Slip Into Spring -6- |
「…………あれ……?」 目を覚まして真っ先に飛鳥が気付いたのは、やけに視界が潤んでるということだった。 「ああ……起きたか?」 そして次に気付いたのは、気遣わしげに自分を見つめている翡翠色の一対。 それから、仰向けの姿勢で見上げた空の色が随分と茜色に染まっているということ。 その色に更に染められて、緑の紗幕が不思議な暁色になっていること。 そして、自分が依然として葉月の膝枕で横たわっていること。 幾つかの情報が脳内に溶け込んできたところで――――。 「…………あああーーーっっっ!!って、あれれれれれ……?」 ガバッとバネのように上半身を起こす。 しかしいきなりのアクションに自律神経が付いていけず、頭がフラフラしてまたも倒れそうになった。 「バカ。すぐに起き上がるな、立ち眩みするだろ」 不安定な体を支えてくれる腕があって、思わずそれに寄りかかる。 「け、珪……」 「……ああ」 「わ、私、寝てた……?」 「ああ……ぐっすり」 「――――!!ご、ごめんなさいっ!!」 勢いよく振り向いて、飛鳥はその不安定な体勢で器用にも頭を下げる。それでまたフラついてしまい、またもや葉月に支えられてしまった。 「ご、ごめんね、返す返す……」 もしや寝てる間に涎でも垂らしていなかっただろうかと甚だ不安になって言うと、葉月はいつもの顔で首を振った。 「別に、かまわない。……よく眠れたか?」 「え?……えっと、え〜と…………うん。よく、眠れたと、思う……」 「ならいい。……けど、夢でも見てたのか?」 「え?」 「……泣いてた」 葉月はそう言って飛鳥の眦に指を寄せた。 「…………え」 彼の指に乗っているのは、紛れもない自分の涙の雫の欠片で、飛鳥はそれを見て我に帰った。 「え、えっと!ごめん!その……夢、夢ね?えと、ええと…………ど、だろ……」 「?」 「夢は……うん、見てたような気はするの。けど……よく覚えてない……というか……」 確かに見ていたような気がする。なんだかフワフワしてたような夢。 (なんだったっけ、なにかこう、子供が出て来たようなというか、ううん直接出て来てはいないけど何だか子供っていうイメージはあったような……) ついさっきまで自分がいたイメージの中がどんなだったのか思い出そうと頭をフル回転させていると、不意に頭に重みが加わった。 「……そうか」 ポン、と置かれた手が、優しく飛鳥の髪を撫でる。それで飛鳥の思考も止まった。 「う、うん」 「あんまり深く考えるな。休めたなら、それでいい。……それから」 「それから、……何?」 「それから…………泣くな」 泣くな。 夢の終わりに滑りこんできた言葉。 「おまえが苦しいのとか、辛そうなのとか、そういうの、治す事は出来ないけど……こんな風に、夢の中で泣くくらいなら、愚痴でも何でも聞いてやる」 するり、と。 「だから、かまわない」 夢のあとも、今も。 「いるから、ここに」 心に。 「おまえと、一緒に」 いつだって。 「おまえの手の届く場所に、俺はいるから」 どこにだって。 届いて。 『一緒に』 …………宿った。 「――――飛鳥!?」 「……あ、あれ?あれれれ?」 びっくりした葉月の表情を見て、飛鳥は自分がまたもボロボロと涙が零したのに気が付いた。 「大丈夫か、おい、どうかしたのか?」 「あれれ?あれ?……って、何でまた泣いてるんだろ私!?ご、ごめん珪!すぐ止める!」 急いで取り出したハンカチで涙を押さえると、本当にすぐ止まった。 (な、何なの、今の……!) でも、不快じゃなかった。 夢の中の小さな私、その泣き方とは全然違った。 (…………うれしい……?) 嬉し涙。 そう、それ。嬉し涙だった、今の。 (そそそ、それはそうだよねっ、今の珪の言葉って、まるで……) まるで――――。 「飛鳥……大丈夫か……?」 気遣うように顔を覗きこんで来る葉月の瞳が、まろやかに揺れた。 どこか切なそうに、けれど穏やかに見つめる瞳がどこか、何かを思い出させる風で。 けれど言葉を奪ってしまうほどに、綺麗で。 綺麗すぎて。優しすぎて。嬉しすぎて。 「うん…………ありがとう。もう大丈夫。平気!」 それしか、言えなくなった。 それでも葉月は、ちゃんと彼女の言葉を受け止めてから、そっと安堵のため息を漏らした。 「……別に、かまわない。おまえが元気になれるなら」 (笑って、くれるなら) この足でも、体でも、心でも、命でも。こんな俺だけど、いくらだって使っていいから。 だから、笑ってくれ。 笑って、気付いて、思い出して。 世界とおまえに満ち溢れる、たくさんのあたたかさを。 今はまだ言えないそんな本音を閉じ込めて、その上で葉月が静かに笑う。 すると今度は飛鳥が、ホッとしたように笑顔を返した。 ここに来た時より遥かに肩の荷が降りたような、そんな笑顔だったので、葉月はもう一度息を吐いた。 ++++++++++++++++++++++++++++++ ぐっすりと眠っていた割には思ったより時間は過ぎていなかったらしい、西の空がまだ明るさを留めている内に帰路につく事が出来た。 「けど、これだけすっきりするくらい深く眠れたってことは、やっぱり神経の方が疲れてたってことなのかなぁ」 人もまばらな並木道を、二人は溜息を零しつつ歩く。 「だな。ちゃんと休んでない証拠だ」 「う。で、でも、本当に夜はちゃんと寝てるんだよ?」 「どうせ夢の中でも数式解いてたんだろ」 「う…………ま、まぁ……。そう、そうなんだよね。寝る直前まで問題解けなくてウンウン唸ってたのが、夢の中では解けたーッ!ってなって、でも実際起きてみたらやっぱり解けなくて。なんだかそんな夢ばっかり見てるから、余計に焦っちゃったのかな」 そんな、焦っていた自分が自分で少しおかしく思えた。 (今までのペースのままだって、全然大丈夫なのに。よっぽどテンパってたんだなあ、私) 参ったように首を傾げると、植物園を出てから繋いでいた葉月の手に小さく力が篭った。 「……大丈夫だ」 「え?」 見上げた先には、さっきと同じように穏やかな翡翠色の瞳があった。 「焦ったりなんかしなくても、置いていったり、しないから」 「――――!!」 葉月の言葉は、ここ最近の飛鳥がずっと秘めていた考えと想いに基くもので。 (……嘘、もしかして私、さっき寝言で口走ったかしちゃったの……?) 一瞬にして血の気が引いた。まさかまさかまさか。 そんな、ただの友だちが言うべきじゃないこと、まさか。 「……え、えと、それ、は、あの、ね」 何とか誤魔化そうと口を開いたが、葉月は首を横に振った。 「ちゃんと待ってるし、置いてこうなんて、思ったりしない。皆そうだし、……俺、だって」 「皆……珪、も……?」 「……ああ」 本当に?置いて行ったりしない?一人にしない? ――――『みんな』? (…………違う……違う!) 私は。 そう思った瞬間、飛鳥は葉月の腕を掴んでいた。 「み、『皆』じゃないの!」 「飛鳥?」 私は、私が置いていかれたくないのは。 それは、一人だけで。 ただ、一人、だけで。 「私が、置いていかれたくないのは――――」 珪、だけで。 「あ……す、か……?」 驚きと当惑で目を見開いた葉月の瞳に映った自分を見て、飛鳥はハッとした。 (マダ) (マダ、イッテハ、ダメ) (マダ、オモイダシテナイ、カラ) (イマハ、マダ) …………何、を。 「飛鳥……?」 「……え……っ……と」 一瞬途切れた意識が、またも戻る。戸惑いがちな声に応えるように目を瞬いて。 瞬いた、その刹那。 ふ、と。 視界に映った『何か』に目と心を奪われた。 いつも見上げる肩の、更に向こう側。大地より空に近い場所に。 それを、見つけた。 「飛鳥、どうした?」 突然逸らされた視線に、葉月が当惑の色も露に訊ねた。 けれど飛鳥の意識は完全に移っていて、それを追うように指が空に上がった。 「…………つぼみ!!」 「え?」 「あれ!あそこの枝!蕾付いてるよ、ね!?」 伸ばされた腕を視線で追いかけて、葉月は彼女の細い指先が示す先を見上げた。 「ね?蕾だよね、あれ!膨らんでるよね!?」 「え…………」 そこにあったのは、紛れもない小さな小さな灯火のかたち。 「…………本当だ……蕾、だな」 「すごい……まだ、こんなに寒いのにね」 見上げた先には、ほんの一枝二枝だけれど、ぽってりと膨らんでいる桜の蕾があった。 よくよく見てみれば、他の桜にもそれぞれ小さな蕾が、それでも例年よりは全然大きい形でちらほら見受けられた。 「すごい、すごい!あ、もしかして去年の異常気象が原因なのかな」 「そうかもな。暑かったり寒かったりの周期、滅茶苦茶だったから」 「早咲きのにしたって早いよね。狂い咲きになるのかなぁ、この分だと」 「どうだろうな……。……けど、すごいな、おまえ」 「え?」 「来た時見てたのに、全然気が付かなかった、俺」 「そうなの?あ、でも、膨らんでるって言っても、まだあんなに小さいから無理もないと思うよ」 「けど、おまえは見つけたろ。……やっぱり、すごい」 「そ、そんな事ないよ〜!」 照れ隠しのように手をブンブンと振った瞬間、クシュン!と飛鳥がくしゃみをする。 「おい……まさか風邪」 「あ、違う違う!自分で起こした風で鼻がちょっとムズムズしただけ」 「なら、いいけど。……そうだ、これしとけ」 そう言って葉月は自分のマフラーを外して飛鳥の首に巻きつけた。 「え!?いいよ、風邪じゃないんだから!私だってマフラーしてるし、それに珪だって風邪引いちゃったらまずいでしょ!冷え性なんだし」 「平気。冷え性だけど、冬に風邪ひいたこと、ないんだ」 「むぅ〜、だからって………………あ」 何かに気が付いたように、飛鳥のムッとした顔が一瞬にして切り替わる。 「今度はなんだ?」 「それ……ひょっとして、私があげたセーター……だったりした……?」 マフラーを外した襟元から見える色と素材に、飛鳥が恐る恐る訊ねた。言われて葉月もああ、と気付く。 「そう。始業式の日に、おまえがくれたやつ。……って、おまえ、今の今まで気がつかなかったのか……?」 「え……え〜っと…………そう、みたい」 「……家からずっと、着てたけど」 「あは、あはは、あははははは……」 クリスマスパーティの時にランダムで彼に渡った物ではなく、彼の為に自分で編み上げた、彼の為だけのプレゼント。自分が模試続きだったので、結局完成は冬休み明けになってしまって、実際着ているところは見ていなかった。 喜んで受け取ってくれたし、着心地は良いと言ってくれたから、それで安心していたという訳でもないのだが。 「……なんでわかんなかったかな、私ってば」 珪はすぐ気付いてくれたのに。今も私の胸元で揺れてる月長石のペンダント。貰ってすぐ次のデートにつけていったら、即座に気付いて照れ笑いしてたっけ。 なのになのに私ってば。 ガックリと項垂れる飛鳥に葉月が苦笑する。 「だから、疲れてたんだろ、いろいろ」 「うう……ご、ごめんね……?」 「別に、構わない。気付いてくれたから」 …………俺を、見てくれるなら。 「え?今、何か言った?」 小さく呟いた独り言を、飛鳥は聴き逃して訊ね返す。だが葉月は繰り返さずに飛鳥の手を取った。 「なんでもない。……行くぞ。これ以上ここにいたら、二人とも風邪引く」 「あ、うん!」 二人とも。一緒に。 (……変なの) この時期に風邪を引くなんて、まったくもってシャレにもならないのに、それなのに。 (二人ともだったら、それもいいかな、だなんて) どうかしてる。 (こんな些細な一言が、嬉しいな、だなんて) どうかしてる。けど。でも。 (……気付いてくれたから、って言った時の珪……なんだかとても嬉しそうだったから――――) だったら、いいのかな。 嬉しいって思っていいのかな。 (……うん。いいや、思って) たとえそれが友人として出た言葉だったとしても、置いて行ったりしないって言ってくれたのは本当なんだもの。 現実に何かが開けるわけじゃないけど、嬉しいんだもの。 空の色が、こんなにも綺麗だと思えるくらいに。 「……私ってば、ホンット単純だなぁ」 「え?」 「珪の一言で、焦ってたのとか心の中のモヤモヤとか、全部飛んでっちゃったみたいなんだもん」 「…………!!」 飛鳥がそう言うと、動揺したような力が繋いだ手から伝わってきた。見れば葉月は空いている片手で顔を押さえ、何かに耐えるような表情をしていた。 「……珪ってば!そんな、今更気付いたのか、なんて笑わなくてもいいでしょ!」 「あ……いや、笑ってるんじゃなくて……」 「じゃあ何?」 どう見ても真っ赤に染まった顔を睨みながら、飛鳥が問い詰める。 「……それはその、……大差無いから、俺も」 「……大差、無い?」 どういう事かと問う瞳をチラリと見て、葉月は顔を逸らした。 「つまり……単純なのは俺も一緒だって、こと」 それは。 「え……と、それって……?」 「っ、いいから、行くぞ」 よく解らないながらも葉月がズンズン進んで行くので、飛鳥も歩みを早める代わりに、それ以上追求しないことにした。 (……まったく……鈍すぎ) しかし今はその鈍さに感謝もしつつ、葉月はいつしか彼女の歩調に合わせていた。それに気付いたか、飛鳥のペースも元に戻ったようだ。 お互いの手を繋ぎながら、二人は頭上の梢を見上げる。 「ねえねえ、この桜ちゃんと咲くかな?」 「咲くかもな……思うよりも、ずっと早く」 「本当?桜前線よりもずっと早く?」 「……ああ」 桜も、この胸に未だ秘めたままの花も。 「……咲くといいなぁ」 「咲くだろ、きっと」 「……そうだよね。咲くよね、きっと」 咲いたら。 「また」 「え?」 「咲いたら、観に来よう。……一緒に」 「……一緒に?」 「一緒に」 置いてなんか行かない。 置いて行かれなんか、しない。 「…………うん」 一緒に、この先へ。 手を、繋いで。 いつでも、どこへでも。 君と。 「一緒に、行こう」 ――――春は、そこまで。 ←Back |