−第14話−
 爽快な秋晴れの下、活気溢れる声が響き渡っていた。
 それを醸し出しているのは、浮かれた生徒及び普段校舎内では見られない一般客の姿、ついでに食欲をそそる模擬店からの食べ物の匂い。
 今日は、はばたき学園高等部の文化祭当日。校内発表・一般公開を含めて11月第2土曜の一日限りのお祭りだ。その分内容が凝縮されており、日数の割には規模も盛り上がり方も並みではない。
 その賑やかな廊下を、一人の女生徒が砂煙を上げんばかりにひた走っていた。周囲の人間が何事かと振り返るほど、興奮しきった顔である。進むにつれ人が増えてくる一角を目指して爆走していく。
「ちょっとちょっとーッ!今玄関のところでスッゴイもん見ちゃったーーーッッ!!」
 彼女――つまり藤井奈津実という名のその生徒は、1年A組の教室に駆け込むなり大声で叫んだ。まだ午前の早い時間、一般客の入りは多くはなかったが、それでも教室内にいた人々が一斉に注目する。
「ちょっと奈津実。いきなり人のクラスに飛び込んできて、何叫んでるの?お客さんに迷惑でしょ」
 そう眉を顰めて注意したのは有沢。例のメイド服を着て、本番故にヘアバンドも装着している。
「だって〜!ぜひともこれは氷室学級のみんなに教えなきゃって思ってさ〜……って、うわ、志穂……アンタ、化粧してるの!?」
「え?え、ええ……」
 友人に振り向いて、その顔を見て少し驚く。
「あー!よく見れば女子みんな化粧してんじゃん!カワイイ〜!」
「う、うん。学祭委員の鈴木さんがどうせなら徹底してやろうって言ったから……」
 照れたように答えたのは紺野。藤井の言葉通り、メイド役として設定された女子は皆、薄化粧を施されていた。
 氷室学級の出展物が喫茶店だと言うのは前回述べた。しかし客寄せ人材のみならず、紅茶専門店や果物屋の子女・陶芸が趣味の女子・パティシエ志望の男子……など、別種の人材までもが在籍していた事から、ただの模擬店ではつまらないと学祭委員が張り切った。
 どうせやるなら徹底的に、という事で出来上がったのが本格的アフタヌーンティーの店、『Café glace』であった。
 ファブリックにもとことんこだわっただけあって、室礼といい雰囲気といい、下手な喫茶店よりよほど洒落た空間になっている。ギャルソン姿の男子とメイド姿の女子が立ち回るその様は本物のカフェのようだ。朝、最終確認をした氷室も、そのハイレベルな出来栄えに実に満足そうに頷いたものである。
「ってことは……やっぱり!!」
 藤井がぐるりと教室を見回して、杉菜の姿を見つけた。
「すーぎなー!!」
「……あ、奈津実」
 杉菜は黒板前に設けられた配膳台の奥で作業をしていた。机を並べて作られた台の上には何種類ものケーキやお茶が整然と並べられている。どうやら杉菜はそれらを注文通りに淹れて盛り付けする係らしい。流れるように手が動き、見る間にオーダーを仕上げていく。
 有沢や紺野と同様、薄化粧をした杉菜は過日の衣裳合わせの時より数段可愛らしく、藤井は握り拳を作って感動する。まったくもって可愛いものには目がない女だ。
「ハァ〜……予想通り、すっごいカワイイ〜!!なんてゆーか、萌え度5割増しって感じ?」
「そう?……あ、いけない」
「ん?」
「いらっしゃいませ」
 ぺこり、と会釈をする杉菜に、藤井は心の中で「くはーーーッッッ!!」と絶叫する。それを感じ取って背後で有沢と紺野が苦笑する。笑顔がなくてもその存在だけで充分他者を虜にしてしまう東雲杉菜という人物に感心しての事かは判らない。藤井のメロりん顔に呆れているのは確実だが。
「あ〜もう、アンタってばホント持って帰りたいくらいだよー!カワイすぎ!ねね、友だちのよしみでアタシの注文の時だけアンタが接客してくんない?」
「え?……でも……」
 テンションマックスになった藤井がそう言うと、杉菜は困ったようにトングを持った手を止める。
「ね〜?いいでしょ、このとおり!」
「悪いけど」
 藤井が拝まんばかりに手を合わせようとした時、背後――正確には頭上からポツリと声が降ってきた。
「こちらのメイドは、そういったご要望にはお応えできません。……もちろん、持ち帰りも不可」
「ゲッ、葉月!?」
 咄嗟に身を翻せば、そこに立っていたのは肘まで捲くった白いワイシャツに黒いパンツ、黒の蝶ネクタイに黒の腰エプロンといういかにもなギャルソン姿をした葉月だった。あまりのハマリっぷりに、思わず藤井があんぐりと口を開ける。
「あ……珪くん」
「焼きあがった分、持ってきた」
「ありがとう」
 だが葉月は藤井を無視して、両手に持っていた大皿を杉菜に渡した。焼きたてのタルト・オ・フリュイとオレンジスフレの香りが、室内をほわりと満たす。
 その香りに誘われたように、藤井が我に帰った。
「……ちょっと葉月!いきなり背後に立たないでよ。ていうか、何でアンタに断られなきゃなんないわけ〜?アタシは杉菜に頼んでんだけど」
「……俺、そういう係だから」
「は?」
「あのね奈津実ちゃん。葉月くん、今日、本当にそういう係なの。その……杉菜ちゃんに声かけてくる人に断りを入れるっていうか、杉菜ちゃん目当ての人が杉菜ちゃんに、ええと、その……悪さとか、しないようにっていうか……」
「…………つーまーりー、虫除け?」
「……う、うん…そういうことになるのかな?あ、もちろん杉菜ちゃんと同じようにお茶淹れたり、調理室で出来上がったケーキを持ってきたり、そういう仕事がメインなんだけど。鈴木さんの厳命で、そういうボディガードみたいな事もしてるっていうか……」
 紺野の説明を聞いて藤井は一人頷く。葉月のことだ、厳命でなくても杉菜の護衛には回った事だろう。いや、むしろ命令が下った事により大っぴらに杉菜の周囲を見張れるので願ったりだったのかも知れない。もっともこの二人が揃っているところに割り込む勇者などそうそう居りはしまいが。
 花火大会からこっち、藤井なりに葉月と杉菜を観察していたが、葉月の杉菜に対する気のかけようは半端ではないと思っていた。いつも杉菜を気遣って、けれどそれで杉菜が重荷を感じる事がないように振舞って。もしかしたら葉月は杉菜の事が……と推測していたりもする。
 肝心の当人同士が相変わらず淡白なのでその進展ぶりは判らないが、杉菜の方も葉月といるとどこか自分達に接する時とは違う気がする。
 友だちとしては寂しいが、杉菜にもそういう事があるんだなぁと思うと、いつもの杉菜にほんの少し物足りなさを感じていた藤井は少し嬉しい。
 が、しかし。
 それはそれ、これはこれ、だ。
「事情はわかったけど、だからって友だちのアタシまで追いやるこたないでしょうが。葉月、ちょっとぐらい見逃しなさいよ」
「無理」
 一刀両断に断られ、藤井がムッとすると溜息混じりに有沢がたしなめる。
「諦めなさい、奈津実。友だちって事でOKしてたらキリがないわ。東雲さんの『友だち』、どれくらいいるか解ってるでしょう?」
「そりゃまあ……そーだけど……」
 有沢が言ったとおり、杉菜の『友だち』はとても数え切れない。何しろ来る者拒まずな彼女だからして、声を掛けて来る相手はその危険感知本能に引っかからない限り『友だち』として認識・登録される。もちろん程度の差はあるが、いちいち特別扱いをしていたら確かに身が持たない。学祭委員・鈴木女史の判断は正しい。
 とはいえ、これだけの美少女メイドに給仕されたいと思うな、という方が無理である。葉月のギャルソン姿も悪くはないが、性格を知っている分ご遠慮申し上げたい、というのが藤井の心情だった。
「あ、それより奈津実ちゃん。さっき飛びこんで来た時に言ってたことってなに?すごいもの見たって……」
 何とも承服しかねる藤井に、紺野が話しかけてきた。
「―――ああ!!それだよそれ!いや、これがホントビックリしたっていうかさー」
「だから何?お客さんも増えてきたし、早く言って頂戴」
「ふっふっふ〜、聞いて驚け!なんと、あのヒムロッチの、驚き!焦り!呆然とした顔を!この目でバッチリ目撃しちゃったんだよ!!」
「「「なにィィィッッッ!!?」」」
 藤井の発言を聞いて、教室内にいた全生徒が一斉に声をあげた。一般客がつられたようにビクッとする。
「オイ藤井、それマジかよ!?」
「あの氷室先生がぁ!?」
「驚いた上に、呆然!?うっそだろ、ありえねーよそれ!!」
「ほんとにヒムロッチだったの、藤井ちゃん!?ヒムロッチの顔したアンドロイドじゃなくて!?」
 口々に真偽を確かめる声に藤井は重々しく頷いた。
「間違いなくヒムロッチだった!外から戻ってくるのに来客用玄関通った時、ヒムロッチを偶然見かけたの。いつもどおりのあの顔で歩いてたんだけど、外の方を見た瞬間、それと判るくらいに目を見開いてフリーズしたのよ!!もっともすぐに再起動して、入ってきた客に挨拶したけどね。多分生徒の父兄だろうけど、ちょっと遠くて話は聞こえなかったんだよね。でもそのあと、ヒムロッチあからさまに動揺してさぁ。その客が去ってってからもしばらく立ちすくんでて、思い出したように頭ブンブン振ってその場を立ち去って行った……と、いう次第」
 そこで話を切って、藤井は腕を組みながら息を吐いた。
「アタシも一瞬自分の目を疑っちゃったよ。けど事実だったのはまちがいない。なにせこのアタシまで持ってたたこ焼き落としちゃうくらいに動揺しちゃってたんだから!」
「……うわ、それじゃマジだな……」
「そうね……」
「ヒムロッチが……呆然…………。うわ、見たかったなぁ……」
 藤井の言に皆が納得する。
 藤井のクラスは屋外でたこ焼き屋をやっている(当然姫条がメイン)。A組の限定ケーキと引き換えにたこ焼きの差し入れをする予定だったので、その条件を自ら違えるはずもない。
 ちなみに限定ケーキとは杉菜が作ったシャルロット・ポワールで、8個限定。既に同様の裏取り引きによって全て予約が入っているそうな。
 皆が神妙な顔をする中、葉月は一人考えを巡らせていた。
(……父兄…………まさか……)
「でもそのお客さんってすごいね……。あの氷室先生を驚かせたわけでしょ?どういう人なんだろう」
 かの花椿吾郎にすら日頃のペースを崩さずに相対する氷室が驚き呆然とする相手とは。皆それに興味を持ったその時である。
「ここだな、マイスウィートプリンセスの教室は!」
 朗々たるバリトンヴォイスが教室中にこだました。
「あ、あの人だよ!ヒムロッチと話してたお客!」
「「「ええ!?」」」
 藤井が示したその先から悠然と人波をかき分けて……というより人波が勝手に開いて出来る道を歩いて入ってきたのは、葉月の想像した人物だった。
(…………やっぱり)
 その姿を認めて、葉月はこっそりと溜息を落とした。しかし周りの生徒達はその人物、正確には人物達に、ほぉっ…と賞賛と感嘆の吐息を浴びせる。
 そう、連れ立って入ってきた人物達とは、まごうことなき東雲家の家長とその細君であった。
 まさしくこれぞ錦上添花。滅多に拝めないほどの美形夫婦を目の当たりにして、教室中がフラワー&ドリームな空気に包まれかけた時、男性が口を開いた。
「ハッハッハ、どうしたんだ生徒諸君!絶世の美女たる奥さんに見惚れる気持ちは解るが、俺の大切なベターハーフだ、穴が開かないように程々にしてくれよ!!ところで俺の可愛い愛娘は在室中かな?」
 よく通る声でまくし立て、クラス中が一瞬呆気に取られる中、東雲家家長こと寂尊は教室を見渡した。
「あ……お父さん、お母さんも」
 教卓にいた杉菜が気付いて声をかける。その声を聞いて、クラス中が目を見開いて杉菜を振り返った。
「おう、杉菜!ほほう……聞いてはいたが実に似合うじゃないか!さすがは俺の、いや俺達のお姫様だな!奥さんもそう思うだろう!?」
「ええ。とっても可愛いわね、杉菜」
「そう……?ありがとう」
 にこやかに話しかける夫妻に反して杉菜の表情はいつも通りだったが、鑑賞する側としてはこれはこれでまたいいかも知れない。何しろ物憂げな雰囲気と紺と白のメイド服の組み合わせが非常にマッチしているのだから。
「おや、そこにいるのは珪くんじゃないか!?うん、君もなかなか似合っているな!さすが俺が見込んだだけの事はある!」
「こんにちは、珪くん」
 杉菜の隣にいる人物を認め、寂尊達は更に楽しそうな声を出した。それでまた生徒達が驚く。見込んだ、とは一体どういう事だろうか。
「あ……どうも、寂尊さん、桜さん。その……先日はお世話になりました」
 そして更にどよめきの声。
 この夫婦が杉菜の両親らしいというのは納得できるとして、まさかその二人が葉月を『珪くん』呼ばわりしている上に、葉月が礼を言っているというその事実を突きつけられるとは。もちろん、葉月の口から出た寂尊の名前を訝しんでいるのは多分にあるが、それにしても一体何事……という心境だ。
 寂尊らが葉月を名前で呼ぶのは二度目に会った時からだ。杉菜も名前呼び派だが、それはどうやら寂尊の影響らしい。彼は基本的にプライベートで会う人間は名前呼びだ。『その人』を示すのは苗字ではなく名前、そういう考えが東雲家には連綿と受け継がれているらしい。尽一人が例外というか。
「なーに、そんな事は気にするな!ハッピィな時間が過ごせただけで俺は嬉しいからな!それはさておき……うん、なかなか雰囲気が出ていて良い店じゃないか!今時の文化祭はずいぶんと手が込んでいて見応えがあるなぁ。――とまあ、そういう訳で早速俺達も一服したいので席に案内してもらえないか?奥さんに相席をさせたくないから、できれば窓際をお願いしたいんだが。――ギャルソン!」
 パチンと指を鳴らし、接客係で手の空いてそうな生徒を捜す。弾かれたように生徒達が我に帰り、慌てて数人が窓側に設けた二人用の席へ案内する。その様は何となくハイソな感じを漂わせ、ここ『Café glace』に見事華を添えていた。
「……ねぇ杉菜……あれ、ほんっとーにアンタの親?」
 藤井がヒソヒソと杉菜に訊ねるが、杉菜は例によってあっさりと肯定した。
「そうだけど……似てない?よく、似てるって言われるけど……」
「いや、お母さんの方はそっくりだけどさぁ……。なんかお父さんの方がイメージと違うってゆーか……。いや、顔は超絶にカッコイイんだけど。尽に似てるし」
 有沢と紺野も同意らしい、こくこくと頷く。葉月は葉月で無理もない、と思った。自分も彼に初めて会った時は思わず確認したものだ。
「……なーるほどねぇ。ああいう中身の人だから、ヒムロッチがあんな顔した訳かぁ」
 氷室の性格からして、一度失敗したとしても次回以降に生かして決してボロは出さないだろうに。それでも驚かされてしまったという事は、一体今度は何を言ったのだろうか、東雲寂尊。
「そうだわ、奈津実。氷室先生の驚く顔が見られたのなら、もう先生にイタズラしかけたりする必要はなくなったわ。そうでしょ?」
 有沢がふと気が付いたように言った。
 藤井はこれまでヒムロッチの驚く顔や慌てた顔が見たい一心で、『頭上から黒板消し』『落とし穴』『ワックス雑巾』『バナナの皮』『手作り弁当(隠し唐辛子入り)』『突然の愛の告白』等々、定番のイタズラを繰り返してきた。そのたびに何やかやと巻き込まれる有沢達はそれなりに怒り呆れていたのである。
 だから氷室の慌てた顔が見られたのなら、最早そんなイタズラも必要ないだろう。
 そう思ったのであるが、しかし――。
「うんにゃ、それとこれとは別!あの顔を見て、アタシ改めて決心した。なんとしてもアタシ自身が、あのヒムロッチの鉄面皮を崩してやりたいってね!!つまり、これからも『ヒムロッチをギャフンと言わせよう委員会』は活動を存続する所存である!!――以上!」
 決意も新たに宣言した藤井に、有沢と紺野は頭を押さえた。ここまで言われては仕方がないが、せめて自分達は巻き込まないで欲しい……。二人は心からそう思った。
「ってまあ、そりゃそれでいいんだけどさ。話変わるけど、みんな何時から休憩?時間が合ったら一緒に見て回らない?行きたいとことかあるでしょ?」
「そうね、園芸部のハーブティが前評判も高いし、行ってみたいけど……。でも、空き時間ってそんなにないのよね」
「うん……。うちのクラスって文化部に所属してる人多いから、そうじゃない人はほとんどシフト入っちゃってるんだよね……。わたしも有沢さんも休憩時間違うんだ」
「そっかぁ。―――杉菜は?」
「私……?一応、11時半から2時まで休憩入ってるけど……」
「あ、だったらちょうど合うよ!ね、一緒に見て回ろーよ!2−Cのカジノとか1−Dのコスプレ写真館とか、結構楽しいらしいよ?」
 喜んだ藤井だったが、次の横から割り込んできたセリフに遮られた。
「無理」
「……アンタに聞いてないってば、葉月。休憩時間まで友だちと付き合うなってのは横暴じゃない?」
「……そういうわけじゃない。けど、無理」
 お茶を淹れながら話すその淡々とした態度に藤井が再びムッとするが、そこで杉菜が声をかけた。
「珪くんの言う通りなの。一緒に回るの、無理」
「えぇ〜っ!?なんで?どうして?せっかくの文化祭だよ!?アタシ杉菜と回るの楽しみにしてたのに〜!」
 それも心からの願望、真実だ。だが、本音の端っこでは姫条に杉菜を誘わせたくない、という恋する女の心理も混じっていた。姫条がそれを楽しみにしている姿を見ていたから。杉菜の事だ、誘われたらよほどの事情がない限り付き合うだろう。
「あ、もしかして、もう他の誰かと約束しちゃってるとか?その、葉月とか、……姫条、とか」
 恐る恐る言ってみると、杉菜は首を横に振った。
「そうじゃなくて……眠らなきゃいけないから」
「……眠る?」
「そう。眠らないともたないから、その時間いっぱい、睡眠時間に充てなきゃいけないの。……だからごめんなさい、奈津実」
 脱力。そういえば杉菜の体質を失念していた。
 一日14時間の睡眠を必要とする杉菜だが、普段は授業中だろうと眠くなったら寝る。しかし基本的に昼間であれば時間帯は自分の意思で調節できる。昼休み・自習時間などは特にそういう点で有効活用をされているわけだ。
 となれば、今日のようなイベント時はそれを考慮してシフトが組まれていて当然。しかも客寄せ人材その2であるから、そうそう教室から離れる事はできない。休憩時間帯は飲食店における昼時の混雑を考慮してあえて外してあるのだが、それ以外は詰めっぱなしだ。葉月は葉月で客寄せ人材その1、杉菜とは微妙にずれた時間でオフになっている。一緒に回るのは不可能だ。
 それにしても、哀れ姫条は猫だけでなく睡眠にすら負けているわけで。
 それを思って藤井はちょっぴり姫条が可哀想になった。ほんのちょっぴりだが。
「……りょーかい。それじゃ仕方ないね。あきらめるよ。……ん?でもそれじゃ、杉菜ホントに見て回る時間ないわけ?」
「うん。でも、仕方ないの。朝の用意と夜の片付け、どっちも途中までしか手伝えない、その換わりだから」
「でもさぁ、だからってそれ、つまんなくない?」
「……べつに」
「東雲」
 不意に葉月が声をかけた。
「何?」
「これ、二人のオーダー。おまえが置いてこいよ」
 そう言って東雲夫妻の注文したセットを杉菜に渡す。
「え、でも……」
「二人とも忙しいのに、来てくれたんだろ?お礼言ってこい、ほら」
「……うん」
 促すと、杉菜はややあって答えた。そのままトレーを持って両親の座るテーブルへ向かう。それを見遣ってから藤井は葉月を睨み、ヒソヒソ声で話しかけた。
「……葉月、今アンタ、あからさまに話の腰折らなかった?」
「……気のせいだろ」
「気のせいには思えないほど露骨だったんだけど」
「…………」
「ちょっと、なにその態度。仮にも客に向かってそんな無愛想でいいと思ってんの?」
「な、奈津実ちゃんってば、そんな言い方しなくても……」
 わたわたと紺野が制止に入る。葉月の方は何の痛痒も受けずにそのままオーダーをこなしながら呟いた。
「……あいつにつまらないこと、訊くな」
「つまらないこと?なにがよ」
「だから、つまらないこと。あいつが困る」
「はぁ〜!?……あのさぁ葉月、アタシ頭悪いから、もう少し具体的に説明してくんない?はっきり言って、アンタが言ってること、ぜんぜん理解できないよ」
「……ここで言う事じゃない。あいつが――」
 杉菜がいるこの場所では言えない――。
 そう聞こえた気がして、藤井は出しかけた言葉を呑み込んだ。チラッと杉菜の方を見た彼の視線が、どこか痛いものに感じられたからでもあった。
(…………ああ、こいつってば……本当に杉菜の事、心配してるんだ……)
 つきん、と胸に疼くものがあって、藤井はそれ以上その話題を続けるのは止めた。
 杉菜と親しくなってから感じている事がある。それが何か、今の自分には具体的には判らないが、どうやら葉月はそれが何なのか知っているらしい。
 だからこんなふうに杉菜を見るんだろう。
 杉菜の前ではとても優しい瞳をして、それに触れる事は無いけれど。
(……ちょっと羨ましいかも。ってゆーか、葉月、ぜっったい杉菜にアレだよねぇ……?本人自覚してるのかどーか、知らないけどさ)
 フム、と言わんばかりに藤井は息を吐く。
「……わかったわよ。この話、終わり。――じゃ、アタシそろそろ戻るわ。志穂、珠美、あとでもう一回たこ焼き持ってくるから、例のレア物ちゃんとキープしといてよ〜?」
「うん、わかった」
「ついでにデジカメ持ってくるから、杉菜と一緒に写真撮ってよ。遊べない分それくらいはイイっしょ?」
「あ、それだけど……杉菜ちゃんには特別料金かかるの」
「――はいぃ?」
「これも鈴木さんのアイデアよ。ただでさえ撮影しに来る人が多いから、いっそ有料で撮影可にしようって。ちなみに仕事中だろうと休憩中だろうと一枚撮影に付き500円。東雲さんの了解は得てるわ。……といっても、いつもの調子でOKが出たけど」
「……鈴木ちゃん、商魂たくましいなぁ。てか暴利じゃん、それ〜」
 苦笑しながら藤井は教室を出て行った。同じく苦笑する有沢と紺野だったが、小台風が去ったので自分達の仕事に戻る。葉月と杉菜目当ての生徒は勿論、素晴らしい出来のケーキセット目当てでその他の生徒や一般客が少しづつ増えてきたからだ。これ以上私語に興じている暇はない。
 例外は杉菜一人。両親の元にオーダー品を届け、葉月の言った通りにお礼を言っていた。
「……ありがとう、来てくれて」
「ハハハ!水くさいぞ杉菜。お前の学生生活をつぶさに見られるこんなチャンスを、俺が見逃すはずがないだろう?もちろんその姿を見てみたかったというのも否定しないがな!それにしても……うん、奥さんと出逢った頃を思い出すなあ。そう思わないか?」
「そういえばそうね。あの時も確か高校の文化祭だったわね。私、クラス出展の為にメイドの格好してて」
「そうそう!それでいきなり出会い頭に上段後ろ回し蹴り喰らったんだった!いやあ、あの時はさすがにこの俺もビックリしたな!」
 その言葉を聞いた全員が彼らに注目した。
(メイド姿で……上段後ろ回し蹴り?……この美女が???)
「だって、クラスの売上金盗んで逃げた男と似たような服着てたんですもの。隠れて待ち伏せしてたから、つい間違ってしまって……」
「いやでも、昏倒した俺の下敷きになってそいつも倒れてしまったからな!それにそのおかげで奥さんと知り合えた訳だから、俺としては結果オーライ、人生最大の幸運だと思うぞ?」
「うふふ、それもそうね」
 にこやかに歓談する夫婦の会話を周囲の人々は聞くとも無しに聞いていたが、何となく静寂が満ちたのは気のせいではないだろう。CDデッキから流れるBGMがいやに大きく響いたのだから。
「そういえば……二人とも、他にも見て回るの?」
「ああ、もちろんだ。この歳になると学校ってのは懐かしいもんだし、何よりせっかく奥さんとデートできる機会だしな!ああ、マイスウィートプリンスは学校の友達と来ると言っていたぞ。まったくあいつも俺に似て気が利く奴だ、ハッハッハ!」
 豪快に笑い声が響くが、声質のせいで下品さは感じない。実際お茶の飲み方にしろ何にしろ、品が良いのは事実なのだ。……つくづく名前と性格が問題なだけなのである。
 ちなみにマイスウィートプリンスとは尽の事。なんとまあ、尽の頭を抱える様が想像できる呼び名であろうか。
「そう……?それじゃ、ゆっくり楽しんでね」
「ええ、そうさせてもらうわ」
 桜が頷いた時、丁度隣の座席で新たな客が着席した。
 この『Café glace』は完璧を期す為、案内の際ギャルソンとメイドがそれぞれ客の為に椅子を引く、という事までやっている。女性客には男子生徒を、男性客には女子生徒を配するという徹底ぶりだ。これまた学祭委員・鈴木のアイデアだが、なかなかに評判は悪くない。
 今もまた同様のサービスで客(生徒だが)が腰掛け、オーダーを取った生徒が黒板前のコーナーに行こうとした。
 その時である。
「あなた、ちょっと待ちなさい」
 それを見ていた桜が、立ち上がって声をかけた。
「―――え?お、オレですか?」
 振り返った男子生徒が、自分を呼び止めた美女に上ずった声で返事をする。
「―――『オレ』ではなく『私』。お客様の前でそういう一人称はタブーです」
「え?え?え?」
「さっきから気になっていたの。あなただけでなく、皆さんも。―――あまりにも姿勢がなっていません」
 歓談していた時の微笑のままぐるりと部屋を見渡して、接客役の生徒に視線を巡らせる。
「特にあなた、その重心の置き方はひどすぎます。顎も出すぎ。あと2.5p引きなさい」
「は、はい!」
 微笑みこそ崩れていないものの、その声の鋭い響きを感じ取って、男子生徒は居住まいを正す。
「そのまま背筋を伸ばす。―――胸を張りすぎです。肩の力は抜く。腹筋に力を入れて、重心は下腹部に。おしりを締める!頭の天辺から上に伸びる感じで!」
「ハイィッ!」
「言葉は歯切れよく!」
「ハイッ!!」
 続けて幾つか指示を出し男子生徒の姿勢が直ったところで、再度教室中を見渡した。
「――何をしているんです、皆さんもですよ?」
 生徒達がビクッとしたように姿勢を正した。接客係だけでなく客に至るまで全員(二人除外)が、である。それを満足そうに見遣って、桜はにっこりと笑った。
「よろしい。――いいですか?模擬店とはいえそれでお金を頂いている以上、お客様に不愉快な思いをさせてはいけません。それは姿勢も然り。だらしない姿勢はそれだけでお客様の不快感を煽ります。良い姿勢というのは、多くの人にとって一番視覚的に不快感を及ぼさないものなのです。接客をするならば、まずこういう基本的なところから固めなさい」
 菩薩様の微笑みで桜は続ける。
「しばらく皆さんの姿勢を見ていましたが、あまりにもひどいので、つい差し出た真似をしました。ですが、これだけこだわりの解る場所で姿勢の悪さだけが浮いているのは、どうしても我慢ならなかったものですから。――お許しください」
 そう言って正確に45度頭を下げた後、再び椅子に座る。その座る様も流麗かつ上品、文句のつけようのない美しさだ。
「ハッハッハ!奥さんのプロ根性にはまったくもって頭が下がるな。ああ、諸君。俺の奥さんは礼法の先生でもあるが、また同時に老舗高級料亭の娘さんでな、おもてなしについてはちと厳しいのだ。そういう訳だから、奥さんの目に適うような接客を心掛けるようしっかり励みたまえ!」
 寂尊が何ともさらりと言う。桜は桜で上品に紅茶を飲んでいるが、何となくまだ姿勢に気配を巡らせているような気がする。生徒達はある意味怯えたように正した姿勢を保ったままで接客を再開した。
「……おまえの母親、ああいう人だったんだな」
 戻って来た杉菜に、葉月がボソッと言う。この二人はさすがに睨まれる(ニュアンス的に)事はなかったようだが、今まで知らなかった桜の一面に葉月は少し驚いたようだ。上段後ろ回し蹴りのくだりについてはさすがの葉月も眉を顰めていた、とは目撃者の有沢・紺野談。
「うん。姿勢については、お母さん、こだわりがあるから。挨拶と一緒で、接客だけじゃなくて人付き合いでも大切なことだって」
 淡々と話す杉菜に、葉月は「……そうか」とだけ呟いた。
 この子にしてこの親在り、と言うべきなのかどうか。内容的には納得がいくのだが、表現方法が何とも一般的でない気がする。
 そう思いつつ、葉月は黙々とオーダーを仕上げる手を進めるのであった。
 
 

<あとがき>
また出しちゃいました、東雲夫妻。・・・そんなに激しくなかったと思うけど。
今回は文化祭当日で。はば学って日程土曜の一日しかないんだよね。さぞステージの取り合いが激しかろうて。
ゲームでは文化部4つしかないけど他にもあると思いたい。多分活動や活躍が地味な部や同好会とかも存在してる筈。だってこれだけじゃ青春謳歌できないって(笑)。
自分の現役時代はずっと部活詰めだったのであまり模擬店巡りはしませんでした。自クラスで何やってたかも忘れてたし(オイオイ)。今時の高校文化祭ってどんななのかなぁ。
それにしてもそろそろ行き当たりばったりでエピソード考えるのも厳しくなってきたのぅ・・・。というか、何で大した内容じゃないのにこんなに長いのかしら。
あ、『glace』とはフランス語の『氷』です。発音が判らんかったので、アルファベットで(^_^;)

 
乙女物語・別解【13】   目次   乙女物語・別解【15】