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Scene 15
蜩の羽の音が、控え目に響いている放課後。私は教室の中にいて、それをぼんやりと聞いていた。
朝夕は大分涼しくなったものの、まだまだ日の出ている内は暑い。開け放たれた窓辺から、とろりとした風が流れ込んできた。他にその場にいる者はおらず、ただまったりとした時が流れていた。
「何を気だるげな顔してるの?休み明けの実力テストで、オール満点決めた奴とは思えないな」
廊下から、聴きなれた声が聞こえてきた。見れば、山田が教室に入って来るところだった。
「まさか今頃夏休みボケ?」
「んな訳ないでしょ。仕事中。疲れたから、ボーっと一息入れてるの」
手元には、三十枚以上の手書きのプリントと、数枚の集計用紙が並べられていた。
「どれ……ああ、自由行動の予定表ね。何、こんなのまとめてんの?ヒムロッチも余計な事やらさすなぁ」
「行く度に、見学場所についてのレポート提出しない馬鹿がいるからよ。予定表無視しきって、遊び呆けるだけのお馬鹿さんがね。おかげで、私にとばっちりが来ちゃった。とはいえ、今回は氷室先生に借り作ったようなものだから、恩を返さないと後味悪いし」
「別に気にしないんじゃない?あの人の事だから。あ、ってことは許可貰えたの?京都御所の拝観」
「あ、うん。言うの忘れてたわ。今日、許可下りたって。引率は氷室先生。妥当なところでしょ」
「ヒムロッチ引率ってのは気に入らないけど、未成年だけじゃ入れないしね。あんたにまとめてもらって正解。夏休み前から根回ししといてくれて、助かったわ」
「なに、私も行きたかったんだから。でも、手間賃と説得料は頂戴ね。現地で団子でも奢ってくれればいいから」
「わかった。ところで、学級委員の相棒は?あんた一人にこんな面倒な仕事やらせてるとか?」
「玉緒君ならさっきまで一緒に仕事してたわよ。お腹が空いたって言ったら、何か買ってくるって、あんたが来る五分前くらいに出てったわ。もうちょっとしたら戻ってくるんじゃない?」
「ふーん。……旅行まであと一週間かぁ。そろそろ準備しなくちゃね」
夏休みが終わり、休み明けの実力テストが終わった今は、丁度一週間後に二年生の修学旅行が待ち構えているところ。一応学級委員の地位にある私と玉緒君は、ただでさえ忙しいこの準備期間に、更に多忙を強いられていた。尽君も、一週間は生徒会の仕事が空くので、留守中の仕事に滞りが無いよう業務の整理をしているらしい。多分今も生徒会室で書類とにらめっこしているだろう。
「山田は他の自由行動決めたの?別の場所の拝観申し込みもしてたみたいだけど」
「まあね。ウチの副担が話振ったら乗ってきたからさ、自由行動の二日目に一緒に西芳寺行って来る。金はかかるけど、滅多にいける所じゃなし、この機会に大量に庭園の写真撮ってくるわ。ついでに写経もしなきゃいけないけど」
「あんたと写経って、豚に真珠並みにかけ離れてる気がするわね」
「仕方ないでしょ、仏教行事に参加しないと入れないんだから。そういうあんたは行きたい所あったんじゃない?」
「あ、それ断念。目的地、離れ過ぎてて移動だけでかなり時間取られるから、諦めた。片道三時間かかるんだもん。私も仕方ないから、行ける所でうろつくわ」
ペンを握りなおして、次のプリントをめくる。……ったく、汚い字だなぁ。提出物なんだから、もう少し丁寧に書けっての。象形文字の解読やってる気分よ。見学場所の書き出しより、認識する方に時間を取られて疲れてしまうのが正直なところだ。つくづく、先生ってエライ。
「あっそ。誰かと回るとかは?御所行ったらあとは一人、って事はないでしょ。東雲や紺野と一緒?」
自由行動時、特に同じクラスの者と組まなければならない、という事はない。というか、便宜上の班はクラス内で作るけど、ハナから守らないのが多いし、各人の興味対象が大幅に違ければ、それくらいの柔軟性があった方が単独行動を避ける点でも好都合、という事らしい。まあ同じ空間に所属する分、勢い同級生の組が多くなるけど。勿論せっかくの高校生活最大の一大イベントを恋人と二人っきりで、と考える者も多いから、そういう人たちは自分たちでとっくに話をまとめている。
「どうだろ。尽君も玉緒君も、結構大多数の女の子に誘われてるわよ。私につきあってる暇、ないんじゃないかな」
「なるほどね。この機会にあんたから二人を引き離して、リードしたいって連中も多いでしょうしね。ま、あんたにちょっかい出すよりは、本人堕とした方が安全だって事、ようやく認めたってとこかしら。…………そういや、あの後どうよ。あいつとうまくやってるの?」
プリントに落とした目を上げる事もなく、私は事実だけを告げた。
「さあ。客観的には、上手くやってるように見えてるらしいわね。花火大会の後、結構男子からのお声がかりが減ったわ。そのかわり女子の睨みはきつくなってるから、皆に誤解されてる事は間違いないでしょ。『お目当て』の視点も、微妙にずれてるみたい。それどころじゃなくなってきたんでしょうけど」
「確かにあの花火大会は効いたみたいね。普段グループでつるむあんたたちが、二人だけで行ったんだもの。でも、その後は何か進展あったの?主観的に」
集計用紙に、解読した文字の作成者の名前を書きこむ。大体の生徒は、メジャーな観光地目当てだから、集計用紙は専ら行き先よりも、生徒の苗字の方で埋まっていく。
「彼の方はまだぎこちなくなるって。やっぱりギリギリのところ踏ん張っている感じね。長年の物思いだから、そうすぐには無理でしょ。そんなだから、私の方も進展なし。やたら出歩いて、海水浴もナイトパレードも制覇したけど」
花火大会の後は、例によって多忙な日々が続いた。夏季課外・予備校・部活の合宿などで、私も尽君も、ついでに玉緒君も暇がなく。 それでも、合間を見つけて尽君を誘う事は再開した。彼もできる限り話に飛びついてくるので、本業の学生業で忙しい割には、随分と遊びに行ったと思う。 彼が言うには、二人きりで東雲先生と話すのはまだまだ苦しく、気まずいとのこと。花火の日には日比谷がいたから何とかなったんだけど、と、聞き様によっては嬉しい言葉を言っていたが。
東雲先生の方はといえば、これが大分落ち込みから回復したようで。私が尽君を誘うのは彼を陥落させる為、と思い込んだ先生は(いや、それもあるけどね)、私の影響で尽君が少しづつ変化してくれるのを期待しているらしい。期末試験前に言った事も、少しは救いになったようだ。結論として、弟よりも、私の恋路を応援する方に興味が移った。今ではかなり笑顔の翳りが薄くなってきている(だから、先日葉月さんに偶然会ってお礼らしき事を言われた時は、驚きながらも安堵した)。
それに加えて、葉月さんとの結婚話もトントン進んで、挙式ももうすぐという、尽君の事だけに構っていられない状況になってきた。暇さえあればドレスを縫い、各種手続きを行い、式の準備をする、という先生らしからぬハードなスケジュールが詰まっている。別の意味で疲れた顔になっているのは、これまた仕方がないというところか。
一応学級代表という事で、私が式に出席する事は決まっている。その事を伝えてくれた尽君が、ひどく切ない表情をしたのが印象的だった。まだ、彼の心は自分の行くべき方向を模索中のようである。
まあ、付き合う覚悟はあるから良いんだけど。
「表面だけ見てると、カップルの生態と似通ってるんだけどね。事情を知ってると、あんたって予想以上に尽くすタイプなのか、ってびっくりよ」
「山田さんも似たようなものだと思うよ。――ただいま。遅くなっちゃった。購買閉まってたから、外まで行ってきたんだ」
悠然とした足取りで、玉緒君が戻ってきて会話に加わった。手には調達してきた食料を持って。
「山田さんがいると思わなかったから、飲み物二人分しかないや。僕の分あげようか」
「要らんよ。紺野に借り作るの、日比谷に喧嘩売るのと同じくらいに後が怖い。つーか、紺野の方がタチ悪そうだし」
「うん、そう言うと思った。賢明だね。――ハイ、日比谷さん。烏龍で良かったよね」
「ありがと。後でレシート見せて。消費税分まできっちり入れて割り勘にするから。ってな訳で、食べ物出して。休憩にしましょう」
「分かった。ごめんね、やらせちゃってて。まだ割とある?……そこそこあるなぁ。やっぱり文字の解読に時間がかかるよね、これ。提出ギリギリに書き殴ったってのがバレバレ」
簡単に机の上を片付けて、買ってきたお菓子を並べる。遠くから吹奏楽部の完璧に近いハーモニーが聴こえるから、氷室先生に見つかって説教される事もないだろう。
「今時修学旅行は海外じゃなきゃ、なんていう奴多いけど、フォローする身としては、まだ国内の方が助かるよね」
「そうよね。そういう人に限って、面倒起こすし。いくらそれが役目とはいえ、羊を群れに戻すボーダーコリーの身にもなれっての」
「羊の方がマシだよ。人の方がタチ悪い。しまいには逆ギレしたりするし」
「あんたら、それ大きな声で言わない方が良いわよ」
「山田さんが漏らさなきゃ、誰も分からないよ」
「それもそーか」
貪るようにお菓子を食べつつ、愚痴り合う。その傍ら、玉緒君は集計用紙を見やった。
「メジャーどころばかりだね。一部だけだな、意外性があるのは。日比谷さんとか、山田さんとか、歴史好きな人とか。ま、こんなものなのかなぁ。…………太秦結構多いね。やっぱり尽がこの辺行こうかって言ってたからかな」
「誘ってた子たちが、その辺で一緒に遊ぼうとしてるみたいね。他の観光客が多いから、あわよくばわざと逸れて彼と二人きり、ってのを狙ってたりして。ベタよねぇ」
「考えてはいそうよね、無理だろうけど。乙女の夢を壊すのも気が引けるから、指摘しないでいてやるけどさ。それより紺野、あんたはどうするの?東雲と一緒に、女の子たちにボランティア?」
「僕は結構歴史が好きだからね。騒々しいだけの女の子と一緒に行動するよりも、趣味の合う男友達と一緒に回るつもりだよ。日比谷さんも一緒にと思ったんだけど、保留って形で振られちゃったから。確かに日比谷さんのスケジュールじゃ、僕は体力的についていけないや」
「どーゆーコースなんだ、一体」
「山が多いのよ。三尾とか、鞍馬とか。ひたすら歩きづめってやつ。だから、そっち方面行く子がいたら合流して行動しようと思ってる。今のところ、ウチのクラスにはいないみたいだから、他クラスの子かな。神社仏閣や山歩きが好きな、コアな人」
「そりゃコアだ」
「僕はおとなしく博物館で仏像でも見てるから、日比谷さんはその材料の方をじっくり堪能してよ。……さてと、そろそろ再開しなきゃね」
「そうしますか」
そういって、おおかた空になったゴミをゴミ箱に入れて、机に戻ろうとすると、玉緒君が言った。
「日比谷さんは帰っていいよ。残りは僕がやるから。終わるまでやってると、帰りが遅くなるからね。たまには山田さんと一緒に帰ったら?」
珍しい事もある。普段はこんな事言わないのに。いや、言うけど、必ず交換条件が伴っているものだ。なので、次のような台詞が口に出てきたのは、ごく自然な事だった。
「何企んでるの?」
すると、玉緒君は例の穏やかな笑顔で答える。
「何も。たまには僕も、男らしい気配りを見せなきゃ、と思って。尽に負けていられないし」
読めない笑顔だ。今更尽君に敵慨心を起こすような性格ではないだろうに。
なんとも頭を捻っていると、山田が言った。
「紺野の事だから、その内なんか言ってくるだろうし、言ったとしてもあんたにできない事させるつもりはないでしょ。今日はお言葉に甘えちゃったら?」
「へぇ、よく僕の事解ってるね。でも、そうだよ日比谷さん。今日はこれでお開き。家に帰って課題でもしなよ」
二人で結託してるのか、とも思うけれど、この二人、本当に白をきるのが上手いから、追求しても仕方がない。私は彼の好意(?)に甘えて、帰って自分の勉強をする事に決め、山田と二人、帰路に着いた。
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