Scene 11


 
 
「尽!!」
 教官室の中から声が聞こえて、続いて突然ドアを開ける音。そして、目に入ったのは、尽君の影。
「キャッ!――え、尽君!?」
「……日比谷――っ」
 一瞬だけ私の方を見て、けれどすぐに私とは正反対の方向へ走り去って行った。強く息を飲み込む気配と、苦渋の表情を浮かべて。…………ほんの少し、泣いて、いた……?
「……日比谷、さん……」
 か細い声が教官室から聞こえてきて、私は我に帰った。見ると、東雲先生が、一人、ぽつんと立ち竦んでいた。
「……先生……何か、あったんですか……?」
 私が声をかけると、東雲先生は、ハッとしたように答えた。苦しそうな、笑顔と一緒に。
「ううん………うん。ちょっとね。尽と、喧嘩しちゃった」
「喧嘩……ですか?」
「うん………あ、日比谷さん、入って。今日ね、シフォンケーキ持って来てるの。皆には内緒で、おすそ分けするね」
「え……ええ、はい。それじゃ、失礼します」
 後ろ手にドアを閉めながら、私は部屋に入った。試験前だから、教官室には入っちゃいけないと思ったのだけど、東雲先生は、ここにテスト問題を置いているわけじゃないから大丈夫、と言って椅子を勧めてくれた。私に向ける笑顔がどこかとても痛々しくて、私はさっきの尽君の表情を思い出していた。
「これね、最近の作品の中では、会心の出来なの。珪にだけ食べさせるの勿体ないって思って、日比谷さんにも食べて欲しくって。日比谷さん、美味しそうに食べてくれるから。――はい、どうぞ」
「……ありがとうございます。お言葉に甘えて頂きます」
「うん」
 小さなケーキ皿に盛られたそれは、とても繊細な色合いと肌目細やかさで、素人目にも会心作だという事が一目で解る。フォークを差し込むと、絶妙の柔らかさで、スッと切れた。口に含むと、予想以上に優しい味がした。ただ、その儚さが、まるで作り手の心を反映しているかのようなのが、少し哀しかった。
「どう?美味しいかな?」
「はい。とっても。やっぱり先生って、お料理上手ですよね。いいなぁ葉月さん、こういうのしょっちゅう食べてるんですもんね」
 そういうと、先生はほんのりと頬を染めた。
「ふふ、良かった。美味しいって言ってもらえて。珪の私の料理に対する評価って当てにならないんだ。いつも美味しいって言ってくれるから、失敗してても判らなくって。正直に言ってもらった方が、腕を磨けるのにね」
「先生、それ惚気にしか聞こえませんよ?」
「あ、ごめんね。でも日比谷さんって、何だかんだいって聞いてくれちゃうから、ついつい話しちゃうのよね。志穂さんみたい」
「志穂さんっていうと、先生のお友達の?」
「うん、そう。いっつも冷静なんだけど、でもとっても親身になって相談に乗ってくれるの。ここしばらくは忙しくて会えないんだけどね、司法試験目指して頑張ってるから邪魔しちゃいけないし」
「私、そんなに冷静でも親身でもないと、自分では思ってますけど」
 気に入った人間の面倒は、そりゃ見てるかもしれないけど。先生は、そんな私の額に軽く指を当てた。
「人って、自分の評価だけじゃ真価は測れないんだよ?他人の評価もある程度は信用しなさい」
 次いでピン、と指を弾く。
「日比谷さんって、とってもしっかりしてて、私いつも羨ましいなぁって思ってるの。私が高校の時なんて、いつもどこかボケっとしてて、いつもいつも危なっかしいって言われてたんだ。……今でも言われるんだけど」
「私こそ、先生みたいに可愛ければよかったなって思いますよ?私、いつもしっかりしてるって言われてたけど、それって、裏を返せば可愛げがないって事じゃないですか。そりゃ、柄じゃないし、今は今の自分が好きですけど。中学の頃とか、真剣に悩んでましたもん。どうして私って、こう女の子らしくないんだろうって」
 女の子らしかったら、彼もその頃の私を見てくれたかな?と思ったけど、それはないかな、という気もした。そうだったとしても、彼にとっての『好きな人』は既に決まっていただろうから。余計『今』が、辛かったかもしれないな。
「可愛くない、なんてことないよ。女の子はね、必ずどこかに可愛いところを持っているものなんだよ?……ってこれ、尽の受け売りなんだけど」
 カチャ、とフォークを皿に乗せ、机の上に置く。
「ごちそう様でした、本当に美味しかったです。……ねぇ先生。さっき、尽君と何を話していたんですか?あんな尽君、初めて見たから、ちょっと、驚いちゃって」
 さりげない口調で、尋ねてみる。教えてくれなくても、それも構わないと思っていたけど、やっぱりさっきの彼の瞳が気になった。
 先生は、少し表情を固くしていたけれど、やがてポツポツと話し出した。
「……日比谷さん、尽と親しいもんね。いろいろ知ってるし、いいか。……うん、ちょっとね。ここのところ、ううん、ここ二・三年かも知れない。尽……私と距離置くようになったの」
「…………そうなんですか」
 距離を置いていてのは、さすがに気付かれていた。
「友達に相談したら、姉離れだろうって言われた。私も、そう思ってた。私自身大学に入って、色々やる事が増えて、忙しくなって。尽も中学生になって、委員会やそういった事に参加するようになったし、中学生にもなれば、やっぱり姉にべったりっていうのが恥ずかしくなったんだろうって。そう思ってたんだけど」
「……違かったんですか?」
「……どうなんだろう、よく判らないの。ただ、気になったのは、あれだけ纏わりついてた珪にも、あまり近づかなくなった事」
 葉月さんに。そういえば、尽君は、『イイ男』のサンプルである葉月さんに、とても懐いていた。良く話題に出していたし、仲良さそうに話しているのも(主に尽君が、だけど)何度も見ている。けど、いわれてみれば、中学の――あの森林公園の頃から、少しずつ、話題に出さなくなっていった。少なくとも、自分からは。
「珪はあまり気にしてなかったみたいだけど、私、何だかその事がずっと気になって。特に、そう、ここ一年くらいは、本当に避けてる様に感じたの。珪が家に来る時は、いつも外出してたりして。珪の事、嫌ってるのかなって思うくらいに」
「それは、尽君のせいじゃないです。彼の事誘っているの、私ですよ?先生に誤解させちゃったんですね。私のせいで――」
「それは違う!」
 何とか少しでも自分に責任を転嫁しようとした発言は、先生の叫びによって遮られた。
「日比谷さんのせいじゃない!だって、それだったら、私や珪を避ける理由にはならないよ!?そうなら昔みたいに、女の子と遊んで来たんだって言って、自慢そうに笑うもの。やっぱモテる男は辛いよな、とか言って。でも、そんな事、言わないんだよ?帰ってくると、暗い表情になって、ようやく笑おうとするの。……分かるの。だって私、今まで面倒見てきたんだから」
「………………」
「……それで、さっき、尽が一人でいるところ見つけてつかまえたの。言いたい事があるなら言ってって。ちゃんと話聞くからって。でも、尽、何も答えないの。私や珪の事が嫌いになったんなら、理由を教えてって。そう言ったら、『嫌いになったわけじゃない』って言った。じゃあ、どうして私たちを避けるのか教えて、言われなきゃ解らないよ、って訊いたの。そしたら……『……分かってないのは姉ちゃんの方じゃないか!!』って…………」
 下を向いた先生から、小さな嗚咽が聞こえてきた。
 ……この人は、解らないんだ。尽君が、秘めてきた想いに。顕しようもない程に真剣な思いを封じ込める為に、彼が取る手段は他にはなかったんだってことに。
 それは、先生が葉月さんを本当に好きだから。葉月さんといる時の先生が、一番幸せそうだから。それが痛いくらい解っていたから、かえって近寄れなくなってしまった。
 葉月さんは、もしかしてそれに気付いているかもしれない。
 けど、先生は――――。
 私は、泣いている先生を前にしながら、何を言う事も出来なかった。今何を言っても、何の慰めにもならないって知ってたから。それで、何となく周りを眺めていて、先生の机にある何枚かの紙に気がついた。
「……ゴメンね、日比谷さん。いきなり泣き出したりしちゃって。生徒の前で、ダメだよね、こんなんじゃ」
「先生……。ううん、気にしないで下さい。私、兄さんがあんなですから、先生と尽君みたいに仲がいい姉弟関係がこじれた時の対処って良く解らないですけど、でも、解るところもあります」
 泣き止もうとしている先生を見上げるようにして、私は言った。これだけは、言っても、大丈夫よね?
「尽君、絶対に先生のこと嫌ってなんかいません。大事なお姉さんだって思ってるからこそ、上手く表現できなくて苦しんでるんです。どうやったら、先生に喜んでもらえるのか、一番いい方法が見つからなくて、戸惑ってるんだと思うんです。……ね、先生。もう少しだけ、待っててあげてくれませんか?きっと尽君、その時になったら、先生に笑ってくれます。昔みたいに。きっと。付き合い長いから、私、分かります」
 先生は、しばらく私の目を見た後、フッと笑った。
「……うん、そうだね。焦っちゃったら、ダメだよね。……ありがとう、日比谷さん。……ウフフ、どっちが先生なんだか分からないね。日比谷さん、私より教師向いてるかも」
「先生の方が向いてますよ。私、贔屓しちゃうもの。…………ところで先生、これ、何ですか?」
 私は、さっき目に入った紙を指で示した。それは、幾枚にも渡って描かれたデザイン画。そのシルエットは、紛れもないドレスの物だった。
「あ……それね。ウェディングドレスの、デザインなの。その……私の」
 顔を真っ赤に染めて、先生は教えてくれた。
「先生の?……という事は、ご結婚の話、順調に進んでるんですか?」
「う、うん。まだちょっと先なんだけど、でも、ドレスは自分で作りたいって思ってて。高校の時、部活で作ったのもあったんだけど、そっちは人にあげてしまったから。友達が、どうしても欲しいって言うから」
 その友達の事は聞いた事がある。藤井奈津実さんだ。あ、今は姫条奈津実さんか。結婚する時になるべく費用は浮かしたい、でもドレスは着たい、という事で、東雲先生作のドレスを譲り受けたのだ。高校時代手芸部に在籍し、かの花椿デザインコンテストで金賞を受賞した事のある先生の作ったドレスは、当時の私が素直に感動するほどの素晴らしいものだった。
 それを、今度は自分の為、ううん、世界で一番大切な人の為に作る。なんて素敵なんだろう。
 ああもう、本当に可愛いなぁ、東雲先生。頬染めて俯いているのを見ていると、「クッ、俺が男だったら……!」などと思ってしまう。いいなー、葉月さん。
 …………って違う違う!そうじゃなくて!
「それで、そろそろデザインを練っておこうかなーって。時間がある時はずっとそれとにらめっこなの」
 描かれたデザインは、どれもこれも先生らしいシンプルで、でも可愛らしいデザインで。見ているだけで、この私ですら嬉しくなってしまうような感じが伝わってきて。
 私は心の底から、本当にこの人には敵わないな、と思ってしまった。
「私が結婚する時も、先生に作ってもらおうかな、ウェディングドレス」
「え?」
 きょとんと私を見返す。
「あ、もしかして似合わないって思ってます?そういう話。縁なんてちっともないだろうって」
 ちょっと拗ねたように言うと、先生は慌てて首を横に振る。先生、首もげるよ。
「そんな事、全然ない!そうじゃなくて、嬉しいの!そういう事言ってくれるなんて思わなかったから。――うん、わかった。日比谷さんのドレス、私が作るって、約束する!」
 まるで、大好きなお菓子を貰った子供のように、とても嬉しそうに笑う。私の好きな、尽君の笑顔に似てる気がした。そうだよね、この笑顔向けられたら、もう陥落されたも同然よね。……葉月さんもそうだったんだろうな。ふふ。
「じゃ、先生の教え子の中で、一番最初に私が予約って事で。となると、本腰入れて相手を堕とさないとね、うん」
「本腰入れてって……。日比谷さん、好きな人、いるんだね?」
「いますよー。とっても厄介な相手ですけど」
 しかもとっても厄介な強敵がいるんですけど。それも目の前にね。
 その『厄介な強敵』は、何も知らずに楽しそうに笑いかけてきた。自分も『厄介な相手』を陥落させた共犯者、みたいな顔をして。
「そっかぁ。でも、うん、頑張れ。応援してるよ、私」
「ええ、頑張ります。――それじゃ先生、ケーキごちそうさまでした。お皿洗ってから行きますね」
 空になったケーキ皿を持って立ち上がると、先生はその動きを止めた。
「あ、いいのいいの。愚痴聴いてもらっちゃったんだから、そこまでしなくていいよ。…………本当にありがとう、日比谷さん。あなたが言った事、信じる。もう少し、冷静になって待ってみる。尽が、自分から教えてくれるまで」
 私が入ってきた時とは別人のような顔をして、先生は笑った。ここのところ浮かべていた哀しそうな笑顔ではなく、いつもの暖かい笑顔で。
「……はい」
 改めてお礼をしてから、私は教官室を出た。東雲先生は大丈夫。いざとなったら葉月さんもいるんだし、何とかなる。
 心配なのは、尽君。あの後、どこに行っただろうか。試験前の放課後で人は少ないとはいえ、一人になる場所なんて限られている。屋上か。それとも――――。
 ふと思いついた場所があって、私は昇降口に向かい、靴を履きかえてから、校舎裏に回った。そういえば、玉緒君にジュースを頼まれていたような気がするけど、今はそれどころじゃない、自分の足を動かしてもらおう。
 校舎裏に回って、しばらく行くと、敷地内にひっそりと一つの教会が建っている。普段誰も近づかない、伝説や噂だけがその周りを取り囲んでいる教会だけど、私はここであった物語を知っていた。そして、そこに彼がいるのだという事を直感していた。
  

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