−第13話− |
「……うっわあぁーーーっっ!!」 建物中を揺るがすような大きな感嘆の声が、はばたき学園高等部1年A組・通称氷室学級から沸き起こった。 「東雲さん、すっごい可愛いよ!似合う〜!」 「ホントホント!く〜っ、やっぱりあたし達の目に狂いはなかった!!」 「あーもうおれ感動!生きてて良かったーーッッ!!」 「落ち着けよ〜、気持ちは解るけど!!」 クラスメイトが口々に感動の声をあげる。その中心で無表情のまま佇んでいるのは東雲杉菜。余人の感動の声を聞いてはいるものの、本人は何とも思っていないようだ。どう反応を返したものか困惑しているというべきか。 文化祭を約2週間後に控えて、学園内はいつもと違う空気で賑わっていた。氷室学級も例外ではなく、早くも出展物の準備にとりかかり始めていた。 日頃冷静な氷室だが、こういうお祭り行事における成功も是とする性格……というか、実は結構熱くなって取り組む性格なので、ここぞとばかり生徒もノリにノっている。氷室のお墨付きで突っ走れる機会は貴重だから、当然だろう。 そして、HRで今年の出展物は喫茶店と決まったあたりで、皆の何かが外れた。 氷室学級には葉月と杉菜という客寄せにはうってつけの美形ペアがいる。勿論二人とも接客には実に不適当な人材だが、外見だけ言えば最高の素材だ。 「当クラスの喫茶店では、男子はギャルソン、女子はメイドの格好をしましょう!」 と、実行委員が高らかに宣言すると、クラスのほぼ全員が「賛成ーーーッ!!!」と手を挙げた。ちなみに当の葉月と杉菜はその間熟睡していたりする。お約束である。さすがに葉月は何かと思って起きたらしいが。 ついでに氷室だが、あまりのクラスの団結ぶりに、内容について非を唱える事も出来ず、そのまま了解のサインを出してしまったらしい。決して積極的にこの案に賛成した訳ではないことを、本人の名誉の為に記しておこう。 そして今、クラス中に感動の嵐を巻き起こしているのは、楚々としたメイド服姿の杉菜であった。 上品な紺色のベネシャン生地を用いたパフスリーブのワンピースに、染み一つない純白のエプロン。控え目にレースで縁取られたそれとお揃いの白いヘアバンド。とどめにややレトロ風味の漂う編み上げのロングブーツ。 それらのアイテムが、杉菜の持つ清純な雰囲気に見事なまでに調和していた。実用性を重視した華美でないデザインが、かえって効果的に彼女の華奢なラインを強調する。 まさに『萌え』というやつである。 一応サイズ合わせという事なので他の女子も着用しているのだが、誰一人として彼女の可愛らしさに敵う者はいなかった。嫉妬や羨望をかき消すほどにメイド服の似合う女の子というのは、まこと貴重である。 「Comment mignon(なんて可愛いの)!とてもよく似合っていてよ、東雲さん!ミズキもこれだけその服が似合うメイドは見た事がないわ。このままミズキだけのメイドとして雇ってあげてもいいくらい!」 言っているセリフ自体は失礼だが、彼女なりの最高の褒め言葉なのだろう。居合わせた須藤グループの令嬢は非常にご機嫌であった。 須藤瑞希と東雲杉菜。クラスも性格もまったく異なり、一見接点がなさそうな二人だが、実は杉菜がはば学に入学して最初に会話をした女生徒は彼女であった。 その時は単なる挨拶程度だったが、芸術の授業で杉菜の作品を見た天才少年芸術家・三原色が杉菜に声をかけた事で一層興味を持ち、機会があれば須藤の方から話し掛けてくるようになった。自分のペースは崩さないながらも細々とした事によく気がつく杉菜を何となく気に入ったらしい、今ではすっかり杉菜を友人(お供?)として認識している。芸術分野で話が通じる点もポイントが高かったのだろう。 そんな須藤だが、杉菜から文化祭でメイド服を用意する、という話を聞くとこう言った。 「あら、それだったらミズキのお屋敷で使われている物を貸してあげても良くってよ?ミズキは心が広いから、東雲さんがどうしてもって言うんなら、頼みを聞いてあげてもかまわないわ」 この言葉は氷室学級にとっては渡りに船で、実行委員は杉菜に是非須藤から衣裳を借り出すように要請、上手いこと必要数のメイド服を入手した(編み上げブーツは杉菜のみ標準装備だが)。そしてクラスメイトは様々な意味で感謝の言葉を須藤に贈ったのであった。 「でも、本当に似合うわね。……少し羨ましい」 そう言って杉菜を見るのは有沢だ。彼女もメイド服は着用しているが、やはり身長と眼鏡ゆえか『可愛い』と言うよりは『有能メイド長』だ。さすがに勘弁して……という事でヘアバンドを着けてないせいもあって、方向性としてはロッ○ンマイヤーに近い。まあこれもこれでコアなファンがいるだろう。 「うんうん!すっごく可愛いよ、杉菜ちゃん!おんなじクラスで得しちゃった!」 ハイテンションで喜んでいるのは紺野。さすがに傍らの麗人には敵わないが、彼女も小動物系の容姿ゆえなかなか似合っていて可愛らしい。 そんな光景だからして、クラス中が歓喜の雰囲気に浸っているのも当然だ。中には拳を握り締めて感涙にむせぶ者や、窓の外に向かって「神様ありがとうーーッ!!」とか「我が人生に悔いなぁーしッ!!」などと叫んでいる者もいる。 「ちょっと、一体なにごと!?教室棟全体に響き渡ってたよ―――って、うわ杉菜!なにその殺人的にかわいいカッコ!!」 あまりの騒がしさに、隣のクラスから藤井がひょっこり顔を出した。が、杉菜の姿を見た途端、瞬時に顔がにやけて愉悦の表情になる。 「あ……奈津実」 「奈津実ちゃん、ね、杉菜ちゃん、すっごく可愛いでしょ!?」 「ホントだよー!え、まさかこれでウェイトレスやるの!?わわ、それだったらばっちりカメラにおさめなくっちゃ!!」 「それが……直接の接客はしなくていいって。給仕じゃなくて、見える所で調理担当、だって」 「あーなるほどね。でもそれ正解!アンタが接客入ったら、とてもじゃないけど大変だと思うよ。もー次から次へとご指名来ちゃってさ!」 「ご指名って、うちのクラスでやるのはただの喫茶店よ、奈津実」 「そうよ藤井さん。まったく何を馬鹿なこと考えてるのかしら。これだから庶民は困るのよ」 「……ちょっと須藤!アンタ喧嘩売ろうっての!?」 こんな感じで女性陣が盛り上がっていると、また別のお客が教室のドアから顔を覗かせた。 「藤井〜!なに作業サボってこんなとこで油売ってんねん!はよ戻って……―――!!す、杉菜ちゃん、そのカッコ―――ッ!!」 「オイ、なにやってんだよ姫条。―――ウワッ!なんだおまえらその服!?」 入ってきた姫条と鈴鹿が一瞬にして驚愕、そして呆然とした表情を浮かべた。姫条なんぞはバレバレなくらい鼻の下を伸ばして見入っていたし、鈴鹿は鈴鹿で顔が真っ赤だ。現役の高校生男子に生のメイド服姿はかなり刺激的だったようだ。 「あ、す、鈴鹿くん!……と姫条くん」 「ふっふっふ〜!この杉菜見て冷静でいられるわけないでしょ〜?ちょっと目の保養すんのくらい、見逃しなさいよ」 「…………いや、まあ、そりゃかまわねぇけどよ……」 さすがの鈴鹿も度肝を抜かされたらしく、何とも形容のしようのない顔で答えた。もしかするとときめき度が5くらいは上がったかもしれない。誰に対して、とは追求しないが。 「ハァ〜……。いやホンマ、驚いたわ〜……。なんちゅーか、ごっつ似合っとるやん、杉菜ちゃん……。なるほど納得や、さっきの大声は」 「……そうなの?」 「そうよ!もう少し自信を持っていいのよ、東雲さん。そりゃあミズキほどじゃないけど、可愛いことは確かだわ。ミズキも服を貸してあげた甲斐があったというものよ」 さっきから異様な熱気の褒め言葉を与えられ続けているが、杉菜の態度には変化はない。もっとも照れた顔でも見せれば更に悶絶する人間が続出する事間違いないだろう。 「しっかし、まあ、なんて言ったらええか……。アレやな、この格好で『ご主人様』とか言われた日には、もーどないせいっちゅう感じやなぁ、ハハッ」 すっかりメロメロな顔の姫条が、照れ隠しのつもりか冗談混じりに笑うと、杉菜が小首を傾げて復唱した。 「……ご主人様?」 ゴォン!! 「ちょ、ちょっと姫条!なにいきなり机に頭突き喰らわしてんのよ!!」 「い……いや、今のはかなり効いたわ……」 ブルブルと声と拳を震わせながら、手近な机に突っ伏した姫条は何かに耐えるように呻いた。無理もない……と、周りにいた生徒達は心から共感した。 「オイ……大丈夫かよ、姫条……」 「……ニィやん?生きてる?」 「おお……何とかな……。……なぁ杉菜ちゃん……そのカッコでそのセリフ、ぜっったい言うたらアカンで……?」 突っ伏しながら、それでも姫条は杉菜に注意した。気持ちは解るが、勿体無い……と、周りにいた生徒達は心から残念がった。 「……そう?わかった、言わない」 当の杉菜は解っているのかいないのか、素直にこくんと頷いたのだが。 そのうちに、女子の間を巡ってサイズ等の確認をしていた実行委員が声をあげた。 「それじゃ、次は男子の衣裳合わせねー!女子はまだそのままそれ着ててくださーい。男女そろったところで最終確認しまーす!…………って、あれ?男子の最重要メンバーがいないじゃない。葉月くん、どこ行ったの?」 「最初からいなかったぞ。カバンは置いてあるから帰ってはいないみたいだけど」 「えー、参ったなぁ。……仕方ない、彼は戻ってきたらでいいや。じゃ、一旦女子は教室出てね。今の内にちょっと休んでてもいいけど、衣裳は汚さないように。あ、宣伝に行ってきても良いからねー!」 そう仕切って、女子を男子用臨時更衣室となった教室から退去させる。ぞろぞろとメイド服の集団が廊下に出ると、さすがに他クラスの生徒が目を向ける。特に杉菜の周辺に目が行くのは必然だろう。 「どうしよう?ここで立ってるのも邪魔になっちゃうよね……」 「でも……私はあまり動き回りたくないんだけど……」 「だったらウチのクラスにでも避難してたら?今んとこそんなに人もいないしさ」 藤井が提案すると、何人かがそれに賛同する。須藤は教室を出た足でそのまま自分のクラスに戻って行った。非常に名残惜しそうではあったが。 「杉菜ちゃんはどうする?」 ヒリヒリと痛む額を押さえながら姫条が訊くと、杉菜は少し考え込むようにして答えた。 「そうだね……少し、屋上で休んでくる」 「そっか。オレもお供したいとこやけど、使いっパシリの途中やから、そういうわけにもいかんしなぁ。くれぐれも気をつけるんやで、お嬢さん」 「校内で何を気をつけるってんだ?」 「こんなカワイコちゃんや、校内かて油断はでけへんで。今の御時世どこにどんな危険が潜んどるか判らんからな。男がみんな自分みたいなヤツやったら、杉菜ちゃんも安全なんやけどなぁ」 「???どういう意味だ、そりゃ?」 「……解らんならええわ。ほなまたな、杉菜ちゃん。ラッキーやったで、今日」 「あ、オイ、待てって!あ、そんじゃな、東雲」 「うん」 姫条らと、それから紺野らと別れて杉菜は屋上に続く階段へと向かう。廊下に出ている生徒のみならず、わざわざ教室から出てきて感嘆の声を漏らす生徒達には目にくれず、杉菜は階段を昇って行った。 「……ふう」 小さく、息を吐く。 あれだけ騒がれると、どう対処するのがいいのか判らなくなる。自分に好意を寄せてくれている、というのは理解できるが、理解できる分だけ返せないものが多い現実に対応し切れない。 (……疲れてるのかな……) 最近、少し自分がおかしい。以前のように淡白な態度をとり切れない事がある。結果として表に出てくるものには変わらないが、それまでに自分の中で逡巡がある。余計な事を考えてしまう。 家族は無理をするな、と言ってくれているし、少し落ち着いて休んでみるのがいいかも知れない。 とりあえず静かな所で深呼吸すれば、少しは頭がすっきりするかも知れない。 そう考えながら半開きの扉を開け、屋上へ出ようとした時に、ガラスの向こうにある男子生徒が立っているのが見えた。 (……あれは……珪、くん?) 「……ああ、聞いてる。今年は母さんも向こうだって。大丈夫、こっちはこっちで楽しくやるよ……仕事、うまくいってるんでしょ?」 携帯から聞こえてくる声に、葉月は静かに答える。申し訳なさそうな響きで返ってくる言葉に苦笑する。 「いいよ、いつものことだし。………………ゴメン、そういう意味じゃ……。 とにかく、気にしないでいいよ。……ああ、父さんもね。じゃあ、もう切るよ……」 ピッ。 話を終えて、携帯を切る。 海外を主な仕事の拠点とする葉月の両親は滅多に日本には帰ってこない。勿論、二人とも自分の子供に対する愛情は他のどの親にも劣らないが、それはそれとして仕事が優先されてしまうのも仕方ない事だ。 そう、いつもの事だ。もう慣れた。 クリスマスも年末年始も、両親が帰れるとは思っていない。多忙な両親に、そこまで望んではいない。葉月が我侭を言えば言うだけ、両親が更に困る。いつも、本当にすまなさそうに謝ってくれる、それだけで充分だ。 けれどやはり一抹の寂しさは拭えない。両親を大切だと思うからこそ、矛盾した感情を押し殺して頷くしかない。頷く分だけ、まだ何かを求めている自分に気づく。 ハァ……と大きく息を吐いて携帯をポケットにしまう。そして顔を上げると、校舎へのドアの所に杉菜が立っていた。 「……おまえか。……どうしたんだ、その格好?」 目を見開いて、杉菜の姿を凝視する。 「これ……?文化祭の衣裳。サイズ合わせ、してたから」 ……そういえば、今日は衣裳合わせがどうこうと言っていたかも知れない。 そう思い出して、改めて近寄って来た杉菜を見る。姫条その他の男子女子ほどではないが、葉月もやはり、 (……可愛い……。いいな……こういうのも似合う……) と、素直に思った。理事長の前には出さない方が良さそうだな……と思ったかまでは判らないが。 杉菜は葉月の横に立って、その長身を見上げた。 「男子は、今やってる。珪くんも行った方がいいと思う」 「おまえは?」 「風、気持ちいいから。少し息吸ったら、また戻る」 「……そうか。じゃあ、俺もそれまでいる」 そう言って、フェンスに体を預けるように眼下に広がる街並、そしてそれに続く海を眺めた。夕方に相応しい茜色が世界をうっすらと染めていく。杉菜もフェンスに手を掛けて、同じように景色を眺める。 「帰る時間、大丈夫か?」 「うん。衣裳合わせ終わったら、すぐに帰るから。ちゃんと皆にも了解もらった」 「ならいいけど。…………そうだ。もらったジグソーパズル、昨日やっと終わった。結構難しかったけど、面白かった。サンキュ」 「そう……?それなら良かった。何あげたらいいか、判らなかったから」 10月16日は葉月の誕生日だった。本人はすっかり忘れていたのだが、杉菜がプレゼントをくれた事によってそれを思い出した。 尽の情報を元にしたそれは葉月の好みにヒットした猫ジグソーパズルだった。だが同時に牛乳パズルに匹敵するほど難易度が高いものでもあり、さすがの葉月も完成まで10日以上かかってしまった。楽しめた事には変わりなかったようだが、一体どんな図柄だったのだろうか。 「……でも、あの時はビックリした。まさか、拉致されるとは思ってなかったから」 「拉致……そういえば、近いね」 朝、杉菜に会って挨拶とプレゼントを貰ったのはいいのだが、問題は帰りだった。仕事もないので普通に帰ろうとしたところ、誰あろう寂尊に遭遇してしまったのだ。 彼は花火大会時と変わらぬ勢いで、杉菜と一緒にいた葉月を半ば攫うように車に乗せ、東雲家に直行。なんと、ちょっとしたパーティの形式を整えて葉月の誕生日を祝ってくれたのである。何でも尽の話によると、なかなか葉月が遊びに来ないので、この機会に招待してやろうと目論んでいたらしい。それもわざわざ休日出勤の代休を当てた上で。 慣れていない歓待に非常に戸惑った葉月だったが、その気持ちが嬉しかった。寂尊も奥さんの前では少しばかり落ち着いて話をしてくれたので助かったのもあるし、何より料理が杉菜お手製だったのが消化器にとっても僥倖だった。9月に森林公園で弁当をご馳走になった事があり、その時もかなりの美味しさに感動したものだが、出来たての料理もまた絶品。非常に幸せな一時を過ごせたと言える。 ちなみに杉菜の姫条への弁当屋業は続行中である。今では姫条はすっかり杉菜の下僕(ハタから見ると)と化していた。荷物持ちやら何やらと多岐に渡って雑用を請け負っているが、率先してやっているから本人は幸せなのだろう。 「……プレゼントも、おまえの家族が祝ってくれたのも嬉しかったけど……俺、おまえの言葉の方が嬉しかったな」 「私の言葉?」 「そう。『誕生日、おめでとう』って。朝、おまえにそう言ってもらえて、とても嬉しかった」 「…………でも、それは」 少し言い澱んだ杉菜に気づき、葉月は軽く笑う。 「俺は嬉しかった。だから、それでいいんだ。……余計な事、考えなくていい」 彼女の目を見つめてそう囁くと、杉菜はわずかに目を見開いて見返してきたが、やがてそっと頷いた。 「うん…………」 返事をして、再び街に視線を向ける。穏やかに吹く風を吸い込むように、呼吸をする。 そしてしばしの静寂の後、ふと、見上げるように訊ねてきた。 「ね、さっきの電話……もしかして、お父さん?」 「……聞いてたのか?」 「ドアが半開きで、聞こえたの。……ごめんなさい」 「……いや、謝らなくていい」 杉菜の聴覚の鋭さは今に始まった事ではないので、葉月は首を振る。締め切った教室の中から十数キロ離れた中学校の校内放送を聞き分ける程なのだから、さっきの距離で聞こえない筈がない。 「それなら、いいけど……。……でも珪くん、家族の人と話してると、いつもと印象、違うのね」 「そうか?」 「うん。何だか……『良い子』っていう感じがした。上手く、言えないけど」 「……………」 「けど……どこか、寂しそうにも、見えた……」 ……どうしてこう、他人の感情には鋭いんだろう。 人の感情は敏感に感じ取れるのに、自分の中にそれがないなんて、不思議なのもいいところだ。 ――――けど……そんな事って、あるんだろうか? 葉月はふっとそう思ったものの、上手く考えがまとまらず、止めた。 夏以降、たまにバイオリンを聴かせて貰う以外には、昼休みの一時、もしくは短い帰り道くらいしか杉菜と二人きりになる事はなかった。人当たりはどうあれ、杉菜は男女問わず人気が高い。何だかんだいって引っ張りだこなのだ。 そんな状況だったから、考えをまとめる程の彼女の本音――花火大会の時の、あの言葉のような――は引き出せていない。簡単に答えを出そうとするのは、逆に彼女を傷つけかねない。 だから今は。 今はまだ、考えなくて良い。感じたように、すればいい。自分が出来る限りの全てをもって。 彼女を、傷つけないように。 柳眉を寄せる杉菜に向かって微笑みかけながら、葉月は吹っ切るように言った。 「考えすぎだろ。……そろそろ教室、戻ろう。文化祭、いろいろやることあるだろ?おまえも」 「……うん」 フェンスから身を離して、葉月は杉菜に手を差し伸べた。花火大会の日から、何となく習慣になってしまった行為。杉菜も自然にその手を取る。 だが、手を繋いだ二人がドアの方へ向かおうとすると―――。 「待って!そのまま動かないで!」 前方から一人の男子生徒が制止の声をかけてきた。思わず二人はピタリと足を止める。 満足したように、男子生徒はウンウンと首を縦に振りながら葉月達を見た。 「そう、そのまま……。うん、実にいいね。黄昏刻という秋の中で最も輝きを放つ瞬間に、手を取り合う美しい男と女。本来他者に従属すべき存在である女性に、あえて自ら仕えようと手を差し伸べひざまずく男性……。その矛盾とアンバランスさが、かえって美の真実の裏側にある危うさを伝えてくれるんだ。うん、本当に素晴らしいよ!」 「…………」 誰もひざまづいてなどいないのだが、その辺は脳内で完全に補完されているらしい。 「ああ、こうしちゃいられない!早速アトリエに戻って、この美しい光景をキャンバスに収めなければ!気まぐれなミューズの恩恵をみすみす見逃すなんて愚の骨頂だからね。それじゃあ葉月くん、そしてブラン・プリマヴェラ、僕はこれで失礼するよ!ミューズの愛を共有する友として、心からこの奇跡に感謝するよ!」 腰まである長い髪をなびかせながら高らかに美を謳いつつ、世にも美しい男子生徒――すなわち天才少年芸術家・三原色は階段を楽しそうに降りて行った。 「……なんだ、ブラン・プリマヴェラって……」 「私の呼び名。色、私の事、そう呼ぶの」 「……間違ってないか?文法とか、国とか」 確かに間違っている。『ブラン』はフランス語だし、『プリマヴェラ』はスペイン語だ。どうやら杉菜を『白き春の女神』と評したいのだろうが、スペイン語で統一すれば『プリマヴェラ・ブランカ』となる。ちなみにイタリア語だと『プリマヴェラ・ビアンカ』となって形容詞はやはり後に来るが、ラテン系言語は大体語順が同じだから、フランス語でも『ブラン』が前に来ることはありえない(はず)。 「うん。でも、語感がよければ、気にしないみたい」 「……そうか」 ……やはり何か杉菜の父に通じるものがある気がする。 が、そんな事で悩んでいても仕方がないので、葉月はメイド姿の姫君を促して校舎の中に入って行った。 その姿を影からこっそり見つめる色黒の、もしくはチョビ髭の影があったかどうかは――ご想像にお任せしよう。 |
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