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Scene 19
そして、風の気配が変わり、季節が移ろうと同時に、更なる多忙な日々がやってきた。
十一月の文化祭に向けて、生徒会役員と各クラス委員、そしてやはり各クラスから選出された実行委員から成る文化祭実行委員会の面々は、一般の生徒がまだ暢気に構えているのをよそ目に、数多くの会議を持ち、文化祭成功に向けての準備段階に突入した。
私と玉緒君はクラス委員、尽君は生徒会メンバーとして、それらの活動に否応なく巻き込まれる事となった。特に尽君は、次期生徒会長の期待が高い為に、これでもかと言う激務を先輩方に押し付けられていて、見るからに大変そうだ。そんな状況で文武両道をこなしているのだから、すごい精神力だとは思う。もっとも、暇があると寝てるけど。
平日は生徒会+実行委員会、日曜は予備校で、休む暇があるのか分からない日々が続く。そのせいなのか、尽君は今のところ、東雲先生に心を乱している場合ではないようだ。私も自分の仕事で手一杯で、とても尽君の事まで手に負えなくなって来た。そんなだから、二人でゆっくり会う事が出来たのは、修学旅行から三週間ほど経った十月半ば、体育の日の午後だった。
「あー、もう疲れた〜。まだこれが一ヶ月も続くと思うと、吐き気して来そうだ」
並木道を歩きながら、彼が伸びをする。木々に群がる葉の色は、ほんの少しだけ夏とは違う色彩を見え隠れさせていた。
「それだけ皆、尽君に期待してるって事じゃないの。期待されるのはいい事よ。まぁ、尽君の場合、持って来られた仕事をこなす処理能力持ってるから、皆も仕事任せちゃうんだけどね。せいぜい頑張って。フォローはちゃんとしてやるから」
「フォローだけ、だろ?」
「勿論。それが私の仕事ですから。人の仕事奪ったりはしません。己の職分は弁えなきゃね」
「なんだかなぁ。――そう言うんなら、生徒会入れよな。そうすりゃ惜しみなく仕事フォローさせてやるから」
「一応玉緒君が推薦してあげる、とか言ってたけど。でもなー、どうせ生徒会入るんだったら、会長の方が楽しそう」
「それはやめろ。お前がトップに立ったら、それはそれで恐ろしい事になりそうだから」
「どういう意味よ。玉緒君が入閣するよりは全然マシじゃない」
「……それは言えてる」
いつものように、お互い気を遣い合わない会話。旅行が終わったあとも、私たちの関係はほとんど変わらない。
私の存在が、彼に何らかの影響を及ぼしている事が判ったのは、とても嬉しい出来事だった。それが単なる『姐御』に対する信頼感でも、良いんじゃないかと思った。彼の中には、ずっと東雲先生だけがいた。その鉄壁の囲みの中に、少しでも私の領域が出来たのであれば――。
周囲からは最早出来上がったカップルのように見られている私達だが、尽君からは、「好きだ」とか「付き合おう」とかいう、それらしい言葉は聴いてない。今日のように、「暇できたから、公園の辺りで息抜きしないか?」くらいのもの。でも、それでいいんだよね、私は。今のところは、こんなのもいいかな、と思ってる。それを聞いた山田は、「あんたって本当に東雲の事甘やかし過ぎ。今更手を引けとは言わないけどさ」と溜息をついたけれど。
取りとめもないつれづれ話をしながら、道をのんびりと歩く。今日はやけに暖かい風が吹いていて、気を抜くと眠ってしまいそうな陽気だった。こういう日は昼寝でもしたいなぁ、と思ったそばから、隣から大きなあくびの気配。
「ふわぁあ〜っ。……っくぅ〜、眠い。相当疲れてんなー、こりゃ。日比谷、芝生の方行って昼寝していい?」
顔を見ると、確かに眠そう。このままじゃ、いきなり倒れこんで熟眠してしまいそうなのが予想できる。私も昼寝という意見には賛成なので、あっさりと同意した。祝日とあって、芝生公園の方もかなりの人出があるけれど、高校生二人が昼寝するくらいの場所はあるだろう。
「…………そういえば、丁度今の季節だったな」
気だるそうな動きで歩いていた尽君が、何やらしみじみと言いだした。私は、実はその事に気付いていたんだけど、特に言う事もないと思って、口にはしていなかった。そう、今の季節だった。尽君の、そしてそれを見ていた私の中に、それぞれある感情が目覚めた日――。
「あの時は確か、温水プールに行った帰りだったわね」
「そうそう、六・七人で男女取り混ぜてさ。皆で勝負したんだよな。誰が一番たくさん泳げるかって」
「うん。それで、私と尽君がほぼ同距離で勝って。帰りに皆にバーガーセット奢らせたのよね」
「日比谷、あの時から大喰らいだったよな。奢り分だけじゃ足りなくて、自分でも二セットくらい買って食べててさ、オレ含めて、全員呆気に取られてたんだっけ。結構ボリュームあるのに、全部綺麗に平らげて。今思うと、あの頃から逞しかった気がするぞ、おまえ」
「運動した後で、お腹空いてたのよ。あれでも腹八分目に満たなかったんだから。夕御飯、いつもの倍は食べたかな」
「……マジ?やっぱりおまえの消化器ってミステリー……。胃袋四つとか、ない?さもなきゃブラックホール飼ってるとか」
「失礼な。男が大食漢でも文句言われないのに、女の場合だと呆れられるって、不公平だわ」
「程度ってモンがあるぞ、男女関係なく。おまえのは、男にしても多い方だと思う。ホント、どこに消えてんだか…………」
眠そうな割にはちゃんと会話に付き合ってくれていた尽君が、ふとその口と歩みを止めた。芝生公園の入口を入り、少し進んだところだった。
「尽君?どうかした?」
「…………姉ちゃんと、葉月だ」
「え?」
彼の一点に定められた視線を追って、私も彼の見ている方向を見た。その先には、確かに東雲先生と葉月さんが座っていた。否、眠っていた。直射日光の当たらない木陰を上手く見つけて、二人とも完全に熟睡していた。葉月さんは勿論先生の膝枕で、先生は後ろの木に凭れて。
「……不用心だなぁ、二人とも。人目が多いから、変な事はされないと思うけど」
「ホントだな。これだけ賑やかなのに、よく眠れるよ。ま、あの二人もここんとこ多忙だし、しょうがないか。……葉月はそんなの関係なしで寝る奴だけど」
思ったよりも明るい響きの声色で、私は彼の横顔を見上げた。あの時とほぼ同じ状況で、彼の心に翳りが下りているのでは、と思ったから。
けれどそこには、私が危惧していた程の暗さはなくて――。
「尽君――」
「…………なんか、思ったより平気、みたい」
「……そうなの?」
「うん」
その言葉通り、今までずっと彼を支配していた翳は、これまでで一番薄く感じられた。表情も、そんなに思いつめたものではない。むしろ、彼自身、自分の感情の変化に戸惑っているようにも見えた。
「ここしばらく、姉ちゃんと葉月が二人でいるところ、見てなかったんだ。花火大会の後避けてたのもあるけど、姉ちゃん、もう葉月の家に住んでるし」
「そういえば、そうだったわね」
先生は、修学旅行から帰った次の週、葉月さんの家に引っ越した。挙式まで一ヶ月を切り、互いの家を往復するのが大変になった為でもある。多忙にも拘らず、引越し作業に駆り出された尽君が、その翌日ヘロヘロになって登校して来たのを覚えている。先生は先生で、丁度ドレスの仕上げにかかっている時期で、これまたえらく疲れた顔をしていた。何らペースが変わらなかったのは葉月さんくらいのものだ。
こういう事情だから、ここ数週間、尽君は学校以外で先生と顔を合わせる機会は少なかったはず。
「自分でも、少しびっくり。……見たら、また辛いんだろうなって、思ってた。でも、そうじゃない。前みたいに、悔しいとか苦しいとか、そういうんじゃなくて、何ていうか、こう…………」
「……ほっとした?」
「うん……そんな感じかも。ああ、あの二人はあれでいいんだなって。あの二人だから、いいんだなって。……そういう、気分。……こんな風に思えてる自分が、何だか不思議だ」
暖かい瞳だった。優しい声だった。
肌で感じる気配は、どこもでも落ち着いたものだった。まるで、今日の穏やかな風のような。
「そっか…………良かったね」
再び視線を先生たちに向ける。秋の日差しの中、まどろむ二人の恋人たちが見ているのはどんな夢だろうか。
風の柔らかさと大差ない口調で言うと、尽君は二人を見つめながら頷いた。
「うん。……何だか、大丈夫そうだ、オレ。忘れる事が出来そう」
迷いが晴れたかのように、確かな意思を込めて呟かれたその台詞を聴いて、私はふと首をかしげた。
「忘れちゃうの?」
「え?」
「忘れるだけしかできない、恋だったの?」
「……何言ってんだ、おまえ。忘れるだけしかって……」
「先生を好きになったのって、尽君にとっては、苦しみしか生み出さなかったの?他に何も残さなかったの?だとしたら、先生にも失礼な話なんじゃない?」
「…………日比谷」
「私は、先生を好きになって、苦しんだりして、でも、今さっきのように思えるようになった尽君だから、好きになったんだけど。そういう事まで忘れられると、それはそれで困るな。――本当に、辛いだけの恋だったの?」
片手に持ったハンドバッグを、ブラブラ振りながら言う。
尽君は、私の言葉を反芻するように、しばらく口を閉ざしていた。私も同様に口をつぐみ、彼が話し出すのを待った。
やがて、自信なさ気に、小さな声が聞こえた。
「……そう言われると、それだけじゃなかったかも知れない。苦しいとは思っていたけど、その反面、嬉しかった事も多かった気が、する」
「なら、忘れなくてもいいじゃない」
「…………いいのか?」
「いいのよ。そこまで自分を虜にするほどの恋ができるって、ある意味幸せだと思う。それを経験できたのって、貴重よ。でしょ?」
「いや、それもあるけど、……そうじゃなくて。…………おまえはそれでいいの?」
彼の顔を振り仰ぐ。そこには別の意味で戸惑った顔。
私は、彼の辛そうな顔を見たくなかった。少しでも、晴れやかに笑ってくれれば、と思っていた。それは本当の気持ちだ。だけど。
だけどもし、彼が何の翳りも持っていなかったら?あの苦しそうな表情を抱く事なく、かつてのように笑ってばかりの、生意気で大人びた少年のままだったら?私は彼を好きになっただろうか。
多分、ならなかっただろう。
翳りがあったからこそ、私は彼に惹かれた。痛みを持つが故に、彼の本質が見えたが故に、彼を好きになった。
それでいて、それを乗り越えた彼の笑顔を見たかったんだ。そういう、事なんだ。
「いいから、私は『ここ』にいるのよ、今」
彼の目を見て。視線を逸らすことなく。顔には、笑みを浮かべて。
「私は最初から、自分で望んで『ここ』にいるの」
真っ直ぐに射抜くような私の視線を受けて、彼は少し目を見開いた後、やがて力を抜いたように笑った。
「……だな。…………日比谷」
「何?」
「サンキュ。――――おまえがいてくれて、良かった」
そこにあった笑顔には、もう、翳りの色はなかった。
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