−第1話− |
「……では、もう一度尋ねる。君は何故、先程の授業において『居眠り』という行為に及んだのだ?」 チタンフレームの眼鏡をかけ直しながら、氷室は目の前にいる生徒に再度質問した。 質問された方は、常と変わらぬ無表情で、ポツリ、と答える。 「はあ……眠かったからだと、思います」 抑揚のない声で呟くように紡がれた言葉を聞いて、氷室は心底頭を押えたくなった。 幾度この会話を繰り返したか、もはや数える気にもなれない。 だが、『居眠り』という言葉を使っているが、実際は『熟睡』の方が正確なのだから、氷室としては注意をしない訳にはいかない。 それが自分の担当授業以外でも繰り広げられているとあれば、尚の事。 たとえどんなに辟易しようとも、自分の役割を果たさねばならない。 辟易、という心境にまで陥っている氷室の心中を察しているのかいないのか、生徒はただその場所に立っている。 その生徒を言語を用いて表現するならば、以下の熟語が当てはまるだろう。 成績優秀・スポーツ万能・眉目秀麗。……加えて無愛想。 通常、この評価で想像されるのは、はばたき学園における有名人、葉月珪の事だ。 だが。 今ここにいるのは、紛れもなく女生徒であった。 「…………東雲」 心なしか疲れたような声で、氷室は話し始めた。 「確かに睡眠は、人間にとって生存する為に必要不可欠な行為だ。だが、学校という規律の中で、授業中に居眠りをする、というのは非常に社会適応の面で問題が生じる行為となる。即急に改善すべき習慣だ。解るな?」 「はあ……」 実にやる気のない返事。 氷室ともあろう者が、溜息を吐きたくなった程だ。 「……君が眠くなる理由だが……夜遅くまで勉強をしている、という事なのか?君の成績を見ると、そういう推測も出来なくはないが……。それならば、その分は正規の授業内で行使すればよいだろう。夜間に勉強する事で、授業中に眠くなるというなら、本末転倒だと思うが……」 「いえ……毎日8時には寝てるんで」 「……起床時間は」 「……朝7時、くらいです」 たっぷり11時間は睡眠を取っている訳である。睡眠不足というのはまず当てはまらない。とすれば、原因は本人の体質、というものであろうか。 「そうか…………とにかく、授業中の居眠りはしないように。体質がそうであれば、改善するように心掛け、行動する事だ。……以上。行ってよろしい」 脱力感に見舞われながらも、彼は女生徒に言った。本当に、何度この応答を繰り返した事か。 「はい……失礼します」 礼をして職員室を去る生徒を、氷室は見送りながら、今度は実際に溜息を吐いた。 編入試験を満点を取って入学して来た生徒を受け持てると聞いて、期待に胸奮わせたのは、ほんの一ヶ月前ではなかったか。 だが、実際にその有望かつ有能である筈の生徒を受け持ってみると――――。 「…………葉月が二人、か……」 ただただ深い沈痛の面持ちでもって、彼は机の上のプリントに赤い印をつけていく。 先程の女生徒によって提出されたそれは、見事なまでに丸印に彩られていた。 それがまた、氷室の頭痛を増幅させていた。 「……これだけの能力がありながら……何故葉月と同類なのだ……。いや……もっと性質が悪いのだろうか……」 一方、女生徒の方は、昼休みで未だ騒がしい校内を、自分のクラスに向かって歩いていた。足取りはまるで流れるようで、周りの生徒が思わず見惚れる。 教室に戻ると、二人の女生徒が彼女に近づいて来た。 「杉菜ちゃん、おかえり。はい、お弁当。いつもの所で食べるんでしょ?」 「……ありがと、珠美」 にこやかに笑いかけてきた女生徒とは対照的に、杉菜と呼ばれた方は、相変わらずの無表情。 「まったく、よく飽きないわね。昼休みが短くなるのは困るくせに、授業中に寝るんだから。氷室先生だって、困ってるでしょう?東雲さん」 濃いブラウンのショートカットヘアの女生徒が、溜息混じりに言う。 「大体、あれだけ寝てるくせに、どうして更に眠れるのかしら。理解できないわ」 「そんな、有沢さん……」 責めるような有沢の言を聞いて、表情を曇らせる紺野だったが、当の本人は気にも止めないような顔である。 「……日当たりいいから、かな」 ぽつり、と。鈴を転がすような、しかし感情のない声で、彼女――東雲杉菜は呟いた。 そのあまりにも彼女らしい言い草に、有沢も紺野も呆気に取られる。 「それじゃ……。ご飯、食べてくる」 二人を置いたまま、杉菜は自分の弁当を持って、再び教室を出て行った。 残された二人はしばし無言の末、互いの顔を見やって息を吐く。 「……やっぱり東雲さんって、解らない人だわ」 「うん……。悪い人じゃ、ないんだけどね……」 我ながら妙な人物と知り合ってしまったものだと、二人はそれぞれに思った。 木漏れ日が差す校舎裏は、いつもと変わらず人気が少ない。というより、一人の人間と数匹の猫しかいない、といった方が正しいだろう。 人間の名前は、葉月珪。はばたき学園においては、その万能的天才ぶりと端正な容姿、そして甚だしい人間嫌いっぷりで、全校に名を知られている男子生徒だった。 猫とたわむれている彼の傍に、別の人間の気配が近づいて、葉月は顔を上げた。その視線の先には、予想した女生徒が佇んでいた。 「……おまえか」 「うん。……そこ、空いてる?」 「……ああ」 その答えを聞くと、杉菜は葉月の横に座った。ふわり、と巻き起こる風を受けて、葉月の髪が軽く揺れる。 「……氷室先生、呆れてたんじゃないのか」 「……かな。でも、眠いの、事実だし。丁度いい季節だし」 「同感……。空気、眠気誘うよな」 「うん。……それじゃ」 「ああ」 ピタリと会話が止まった。 杉菜は自分の弁当を包みから出す。女子一人分には大き過ぎる弁当箱を開けると、そこには栄養バランスを考え、かつ彩りと形良く作られた食材の数々が、品良く配置されている。 漂う香りも、味の良さを絶対的に保障する完璧具合だ。 …………しかし。 その素晴らしいと言っても過言ではない食材達は、1分後にはその作り手の胃袋の中に全て収まってしまっていた。 杉菜は、弁当を平らげたその勢いのまま、ミネラルウォーターのペットボトル(500ml)を一瞬にして飲み干し、空になった容器を再び包み直す。 それからちらりと腕時計を見て、背後の壁に凭れかかり、まもなく規則的な寝息がかすかに聞こえてきた。 ――この間、実にカップラーメンの待ち時間ほどもかかっていない。 熟睡モードに入った杉菜の周りには、葉月の傍にいた猫達が近寄り、同様に昼寝と洒落込む。 一匹だけ手元に残った猫の頭をなでながら、葉月は傍らの女生徒を眺めていた。呼吸につられてサラサラと靡く髪の毛が、見るからに柔らかそうだったが、それに触れる事もなく、ただ、ゆったりとした空気の中で、彼女を見ていた。 「……ホント、変わってないよな、おまえ……。あの頃と同じで……」 手元の猫が、ゴロゴロと喉を鳴らす。 「…………訳が解らない」 ――他に誰かがいたら「お前にだけは言われたくない」と主張するであろう台詞を呟いて、葉月は自分も壁に背を凭れかけた。 ふと思い出すのは、入学式の日。 教会の前で逢った彼女は、幼い頃と同じ面差しで、同じように自分の顔を眺めた。 キョトン、というよりは……何の感慨もないように。 |
|