葉月はようやく頷いた。 「……解った。そう、させてもらう」 こんなふうに言われたら、とても逆らえない。 そう考えて、葉月は皆に言われる通りに教室に戻ろうとした。 「あ、待って。一応鈴木さんに言ってからの方がいいわ。あの本部用テントの横にいるから……」 「……解った、言ってくる。東雲……気をつけろよ」 「うん、珪くんも」 ヨロヨロと人の群れを外れ、葉月は鈴木の方へ歩いて行く。下手をすれば教室に行く前に地面とランデヴーしてしまいそうだ。 「……なんっかあぶなっかしいな、アイツ」 「杉菜ちゃんと同じく、アイツも人並み以上に睡眠が必要な人間なんやろな。普段はスカしとるっちゅうかいけすかん奴やけど、こういう時は大変やろなぁ思うで、ホロリ」 姫条が白々しく泣き真似をしたのとほぼ同時に、校庭中央に設けられた篝火台から大きな炎が燃え上がった。またスピーカーからは軽快でノリのいい音楽が流れ出す。 「おっ、ダンスはじまった!よっしゃ、それじゃあ一踊りいきますか!」 藤井が拳を振り上げて気合を入れる。杉菜を除いた皆もつられて笑顔が浮かぶ。 こういう場でのフォークダンスといえば、何かしらジンクスが付き物だが、はば学においても例外ではない。毎年後夜祭で行われるフォークダンスでは何故か3曲目にワルツを流すのが慣例となっていて、この時一緒に踊ったカップルは幸せになれる、といういかにもお約束なジンクスがまかり通っていたりする。 普通の高校生にワルツが踊れるわきゃないだろ、という声もあるのだが、未だにそれが続いているという事はそれなりに信憑性があるのか、それか理事長こと若旦那の訳の解らないダンディズムに基づくが故だろう。中には三原や須藤のようにワルツなどお手のもの、という者もいるし、他の生徒でもそれっぽく踊るのを楽しむ者もいる。たまにはこういうのもいいかも、という生徒も多いのだろう。 何はともあれ、この時ばかりは多くの生徒が野獣の如く目当ての相手を確保しようと躍起になる、一種の大告白大会になるのだった。 そして今、未だメイド姿のままの美しい姫君に、多くの男たちがその誘いの手を差し伸べんと虎視眈々と機会を狙っていた。何しろ姫君は12時ならぬ6時15分の鐘でお城(この場合校庭)から去ってしまう。タイムリミットはちょうど例の3曲目が終わる頃、隙を窺う視線は数知れない。 「……コリャぜっったい杉菜狙いの野郎どもが来るね、まちがいなく」 「そやな。そらもうぎょ〜うさん押し寄せてエライ事になるで。こっちもしっかりガードせんとな」 「……なんかいろいろ厄介だな、東雲のやつ」 「そうですね……」 杉菜近衛隊の面々がヒソヒソと対策を講じながら守りを固める。といっても三原や須藤は盾化するはずもなく、ちょっと場所を離れていたが(特に須藤は決して三原の相手を他人に譲るような隙は見せなかった)。 「ま、いざとなったらオレが相手したるからなー、いつでも言うてや、杉菜ちゃん♪」 「ドサクサにまぎれて調子いいこと言ってんじゃないっての!アンタの相手させるくらいだったら、アタシが杉菜と組んじゃうもん、ねー杉菜♪」 「……べつに、誰でもかまわないけど……」 1曲目、2曲目を近衛隊の面々と踊りながら、杉菜は大して関心のないように答える。というよりもしかすると姫条らの話を聞いていなかったのかも知れない。聴覚は鋭いが、興味がなければ認識しない耳だからして。 選曲の関係で、パートナーチェンジも少なければ行って戻っての繰り返し、お馴染みのGSメイトのみでダンスの相手が終わってしまい、残るチャンスは本当に3曲目のワルツだけとなってしまった。ワルツが踊れる踊れないはともかく、一緒に踊れるこの機会を逃してなるものかと、2曲目が終わった途端、怒涛のように群がる足音が鳴り響いた。 「東雲さん!つ、次、俺と踊ってくれませんか!?」 「いや、僕と踊ってくれ!お願いだ!」 「身の程わきまえろよ!東雲さん、どうせならオレと優雅な一時を過ごしてみないか?」 「す、杉菜さん、ど、どうか私と踊ってください!この通りです!」 予想通りというか、杉菜の周りにはどどっと男どもが押し寄せ、次々に誘いの言葉をかけてきた。中には「ご主人様って呼んでくれーッ!」などと叫ぶたわけ野郎もいる。 「…………え……私……?」 もっとも本人は目をわずかに瞬いて驚いているだけ。 ジンクス云々の話は聞いていたが、自分にこういうふうに関わってくるとは本当に思っていなかったらしい。困ったように物凄い勢いで肉薄してくる男達を眺めている。 「コラァッ!!杉菜ちゃんが困っとるやないか!ゆっくり本人に決めさせるくらいの度量はないんかい、自分ら!」 「そーそー!杉菜と踊りたいってんならも少し紳士的になれっての!―――杉菜、べつに強制じゃないんだから、踊りたくなかったら踊んなくってもいいからね?」 好感度高レベルの姫条と藤井が率先して防波堤となって一喝すると、やにわに男共が静まり返った。確かに皆我を忘れていたようだ、おとなしく杉菜の答えを待つ。 だが当の杉菜は困惑と躊躇の中にあった。 「………私……」 果たして誰を選ぶのか、それとも誰も選ばないのか。 その場にいた全員が固唾を飲んで彼女の次の言葉を待った。 「…………私、は……」 しかし、その杉菜の言葉は、突然現れた亜麻色の髪と翡翠色の瞳の男子生徒に遮られた。 「選ぶ必要、ない」 「―――珪くん?」 「「「葉月ッ!?」」」 教室で寝ているはずの葉月が、杉菜の背後からスッと現れた。そして彼女の肩を、大切な物を扱うようにそっと抱く。 その時点で充分驚いたはずの生徒達は、次の葉月の言葉で更に度肝を抜かれた。 「……悪いけど―――こいつ、俺の専属だから」 そう言って、そのまま葉月は杉菜を引き寄せた。その瞬間、周囲にいた生徒が一旦固まり、すぐに『えぇッ!?』という驚きの声が上がった。 「珪……くん……?」 よく状況がつかめないらしい杉菜が、葉月を見上げる。その視線を受けると葉月はふっと笑って、杉菜の肩を放して1・2歩あとずさった。 「…………?」 すると葉月は片手を胸に当てて、杉菜に向かって頭を下げた。 「一曲お相手願えますか――――姫」 ザワッ! 周りの生徒達が驚きや悲鳴をあげた。まさかこの『葉月珪』が、いくら学園一の美少女とはいえ特定の女生徒に対してこのようなアクションを取るとは、誰一人として想像もしていなかっただろう。この上なく似合っているだけに、女子生徒からはうっとりとした溜息まで聞こえる始末だ。 が、一番驚いているのは杉菜本人だったかも知れない。傍目には少し目を見開いているだけだったが、彼女としてはどう反応を返したものか瞬時に判断が付かなかったに違いない。しかしそれは、葉月のドラマティックなアクションに対して呆れてのことではなかった。 (…………珪くん、もしかして、私が困ってたから……?) さっきはひどく眠そうで、見ていても辛そうだった。 だから、こんな無理はしてほしくないのに。 なのに、また、あなたは――。 そうは思うものの、一方で他の男子生徒の相手をしたいかといえばそうでもなかった。踊りたいというなら踊ってもいいけれど、好きこのんで、という意思は皆無。できれば遠慮したかった。選ぶといっても誰を選んでいいか判らないから。 けれど、目の前に葉月がいる。『迷惑』を引き受ける、と言ってくれた彼が。 もちろん、それに甘える訳にはいかない。 いかない――けれど。 「…………喜んで」 杉菜がそう言うや否や、驚愕と悲嘆の声が校庭中を席巻した。その声が先ほどよりよほど大きかったのは、杉菜の返事の声音にどこか普段と違うものが含まれていたように聞こえたからだ。 普段の彼女とは違う、暖かな響きが。 「……それは、光栄の至り」 葉月が頭をあげて彼女に手を差し出すと、杉菜はその手を素直にとる。3拍子のリズムに合わせながら、二人はお互いの体に手を添える。綺麗なホールドが非常にさまになっていた。 そして踊り始めると、これまた優雅な踊りがその場に繰り広げられた。ステップの難易度は高くはないが、これほど美しくワルツを踊れるはば学生は三原・須藤ペア以外に存在しないだろう、そう思わせる流麗さだ。 ワンピースの裾が、柔らかくたなびいて風を創る。 杉菜の靴がハイヒールでないにも関わらず、氷の上を滑るようなターンを描き、余人には入り込む隙のない空間を作り上げていた。周りの生徒はごく少数を除いて二人に見惚れるばかりだった。 「……踊ったことあるの?ワルツ」 「ああ。ドイツにいた時、少し習ったんだ。おまえは?」 「礼儀作法の一環だって、お母さんから」 踊りながら葉月と杉菜は話す。お互い踊れると知らないのに組んだ辺りがこの二人らしい。葉月のリードに、杉菜はなんの戸惑いもなく合わせていく。 「……珪くん、教室で眠ってると思ってた」 「いや、実際寝てた。……テントで、だけど」 「テント……本部用の?」 「そう。教室までもちそうにないかもって思ってたら、鈴木が椅子貸してくれたから、そこで」 本部テントで所用をこなしていた鈴木は、「そこらへんで行き倒れられてちゃ周りが迷惑する」と言って葉月の為にパイプ椅子と突っ伏せるだけの机のスペースを確保してくれた。で、しばしそこで寝ていたのだが、曲がワルツに差しかかった頃、鈴木が杉菜に群がる男どもに呆れた感想を漏らした刹那、自然と目が覚めた。 鈴木が示す先では確かに杉菜が大勢の男子生徒に囲まれていた。 それを見た時、葉月の中に、ひどく重苦しい感情が生まれた。 モヤモヤした、苦々しい感情が。 「……でも、どうして起きたの?どうして、起きて、戻ってきてくれたの?眠ってて、よかったのに……」 「……それは……」 ―――見たくなかったんだ。 おまえが、他の男に囲まれている姿を。 おまえが、他の男と一緒にいる姿を。 俺以外の男と、一時にせよ、並んでいる光景を。 そう思った瞬間、眠気も何もかも吹っ飛んでいた。ただ、杉菜の傍にありたいと思った。 彼女の傍に、いたい―――。 ……嫉妬、そして独占欲。 自分の心に宿ったのがそれなのだと理解した時にはもう、体が勝手に動いていた。春、杉菜が授業中に倒れた時のように。 理屈じゃなくて、心が、体が、そうしたいと願った。 そして、その通りに動いた。 ただそれだけだった。それだけで、充分だった。 「……そうしたいと思ったから……としか、言えない」 「………保健室のことも、そう……?」 ほんの少し俯いて、小さな声で杉菜が訊ねた。その言葉に、葉月はやや決まりの悪そうな顔をする。 「……聞いたのか?」 「うん。先生が教えてくれた。あれも、珪くんがそうしたいって思ったから、なの?」 言って杉菜は首を横に振る。 「…………ううん、そうじゃなくて……。どうして……私の為に『そうしたい』って、思ったの……?」 「それは――――――」 それは。 それは、きっと。 「……それは…………俺が…………」 言いかけたその矢先、――曲が、終わった。 流れていた優雅な3拍子は終わり、周りから感嘆の吐息がもれてその場を満たした。どこからともなく拍手が聞こえて、一帯を支配する。 葉月も杉菜も、そんな周囲に少しキョトンとしていたが、顔を見合わせて心得たように一礼する。それでまた喝采が飛ぶ。 「6時15分…………タイムリミットだな」 「……うん」 時計を見て確認すると、有沢と紺野が杉菜に近付いて来た。校舎に戻って着替えをするのに、杉菜一人では行かせられないとの判断から、二人が校門までは付き添う事にしていた。校門には須藤が自らの執事ギャリソン伊藤にリムジンを待機させている。 「東雲さん、お疲れさま」 「時間だし、教室戻ろう、杉菜ちゃん」 「うん、わかった」 有沢達に頷いて、杉菜は教室へ向かう為に踵を返した。 「それじゃ、珪くん。私、先に帰るね。……さよなら」 「ああ……気をつけて帰れよ」 クラスメイトに声をかけてから、3人はその場を去っていく。残された葉月は残念がる周囲の声を耳に入れることもなく、しばらく杉菜の後ろ姿を見送っていた。 だが次の曲がかかり、他の生徒が思い思いに新たなパートナーと組んで踊り始めると、葉月は弾かれたように走り出した。 「――――――杉菜!!」 走りながら、前を行く華奢な背に向かって、その名を呼んだ。 彼女自身を表す、唯一つの大切な名前。 幼い頃、彼女自身をこの手に繋ぎ止めていた言葉の絆。 呼ぶたびに心の中に広がっていったあたたかさが、今もまた満ちてくる。 いや、むしろ『今』の方がより鮮やかなぬくもりになって、沸き起こってくる気がした。 呼ばれた彼女が振り返る。 さらりと髪が揺れて、嫋やかな風がさざ波のように生まれる。 落ち葉から立ち上る甘い香りが、その風に乗って届いてくる。 体の、心の、奥底まで。 「…………珪……くん……?」 息を切らし自分のもとに駆けてくる葉月を、杉菜は見つめた。彼は杉菜の目の前まで来ると、その長身を屈め杉菜の耳に囁きかける。 「明日……例の場所で、あの時間に。……かまわないか?」 それだけ言って姿勢を戻して杉菜を見る葉月の表情は、背後からの炎の陰になってよく見えない。 「うん、平気。でも、どうして……」 「聴きたいから、おまえのバイオリン。…………好きだから」 「……私のバイオリンが?」 「……そう。前にも言ったろ?」 おまえの奏でる、美しい世界に包まれるのが。 何よりも、誰よりも。 その世界が、その世界を紡ぎ出すおまえが。 おまえが――――――好きだから。 杉菜は俯いて、葉月の言葉を咀嚼するように押し黙る。ややあって、わずかに首を縦に振って答えた。 「……うん。わかった。……珪くん」 「ん?」 「……ありがとう。いつも、いろいろ……本当に、ありがとう―――」 空を仰ぐように上を見上げ、闇色と混じった翡翠色の瞳を見据えながら、杉菜が言った。 「――――――!!」 葉月が何故か息を飲んだ気がしたが、逆光で表情が見えなかった杉菜はそのまま言葉を続けた。 「それじゃ、また明日……」 「……おまえ、今…………」 「え?」 少し離れた場所で待つ有沢達の所に行きかけて、杉菜は葉月の声に留まる。が、葉月はそれ以上何も言わなかった。 「…………いや……なんでもない。それじゃ、また明日―――おやすみ、杉菜」 「……うん、おやすみなさい」 当たり前のことのようにその呼び方を受け入れて、杉菜は葉月の前を辞した。何やら興奮気味の紺野らと、そのまま校舎の中に入っていく。 (……今の……確かに―――だよな……) 杉菜の背を見送りながら、葉月は10数秒前の杉菜の表情を思い返した。 ……見間違い、だったのだろうか。 感謝の言葉を紡いだ、その時に。 ほんの、本当にほんの一瞬だけ。 彼女が―――笑ったように見えたなんて。 校舎に消えていく杉菜達と、校舎とは違う方向に歩いていく葉月を見ながら、藤井は溜息を吐いた。 「はぁ〜……なんか、二人の世界って感じだったねぇ、今の。――――――ちょっと姫条、なにボーッとしてんのよ!」 「……ん?ああ、自分か。……べつにボーッとしとるわけやない。かまわんとき」 ワルツのあと。不特定多数の女子のダンスのお誘いも断って、踊りの輪から外れていた姫条に声をかけると、そんな答えが返ってきた。 解っている。姫条が見ていたのは葉月と杉菜だ。いや……正確には、杉菜。 わかってるよ、アンタが見てる女の子なんて。 アタシだって、だてにアンタに惚れてるんじゃないもん。 けど、ムリなんだよ。 「…………姫条さぁ……アンタ、杉菜のこと、あきらめなよ。敵があの葉月じゃ、到底かないっこないって。杉菜だって、葉月と他の奴見る目、違うもん」 ムリなんだってば。 いくら、そんなふうな目で見つめたって。 そんな、焦がれるような切ない瞳で見つめてたって。 杉菜は、多分誰にも応えない。 葉月以外の誰にも、……アタシにさえも、本当に心を開いてはくれない。 アタシには、そう思えてならない。 だから、そんなふうに苦しそうにあの子を見ないでよ、姫条――。 「……かなわないかどうかは、やってみんと判らんやろ」 「――――!!」 「自分にそういうこと、言われたないわ。――ほんじゃな」 姫条は固い表情を浮かべたまま、その場を離れた。そして踊りの輪の中に戻ると、いつもの人懐こい笑顔でそこにいた女生徒達に声をかける。 「……分かってるって、言ってんじゃん……」 姫条が好き。 杉菜が好き。 恋情と友情、時に激しくせめぎ会う、二つの感情。 どちらも譲れないからこそ、哀しさが増し、どちらも欲しいからこそ、苦しさが増す。 未だ燃え盛るキャンプファイアーの灰が飛んで来たかのような胸の奥の熾火を想って、藤井は下ろした拳を強く握り締めた。 |
|