Scene 7


 
 
 目を開けると。そこは白い空間だった。
「…………天井……指紋付いてる……」
 ぼんやりと呟くと、呆れたような声が答えた。
「起きたそばから何言ってんだか。やっぱり病院行きかしら」
 傍らから聞こえた声に目をむけると、そこには山田が座っていた。
「あれ……?山田、何でいるの?……ていうか、ここ……保健室?エタノールの匂いがする……」
「後半、正解。前半は後で説明する。……せんせーい、日比谷、起きましたぁ」
 山田はパーテーションの向こう側に声をかける。すると、保健医の先生がひょこっと顔を出した。
「ああ、良かったわ。このまま目が覚めなかったら、念のため病院か、とも思ったんだけど。大丈夫?気分、悪くない?痛む所とかは?」
 一年次の保健委員会で馴染みのある保健医は、優しい顔で尋ねてきた。
「気分は……悪くないです。吐き気とかもないですし。あ、でも、左頬が痛いかも……」
「左頬、ね。腫れちゃってるから、仕方ないわ。唇も少し切れてたし。何が原因か、覚えてる?」
「……原因…………ああ、走る集団心理の餌食になったような……」
 そういうと、先生と山田はそれぞれ苦笑いを浮かべた。
「その後確か殴られて……壁に頭ぶつけて……。私、気絶、してたんでしょうか?」
「そう。覚えているなら大丈夫ね。少し頭を打って、気絶したの。タンコブは出来てたけど、危険な症状はないようだし、もう少し休んで様子を見ましょう。いい?」
「……はい。お手数おかけします、先生」
「そんな事気にしないで。山田さん、私、職員室に行ってくるわ。氷室先生に報告して、ついでに他の用事も片付けてくるから、何かあったら呼んでちょうだい?」
「はい、わかりました」
「それじゃ日比谷さん、無理に動いちゃ駄目よ」
 そう言って、先生は何冊かのファイルを持って保健室を出ていった。保健室の中は、私と山田しかいない。
「今、何時間目?」
「5限目の終わり近く。あんたが寝てたの、一時間ちょいってとこ」
「あぁ〜……、皆勤賞、パァ。しまったなぁ……。って、それより、何で山田がここにいるのよ?あんた、クラス違うじゃない」
「ウチのクラス、本当なら今の時間ヒムロッチの数学なんだけど、あんたと困ったちゃんたちの事件で、自習。今頃ヒムロッチ、連中に説教続けてるんじゃないかな。で、あたしはあんたが心配だから付き添わせてくれって、先生を説得したの。親友が意識ない状態で、のんびり自習プリントなんて解いていられません、って言って」
「半分、サボりたかったんじゃないの?」
「それもちょっとはね。でも、ゴメン。忠告、遅かった。あたしとした事が」
 山田はぺこりと頭を下げた。
「山田が謝る事じゃないでしょうが……。いいよ、私も正直、連中挑発したとこあるし。貸し借りなんて、らしくないでしょ、お互い」
「そっか。ま、でも、安心して。連中には釘刺しといたから。二度目はないでしょ。物証もある事だし」
「物証?」
 尋ねると、山田はにっこり笑った。何か企んでる時の、生き生きした瞳。スッと、ポケットからMDとメモリーカードを取り出して私に見せる。
「あんたたちの会話、録音済み。ついでに一部撮影もした。誰が参加してたか、誰がどんな台詞吐いたか、今度日比谷に手を出したら、これ全部東雲に流すから、って言ったら、連中、心底怯えた顔してたわ」
「……録音って。どうやって?」
「朝、あんたに会った時、こっそり盗聴器を仕掛けてみたりした。で、休憩時間だけオンにしてた」
「………………」
 今朝、確かに山田に会った。挨拶した時に、山田は私のスカートが汚れてると言って、それを払ってくれた。
 …………その時か。そういえば、こいつはその手の物のコレクターでもあったっけ……。
「やっぱり心配になっちゃってね。備えあれば憂いなしっていうか。それに、実は体育館裏、ウチの部室から見えるのよ。カメラのズーム効かせれば、人の顔くらい判別できる。人気がないように見えるけど、壁に耳あり障子に目あり、ってやつ。まぁ、タイミングは難しかったけど、結果オーライって事で、許してよ」
「………………傍観者に専念するんじゃなかったの?」
 意地悪く言ってやる。
「誰かさんが、もう少し小利口に振舞ってくれりゃ、そうしてたけどね」
 ……そう来たか。きっと、あのときの会話も聞いてたんだろうけどさ。
「……最初はそうしておこうかと思った。だけど、あの姦しい声聞いてたら、我慢できなくなってね。気がついたら、キレてた。……叫んだら、すっきりするだろうと、思ったのよ。実際、ちょっとすっきりしたし」
 息を吐いて、目を閉じる。
 叫びながら、浮かんだ顔。浮かんだ、自分の声。
 何故、私がこんな事を言われなきゃならないの。私は、知りたくなかったのよ。知らずにいられれば、私だって苦しくなる事はなかった。いっそ、本当に、『赤の他人』だったら――こんなふうに、あの人の事で思い悩む事もなかったのに――。
 中途半端な自分の位置が、どれほど惨めなものなのか。解ろうとも思わない連中に、負けたくなんかなかった。
 でも。 
 それ以上に、見たくないの。…………辛そうな、顔。『彼』のそんな顔が、見たくないんだ。
 見たくないから――。
 そして――私は自覚した。
「……キレてた割には、肝心なところはちゃんと言わなかったあたり、あんたらしいと思ったわ。そういや、誰かが変なこと言ってたわね。あんたが他の男も追っかけてるとか何とか。あれ、何?」
「ああ、それね。昨日、帰りに葉月さんと会ったのよ。それで、途中まで話しながら一緒に歩いて帰ったの。それ見て、ムカついたんじゃない?」
「なるほどね。葉月珪のファン、結構この学校にいるから、そういうのもあった訳ね。納得。ま、それはともかく。あんたが目を覚ましたから、事情聴取って事になると思うけど、どうする?口裏合わせるなら、今のうちよ」
「……大事にするの、面倒臭いな。連中、なんて言ってた?」
「単にあんたがムカついて、とかは言ってたかな。東雲の名前を出せば奴にも火の粉が降りかかるから、それだけは口に出さないんじゃない?本人気付くと思うけど。面子が面子だし」
「でしょうね。ま、いいや。私も尽君の名前は出さない。山田もそうして」
「了解。あんたがそれでいいなら、あたしは構わないわ」
「うん。大丈夫。一度は殴られてやったけど、二度はやられてやるもんですか。そこまではあんな奴らに付き合っていられない。――ところで山田」
 私は閉じた目を再び開けて、山田の方を見た。
「氷嚢持ってきてくれない?左頬、やっぱり痛い」
 
 
 その後、氷室先生や学年主任の先生がやってきて、山田の言葉通り事情聴取と相成った。けど、私自身が大事にはしないで欲しいと言ったせいか、それとも私の日頃の行いが良いせいか、あまり細かく追求されずに済んだ。私に絡んだ連中の言い分と、私の証言がほぼ一致していた事もあっただろう。連中が予想通りの答えをしていた事で、私と山田は思わず顔を見合わせて苦笑した。本当に、単純な子たちだなぁ。
 結局私は放課後まで保健室のベッドを占領し、授業皆勤賞がおじゃんになったのもあって、この際だからとしっかり睡眠を取ってやった。
 放課後、尽君や玉緒君が様子を見に来てくれた。尽君はやっぱりこの騒動の原因に気付いていて、「ゴメンな?」って言ってくれた。玉緒君も、自分のファンが混じっていた事に気がついて、「十分注意しておくから。もう二度とこんな真似できないように」と、いつもの穏やかな笑顔で言ってのけて、少しだけ連中が気の毒にも思えた。
 氷室先生が車で送ってくれると言うので、山田と二人、好意に甘える事にして、私は家に帰った(山田んちは私の家と同方向にあったから、ついでに便乗して来た。一応「日比谷さんが心配で」とかは言ってたけど)。
 家に着いて、自分の部屋に戻り着替えてベッドに倒れこむ。
「何か、疲れたなぁ……」
 鞄は机の脇に置いたまま。勉強をやる気分じゃない。本当に、疲れていた。
「……柄じゃないんだけどな。白い手のイゾルデ、なんて」
 ……好きだったから。
 好きで、だからずっと見ていて。
 見ていたから、すぐに気がついたんだ。
 好きな人が好きな人を。私が好きな人が、私じゃない人を、好きだと思った瞬間を。
「これって、結構喜劇に近いかも。あんまりよね。」
 ――でも、仕方がない。私は私。私のやり方で、あんな顔させないように、するしかない。
 見たくないなら、見ないで済むようにしてやればいい。
 私の一番好きな顔で、笑えるようにしてみせる。
 私が彼に一番近い『他人』だと言うなら、その立場、フル活用させてもらおうじゃない。
 そうして、私は今度は自発的に、自分の意識を手放した。
 やっぱり兄さんの妹よね、私って、とか思ったりしながら。
 
 

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