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Scene 1
気付かれないって、思ってる?
ちゃんと、見えているよ。
だって、長い間、近くにいたんだから。
君の、その笑顔のそばに。
「あれ、日比谷。まだ残ってたのか?」
プリントから顔をあげると、そこには予想通りの男の子。
「うん。どうしても判らない問題があったから」
そう言った私の手元には、氷室印の数学プリントが、一問だけ空白のまま置かれていた。もう一枚の計算用紙には、苦闘の現状が見て取れる。はっきり言って、つまづいてる。
「どれどれ……あー、これかぁ。オレもこれなかなか解けなかったんだよな。何なら教えてやろうか?」
「ううん、自分でやらなきゃ意味がないしね。提出期限は3日後だし、まだまだ粘ってみるわ。どうしても判らなかったら、氷室先生に訊くし」
「そう?ならいいけど。日比谷って、本当に真面目だよな。兄とは正反対」
私の断りの言葉に大して気を悪くした風もなく、彼は目の前の席に腰かけた。その動きは、停滞というものがなく、見ていて好感が持てるほど。
「兄さんを見てるとね、一直線になりすぎるのもどうだかな、って思っちゃう訳よ。勿論それも大切なんだけど、一つしか自身持てる物がないと、それを失った時が怖いじゃない?だから、できる事は増やしてた方がいいかなって」
「なるほど。さすが、文武両道を追及する努力家だけあるよな。説得力がある」
「ありがと。でも、尽君だって、立派なものじゃないの。学業と運動どっちも両立してるくせに、生徒会の仕事まで上手くこなしてる。私なんかより、よほど努力してるでしょ?」
尽君、と呼ばれた彼は、にっこり笑って応える。ほんの少し、照れたような表情。人好きのする、明朗な面差しと声。
「まーな。ほら、オレの目標は『イイ男』ってヤツだし。イイ男たるもの、何でもマルチにこなせないと、格好つかないじゃん?でも……そんなにオレ、努力してるように見える?あんまりそういうとこ、見せないようにしてるんだけど」
ちょっとだけ、不安そうな声。
「他の女の子には見えてないかも知れないけど、私、付き合い長いもの。いくらなんでも、努力無しであれだけの成績叩きだせるほどの天才ではないでしょ、あなた」
「……当たり。実はかなり努力してます。今更おまえ誤魔化そうったって無理か」
意地悪く言ってみた私に、あっさり降参する。でも、別段怒った様子もなく、彼は相変わらずニコニコと私の前に陣取っている。
「それより、尽君こそどうして今頃まで?生徒会の方、終わったんじゃないの?」
訊いてみると、彼は僅かに眉を寄せる。……触れちゃったかな。
「……ん、終わったよ。何となく校舎ぶらついてただけ。なんか、さ。人がいない学校って、ちょっと不思議な感じするだろ?そういうの、味わってたっていうか」
歯切れが悪い答え方。いつも他人の前で彼が見せる対応は、もっと溌剌としている。
……ゴメン。本当はわざと訊いてしまった。
「ふ〜ん、尽君でもそういう気分になる時があるんだ?ちょっと意外」
「おい、おまえ、オレをなんだと思ってるわけ?」
「教会の地下で製造されたアンドロイド試作機だとは思ってないから、安心して」
「……あのなー、氷室先生ならともかく、オレがアンドロイドって事はないだろ?」
「私がどうかしたか?」
教室のドアから、噂をすれば影。当の氷室先生が覗いていた。お約束だと思ったものの、やっぱり少しびっくりした。
「こんな時間まで何をしている、東雲、日比谷。もう下校時間は過ぎているぞ」
「あ、すみません氷室先生。数学のプリントをやっていたら遅くなってしまって。東雲君に教えてもらってたんです」
「数学――ああ、なるほど。日比谷、勉強熱心なのは結構だが、あまり帰宅が遅くなるのは良くない。程々にしておきなさい。」
「はい、もう帰ります。心配してくれて、ありがとうございます」
氷室先生は、彼にしては珍しくやわらかい表情を返してくれた。
「ああ、では。戸締りの確認はしていくように」
「はい。さようなら、先生」
「氷室先生、さよなら」
やがて、規則正しい足音が遠ざかっていく。戸締り確認を怠らず、とか言ってるけど、多分また後で見回りに来るんだろうなぁ。それまで残っているのもまずいから、私は帰る準備を始めた。尽君はといえば、椅子をきちんと片付けて、それから窓の施錠を確認する。春とは言えまだ肌寒い。今日は窓は開けられてはいないのだけど、彼は一つづつしっかりと確認していく。――まるで、少しでも時間を費やそうとでもするかのように。
ゆっくりと明度を下げていく茜色の中で、彼は、何かを耐えている表情を浮かべていた。それは、ほんのわずか。見ていなければ――ずっと注意して見ていなければ、気付けないほどの。
「……ねぇ尽君。お腹空かない?」
「え?あ、そういえば。こんな時間だもんな」
突然声をかけられて驚いたように振り向いたものの、すぐにいつもの人懐っこい表情で笑う。
「折角だから、どこかで夕御飯食べていこうよ。割り勘でいいから」
「……そうだな。たまには日比谷と外食ってのもいいか。じゃ、どこにする?」
「制服だからね、ファミレスで妥協するしかないでしょ。駅前でいいんじゃない?金曜日だからちょっと混んでるかも知れないけど。私、家に電話するから、ちょっと待ってて。尽君も連絡入れときなよ。夕飯用意されたら、無駄になっちゃうもの」
「そうだな。わかった」
お互いにそれぞれの家へ連絡を入れる。私の方は結構あっさりしたもので、すぐに母から了解の答え。日頃の行いがいい事と、相手が小学生の時からの付き合いがある尽君だから、信頼されてて楽。
尽君の方は、少し何か長引いてるみたい。
「ゴメンって、姉ちゃん。でもさ、女の子に誘われたのに、断るなんてできないし。それに相手は日比谷だから、……ウン、わかってるって。葉月にもよろしく言っといてよ。……うん、じゃあ」
ピッ、と携帯を切る音。少し苦笑いを浮かべて私を見る。
「まったく、姉ちゃんてば、いつまで経っても心配性なんだからなー。いくらなんでも日比谷相手に妙な事しないっての。なぁ?」
いつものノリ。でも、少し見え隠れしているのは、動揺。私は敢えて気付かないふりをして笑う。
「尽君が周りに女の子はべらせ過ぎるからでしょ?私が東雲先生の立場だったら、そりゃあやっぱり心配するわよ。何かとんでもない事やらかしたりしないかって、ね」
「ヒデェなぁ。オレ、そんな事しないよ。付き合い長いくせに、そういうところは見てないわけ?」
「見てるわよ。冗談だってば」
いって鞄を手に取る。
「尽君、鞄はどこに置いてあるの?生徒会室?」
「あ、そーだった。生徒会室なんだよ。携帯だけはポケットに入れてたんだけどさ。あ、先に昇降口行ってなよ。すぐに合流するから」
そう言って、彼は教室を飛び出していった。氷室先生が見たらお小言貰うほどのスピードで、私は苦笑する。
……さっき彼は「たまには」と言った。
でも、気付いてるかもしれない。
私が彼を誘うのには、法則がある事――。
彼に初めて出会ったのは、小学4年の時。 彼、東雲尽と言う人物は、転校して来るなりクラスの中心人物になった。明るくて人懐っこく、頭の回転も速い。女の子に対する気配りが上手で、かといって男子との協調性もある。人づき合いの天才、とも言えなくもない。
そんな彼と、よく話をするようになったのは、私の兄・渉がはばたき学園高等部に入学して、尽君のお姉さんと親しくなった、という話を聞いた頃から。
親しくなった、と言っても、どうもそれは兄さんの思い込みが多分にあるみたいで、尽君から漏れ聞く情報では、お姉さんの方は結構困惑してたみたい。まあね、小4の妹にすら、「その勘違いっぷりはどーかな」と思われてた事に気付かない兄さんが、高校生の、しかも年上の女心の機微を察する事ができるはずがない訳で。ちょっとお姉さんが気の毒になってたりもした。彼女に素敵な彼氏がいるとなれば、尚更の事。
お姉さんの彼氏。それは巷でモデルとして有名な、葉月珪。高校時代から、「正式にはつきあってない」と言いつつも、見事なまでのラブラブバカップルぶりを披露してたのは、わたしも二人を見た事があるから知ってる。すごくお似合いだなぁ、って素直に思った。
葉月さんはかなりの美形だけど、お姉さんの方も負けてはいない。女の私から見ても、とっても魅力的。可愛い系の美人、って言うのかな。容姿だけじゃなく、勉強も運動も得意、気立てがよくて料理上手、しかも天然ちゃんときてれば、ね。無敵よ、もう。
でも本人に聞いた話だと、すごく努力してたんだって。高校の入学式の日に葉月さんに会って、彼と仲良くなれたらなって思って、勉強も運動も頑張ったんだって。何しろ葉月さん、万能型の天才らしくて、凡人じゃ相手にしてくれなかったみたい。それが悔しくて努力してみせたんだ、って胸を張ってた。勿論冗談半分だけど、それを聞いた時、隣にいた葉月さんはとても複雑な表情で笑ってたっけ。
そんな話を聞いていたから、尽君がいい成績を取るために、見えない所で大変な努力をしてるんだろうって事もすぐに分かる。でも、見えなくても、やたらと自慢する訳でもないから、周りの反応は大抵良好なもの。正に『イイ男』目指して邁進中、って感じ。ぶっちゃけ、顔の造りもいいしね。
…………けれど。
彼の努力が、何の為のものだったか。……誰の為のものだったのか。
それが判った時、初めて、『彼』が見えた。彼の、痛み、と言っていいのかも知れない。
決して報われる事がない――想い。
彼は、ずっと、それを抱えていた。そしてまた、抱えている。
それを知っているのは、私だけだと――思っていたのだけれど。
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