Scene 8


 
 
 翌朝。
 いつも通りの時間に目を覚まし、いつも通りに朝の日課をこなし、いつも通りに登校する。親は心配していたけど、もう大丈夫だから、といったら渋々送り出してくれた。こんな事で休んだらこっちが負け犬みたいじゃない、とはさすがに言わなかったけど。
 ひらひらと、まだ冷気の残る朝の日差しの中を歩いていく。登校時間が早いから、まだそんなに学生の姿は少ない。緑色の紗幕が、ややもすると色濃くその腕を差しのべてきて、夏が近いなぁ、と感じる。
 この時期はとても好きだ。空気の瑞々しさが、一年間で一番優しい季節。じき、入梅して雨に鎖される景色も、まだ春のまどろみを引きずっているようにも思えて。誘われるように深呼吸をしてみる。
 ……自覚したら、妙に心が清々しくなったみたい。何でもできる、何にだって立ち向かえる、そんな気分。
 うん、悪くないな。
 どうしたら良いかなんてのは、玉緒君じゃないけど、判らないけどさ。
「日比谷!」
 背後から呼ばれて、振り返る。そこには私のよく知る――彼の姿。
「……尽君!?あ、おはよう。早いのね」
 彼はどうやら走ってきたようで、少し息が弾んでいた。満面の笑みを浮かべて朝の挨拶をすると、少し戸惑ったような顔で、でもすぐにいつもの笑顔で答えた。
「ああ、オハヨ。って言うか、早いのはおまえだよ。オレ、迎えに行ったのにもう家出た、とか言われてさ。急いで追いかけて来たんだ」
「迎えに?え、わざわざ遠回りして?何か、急ぎの用事でも、あったの?」
 すると、彼の笑顔が消えて、申し訳なさそうな顔になる。
「急ぎって言うか……昨日、あんまり話せなくて、ちゃんと謝れなかったから。……ホント、ゴメン」
「……わざわざそれを言う為に?」
「だって、状況的に、オレが原因だって思ったから。オレとした事が、最近女の子たちの事、あんまり見てなかったんだよな。『イイ男』失格だよな、まったく。……怪我、大丈夫か?」
 その声が、心底責任を感じているようで。まるで自分が怪我させたかのように訊くものだから、何だかちょっとおかしくなってしまった。尽君のせいじゃないのにね。
「日比谷?」
 笑ってしまった私を不思議そうに見る。ああ、こんな表情も好きなんだな、と感じた。
「大丈夫、もう平気。一晩寝たら殆ど治っちゃった。そりゃ少し赤味は残ってるけど、ファンデで隠れるくらいよ、ホラ」
 そう言って、私は自分の左頬を指差す。尽君は、本当だ、というように眺める。
「我ながら大した治癒能力。頬も頭も、痛みナシ。いつも通りに朝のロードワークできたわよ」
「ロードワーク……って、毎朝5kmのランニング?昨日頭打って倒れて、翌朝それ?……日比谷、タフ過ぎ」
 感心したように(呆れたようにかな?)言うものだから、私は心持ち胸を張ってみる。
「日頃の鍛練の成果!まあ、赤味ばっかりは仕方ないけど、昨日の帰りに氷室先生に『腫れが残ったらファンデで誤魔化します、良いですよね?』って言って了承貰ってあるから、問題なしよ。こういう事情だから、誤魔化す程度なら許可するって。やっぱり日頃の素行が良いと、こういう時話が早いわよね」
「……手回しも良すぎ」
 今度こそ、本当に呆れたような笑みを浮かべる。
「なんか日比谷って、表面だけ見てるとウチの姉ちゃんに似てるって思ったりもしたけど、全然違うよな、やっぱ。なんていうか、図太い」
 姉ちゃん、という単語には、まだ気付かないふり。
「あのねぇ、『イイ男』が使う褒め言葉としてはマイナスよ?せめて、芯がしっかりしてる、とかちょっとソフトに言ってよね」
「だって、そう思ったからさ。オレ、日比谷に対して言葉飾るの、好きじゃないんだよ。日比谷ってさ、なんか、こう……」
「男前、だとでもいいたいの?」
「そう、それ!」
 破顔一笑。うん、この顔。私の一番好きな顔。言ってる事は失礼だけど。
「女の子には優しく気配りを、がモットーのオレだけど、日比谷見てると、下手な男より漢らしいってゆーか、そういう迫力っていうか、圧倒感感じてさ。優しく、ってだけじゃ、失礼な気がしちゃって」
「そーれーはー、私が女らしくない、と言う事ですか!?」
「えっと……女らしい所もあるけど、どっちかっていうと、姐御系、みたいな?」
 姐御系、かい。
「褒められてるんだか、貶されてるんだか……まぁ、良いわ。長年の付き合いのよしみで、褒め言葉として取っておいてあげましょう」
 嘆息交じりに吐き出すと、かすかに、彼の呟き声が聞こえた。
「……だから、甘えちゃってんだよな……」
 顔をあげて、彼を見る。自省の色が僅かに、瞳にあった、様な気がした。
「尽君……?」
「あ、うん、褒め言葉なんだぜ、勿論。……あ、それはそうと、昨日の事、話戻るんだけど」
「?うん」
「オレ、……あ、玉緒もだけど、お前の事、迷惑だとか思ってないから、そこんとこ勘違いしたりするなよ」
「………………」
「付き合い長くて気心知れてる分、おまえが一緒にいるの、当然って思ってた。そんなだからさ、周りの連中もそう思ってくれてるもんだと、考えてたみたいだ、オレ。女の子がどう思うか、とかお構いなしで、オレのペースに巻き込んでた気がする。そういうところも、済まなかったよ」
「尽君。……聞いてると、自意識過剰な男の言い分じみて聞えなくもないんですけど」
「あれ、そうか?」
「そうよ。それに昨日の件は、私に対する反感が多分に根底にあったのよ。尽君が悪いわけじゃないわ。と言うかむしろ、私の方が迷惑かけてしまった気がする。巻き込んじゃったのは、私だわ。私の方こそ、ごめんなさい」
 そう言って頭を下げると、彼は何とも困ったような顔をした。少し黙ったあと、搾り出すような、小さな吐息がその口から漏れた。
「……聞いちゃったからなぁ。だから、ずっと、どう謝れば良いのか考えてて」
「……『聞いちゃった』……?」
「昨日、帰ってから、山田に電話したんだ」
 山田に。…………って事は、あの騒動の顛末を、尽君もご存知って訳?それはまた、何とも……。
「メンバーがメンバーだろ?オレや玉緒の事も絡んでるって判るよ。だから、そういうの一番事情知ってそうな山田に連絡取ったんだ。最初渋ってたけど、教えてくれた。日比谷がどういう事言われたか、……どういう事言ったか、大体のところ。それで、オレ、迷惑かけてたのかって、気がついて……」
「――それ、MDから直接聴いたの?」
「え?あ、まぁ……」
「これだけは言っておく」
 私は彼の目をキッ、と見据える。あんな馬鹿げた笑劇で、誤解なんてされたくないわ。
「私、あの時、尽君との関係が嫌であんな事言ったんじゃないわよ。目の前の連中が、あんまり私の事馬鹿にした物言いしてくれちゃったから、売り言葉に買い言葉で出ちゃっただけ。確かにぶち切れてした発言だけど、相手が低俗だって事は心底思ったけど!でも、私、尽君のペースに巻き込まれて迷惑だなんて思ってない!思ってたら、即座に見切りつけて徹底無視してるわよ。そうしてないって事は、私が自分から望んで首突っ込んでるって事!首突っ込んで責められたら、それは私の問題!かかってくる火の粉は自分で払う!人の事『男前』とか言うんなら、それぐらい理解しときなさい!!」
 殆ど一息に言ってやる。二日続けて声荒げるとは、我ながら珍しいったらありゃしない。
 彼は、目を見開いた後、顔を伏せる。思いをめぐらすような表情をして――けど、やがて小刻みに震え出す。
「……そりゃ、勿論、尽君自身が迷惑だと思ってるんなら、首突っ込むつもりはないし、距離もおきますけど。その権利、ある訳だし」
「〜〜〜思って、ないよ、迷惑、なんて……くくっ……っつ……ハ、ハハ、アハハ、アッハハハ!」
 震え出した体勢から、今度はおなかを抱え出す。ああもう、そうでしょうよ、どーせ私って奴はさ――。
「やっぱ、日比谷、オトコマエ!!っ……や、もう、敵わないよ、オレ。うん、さすが、兄貴とは全然気構え違う!!」
「あったり前でしょう!あの兄さんと比較しないでよ」
「うん、うん。やっぱ日比谷、いいよ。おまえは傍に居てくれた方が楽しい!……って、ハァー、いや、なんか、笑い疲れた、オレ。朝っぱらから何、こんなに腹筋酷使してんだろ、ホント」
「腹筋運動の責任は自分で見てよね。っていうか、本当に笑いとめてよ。人の目があるんだから」
 実際、道行く人々が、いきなり爆笑した高校生に、いかにも胡散臭そうな目を向けてくる。話しながらてれてれ歩いていたから、場所的にも時間的にも人通りが多くなってきたし。
「わかりました。我慢する」
 その言葉の通り、彼はまだ堪えるふうではあったものの、少なくとも衆目を集めるほどの笑い声は潜めてくれた。そしてしばし呼吸を整えてから、私に向かって優しく笑いかけた。
「サンキュ。ホント、…………いろいろ」
 数ヶ月前にも聞いたような台詞だな、とは思ったけれど、その気持ちが伝わってきて、嬉しくなった。
「うん、どう致しまして」
 同じ様に笑顔を返す。
「オレ、おまえが居て良かったって思ってるんだから、今まで通りで、距離置いたりすんなよ?」
「そっちこそ。女の子の機嫌も取れないなんて、らしくないんだから。しゃんとしてよね。フラフラしてると愛想尽かすわよ?」
「了解。姐御に見離されないよう、『イイ男』目指して精進します」
 お互いニッカリ笑い合って、いいかげん学校に向かう事に同意した。
「そういや、ホントは昨日の内に電話入れるつもりだったんだよ」
「そうだったの?」
「けど、山田がさ。『日比谷結構疲れてたみたいだから、今頃絶対爆睡してるよ。フォローすんなら明日の朝以降にしときなよ』って言って。それもそうかなって、電話しなかったんだ。正解だった?」
「……当たり。帰ってすぐベッドに倒れこんで、夢も見ないで寝てたわよ。起きたのはいつも通りだったけど。目覚ましもかけてなかったんだけどねぇ」
 それを聞くと、また彼の表情筋は弛んできて。
「日比谷もすごいけど、山田も只者じゃないよな。あれだけ美人で遣り手、ってそうは居ないよ。一見クールそうに見えて、とことん情が厚いし。オレの周りって、『イイ女』が多くて幸せだよなー」
 ――その中に東雲先生も含まれてる訳、よね。
 はて、どこまで突っ込んでいいのか、こればっかりは見当がつかないな。
 隣を歩く彼の横顔を見ながら、自分のポジションをどこに置くべきか、考えてみる。気付いている事を、伝えてしまっていいものだろうか。それとも、ギリギリまで秘しておくべきだろうか。どちらも難しいところ。
 ただ、気付いてる、と言えば、彼のこと。私の好意(下心?)を素直に受け取らずに、慰めや同情と取ってしまうかも知れない。そして、私が見たくない、あの辛そうな表情で笑って、遠まわしに距離をおく。
 それじゃ、意味がないのよ。屈託なく笑ってくれなくちゃ、私が嫌。見たくないもの見せられて、こっちまで辛くなるのは頂けない。
 となれば、今しばらくは知らないふり、続行かしら。知らないふりしてて、その間にこっちを向かせる。東雲先生の事が、辛くならなくなるまでは。
 ……考えてても、先へは進めないし、私は私のやり方で、よ、うん。
「ねぇ、尽君。週末、遊びに行かない?」
 いきなり話題が変わったので、尽君は少し驚いたようだった。
「遊びに?」
「うん。カラオケで新譜制覇して、ゲーセンで荒稼ぎして、ボーリング場で夕飯かけて勝負。どう?」
「そういや、最近、そっち方面で遊ぶっての、少なかったよな。面白そうかも。あ、……でも、ダメだ、週末は」
 突然、表情が曇る。私の――見たくない方の顔。
「あれ、誰か他の子と先約があった?」
「いや、他の子ってゆーか……。……葉月の両親が、休暇取れたとかで、今、日本に帰ってきてるんだ。で、来週にはまたそれぞれ仕事に戻るっていうから、その前、今週末に、両家で食事会でも、って事になってて。……そんな訳で、予定入ってるんだ、週末は」
「あ、……そうなんだ」
 葉月さんのご両親は主に海外で仕事をしているから、殆ど日本には戻って来られない。とはいえ、一人息子が付き合っている女性が気になるのが、親の心理ってもの。だから、日本に帰ってくるたび、食事会などの機会を持って、『未来の嫁』をつぶさに観察しているのだとか。まぁ、相手が東雲先生で、しかも当人同士がベタぼれですから、ご両親にも受け入れられているとの事だけど。
「ホラ、あの二人って未だにどっか抜けてるからさ、フォロー役のオレがいないと、どこでどんなドジしでかすか分ったもんじゃないし。そんな両家が揃ってる場で、オレだけ出席しないってのも、さ」
 必死で取り繕おうとする。いいんだよ、解ってるから。その席に混じりたくないという本音を押さえつけて、『姉を心配する弟』の仮面を守る為だけに息苦しい場所へ行こうとしてること。この人は、本当に東雲先生を大切に思っているから。だから、必死で自分を偽ろうとするんだ。
 ……あ、それでなのか。ファンクラブの女の子、気にかけてなかったのって。気にかける余裕、なかったんだ。そういう事だったのか……。
 あーあ、決意も新たな朝なのに、すぐにこれですか。ま、そんなとこに惚れたのは私だし、これは代償と思って頑張るか。君の笑顔っていう、ご褒美の為にね。……ってこれって、男の台詞じゃない?やれやれ。
「じゃ、来週は? 来週の週末は、空いてない?」
「来週?来週なら、空いてるよ。土曜の午後なら。日曜はお互い予備校だもんな」
「それじゃあ、来週の土曜の午後。行きましょう、デート」
 最後の単語を聞いて、キョトンとした顔をする。無理もない、私がこの単語を彼に直接言ったのは初めてなんだから。
 呼吸を一・二回してから、心得た、の吐息がひとつ。
「だな。行きますか、デート」
 

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