Scene 2


 
 
 翌々日の日曜日。私は予備校の講義が終わり、荷物を片付けていた。
 学校の授業だけでは、私の夢の為には間に合わないし、ま、こういう青春もあるわよね、と思いながら教室を出ると、丁度隣のクラスも終わったのか、生徒たちがぞろぞろと出てきた。その中に知った顔があって、足を止めて呼びかけた。
「玉緒君!そっちも今終わったの?」
 単語帳に目を向けていた彼は、ゆっくりと顔をあげて、いつも見せる穏やかな顔で笑いかけてきた。
 彼の名前は、紺野玉緒。尽君と同じ様に、小4からの付き合い。ついでに言うと、彼のお姉さんの珠美さんは尽君のお姉さんの親友でもある。そんなこんなで仲は良いんだけど、現在のクラスまで一緒となると、腐れ縁の域でしょう、もう。
「うん。日比谷さんも終わったんだね。おつかれさま」
「お互いさま」
「僕は油断するとすぐに成績落としちゃうからね。これぐらいやらないと人に追いつけないし。尽や日比谷さんにはまず敵わないけど」
 言葉だけ聞いてると卑屈にも思えるけど、不思議とそんな感じはしない。生来の鷹揚さ、ってものかしらね。
「私だってまだまだだわ。この前の模試、納得行く点取れなかったもの。もっと頑張らないと」
「医学部志望だもんね。だけど、無理しちゃ駄目だよ。医者になろうって人が、自分で体壊してたら洒落にならないし」
「分かってますってば」
 そう言う彼も、医療系の学部を狙っている事は知っている。小学の頃は総理大臣になりたいんだ、とか言っていたけど、その後色々と希望が変わっているらしい。
「尽はまだこのあと一コマ残ってるって。日比谷さん、時間が合ったし、いつもの店でお茶でも飲んで行こうよ。暇だったらでいいけど」
「そうね。さすがに頭脳労働すると、お腹も空いたし」
「うん。日比谷さんって、結構ほっそりしてるのによく食べるよね。その体のどこに入るんだってくらい。……あ、女の子にこういう事言うの、まずかったかな?」
 おっとりしている割には、そういうところはちゃんと見ている。侮れないよね、この人も。
「私限定なら言ってもOKよ。他の子には控えた方が良い場合あり、ね。私の場合、事実よく食べるし、食べた分消費されてるし、指摘されても何とも思わないんだ」
「アハハ、そういうところ、日比谷さんならではだよね。自分を客観的に見てるっていうか。いいと思うよ、そういうの」
「ありがと。反面教師が近くにいるから、自然と自分を客観視するようになっちゃったのよね」
「渉さんの事?でも、渉さんもすごいと思うな。自分の夢貫いて、プロ野球に入っちゃったし」
「逆指名どころじゃなく、まだ二軍で、しかも彼女ナシだけどね。確かに、夢を貫いたと言えば、そうよね。少しは見直してやりますか」
「ひどいなぁ」
 ひどいと言いつつ笑ってる玉緒君も、結構ひどいんじゃないかって気がするけど。
 そんな事を話しつつ、いつもの喫茶店へ向かう。マスターの趣味か、少しシックな感じのする喫茶店だけど、ここのコーヒーとダージリンティーは絶品なのだ。数ヶ月前までは、それ以外のお目当てが存在した事もあって、男性客の割合が多かったんだけど……。
 と、ベルを鳴らして店内に入ると、「いらっしゃいませ」の声と一緒に、カウンターに一組の男女が座っている光景が私たちを迎えた。
「あれ、東雲先生と葉月さん?」
「え?」
 声をかけると、まず女性の方が振り向いた。柔かそうな髪がかすかに風を起こすと同時に、驚いた顔から輝くような笑顔に変わる。
「あら!日比谷さんに玉緒君じゃない。どうしたの、二人とも。デートか何か?」
「それはこっちの台詞ですよ。こんにちは、先生」
「こんにちは。葉月さん、御無沙汰してます」
「ああ……久しぶり」
 あ、葉月さん、少し機嫌悪そう。玉緒君も気付いたみたい。邪魔しちゃったみたいだし、仕方ないか。
「私も玉緒君も、予備校終わったんで、一緒にお茶を飲みに来たんですよ。分かってるじゃないですか、先生だって。3月までここでバイトしてたんだから」
「うふふ、勿論分かってるわよ。ちょっとした冗談」
 そう、尽君のお姉さんは今年の春までこの喫茶店アルカードでバイトをしていた。高校三年間+大学四年間、都合七年はここを支えた看板娘でもあったのだ(だから、去年も予備校に通っていた私たちはかなりの顔見知り)。大学在学中に教員免許を取得し、母校に採用され、今でははばたき学園2年A組、つまり、私の所属する氷室学級の副担任を務めている。ついでに言うと尽君も同じクラスで、彼は「ぜーったい、天之橋のおっちゃんが楽しんでやってんだよーっ!」と嘆いていた。理事長の性格を考えると、私もそう思う。
 そんな訳で、『尽君のお姉さん』は、私たちにとって『東雲先生』でもある訳だ。
 二人とも、しばらく顔を出せなかったので、デートのついでにマスターに顔を見せに来たらしい。多分、東雲先生の発案。葉月さん、そういう事には気を回しそうにないものね。
「おい……そろそろ、時間」
 少しの間世間話を交わしたところで、葉月さんが徐に先生に切り出した。
「え、あ、本当だ。じゃあ二人とも、私たちこれから行く所があるから、これで失礼するね。あまり遅くならないように」
 普段ボーっとしていて、しかもデート中なのに、やっぱり『先生』は『先生』なのね。
「大丈夫ですよ、遅くなったら、日比谷さんはちゃんと僕が送っていくし。それじゃ、僕たちこそお邪魔して済みませんでした」
 玉緒君がそう言うと、先生は顔を真っ赤に染めて、照れながら店を出ていった。……可愛いなぁ、本当に。
「本当に可愛いよね、東雲先生って」
 奥まったテーブル席に着いてオーダーをすると、玉緒君が同じ感想を漏らした。
「うん。私、ああいうお姉さん欲しかったなぁ。玉緒君のお姉さんも可愛いけど」
「そうかなぁ。確かに可愛いけど、和馬さんの事で東雲先生と一悶着あった時、子供心に怖かったんだよね。女の人って、実は男よりも恐ろしいなぁって」
 その話は聞いた事がある。東雲先生はレベル高いから、憧れる男子が多かった(今でも多いけど。だって、あの氷室先生が、東雲先生と話す時の表情の柔かさといったら!あ、私に対しても柔らかいけど、それは飽くまでも優等生に対しての柔かさなの)。
 玉緒君のお姉さん、珠美さんの旦那様である鈴鹿和馬さんも、当時は東雲先生に好意を持ってたらしく、親友だった先生と珠美さんの関係に亀裂が生じた事があるらしい。尤もそれは珠美さんの誤解で、先生は葉月さん一直線だった為、最後にはちゃんと和解できたそうな。
 けれど、先生をライバルと見なしていた頃の珠美さんについて、弟の玉緒君は、「女性の暗黒面って、こんなものなんだなぁって、その時よく分かったんだ」としみじみと述懐している。その為か、玉緒君はその穏やかな性質から、尽君に負けないくらい女子に人気があるにも拘らず、積極的に女子と接触したがらない。よく話すのは私とか、裏表の殆ど無いようなタイプの子、くらいなもの。ま、解る気もするけど。
「でも、東雲先生ってそういうダーク面、少ない気がするな。だから、あの葉月さんがベタ惚れしてるんでしょうね」
「うん、尽が苦しいのも、解る気がする」
 カチャリ。テーブルに、注文した品が置かれて、ウェイトレスが立ち去る。
 沈黙。
 そして、沈黙の打破は、彼の方から。
「本人に聞いた。聞かなくても分かってたけど。そうかなぁって。日比谷さんも、判ってたんだろう?尽の、……好きな人」
 一口だけ、カップに口をつけて、再び置く。
「……付き合いが長い分、見えるものもあるわよね」
 わざとぼかして言ってみる。すると、玉緒君は、やおら安堵したような息を吐く。
「良かった。僕一人であいつのフォローできるとは思って無かったし、どうすればいいかなって悩んでたんだ。日比谷さん、放課後や休みの日に割と尽を誘ってるから、もしかして知ってるのかなって」
「どうして、そういう発想になるわけ?」
 理由も解ってるんだろう、この人の事だから。返答は、見当がついてしまった。そして、その通りだった。
「尽が誘われてる日、尽の家に葉月さんが行ってる日と殆ど合致してるから。近いところだと、この前の金曜とか。葉月さんが尽の家に行く日って、東雲先生、朝からそわそわしてるから、すぐ判るよね」
「……玉緒君って、実は一番侮れない人よね」
 今度は紅茶をグイッと飲んで、睨んでみる。いつもは気にならない紅茶のカフェインがやけに胃にのしかかった。
「尽が気付いてるかどうかは判らないよ。結構他の女子にも誘われてるし、誘ってもいる。けど、その穴を確実に埋めてるのは、日比谷さん。僕が突き止めたのは、そこまで。僕を侮れないって言うなら、当たってるって事でいいんだよね?」
 いつもどおりの柔らかい笑顔。まったく、珠美さんの事言えないんじゃない。さすが姉弟。
「尽が大分前から、なるべく家に帰らないように忙しくしてたのは知ってる。勉強は図書館をフル活用してるし、委員会だ部活だって言って、家には寝に帰るだけって状況にしてるのも、そういう事かって知ったら、納得いった。きっと、顔合わせられないんだろうな、と思った。特に、葉月さんが一緒にいる時、傍目から見ても先生、いい笑顔してるもの。好きだったら、耐えられない気、する」
「……そうかもね」
「ねぇ、日比谷さんは、いつ、どうして気がついた?僕は尽に打ち明けられるまで確信が持てなかったんだ。あいつ、そんな素振り、見せないようにしてたから」
 ふ、と息をつく。あれは、いつ頃だったろうか。
「多分……中学の頃、かも。尽君を入れて数人で森林公園に行った時だったかな。たまたまそこに先生と葉月さんがいたの。葉月さん、熟睡モードだった」
「あ、何かそんな感じ」
「二人に最初に気がついたのは、尽君。私もすぐに気がついて、でも声かけるのも悪いからって思って、皆でその場を離れようとしたの。その時ね、尽君、誰にも気付かれないように、二人を見てた。……正確には、お姉さん。そしたら、何となく分かっちゃった。尽君の好きな人」
「そっか…………」
「その時初めて、彼が押えているものに気がついた。普段は全然そんな様子おくびにも出さないじゃない?だから、その時の表情がすごく違和感を感じて、でも、ああ、そうかって思って。……けど、気付いてしまったからといって、何ができるわけでも無いわ。きっと本人は知られたくない事だもの。だから、私何も言わなかった。気を紛らわせる事しかしない。それ以上は、私にだってできない」
「…………うん」
「でも、4月から先生が副担任になって、とても困ってるのが分かるのよね。決して悪い感情じゃないとはいえ、顔を合わせたくない相手とほぼ一日中接触の機会があるって、かなり苦しいんじゃないか、とは思う。実際、逃げ回ってるじゃない」
「確かに。端から見てると、姉の干渉が煩わしくて逃げ回ってるやんちゃな弟、って図だよね。でも、そういう感情があって、その上での行動だとしたら……。辛い所だよね、本当に」
「私が尽君を誘うのは、そういう事情があるから。私、当人同士が幸せなら、そういう関係も否定しないわよ。けどこの場合、完全にすれ違ってるもの。そういうのを見ていると、ね……」
「……見ていると?」
「……見ていると、正直、ウザイ」
「プッ」
 吹き出すし。
「だって、本当にそう思うんだもの。私一人だけがそんなの見せられてて、しかも隠し通してやらなきゃいけないんだから。頼まれてもいないのに、よ?つくづく良い子だと思わない?私って」
「ククッ……ホント、そう、だよね、アハ、アハハ。……あー、ごめん、ツボ入っちゃった。笑う事じゃないのにね」
「とかいって、まだ表情筋が歪みきってるわよ」
 ティーカップを掲げながら指摘してやる。そんなに笑う事はないでしょうが。
「いや、なんとも。僕はてっきりさ、日比谷さんは尽の事が好きなんじゃないかな、って思ってたんだよね。だからそこまでしてくれるのかなって、考えが飛躍してたんだけど」
「好きは好きでしょうね。普段の尽君は、見てて嫌味はないし。レベルは高いし、話すのも楽しいし。何というか、この一連の状況は、私が気詰まりなだけよ。何だかんだいって彼を誘ってしまえば、尽君、あの性格だから、一緒にいる女の子に気を遣うでしょ。それで少しは感情の矛先が逸れるかな、と」
「逸れるかな?逆に苦しくならない?」
「そこまでは私が知るわけないじゃない。本人がとりあえず家にいたくないオーラ出してるんだもの、誘ってやれば、本人にとって良い口実はできるでしょ」
「う〜ん、そっか、難しいところだよね。でも、いつまでもそうしてるのも、日比谷さんが大変じゃないの?」
「だったら、玉緒君も協力して連れ出せば良いだけの話。違う?」
「僕だとね、見え見えだろう?事情が分かってるんだから。それよりも、早いところ尽が自分で踏ん切りつけられるようにするべきだと思うんだ。どうすれば良いのかなんて判らないけど、でも、これは本人の問題。あいつが自分で思い切らなきゃ、何も解決しないし、始まらないと思う」
「……うん。そうね」
「先生が早く葉月さんの所にお嫁に行けば、多少は解決するのかなぁ。結婚とかじゃなくても、同棲でもしちゃえばいいのに」
 あっさり同棲、とか言うな、高校生が。
「それはどうかな。同棲は親御さんが反対してるらしいわよ。仮にも教師ともあろう者がそんなでは、とかって。ま、生徒の手前、自分は同棲中です、なんて言えないのは確かよね」
「それもそうか。あ、でも、先生が大学生の頃、そんな話題が出たって言ってたよ、尽。葉月さんがどうしても一緒にいたい、って言ってて、でも先生のお父さんがまだ学生なんだからって猛反対して。交際に異議は無かったみたいだけど、結婚や同棲は早過ぎるって事でしばらく揉めてたって。それで先生、板ばさみになっちゃって、尽が助け舟出したんだ。葉月さんに『学生同士で同棲してると、周りの奴が色々言うだろ?そうなった時、姉ちゃん、すごく辛いと思うんだ。葉月、姉ちゃんにそんな思い、させたくないだろ?』って言って。それで葉月さんも妥協してさ。大学を卒業したらその話は進めようって事になったらしくて」
「ふーん、そうだったの。さすがにそこまでの内部事情は知らなかったな」
「うん。で、その事を教えてくれた尽が、言ったんだ。『あの時、姉ちゃんと葉月を一緒にしておけば、オレ、こんなに苦しくなる事もなかったかな』って」
「………………」
「そのドタバタがあった直後なんだって。自分が、誰を好きなのか気がついたの。……さっき日比谷さんが言ってた、森林公園。そこで、二人を見た時に、自覚したって」
「!…………そう、なんだ……」
「日比谷さんは図らずもその現場を目撃してしまった。……こういう言い方はなんだけど、何だか、運命的なものを感じるよ、僕は。少なくとも、そんな尽に気付いて、当人の知らないところで支えているのが、日比谷さんなんだってことに」

 
 

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