嫉妬 −前編− |
偶然『それ』を目にした時は、特に何も思わなかった。 彼にしては珍しいもの持ってるな、って感じただけ。 だから私も一緒になって笑ったの。なんだよ、ってムスッとして言い返す声が照れ隠しバレバレで、もっと笑えちゃったんだっけ。 だけど、その由来を聞くうち。 彼の穏やかな声で『それ』の意味を教えられたとき。 私の中に、澱が、宿った。 違う。 気づいた。 「――――ちょっと!またボーッとしてんの?」 「……えっ!?」 かけられた声にハッとすると、鏡越しになっちんが眉を顰めて私を見つめているのに気がついた。慌てて隣を振り向けば、鏡の中と同じ表情で私を見遣る彼女の姿があった。 「えっと、ごめん!何の話だったっけ?」 私が訊き返すと、なっちんはちょっと困ったような呆れたような顔で首を傾げた。 「ダイジョブ?アンタってばなんか今日おかしいよ?やっぱ具合悪いんじゃない?」 熱はないようだけど、と私の額に手を当てながら呟く。私はまたも慌てて、今度は手を振って否定した。 「ううん、大丈夫!元気元気!」 「だったら、もちょっと楽しそーな顔しなさいっての!せっかく久々に遊んでるっていうのに、ちっとも楽しそうじゃないじゃん」 「た、楽しいよ?久しぶりになっちんにも姫条くんにも会えたし、何より高校卒業して以来だもんね、Wデートするの。なんだかこれはこれで新鮮」 私となっちん、そして珪と姫条くん。今日はこの4人ではばたき山の遊園地に来ていた。平日ではあるけれど、私と珪は大学の長い夏休み中、なっちんと姫条くんは揃ってバイトが休みだとかで勢い一緒に遊ぶ流れになった。といっても、なっちんが私を引っ張り回して遊ぶのに、珪と姫条くんが呆れ顔でそれを追いかけてるって感じだけど。 今はお昼を食べて、一休み。なっちんと一緒にお手洗いで身繕い中といったところだ。 私が笑って言うと、なっちんも笑って頷く。 「まーねー。そりゃアタシもマンネリ化するほどデートしてるワケじゃないけどさ、やっぱいいよね。たまにこうやって数人で遊ぶのも」 「うん」 「って、だったらアンタも楽しめっつーの!」 「楽しんでるってばー!」 なっちんが私の肩をつかんで揺らすのを、苦笑しながら振りほどく。 やだなぁ。そんなに顔に出ちゃってるのかな。 楽しいと思ってるのは本当なんだよ。 本当にそう思ってるの。なっちんと遊ぶの楽しいし、姫条くんのノリの良さは相変わらず面白いし、何よりも珪がいるし。 ……なのに。 どうして。ずっと、引っかかったままで。 あの事が、ここのところ、ずっと。 「ん?どしたの?」 いつの間にか俯いた私を、不審そうに首を傾げて顔を覗きこむなっちんを見返して、私は不意に口を開いた。 「……ねえ、なっちん。私、訊きたい事があるんだけど、いいかな?」 「訊きたいこと?なに?」 「その……珪の事なんだけど」 「葉月?葉月がどうかしたの?今んトコ撮影所で特に問題は起こしてないけど?寝坊してドタキャンかますクセは相変わらずだけどねー」 なっちんはカメラマンになる勉強として、撮影所で雑用のバイトをしている。私のバイト先である喫茶店アルカードの隣ではないけれど、時々珪の撮影絡みで彼とは顔を合わせる事があるのだ。 「そうじゃなくて。今、じゃなくて……中学時代の事、なんだ」 「中学時代?って、葉月の?」 何を言い出すのかと言わんばかりに大きく目を見開いてから、なっちんが瞬きをする。それを見て私はわずかに苦笑した。 「うん。ほら、私となっちんが初めて会った時、言ってたよね?珪って、中学時代はテングだったって」 「え?…………あー!うんうん、言った言った!」 「本当に、中学時代の珪ってそんな風だったの?」 「ん〜……ま、あの頃はアタシも子供だったからねー。葉月の本性知らないで結構好き勝手言っちゃったもんだけど、でも基本的にそんなだったと思うよ?なんつーかこう、トクベツなオーラをバシバシ放ってたし、無愛想極まりなかったし、見下してるっていうか……いや違うな、ん〜、完全に他人を拒絶しまくり、みたいな?」 「……志穂さんやタマちゃん、瑞希さんも同じような事言ってたんだよね」 周りから怖がられてる、とか、冷たい人らしい、とか、友だちと一緒にいるとこ見たことない、とか。瑞希さんに至っては「性格に問題あるのかもね?」なんて言ってたな。 「あ〜、だろうねぇ。でも、今更どしたの?昔の葉月はとんでもなかったけど、今の葉月は誰かさんのおかげでつつくと面白いじゃん。なんか問題でも起きた?」 「ううん、そういう訳じゃないんだ。でも……そうだよね。珪って、そういう時があったんだよね……」 「飛鳥?」 私が知らない、珪の中学時代。深い、昏い森にいたようだった、と彼が言っていたその頃。 伝聞でしか判らないその頃の珪は……そう、いつも一人だったと、誰もが言う。 そして、それが変わったのは。 変えたのは。 「……ごめん。変な事訊いちゃった。なんでもないんだ」 「なんでもないって……なんか、あったの?」 「だからなんでもないって。ちょっと前に珪から中学時代の話聞いたから、気になったの」 そうだよ、気になるだけ。ただ気になる、それだけ。 私がそう言うと、なっちんは納得したようにウンウンと頷いた。 「なるほどね。確かに気になるっちゃ気になるよねぇ。アタシもまどかの過去、もっと知りたいなーって思ったりするもん。もっともアイツの過去は叩くとホコリどころかダニまで出てきそうだけどね〜」 「あはは、なっちんってば!姫条くん怒るよ?――って、そろそろ行こ。二人とも待ってるし」 「オッケー!」 上手く話を逸らせた事に安堵しながら、私はなっちんと二人お手洗いを出た。 (何を確認したいの、私は) 今さらなのに。今さら過ぎることなのに。 それなのに、何をこんなにこだわっているのか。 ただ一時だけ見せた、あの仕種が。 こんなにも、こんなにも、自分の心を乱すだなんて。 待ち合わせ場所では珪と姫条くんがなんだかジャレていて、というか珪が姫条くんに遊ばれていて、私たちは思わず顔を見合わせて笑った。 「姫条くん、本当に相変わらずだね」 「ホントホント。てゆーか、なんだかんだいってまどかの釣りに引っかかってる葉月も葉月っしょ」 「釣りって、言うなぁなっちん」 近づく私たちに気づいて、二人が振り向く。先に笑顔全開で声をかけて来たのは姫条くん。 「おっ、戻って来ましたか」 「ごめんごめん、ちょっと遅くなっちゃったね」 「いや、そんなに待ってないから」 私が謝るとすぐに珪が答えた。そう言う割には、やっと来てくれたかと言わんばかりの珪の表情にちょっと笑う。よほど遊ばれてたみたい。 「せやせや、女のコが身だしなみする時間も待てんほどココロ狭くないし。それにオレかてどーせやったら可愛くめかしこんだお姫サマを拝ませてもらった方がエエから、気にせんと。な?」 「ってアンタ、なんで飛鳥の方だけ向いて言うかなそーゆーセリフ!」 「へ?そらここにおるお姫サマは飛鳥ちゃんだけやしー」 「もう一人極上のお姫様がここにいるのが目に入んないのかこの腐った目は!!」 「自分はどっちかっちゅうとお姫サマやのうて、荒くれ酔っ払いどもをあっさり軽〜く捌きよる場末の居酒屋の看板娘やろ」 「なんだとーっ!?」 「ななななっちん!」 険悪になるのを止めようと間に入ろうとしたところで、それを留めるように珪が私の肩を掴む。振り返ってみれば達観したような表情で首を振る彼がいて、同時に姫条くんの声がした。 「ま、オレはそっちの方が断然エエけどな。肩凝らんで済むんは助かるし、何よりメリハリあって楽しいし」 「……え」 数秒後、なっちんの顔が朱色に染まるのを認めて、珪が深〜い溜息を落とした。 「バカップル……」 「あ、あは、あはは、そうだね……」 微笑ましいというか、これまた相変わらずというか。 よくもまぁ、飽きもせずネタも尽きずにこういう応酬ができるものだとある意味感心したところで、なっちんがコホンと一つ咳払いをして体勢を立て直した。まだ赤い頬は御愛嬌ってところか。 「ところでアンタたち、さっき何ジャレてたの?」 「あー、いやな。葉月のヤツ、飛鳥ちゃんとのラブラブっぷりをちーっとばかしツッコんだら、ごっつ照れよってなぁ。あまりにもオモロいんで更にツッコんだらますます照れよるから楽しくて楽しくて♪」 「姫条くん……」 「アンタって……」 憮然とする珪をよそに、姫条くんは実におかしそうに顔を弛ませる。……ていうか、ラ、ラブラブっぷりって、一体何をツッコんだの姫条くん。 「いやもう、ホンマにすっかりからかい甲斐のあるヤツに成長したなぁ。オニーサンは嬉しいで〜」 そう言ってわざとらしく珪の頭を撫でるものだから、珪はすっかり機嫌が悪くなった顔でその手を振り払った。 「……あのな」 「これも飛鳥ちゃんのおかげやな。おおきに♪」 「へ?わ、私?」 いきなり話を振られて、私は目を白黒させた。 「せやせや。コイツがここまで愉快に育ったんは飛鳥ちゃんの教育の賜物やで」 「愉快って姫条くん……」 教育したつもりはまったく無いんだけれども。 「いいかげんにしろ……!」 「ホイホイ、これくらいが潮時やな。さってと、そろそろ次のアトラクション行こか」 珪のご機嫌斜め度がピークに達したのを見計らったように、姫条くんはあっさりと話題を変えた。上手いなぁ、相変わらず。 苦笑しながら珪を見上げると、バツの悪そうな表情に当たった。それがあまりにも子供っぽくて、今度は本当に笑ってしまった。 「……なんだよ」 「ううん、なんでもない」 「なんでもない割に、ニヤニヤしてるだろ」 「ニヤニヤしてても、なんでもないの」 ふてくされた、でもどうにかして照れを隠そうとする顔。姫条くんと会うたびにいつもからかわれてはこんな顔をする。それが私にはとても微笑ましくて、つい笑ってしまうんだ。 私のニヤニヤ顔に耐え切れなくなったのか、軽く嘆息した珪が私に手を差し伸べた。 「……行くか」 「うん!」 勢いよく頷くと、珪はなんだかホッとしたように笑った。 その後、いくつかのアトラクションを制覇して、空がほんのり茜色の気配を滲ませた頃。 「――――あ、花屋がある!」 不意になっちんがある場所に気が付いた。 見れば、こじんまりとしたスペースながら、たくさんの色鮮やかな生花や鉢植えを扱っているお花屋さんがあった。 「お、ホンマや。出張花屋ってとこか。へー、結構いろんな種類置いとるやんか」 「だねー。前に来た時はなかったし、最近できたのかな。……ってアンタ、ボーッと突っ立ってるけど、恋人に花でも買って贈ってやろうとか、そういう粋な気概はないワケ?」 「ないないンなもん。ちゅうか、花かて贈られる人間選ぶやろ」 「どーゆー意味よ!」 「そら言葉どおりの意味やろ〜?」 「この……っ!あーあーそーですともね、花だって買う人間を選びたいよねー。いくら何でもこんな外見だけじゃなく腹の底まで真っ黒に染まってそうなムサい男には買われたくないわよねー。ごめーん、アタシってば気が利かなくて!」 「あっ、自分今のセリフめっちゃ傷ついたで!オレの清らかな硝子細工のようなハートは粉々や……」 「ゴキブリ並みにしぶとい心臓のクセに何言ってんのよ!」 なっちん達が例によって愛の溢れるコミュニケーションをしている横で、私と珪は苦笑しながら花を眺める。 「綺麗だな……」 「うん!やっぱりいいよね、お花って。見てるだけで和むっていうか」 「ああ。……欲しいの、あるか?」 「え?」 驚いて見上げると、ふわりと微笑う珪の顔。 「せっかくだし。切花でも鉢植えでも、好きなの、選べよ」 「え、でも」 「いいから」 とても楽しそうに笑ってそう言うから、私はそれ以上遠慮はせずに頷いた。 「ありがとう。えっと、それじゃね……」 どれにしようか、ともう一度ぐるりと見渡して。見渡した、その瞬間。 目が止まった。意識が止まった。 あおいいろ。 深い深い、青いいろ。 同時に。赤味を増した、もうひとつの色が脳裏によぎる。 心臓が、ドクンと啼いた。 (いや――――) 今、その色を見せないで。 今、その花を見せないで。 いやだ。 やめて。 そのあおいはなを、あのあかいはなを、わたしにみせないで。 「…………飛鳥?」 一瞬飛んでいた意識が、気遣うような声で体に戻った。 「え、あ、な、なに?」 「あ、いや……どうかしたのか?なんか、ボーッとしてた」 「そ、そう、かな?たくさんあるから、色に酔っちゃったのかな?」 「?ならいいけど。……見てたの、あれか?」 そう言って珪が指差した先には、深い青紫の小さな鉢植え。 この季節らしい、少し物寂しげで、だからこそ一つの茎に群れて咲くのかと思わせるような、そんな花。 それは。 その花は。 「これでいいのか?欲しいの」 珪が歩いていって、『それ』を手にする。 ――――――やめて。 やめて、やめて、やめて! その花を、『それ』をそんなふうに、愛おしそうに取らないで! そんなふうに、あなたの中に仕舞い込まないで!! 「――――違う!!」 気が付いたら、私は力の限り叫んでいた。 すごい勢いで首を横に振る私に驚いて、珪の瞳が大きく開かれる。 「……飛鳥?」 「違うの!それじゃないの!――――そうじゃないの!!私が、欲しいのは…………!!」 「飛鳥、どしたの!?」 「飛鳥ちゃん!?」 私の大声に、なっちん達が不審そうに声をかけてきた。 それで私はハッとして、我に帰る。周りの通行人も、不思議そうに私を見ていた。 「あ……え、と……ご、ごめん。私、何言ってるんだろ……」 本当に、自分でもよく解らなくなってきて、私は俯いて地面を見つめる。 何をしているのか。何を言ってるのか。……何を望んでいるのか。 (わかっているくせに) わかっているくせに、目を背けたがって。 (なんて、みにくい) そうだ。醜いんだ。醜いから、醜さに、気が付かないフリをして。 逃げ切れるはずが、ないのに。 「飛鳥……」 鉢植えを元の場所に戻した珪が、私に近づいて来る。 握り締めた手が痛い。体が震える。その震えがどこから来るのかを自分で理解して、それで余計に頭の中がぐらぐらする。 珪が触れてくるその直前で、私はなっちんを振り返った。 「ごめんなっちん。私、今日はやっぱりどこかおかしいみたい。悪いけど先に帰るね」 「え!?でも」 「この埋め合わせは必ずするから。姫条くんも、ごめん」 「え……あ、いや、そんな謝らんでええけど。せやけど……大丈夫なん?具合でも悪いんか?元気そうに見えたけど、実は調子悪かったんか?」 「ううん。……体の具合じゃないから」 「体の具合じゃないって、飛鳥」 「それじゃ、また電話するから!」 半ば逃げるように咄嗟に踵を返すと、それを留めるように珪の手が私の腕を掴んだ。 「飛鳥、送ってくから。調子悪いなら、そんなに急がない方がいい」 心底心配してくれてる目で見つめられて、私はおとなしく頷いた。 「…………うん」 園外に出るまで、お互いに何も喋らなかった。 街へと戻るバスに乗り込んで、私たちは二人掛けの椅子に座ったけれど、時々具合はどうかと訊ねる以外に珪も何一つ言わなかった。もちろん私も。……話せなかった、というのが正しいのだけど。 街並みが見慣れた風景に近づいた頃、私は小さな声で珪に話しかけた。 「……ごめんね。せっかくみんなで楽しんでたのに」 「別に、かまわない。おまえが楽しんでないんじゃ、意味がないんだから」 「え?」 「……ここのところ、おまえ、様子が変だったから。なんだか塞ぎこんでて、ちっとも楽しそうじゃなかった。だから俺、二人に頼んだんだ」 「……そう、だったんだ」 だから、なっちんや姫条くんもあんなに私のこと心配そうに見てたんだ……。 「何かあったのか、訊いた方がいいのか迷った。迷ったから相談した、二人に。そしたら」 「今日、Wデートしようって?」 「ああ。それで少しは気が晴れるんじゃないかって。……悪い」 「え……どうして謝るの?」 「俺はいつもおまえに相談に乗ってもらってるのに、俺の方は肝心な時に役に立てなくて。ほんと、ごめん」 そう言ってすごく申し訳なさそうな顔をするから、私は咄嗟に首をブンブン振って否定した。 「っ、そんなことないよ!珪はいつもいて欲しい時にいてくれるもの。それだけで悩みとか大変なのとか吹っ飛んじゃうんだから、役に立ってないなんてことない!」 「本当に…………そう、なのか?」 「本当だよ!」 私は断言した。 本当にそう思ってる。珪がいるから、私が私でいられるんだって、本当に本当に思ってるから。だから私は心の底からそう言ったのだ。 けれど珪は、どこか痛ましい表情で、静かに次の言葉を紡いだ。 「ここ最近、俺の顔を見るたび表情が曇るのに?」 「――――!」 思わず目を見開く。 それは、……それは。 「一瞬だけど、わかる。おまえが俺に関係することで思い悩んでるの、それだけでも充分わかる。けど、考えてることは判らない。何か――何があったんだ?」 「け、い……」 「俺、知らない内におまえに何かしたのか?だからずっと元気がないのか?悪いところがあったら言ってくれ。なんだって受け入れるから」 翡翠色の、真摯な瞳。真正面からこの瞳に見据えられて、私が降伏しなかったことなんてない。 だから、そこから視線を逸らして考え込むようなフリをして、必死になって言い訳を考える。 「それは……あの、珪がどうこうって言うんじゃ、ないの」 「どういう意味だ?」 「え、えっとね、その、そう、私自身の問題なの。しかも相談するしないの段階じゃなくて、自分でもなにかこう、思考の糸口がしっちゃかめっちゃかになっちゃってて、どうしたらいいのかってぐるぐる回ってる状態って言うか」 出てくる言葉自体が支離滅裂だったのが効を奏したのか、珪の表情が少し和らいだ。 「そうなのか?」 「うん!だからその、ね。その糸口が見つかれば、珪にも相談しちゃうかもだから、今はちょっと見守ってて欲しいのです。お願いします」 狭い座席内で勢いよく頭を下げる。 「……そうか……わかった」 ポン、と頭に乗せられた手がとても優しくて、逆に息が詰まる。 この手が。この優しい手がなくなったら、私はどうなってしまうんだろう。 手放したくない。手放して欲しくなんかない。――――でも。 (そうされても、おかしくない……そうでしょう?) それは。 「けど……」 頭を下げたまま思考の淵に潜ろうとしていたところに珪の声が届いて、私は慌てて頭を上げる。 「え?」 「もう一つ、訊きたいことがあるけど、いいか?」 「何?答えられること?」 「……さっきの……花屋での反応」 「!」 「おまえ、あの花見た途端に様子が変わっただろ。あれ、おまえの悩みに何か関係してるのか?あの――――リンドウの花が」 「リンドウ……」 リンドウ。 深い青の、綺麗でかわいい、でもどこか寂しい花。 私が好きな花、そのひとつ。 だけど。 (……言わないで) 思い出さないで――――思い出させないで。 あの花を、あの花「たち」にまつわる記憶も事実も過去も、何もかも。 どうか、思い出させないで。 『これか?……中学の時に、もらったんだ』 『あの頃は他人が信じられなくて、ずっと一人で生きてた。……けど、ちゃんと俺自身を見てくれてる奴もいるって、一人じゃないんだって、これを贈ってくれた奴は俺に気づかせてくれたんだ』 『え?どんな意味があるかって?確か……こっちの、リンドウが『哀しんでいる貴方を思う』で……こっちのれんげ草が……『私は苦痛を和らげる』だった……かな』 『そうだな。宝物、と言えなくもないな。おまえに出会う前、確かに俺を支えてくれたものだから――――』 ほとんど口をきいた事もないひと、そう言った。 自分が転校してしまう前に、勇気を振り絞り、手作りの押し花に寄せて優しさを与えてくれたひと、そう言った。 珪にとって、風のような、でも確かに救いになっていたひと、そうも言った。 それが今の珪に繋がってるのだから、とても大切な記憶になるのは当たり前。そう、あたりまえのこと。 (やめて) いいことじゃない。そうだよ、いいことだよ。 (うそつき) 嘘なんて言ってない。 (うそつき) 言ってないんだってば、嘘なんか。本当に本当なんだってば。 (じゃあなんで) それは。 (どうしておもってるの) それは――――。 (――――だったらよかったのに、なんておもってるくせに) ――――やめて! (かれが) やめて、言わないで!! かれが。 けいが、ずっとひとりだったらよかったのに。 そうしたら、わたしだけが、けいをしはいできたのに。 ……皆が言う。誰もが言う。私の影響で、珪が変わったって。 珪も言ってくれた。私が救いになってくれたって。 それはとても嬉しくて、そんな事言ってくれるのは本当に嬉しくて、くすぐったくて。 でも。 ねえ、私。 もしかして、考えてない? もしかして、誇らしいとか、思ってない? 珪を理解できるのは――――救えるのは、私だけだと。 そう、驕ってない? そう、言い切れるの? 答えなんてわかってる。そんなことわずかにでも思った時点で、わかりきってる。 私は、珪が『ひとり』であることを、珪が一番苦しむ状況を願っていたんだ。 そうすれば私だけが彼の救いに成り得るから。 あの押し花が教えて、そして突き付けてくれた。 私が本当に望んでいたことを。私の本当の醜さを。 (…………誰が姫なもんか) これじゃ魔女だ。あの『お話』の中で、私が一番なりたくないと思った魔女そのものだ。 王子を捕えて暗闇という檻に閉じ込めて、偽りの光だけを注ぐ、そんな魔女。 私は、姫なんかじゃない。 私は、姫なんかじゃ、なかったんだ。 気がついたら、いつの間にか私たちはバスを降りていて。 一方的に振りほどかれた手を、信じられないように凝視している珪の姿が目の前にあった。 →Next |