Scene 10


 
 
 職員室は試験前で入れない為、物理の教官を呼び出してもらおうとしたが、現在外出中との事。どうしたものかと思ったけど、運良く氷室先生が在室していたので、彼に質問する事にした。
「なんだ、日比谷か。どうかしたのか」
「はい、物理の問題なんですけど、理解できない問題文があって。担当の小波先生がいらっしゃらないようなので、氷室先生、教えて頂けますか?」
「ああ、小波先生は今会議中だったな。よろしい、私がみてやろう。……ふむ、確かにこの問題文は難解だな……。というより、この文章の構成自体に多くの不都合が生じている。これでは正確な回答を導くには困難を生じるのが明白だ。作成者に対して、出版社を通じて何らかの改善を示唆した方が良さそうだな。……まぁ、いい。それは私がやっておくとして、今はこの問題の主旨だ。これはおそらく――」
と、例によって固い会話が交わされて数分後、私はあっさり回答をはじき出す事ができた。
「なるほど、こういう意味だったんですね。文の意味が解らないから躓いてたんですけど、分かったら何てことないですね。氷室先生、ありがとうございます」
 氷室先生は、さも満足そうな顔で答える。
「いや、私は大した事はしていない。むしろ、君の努力と姿勢に感心する。氷室学級を支える一員として、大変結構だ。また解らない事があったらいつでも質問に来なさい。私で解る範囲であれば、いくらでも指導しよう」
「はい、お忙しいところ、ありがとうございました」
 30度の角度で礼をして、職員室を立ち去ろうとした。すると、
「ああ、日比谷。二・三訊きたい事があるのだが、いいだろうか?」
と、ひき止める声。動かしかけた足を留めて、再び氷室先生の方を向く。
「はい、何でしょうか?」
「うむ、……いや、一つは君には直接関わりのない事なのだが。その……君は、同じクラスの東雲尽と仲が良い。そうだな?」
「はい。小学校からずっと同じクラスですし。学級委員を一緒にしていた事も一度ではないので、そうですね、客観的にみて、仲が良いと言えるでしょうね」
 どうしたんだろう、氷室先生がこんな事を言うなんて。
「……単刀直入に訊きたいのだが、東雲から最近、何か悩みがあるとか、そういう事を聞いてはいないだろうか」
 ドキッ。脈動がはっきり分かった。……何か、あったの?
「……どうかしたか?」
「あ、いえ。どうしてそういう事を訊くのかなって思ったので」
「あ、うむ……それももっともな質問だ。ちょっと待ちなさい」
 そう言って先生は、周りを窺った。廊下に人通りがないのをみて、先生は声を落としていった。
「……東雲先生が、ここのところ元気がないのに気がついているか?」
 東雲先生。そういえば、ここ2・3週間ほど、少し沈んでいるようにも、見える。体は元気だと言っていた。という事は、精神的な何か――悩みが、その原因。
「……はい。教室を離れる時とか、ちょっと表情が暗いなって、感じた気がします」
「そうか。やはり君はそういう事にも鋭いな。実は、東雲先生と東雲――弟の方だが――の間に、少し行き違いがあったようなのだ。それを解決したくても、当の本人があまり顔を合わせてくれない、せめて行き違いの理由だけでもはっきりすれば、とずっと悩んでいるらしい」
 それは…………。数週間前、葉月さんも同じ事を言っていた。先生が落ち込んでるって。
 私は理由を知っている。でもそれは、私が言うべき事ではないから。言う権利なんて、ないから。
「こういう事は当人同士の問題だから、無闇に踏み込むのは良くない、と解っているが……。生徒に判るほど落ち込んでいては、通常の職務にも差し障りがある。それで、余計なことだとは承知しているのだが、君が何か知ってはいないかと思って――」
 ああ、先生も心配してるんだ。そうか、東雲先生も、氷室先生の元教え子だもの、心配になるわよね。
 でも、ごめんなさい。
「……私、つく……東雲君からは、そういう事について聞いた事はないんです、先生」
 ごめんなさい、氷室先生。
 私、知ってます。でも、言えないんです。
「……そうだな。済まない、関係のない事を聞いてしまった。今の件は、これで終わりとする」
「はい。お役に立てず、すみません。まだ、何かありますか?」
「ああ。来週、期末試験が終わったあとの日曜だが、課外授業として動物園を見学する。参加の意思はあるか?」
「期末のあと……は、無理ですね。予備校の模試があります。課外授業も参加したいですけど、既に受験料も振り込んでしまっているので。申し訳ありませんが、今回の参加は見送ります」
「そうか。残念ではあるが、仕方がない。模試は自分の位置を測るという点で非常に有意義なものだからな。だが、極力学校のカリキュラムを優先させるように心掛けなさい。……いや、君は今のままでも十分良くやっている。逆に、程よい休息を取るよう心掛けた方が良いだろう」
「そうですね。気をつけます。お気遣い、本当にありがとうございます」
「ああ、では、以上だ」
「失礼します」
 今度は引き止められずに職員室を去る事ができた。
 
 
 ……氷室先生にも嘘をついてしまったけど、どうしようもない。私が今のところできるのは、それくらいだもの。
 窓の外に目をやりながら、トボトボと歩く。自分の事だけじゃなく、東雲先生まで落ち込んでるとなると、尽君は今、とても辛い心境だろう。守りたい好きな女性が、自分のせいで苦しんでいるというのは、彼にとっては本当に厳しいはず。だからといって、正直にぶつかれるはずもなく。
「こればっかりは、時の祝福を待つしかないって事なのかなぁ」
「おや、なかなか深い言葉を紡いでいるね」
 思わず出た独り言に、答えが返ってきた。見れば、前方にイギリス製のスーツを隙無く着込んだ一人の紳士が立っていた。
「こんにちは、理事長先生」
「ああ、ご機嫌いかがかな、日比谷くん。試験前で大変だろう」
 にこやかに笑いかけてくるこの人は、天之橋一鶴と言って、我がはばたき学園の理事長を勤めている。レディを育て上げるのが趣味だとかで、「大丈夫かなこの人」と思うところも無くはないけど、おおむね寛大な人格者として我が校の生徒には受けがいい。私も一応理事長言うところの『レディ予備軍』に属しているらしく、色々と便宜を図ってくれたりもする。
「大変じゃないと言えば嘘になりますけど、でも、勉強は楽しいですから。解けた時の達成感がありますし」
「そうか、それは頼もしい事だね。けれど無理だけはいけないよ。せっかくの美しい顔に隈でもできてしまったら大事だからね。氷室君が認めるほどの能力の持ち主だ、多少手を抜いても罰は当たらないさ。――それにしても、さっきの言葉は気にかかるね。何かあったのかい?」
「いえ、その……ちょっと、言えない事なので……」
 そんな、まったくの他人の理事長に言えるわけないってば。理事長は、少し哀しそうな顔をして言った。
「ふむ、私では相談相手として力不足、と言う事か……」
「あ、いえ、そうではないんです。何かあったのは、私ではないんですよ。自分の事じゃないので、迂闊に人に相談したりできないものですから。すみません、不用意な発言をして、理事長先生を不快にさせてしまいましたね」
「ああ、そういう事か。それなら私に言えないのも当然だね。なに、不快と言うほどのものじゃないから、そんな申し訳なさそうな顔はおよしなさい。君は溌剌とした顔の方がずっと素敵なのだからね。でも、そうか。『時の祝福』とは詩的な表現だが、その裏には大きな淵が見える。それだけ君の案じている相手の悩みも深い、と言う事だね?」
「……はい、そうですね」
「若い時は悩みや苦しみも多い。けれどそれこそが若者に与えられた特権だ。大いに悩み、苦しむ事で、人はより大きくなれる。その相手にも、やがて新しい道が拓ける時が来る。心配ならば、君のできる限りの事で支えてあげれば良いんだよ。君が思い悩む事は無い、そうだろう?」
「ええ、私はもう、覚悟はできていますから」
「おや、そうだったか。私とした事が、余計なことだったな。……何かあったら、私が力になるよ。頑張りなさい」
「はい、ありがとうございます、理事長先生。私、行く所があるんで失礼しますね」
「ああ、私も失礼するよ。すまなかったね、引きとめて」
 そう言って、理事長は私の前から歩み去って行った。私も、購買部のある学食の方へと歩いていく。
 理事長の言っている事はとても月並みな事だけど、その通りでもある。否応なしに尽君の現状は、いつか結末を向かえるのだから。ただ、その結末の時に何を思うか。それが一番大切な事なんだ。
(そこを何とかしてみせるのが、この私なんだから)
 そんな風に考えながら、家庭科教官室の前を通りがかった、その時だった――。
 

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