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Scene 12
思った通り、彼は、そこに立っていた。
教会から少し離れた場所で、その大きなモニュメントを見上げるように、彼はただ一人、そこに立っていた。
その顔には、私が見たくない翳。
そんな顔、しないで――。そう言いそうになるのを、こらえた時。
「…………日比谷、か」
同じ姿勢のまま振り向く事もなく、彼は私の名を呼んだ。
「うん、私」
歩く速度を落としながら、私はそのまま彼の隣に近寄る。
「悪いな、姉ちゃんのフォロー、してくれたんだろ?……サンキュ」
「フォローって程の事じゃ無いけどね。放っとけなかったし。それに、ケーキ貰えちゃったから、かえって得した」
「そっか」
しばらくの間、お互い何も言わない。少しだけ赤味を足した空の色が、目の前の教会を違う色に染め始めた。
「この教会、普段は鍵かかってるんだよね。私、一度だけ入った事あるんだ」
「そうなのか?どうやって?天之橋のおっちゃんに頼んだとか?」
「ううん、去年たまたま掃除婦さんが入る時に出くわして、手伝うから中見せてくれって交渉したの。二つ返事で、入れてもらった。ジャージ着て、雑巾持って。色気ないでしょ」
「……だな」
「どうしても、見てみたかったんだ。先生が言ってた、おとぎ話の教会。らしくないけど、ちょっと、憧れた。だから。とっても綺麗だったな。ステンドグラスに光が丁度良い具合に差し込んでいて。……だけど、私には似合わないと思ったっけ。やっぱりここは、先生の――お姫さまの場所だなって」
この教会であった、先生と葉月さんの物語。私はそれを、中学一年の時に教えてもらった。旅から戻った王子と、彼を待ち続けた姫の物語。その頃既にこんな性格に固まっていた私だけど、それでもやっぱり、憧れた。私にもそんな事ってあるのかな?って。女の子だったら、一度は夢見るものなんだよね、そういうシチュエーションは。
だけど、この教会に入って、物語の舞台を実際に見て。私には遠い場所だと感じた。現実味の無い、幻の世界。私にとっての現実は、この教会の外にこそあったから。
「姫は王子の言葉を信じて待ち続ける事が出来たけど、私には無理。当てのない約束を信じていられるほど、純粋じゃないもの。私なら……そうだな。親バカな王の手を振り切って、王子を追いかけてしまうな、きっと。必要最低限の装備を整えて、颯爽と馬を駆って国を出てくの。おとぎ話どころじゃないよね、これ。ヒロイックファンタジーの世界。腰に剣でも佩いてりゃ完璧」
「だな。確かに、そっちの方が可能性強そう。それ以前に、あっさり国を追い出される王子に愛想つかして、別のイイ男捕まえようとしてたりして」
「あ、それもありか」
ほんの少し、空気がほころぶ。実際自分でもそう思った。私は待ち続けるなんて、性に合わない。自分で切り拓けるものなら、切り拓いてしまう。それが、私。
「尽君は、入ってみた事ないの?ここ」
そう訊くと、彼は先生を見る時のような、切なそうな表情を浮かべた。
「オレは……ここに入る資格、ないからさ」
「………………」
「ここは、王子だけが入れる場所、だもんな。オレには、踏み込めないよ」
「そっか。お互い、はぶれもんな訳か」
「そんなとこ」
再び訪れた沈黙。しばしの間、教会を見つめる。ある者にとっては、禁域であるその世界を。
その沈黙を破ったのは彼の方だった。
「…………おまえ、気付いてたんだろ?」
何に、とは言わなかった。何を、とも言わなかった。
「…………知ってた」
「いつから?」
「……尽君と、同じ時」
「やっぱり、そっか。だと思ってた」
「やっぱり、そっか。気付いてると思ってた。尽君、そういうの鋭いもの。先生とは大違いだよね」
「うん。姉ちゃんと一番違うとこ、それだからな。良いんだか悪いんだか」
でも、肝心なところは気付いてないんだから、やっぱり姉弟だと思うけど。
尽君は息を吐いて、言葉を紡ごうとする。私は、彼の言葉を待った。
「……まさか、って思ったんだ、あの時。それまでもオレ、自分でもシスコンだよなって呆れるくらい、姉ちゃんの事気にかけててさ、姉ちゃんに相応しい男が現れなかったら、オレが一生フォローしてやんなきゃって、思ってた。それで、精一杯努力した。でもそれは、あくまで要領の悪い姉に対する、兄妹愛みたいなものだって、信じてたんだ。あの時までは。……だけど……あの時、葉月といる姉ちゃんを見て、とても胸が苦しくなった。……切なくなったんだ。どうして、あの笑顔がオレの為のものじゃないんだろうって。そうして、気がついた。オレ、姉ちゃんの事が、本当に好きなんだって」
「…………うん」
「まずいって思った。姉ちゃん、葉月といる時が一番綺麗で、幸せそうで、オレ、それって良い事だと思ってたんだ。葉月だって、姉ちゃんに相応しい男だよ。それは間違ってない。けど、それなのに、思うんだ。葉月の位置に、オレがいられない事が、悔しいって。そんな事考えて、いつも頭の中グチャグチャしてた。――もちろん、違うんだって思おうとしたんだ。こんなの思春期にありがちな一種の錯覚で、オレの感情はただの家族愛、どっちかって言うと、父性みたいなもんなんだから、その内どうってことなくなるって。このモヤモヤは、単に娘を取られる父親の心境になってるんだって。…………でも、ダメだった」
「東雲先生、どんどん綺麗になっていったもんね」
「……そう。葉月と正式に付き合うようになって、前以上に眩しいくらいに、綺麗になった。そんな姉ちゃん見てると、オレの気持ち、どんどん膨らんできて。好きだって、言えるはずないのに、それでも、好きだって――言いそうになるの、我慢して。顔合わせないようにすれば、大丈夫かなって思ってさ、できるだけ距離置こうとした。だけど、それでも、思うんだよ、好きだって」
声が震えていた。彼は、今まで誰かの前で泣き顔を見せた事はない。今も、声は震えていても、涙は見せようとしなかった。私は、彼の顔を見ないように、真っ直ぐ、教会を見つめ続けていた。
「二人を見るのが辛いから、避けてた。でもそうすると、今度は姉ちゃんが辛い顔するんだよな。自分たちが嫌いになったのかって、すごく気に病むんだ。そんな事ないんだ。オレは、二人とも大好きだよ。二人とも、一度だって嫌いだとか、思った事ないんだ。……嫌いなのは、それなのに、姉ちゃんを諦められない自分自身の方。皆を苦しめて、それでも苦しませ続けてる、自分なんだ」
……知ってるよ。ずっと見ていたんだから。あなたがそうやって、自分を責めている事を。自分を追い詰めてしまっている事を。私、そんな姿こそを見たくなかったんだから。
「……日比谷、気付いてたのに、何も言わなかっただろ。何も訊かないで、オレの気を紛らわせようとしてくれてただろ。だから、オレ、日比谷に甘えてた。日比谷の親切心につけこんで、利用してた。そうしなくちゃ、壊れてしまいそうで。頭の中だけじゃなくて、大切な人までグチャグチャにしてしまいそうだったから。……でも、ゴメン。そんな事に巻き込む権利、ないよな……」
いつもとは全然違う彼の弱々しい声。これが、彼の抱え込んでいた、彼の翳。笑顔の中に、必死で隠し持っていた、彼の弱さ。
私は一つ息を吸い込んで、何でもないような事のように言った。
「巻き込まれたなんて、思ってないわよ、私は」
目線は教会に向けたまま、言葉だけは、彼の中に届くようにと願いながら。
「あの時、気がついたのは、私。尽君が隠そうとしたものを暴いたのは、私。巻き込まれたんじゃなくて、自分から飛び込んだの。だから、利用されたのだとしても、迷惑だとは思わないな。甘えてたって言うけど、それも悪くないって思ったから、今、こうしてここにいるのよ。思わなかったら、最初から見ないふり決め込んで、高見の見物してる。それがどうしたっていう顔で、尽君が困ってようが苦しんでようが、放っとく。私は、そんな女よ」
「…………そうかな」
「そうよ。私は、自分が目を向ける価値のある相手にしか、力は貸さない。その私が、尽君を認めてて、相手をして、甘やかしてやってるの。そんな矜持の高い私の事よ、信用できないの?」
そこで初めて、彼の顔を、瞳を見つめる。背の高い彼を見上げるには、少しキツイものがあるのだけど。
涙は浮かべていないものの、少しだけ潤んだような彼の瞳は、とても複雑そうな色をしていた。
「……信用してるよ。だからこそ、言えなかったんだ。玉緒に言ったように、日比谷に打ち明けてしまったら、軽蔑されるんじゃないかって。そう思った」
「軽蔑?何で私がそう思う、なんて考えるかな」
「日比谷が、真っ直ぐ人の一番ホントの部分を見てるから。……こんなさ、長い間仮面被って、皆を誤魔化そうとしてるどうしようもない奴、呆れるだろうって思ったから。そういう奴、嫌いだろ?」
「中に抱えているものによるわ」
「うん、解ってる。だけど、やっぱり怖かったんだ。そんな風に見られるかもしれないって、考えたら。……ホント、オレって、思ってたよりダメだよな。ちっとも『イイ男』なんかじゃないや」
瞳の中に、強い自嘲が浮かんで、それを見た刹那、私は自分の右腕を振り上げていた。
パァンッ!!と乾いた音が響く。
「――――――!」
突然の私のリアクションに、彼は心底驚いたように目をむけた。どちらかと言うと、自らの顔に受けた衝撃よりも、その音の響きの景気良さに驚いたようだった。
「いつまでもウジウジ、してるんじゃないの!!」
声を張り上げて、真っ向から彼を捉える。
そう。
私は東雲先生とは、違う。
これが、私の、やり方だ。
「自分で選んだ『今』でしょうが、自分で責任とりなさい!困難に立ち向かう勇気もなしに、人を好きになるだなんて、ふざけた話よ。甘えだろうがなんだろうが、利用できるものは利用して、現状打破に努めなさい!その覚悟が出来てこその『イイ男』でしょう?その素質はちゃんと持ってるのに、それを磨かない事こそ最低よ!それくらいちゃんと自分でカバーしなさい!あなたは――」
ほんの一時間前は、言ってもしょうがないって思ってたけど、でも、ここで言わなきゃ女が廃るってものだ。
一息入れて、思い切って口に出す。
「あなたは、この私が惚れた男なんだから!!」
………………静寂がその場を支配した。流れるのは、木の葉が揺れる気配だけ。
私は彼に背を向けて、校舎に向かって歩き出す。風を切って十数歩進んだ所で、顔だけ振り向いて、肩越しに彼を見る。彼はまだ呆然として、左頬を押えながら私の方を見ていた。それがあんまり間抜けた表情だったので、私は思わず笑ってしまって――それから、はっきりと告げた。
「――好きよ、尽君」
言い捨てて、再び昇降口方向へと歩み去る。実の処、結構心臓はバクバク言っていて、背後の事なんて気に出来なかった。だから私は、呆然としていた尽君が、やがてその顔にあの笑顔を浮かべていた事なんて、これっぽっちも知るよしもなかった。
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