嫉妬 −後編− |
「どう、したんだ……?」 見つめてくる珪の声が戸惑いに満ちていた。 けれど私自身、自分のしたことに戸惑いを感じていた。こんなふうに珪の手を振り払うなんて、自分でも信じられなくて。 それでも『そう』させた原因が自分の中にある醜さだと改めて知って――――顔が、心が歪んだ。 「……ご……なさ……」 「飛鳥?」 「……ごめんなさい、珪。私、駄目だ」 掠れた声で言いつのる言葉に、珪が目を見開いた。 「……何を謝るんだ?それに、駄目って一体――」 「私じゃ駄目。珪の傍にいちゃ駄目。このままじゃ珪のこと、絶対に傷つける。――――ごめんなさい!」 「飛鳥!!」 言い捨てて、私はそのまま身を翻して走り出した。珪が追いかけて来るのが足音で判ったけれど、バス停の周りには行き交う人が多く、その隙を縫うように逃げた私には間に合わなかった。 「――――飛鳥っ!!」 後ろから喧騒に混ざって聞こえて来る声を振り切って、ただ一心にその場から遠ざかる。 「……んでっ、泣くの、私……!」 走り出した瞬間に流れ出した涙を乱暴に拭う。でも全然止まらなくて、その内どうでもよくなってボロボロ泣きながら走った。さぞかし変な光景だったに違いない、すれ違う人がギョッとしたように注目してたから。 心臓が破裂するんじゃないかってくらいに走って、涙のせいもあって呼吸がかなり苦しくなった頃、ようやく自分の家が見えたところで足が止まった。 私はその場で立ち竦んで、それからもう一度涙を拭った。 「なんで泣くの、私……」 泣く資格なんてないのに。 そう解っていながらも、けれど泣かずにはいられなくて、それがいっそう私の涙腺をおかしくさせて。 夕闇が近くなるまで、ずっとその場を動けなかった。 ――――偶然『それ』を目にした時は、特に何も思わなかった。 彼にしては珍しいもの持ってるな、って感じただけ。 彼の机の引き出しから、何かの拍子にひらりと現れたそれは、3つの押し花。 スイートピーと、リンドウと、れんげ草。 スイートピーはね、知ってたの。高校の時、卒業した先輩に贈るのに調べたことがあったから。だからそんなに気に留めなかったんだ。 他の2つ、これは知らなかったんだ。それで訊いてみたの。これ、どうしたの?どんな意味があるの?って。 ……中学時代、孤独の中にあったという彼。その彼の孤独に気づいて、それを癒すようにリンドウとれんげ草を贈った女の子がいたのを、私はその時初めて知った。 名前も言わず、言葉も交わさず、転校してしまった女の子。 そんな彼女のことを、懐かしそうに押し花を眺めながら教えてくれる珪の表情が、とても穏やかなものだったから。 だから、私は気づいてしまったんだ。 自分の中の闇に。 「――――じゃ、それでいいよね?東雲さん」 ハッ、と気がついて顔を上げる。目の前にいるのは同じ教職課程を受けてる知り合いの男の子だった。 「え?な、何?それでいいって?」 「って、聞いてなかったの?これから飲み会あるから行こうって話。予定ないんでしょ?」 「飲み会……?」 サッパリ聞いてなかった。それどころか、もう授業が終わってたことすら気が付かなかった。腕の下で広げられたノートには何も書かれてなくて、あとで誰かに見せてもらわなくちゃいけないのは確実だった。 学生の大部分が廊下へ出ていく中、とりあえずバタバタと筆記用具をバッグに仕舞って、立ち上がって彼に向き合う。 「えっと、予定はない、けど」 「だったら行こうよ!パーッと飲んで騒ご」 「ごめん、私――」 行かない、と言う前に、彼はさっさと私の手を取って歩き出そうとした。 「ちょ、ちょっと」 「東雲さんって滅多にコンパとか来ないからさ、来てくれるのスッゲ嬉しいよ」 ニコニコと人好きのする笑顔で言われてしまった。基本的にはいい人なんだけど、ちょっと強引というか、人の話を聞かないところがあるんだよね、この人……ふぅ。 「……長居はできないけど、それでいいなら」 「もちろん!全然構わないって!」 正直そんな気分じゃなかったけど、強く断るのも面倒になって諦めたように承諾すると、彼は何故かとても嬉しそうに笑って頷いた。私が行ってもつまらないと思うんだけどなぁ、ノリ悪いし。 ――――すると。 「悪いけど」 私たちを制止する鋭い声がした。横合いから聞こえて来たその声の方を振り向くと。 「……志穂さん?」 「有沢さん?」 隣の教室で別の授業を受けていた志穂さんが、いつの間にか彼の腕を押さえていた。 「東雲さんはこれから私と約束があるの。飲み会は次の機会にしてくれないかしら。あったらの話だけど」 淡々と喋りながら彼の手を私の腕から引き離して、そのまま今度は私の手を引く。 「さ、行きましょ」 「え、あ、志穂さん」 訳が解らないまま手を引かれて出て行く私と、やっぱり訳が解らないまま取り残された彼の姿は、ちょっぴり間抜けだったかも知れない。 「まったく、隙だらけなんだから」 教室を出て、構内にある池のほとりに設けられたベンチに腰掛けるなり、志穂さんがやれやれと言った風に呟いた。 「隙だらけって……」 「この間も同じ学部の男子に声をかけられていたでしょう?コンパだのなんだのって。ボーリングや遊園地なんかにも誘われていたわね」 「ああ……でも、知り合いだし、別に挨拶したり遊びに誘ったりするのはおかしくないと思うけど」 第一そんな気分になれなくて、全部断ったし。 「……ハァ。本当にあなたって解ってないのね……」 眼鏡の位置を直しながら志穂さんが呆れて言う。解ってないって何がだろ。 「葉月くんがあなたの傍にいないものだから、皆浮き足立っちゃって参るわね」 ドクン。 私の心臓が大きく音を立てたのが判ったように、志穂さんが私の顔を覗き込んだ。 「一体どうしたの?私も桜弥くんも学校が始まってからこっち、ずっとあなたと葉月くんが一緒にいるところを見ていないわ」 「…………」 事実だった。 あのWデートは9月下旬だった。今はもう10月に入って大学の後期が始まり、1週間近く過ぎようとしている。 その間、私は珪とまともに会うことはなかった。 もちろん珪はあの日、あとで私の家に来てくれた。でも、私は会わなかった。 メールや電話も来ていたけど、それにもほとんど返事をしなかった。 「夏休み中、葉月くんと喧嘩でもしたの?」 「喧嘩……ううん」 喧嘩じゃない。喧嘩は、してない。ただ一方的に私が彼を避けてるだけ。そしてそんな私を見て、珪も近寄って来ない。たまたま構内で見かけた時は、ただ遠くから私を見ている。離れたまま、私をずっと見つめている。 それに気づいていて、それでも私は彼を避けていた。 「じゃあ、何かされた?約束を破られたりした?」 「……ううん」 珪は何もしてない。いつもいつも私を一番に考えてくれる。仕事で約束が守れない時は、その分別の機会にそれをフォローしてくれる。 理不尽な私の行動すら、受け止めてくれている。それはまるで、バスの中で私が頼んだことを守ってくれているようにも見えた。 首を振るだけの私に呆れたのか、志穂さんが溜息を落とした。 「……昨日、奈津実から電話があったの」 「え?」 「Wデートの日、あなたの様子がおかしかったって。その後何度か電話したけれど、そのたびにあなたのカラ元気が伝わって来たって。葉月くんと先に帰った後にまた何かあったんじゃないかって、とても心配してたわ」 「なっちんが……」 心配させないように話してたつもりだったけど、全然効果、なかったんだ……。 「ねえ東雲さん。あなた、自分の欠点、知ってる?」 「え?」 志穂さんが突然話題を変えてきた。 「私の……欠点?……鈍いところ、とか?」 「……まあ、それもあるけれど。そうじゃなくて……あなたって、悩み事を自分の中に抱え込み過ぎるのよ」 言われて、私は思わず目を瞬いた。 「悩みごとを……自分の中に……?」 そう、だろうか。結構なっちんにもタマちゃんにも、それこそ志穂さんにも、色々こぼしては相談に乗ってもらってると思うんだけど。 今までの経験を思い返していると、志穂さんは違う、と言った風に首を振った。 「この場合、自分の中の、負の感情の事よ」 「……負の、感情……」 「怒りとか、悲しみとか、苦しみとか、そういったマイナスの感情。あなたって、あまりそういうマイナスの感情を抱く事が少ないけど、その代わり抱いた時は深いのよ。そしてそれを自分の中だけに閉じ込めてしまうの。自分で解らなかった?」 「……解らなかった」 ポツリと言うと、志穂さんが苦笑した。 「そうでしょうね。解っていたら、こんな事になる前に何とかできたものね。……ねえ東雲さん。私は他者に頼り過ぎる人間や、闇雲に自分の感情を周囲に撒き散らす人間は嫌いよ。けど、あなたは違う。ちゃんと自分の足で立つ事もできるし、相手の気持ちを思いやる事もできる。だからこそ、悩んでいるならその重荷を軽くしてあげたいって思うのよ」 「志穂さん……」 「せめて相談くらいはして頂戴。それは勿論、私なんかが力になれるか判らないけれど、鬱屈した気分が少しでも晴れるなら、愚痴でもなんでも聞くわ。何の為の女友達?」 そう言って志穂さんは柔らかく微笑う。 伝わってくるその気持ちは本当に優しくて、優しすぎて、かえって私の言葉を紡がせなくする。 珪も、志穂さんも、なっちんも、私の周りにいる人はみんなみんな優しすぎて。 優しすぎて、苦しくて、泣きたくなる。 「…………志穂さんは……志穂さんは守村くんを好きになって、自分が醜いって思ったこと、ある?」 「え……?」 逆に質問した私の言葉に、少し驚いて微笑みを消した。 「っ、ごめん。なんでもないの。ただ訊いてみたかっただけ」 慌てて手を振って今の言葉を取り消そうとした。でもすぐに、今度は苦笑して彼女は答えた。 「そんなのしょっちゅうよ」 「え?」 志穂さんは正面を向いて、遠いものを見るような目で続けた。 「桜弥くんは優しいし、人当たりも良いから、同じ学科の女子と良く話しているし、一緒に行動もしてるわ。それを見るたびに嫉妬してる。特に2年になってからはお互い専門科目が増えて、会える機会も少ないから、そんな事ばっかり。自分の心の醜さを実感しっぱなしだわ。おまけに私、大して可愛い女でもないし」 「そんなことないよ!志穂さんは可愛いよ?」 私が慌てて否定すると、志穂さんほんの少し照れたように笑った。 「そう言ってくれるのはあなただけよ。……けど、仕方がないのよ。――好きだから」 「……好きだから……?」 「ええ。嫉妬は人間だったら当然の感情だと思う。でもそれは、愛情や憧れの裏返しだから。……桜弥くんが好きだから、その想いが強ければ強いほど、嫉妬に駆られてしまう自分は止められないの。そういうものだって受け止めなくちゃ、先へは進めない――――」 そこまで言って、志穂さんはふと気がついたように私を見た。 「東雲さん、もしかして、あなたもそれで悩んでいたの?」 「それは……」 好きだから。だからこそ、相反する感情も芽生える。 嫉妬という名前のついた、それが。 「……嫉妬だったら、まだマシだったかな……。ううん、これも嫉妬なのかな……」 「……東雲さん?」 俯いて呟いた私を気遣うように、志穂さんが肩に手を置いた。 わかってる。志穂さんが言ってることは、わかるの。 でもね。 それなのにね。 『……けど、ちゃんと俺自身を見てくれてる奴もいるって、一人じゃないんだって、これを贈ってくれた奴は俺に気づかせてくれたんだ』 (――私だけじゃなかったんだ) 『そうだな……宝物、と言えなくもないな。おまえに出会う前、確かに俺を支えてくれたものだから――――』 (――私より先に珪を支えてくれた女の子、いたんだ) 当然だよね。私たちが本当の意味で出会ったのって、そのあとのことだもんね。 なのに、それなのに、思っちゃうんだよ。 くやしいって。くやしくてくやしくて、そんなの嫌だって。 私以外が珪の支えになるなんて許せないって、そんなことばかり思っちゃうんだよ。 ……そう思う心は、そう思ってしまうって解ってても、一体どうしたら昇華してくれるのか判らない。 こんな私じゃ、駄目。 こんな女が珪の傍にいるなんて間違ってる。 少なくとも、『今』の私じゃ、駄目。 「東雲さん……」 肩に置かれた手のぬくもりが伝わるごとに、自分の醜さや情けなさが浮き彫りになるようで、やりきれなかった。 結局志穂さんに要らない心配をかけたまま、私はトボトボと家路に着いていた。 話せなかった。頭の中でまとまり切れていないせいもあったけれど、何より私がずっと心底抱いていた感情を、あの優しい友達に見せたくなかった。 言えなかったことで、志穂さんが落胆したのも解ったけど、それでも押し留める自分がいた。 「ホンット、私って駄目だなぁ……」 溜息と一緒に愚かさも吐き出せたらいいのに、そんなことを思ってると、不意にポツ、と頬に水滴が当たった。 「……雨?」 秋の天気は変わりやすい。そういえば天気予報でにわか雨が降るって言ってたかも知れない。 何となく雲に覆われていく空をぼんやりと眺めていたら、すぐに雨粒がいくつも降り注いできた。急いでバッグから折りたたみ傘を出そうとしたけれど、途中で手が止まる。 「忘れちゃった……傘」 最近ボーッとしてることが多いから、数日前に使ったまま入れ忘れてきたらしい。 「……仕方ないな。途中で雨宿りしよ」 強くなる雨足に眉を顰めて、私は駆け出した。まだ家までは距離があるから、公園の東屋ででも凌げばいい。 急いで走ったおかげでそれほど濡れずには済んだけど、東屋で人心地ついた時にはすっかり周囲は雨の帳に囲まれていた。 「参ったなぁ……止みそうにないよ」 日が沈んでいないとは言え、10月の雨に濡れた体は冷えるのも早い。持っていたハンドタオルで急いで濡れた箇所を拭く。バッグがそれほど濡れていないのを確認して、大きく息を吐いた。 (そういえば、この公園だったっけ) ザーザーと降り続く雨を見ていると、高校の頃を思い出す。珪とのデートの帰り道を。 通り雨に降られて、珪と二人でこの東屋で雨宿りをした。 『…………太陽なんて……出なくていい……』 今でも覚えてる、珪の言葉。 『このまま、世界中に雨が降りつづけて、このまま世界の終わりがきても、おまえがそうして、横にいてくれれば、俺は……』 あの時、尽に邪魔されなければ告白するつもりだったんだ。恋人同士になってから訊き出した私に、珪はそう言って、照れたように笑ってた。それを聞いた私がどんなに嬉しかったか。嬉しい、嬉しいって、全然言葉じゃ伝え切れなくて、口惜しい思いをしたっけ。 ……そう、嬉しかったんだ。 嬉しくて嬉しくて、珪を好きで良かったって、思ったんだ。 だからこそ、あのバスの中での考えが強く心を支配したの。 (もし『彼女』がそのまま珪の傍にいたら?) (そのために珪の傷が癒されて、私の入り込む隙なんてなかったとしたら?) (今こんなふうに私の隣で笑ってくれるこの人は、幻になっていたかも知れないんだ――) そんなことを考えていたら、止まらなくなって。どこをどう歩いたらいいのか解らなくなって。 言葉が、手が、足が、止まって。 気がついたら、こんな――――。 「……姉ちゃん?」 呼ばれてハッと顔を上げる。声のした方、小さな公園の入口から、尽が傘を差しながら驚いた顔で駆け寄って来るのが見えた。 「尽……」 「こんなとこで何やってんだよ……って傘忘れたのか。相変わらずボーッとしてんなぁ」 「……悪かったわね。あんたは今帰り?今日は早いのね」 サッカー部の活動があるから、いつもはもっと遅いはずなんだけど。 「雨が降りそーだってんで、部活が休みだったんだよ。屋内は塞がってたし、屋外部活のシュクメイってヤツ。入ってくだろ?」 くい、と傘を持ち上げて私を促す。 「うん、でもその図体と一緒じゃ二人とも濡れるなぁ。予備の傘は持ってないの?イイ男の条件だとか言ってたでしょ、昔」 「持って来てたけど、クラスの女の子に提供済み。このオレに抜かりはないって」 ニカッと笑う弟に溜息を落としたくなったけど、尽がグングン育ってるのを責める訳にもいかないし、家まで傘を取りに行かせるのもなんだし、全身が濡れるよりはマシだと思って、私は尽の傘に入れてもらうことにした。 ハンドタオルをしっかり絞ってから、教材が濡れないようにバッグに仕舞っていると、それを眺めていた尽がふと懐かしそうに言った。 「思い出すなー、ここ。葉月と姉ちゃんのデート邪魔したことあったよなー」 「……されたっけね」 「そーそー、あのあと家に帰ってから姉ちゃんスッゲェ機嫌悪くてさ。君子危うきに近寄らずって格言、身を持って知ったっけ」 「っ、それは、珪が風邪引いたらどうしようって、心配してたから」 「そーだけど、その割に電話するとかメールするとか出来なかったんだよな?なもんで、翌日学校行くまで気が気じゃなくて、ずーっと悩んでたんだよな」 「だって、あの頃はそんな関係じゃなかったし」 「どーだか。けど――――今はそんな関係だろ?」 尽の声が、突然真剣味を帯びたものに変わって、バッグを抱え直した私は思わずその顔を見返す。 「……つく、し?」 「あのさ、オレは基本的に姉ちゃんの味方だよ。葉月に泣かされたならオレが葉月を殴ってやるって思うし。でも、最近の姉ちゃん、違うから」 「違うって、何が」 「葉月のこと、嫌いになったのか?」 「――――!?そ、そんな訳ないじゃない!」 「だったらなんでアイツのこと避けてんだよ。奈津実お姉ちゃんたちと遊びに行った日から、ずっとだよな」 「それは、それは……、って、あんたには関係ないでしょう!?」 そう言った途端。 「あるだろ!オレは姉ちゃんの弟なんだぞ?その姉ちゃんが葉月がらみのことでずっと沈みこんでるの、黙って見てられるかっての!」 ガシャン、と傘を投げ捨てて、尽が叫んだ。 「……尽……」 「脳天気でもボケボケでも、それでもいいんだよ!姉ちゃんが姉ちゃんらしいんなら、オレだってこんなこと言わない!でも違うだろ!?今の姉ちゃん、見てらんないんだよ!食い違ってんだよ!それ、自分でも解ってんだろ!?」 「――――じゃあどうしろって言うのっ!!」 尽に誘発されたように、私は思わず叫び返していた。その勢いに尽が思わず後ずさる。足元で弾けた水の音が、やけに耳に響いた。 「珪が欲しいのは孤独から救ってくれる存在なんだよ!?一人ぼっちにならずに済む、そんな暖かい居場所なんだよ!?それを与えられないの判ってて、どうやって珪の傍にいられるって言うの!?」 「……って、何言ってんだよ姉ちゃん!そんなのとっくに、姉ちゃんが与えてるだろ!?あの葉月の顔見たら、一目瞭然――」 「与えてなんていない!奪ってて、これからも奪うことばかり考えてる!世界中の何からも切り離して、珪が一番恐れてる孤独の中に閉じ込めて、私だけのものにしたいって、そうすれば私だけのものになるって、そんな醜いことばっかり考えてる!!」 「……姉ちゃん……」 「珪が一番望まないことを望んでる!それなのに、それだからこそ、そんな女が居ていいはず、ないじゃない……!!」 涙が溢れて、息が苦しい。泣く資格なんてないのに、どうして私は泣くの。どうして涙が出てくるの。 ――――好きだから。 珪が好きだから。好きで好きで、止まらないから。 なのにどうして、それと同じくらいの強さで願ってしまうの。独占を。束縛を。隔離を。 珪に幸せになって欲しい。孤独に震えなくていい、そんな世界であって欲しい。 それだって本当に思ってるのに、心の奥底では反対の事を思ってる。 そんな状態でどうやって、珪の傍にいて良いって言うの? できない、そんなことできるはずがない! 「姉ちゃん……」 「――――そう、だったのか……」 気遣うような尽の手が私の肩に触れる寸前、別の方向から声が聞こえた。 「――葉月!?」 「……け……い……」 気がつかなかったけれど、いつの間にか珪が東屋の近くに立っていた。まだ雨足が強いのに、傘も差さずに。 水滴をたくさん含んだ髪が重たげに揺れているのが、こんな状態なのに綺麗だと思った。 「葉月、おまえびしょぬれじゃん!」 「ん?ああ……学校出ようとしたら、降って来た。忘れたし、傘」 「……そーゆー場合、フツー学校で雨宿りしてくるもんじゃないか?」 「そうなのか?」 「……おまえに聞いたオレがバカだった」 尽の嘆息をよそに、珪はスタスタと近寄って来て私の目の前に立った。 「飛鳥……さっきの言葉、あれが、おまえがおまえの本心なのか……?」 「珪……わ、たし……」 翡翠の瞳に射抜かれるように、私は思わず立ち竦んだ。上手く言葉が出て来ない。体が震える。知られたくなかった自分の醜さを、一番知られたくなかった人に知られた事実が、私の動きを止めた。 呆然とする私に一瞬だけ痛ましい視線を寄越してから、不意に珪は突然私のバッグを奪って尽に投げつけた。 「――――っと……な、なんだよ葉月いきなり!」 「それ、持って帰ってくれ」 それだけ言うと、珪は私の腕を掴んで、雨の中へと再び歩き出した。 「お、おい!!」 「け、珪!」 背後から呼びかける尽の声も、引っ張られながら呼びかける私の声も無視して、珪はそのまま歩き続ける。道行きからして多分珪の家に向かっているのだろうけど、降り注ぐ雨粒が視界を雲らせて定かじゃない。 「珪、痛い!放して!」 逃げるなと言わんばかりに強く掴まれた腕がジンジンして、思わず振りほどこうとしたけれど、それでも力は弛まなかった。 向けられた背中から、珪が怒っているのが伝わって、それでもう私は何も言えなくなった。 ……珪が怒るのは当然だ。 いつも傍にいる人間が、あんなことを思ってたんだから。 だからこそ知られたくなかった。知られたら嫌われてしまうから。 怖かったの。嫌われたくなかったの。絶望と侮蔑に満ちた目で見られたくなかったの。 怖くて怖くて、嫌われるのが本当に怖くて、だったらまだ傍にいない方がマシだって、そう思ったの。 怒らせるの、傷つけるの、わかってたくせに。 「……っ、く……」 空いた方の手で拭う頬にあるのが涙なのか水滴なのか、自分でもわからなかった。 しばらく無言のまま歩いて、涙と雨の境界線が完全に消えた頃、ようやく私たちは珪の家に着いた。 せわしく玄関の扉を開けた珪に突き飛ばされるように私が中に入ると、すぐにガチャン、と扉と鍵を閉める音が響いた。 「珪、ごめんなさい、私――――」 何はさておき、まずは謝らなくちゃと振り向いた瞬間、私は壁に押し付けられるように抱き締められた。 「け――――!」 言葉を紡ごうとした唇を塞がれる。 今までされたことがない、乱暴で滅茶苦茶で、深く深く貪るようなキス。呼吸すら飲み込まれるような。 体も頭も拘束されたまま、ただそれを受け止めるしかできなくて、その内に珪の熱しか感じられなくなって力が抜けた。それに気づいたのか、ようやく珪の唇が離れた。 「……飛鳥」 とろんとする瞼を無理矢理開いて、私を呼ぶ珪の顔を見る。そこには見たことが無いほど切なそうな瞳が、深い色を湛えて揺れていた。 「け、い……わ、たし……」 「……どうして、言わなかったんだ……?」 「…………え……?」 「どうして、言ってくれなかったんだ……」 ポツリと囁く声は一瞬前までの激情が嘘のように、静かで、優しくて、そして哀しかった。 「言ってくれて、良かったんだ。……いや……そうじゃなくて……」 ゆっくり探すように、ひとつひとつ大切に見つけ出そうと紡がれる珪の言葉。声。 「……言って欲しかったんだ。……こんなふうに、おまえが傷つく前に……」 私の肩に顔を埋めた珪の腕に力がこもる。 「け……い……」 珪の体。珪の香り。珪の形。言葉。声。熱。想い。 冷え切った体を押しのけるように伝わってくる珪の全て。 (…………すき) 好き。 珪が好き。過去すら許せないくらいに、過去を大事に出来るこの人が好き。 自分を傷つけた相手を、こんなふうに強く優しく抱きしめてくれるこの人が好き。 放したくない。放されたくない。ここにいたい。珪の傍にいたい。珪の腕の中にいたい。 珪以外のものなんて、欲しくない。 それなのに。 「どうしてかなぁ……」 掠れた声が、本当にかすかに生まれてきた。 「ほんとに思ってるのに、それだってちゃんと思ってるのに。珪がいろんな人と出会って、喋って、そうやって珪の世界がどんどん広がって行くの、素敵だって、良いことだって、本当に本当に思ってるのに、どうして!」 「……飛鳥?」 「……どうして……私、どうして、珪がずっと一人でいれば良いなんて、思っちゃうのかなぁ……?」 「……飛鳥……」 「一人なら、珪が一人なら、孤独なら、……珪を理解する人が誰もいなければ、私だけが珪の中にいられるだなんて、そんな醜いこと、考えちゃうのかなぁ……」 好きなのに、どうして。 身じろぎも出来ず、ただ珪の腕の中で泣き続けていると、どこか苦しそうな溜息を小さく零した。 さすがに呆れたはず、失望したんだ、と思って、痛む胸をこらえていると、予想していたのとは違う言葉が聞こえた。 「……おまえだけじゃ、ない」 「……珪……?」 そっと頭を上げた珪の顔を見ると、深い翡翠の色が読み取れない影を抱いていた。 「俺だって、そうだ。おまえに触れるたび、そんな感情を押し殺して、隠してる。……言葉には到底できないけど」 珪は腕の力を弛めて、私の頬にそっと手を当てた。そうして涙を拭うように優しく撫でてくれる。 「こんなふうに、おまえを泣かせたくなくて。おまえに、嫌われたくなくて。けど、いつだっておまえが言ったような事、考えてる」 他の誰も近づけないで。自分以外の誰をも、支えや救いにしないで。 その世界にいるのは、私だけでいい――――。 「……そんな、見えないよ……。珪はいつもいつも、すごく優しいもん」 「鈍いからな、おまえ」 いつだって繋ぎ止めるのに、苦労してるんだぞ?と彼の瞳にほんの少しだけ笑みが浮かぶ。 ……確かに、私は鈍いけど。でも、珪の優しさは繋ぎ止めるようなものじゃないって知ってる。知ってるから、好きになったんだもの。 ふるふると首を横に振る私に、珪がふと微笑った。 「なあ飛鳥……俺、あの日、卒業式の日に言ったよな?もう、おまえを離したくないって。あの言葉、今でも変わってない。それどころか、あの時より強く、そう思ってる。……おまえは?」 訊ねられて、私は一瞬息を止める。 「……私……?」 「ああ。おまえにとって、俺はもういらないものか?離れて欲しい存在なのか?もし、そうなら――――」 「っ、そんな訳ないじゃない!!」 珪の顔が辛そうに歪むのを遮るように、私は咄嗟に叫んだ。 「離したくない、離れたくないよ!珪がいなくちゃ全部何もかも無意味だもん!だから……だから、言えなかったんだもん……あんな、酷いこと思ってたなんて、知られたら怒られるって、傷つけた上に嫌われるって、そう思って……!」 「だったら、完全に杞憂だ、それ」 あっさり言われたそれに、私の目が瞬いて見開かれる。 「……え……」 「怒ってなんかいない。傷ついても、ましてや嫌いになんかならない」 「で、でも、だって、さっき、ここに来るまでずっと、怒ってた、でしょ……?」 「ああ……あれか。それはそうだろ?欠片とはいえ、有沢には漏らしたくせに、俺には何も言わなかったんだから」 「……志穂、さん?」 「学校を出る前、会ったんだ。それで聞いた」 ――――葉月くんが東雲さんの気持ちを大事にして距離を置いてるのは解るけれど、お互いにちゃんと話すべきだと思うの。どこかで気持ちがすれ違っているなら、手遅れにならない内にそれを正さないと。 志穂さんは珪にそう言ったらしい。それで雨が降り出した中を私の家に向かう途中、私が泣き叫んでたあの場に遭遇した、そういうことだった。 「志穂さんが……」 「俺も馬鹿だった。おまえの心の中まで踏み込んで、拒絶される事が怖くて、バスの中で言ったおまえの頼みを守ってた。守ってるつもりになってた。けど、おまえは全然気が晴れた様子がなくて……笑顔の一片すら浮かべなくなって……。俺も何が原因だったか、ずっと考えてた。……あの、押し花が原因なんだろ?」 息を飲む。私に私の中の闇を突き付けた、そもそもの原因。 「それは……その……」 言いかけた私を遮って、珪は首を振って続けた。 「おまえがどう思ってるか判らないけど、これだけは言っておく。たとえあいつが俺を理解していたとしても、それで俺がこんな風に変われたなんて思えない。俺たちの中に何かがあったとしたら、それはただの共感で、同情だ。俺は、そんなものが欲しかったわけじゃない。差し伸べてくれて、引っ張り上げてくれる、このあたたかい手が欲しかったんだ。……この手以外、俺は欲しくない」 そう言って、珪は私の左手を取った。薬指にクローバーの指輪が嵌った、左手。珪の手にすっぽり納まってしまうような、小さくて無力な手だ。 そんな小さな手をとても愛しそうに触れる珪に、私はおそるおそる訊ねた。 「……こんなので、いいの……?」 「この手だから、欲しいんだ」 「…………魔女でも……いいの……?」 「魔女?」 私のセリフに少しだけきょとんとして、それから気がついたように、ああ、と微笑った。 「そうだな。魔女でもいい、おまえなら。……嬉しかったから。俺を、望んでくれること――――」 もし。 もし、この世界に魔法があるというなら。 きっとそれはこの人に宿ってる。言葉に、声に、表情に、姿に、存在の全てに。 私を本当に苦しめるのも、私を本当に喜ばせるのも、この人。 この人だけが、私に力をくれる。 だから。 だから、私は――――。 「…………ああ……」 左手ごともう一度私を抱きしめる珪の声が、耳元に小さく響いた。 「……おまえの笑顔……やっと見れた……」 嬉しい、と伝わる声。体中にしみわたる、愛しい、という想い。 もうそれで。 自分の中の闇なんてどうでも良くなった。 しばらく玄関先でずぶ濡れのまま抱き合って、気がついたら外は大分暗くなっていた。 「落ち着いたか?」 心配そうに声をかける珪に私はコクンと頷く。散々泣いたせいで瞼は腫れぼったいけど、冷やせば何とかなるだろう。それよりも濡れた体の方が問題だった。服が肌に張り付いて、ちょっと気持ち悪い。 「うん。……ごめんね、また色々振り回しちゃったね」 「今更、だろ」 「う」 言葉に詰まる私に笑って、でもすぐに真剣な顔に戻った。 「けど、今回みたいなのは心臓に悪いから……その前に、ちゃんと言えよ?」 「……はい」 「よし」 軽く私の頭に手を乗せてから、珪は私を玄関の上がり框の部分に座らせて、自分は家に上がった。 「待ってろ。今、タオル持って来てやる」 珪が音を立てずに歩くのはいつものことだけど、今日はさすがにあれだけ濡れたせいか、ぴしゃぴしゃと水の滴る音が聞こえて来た。振り返れば、進路に沿って水がしっかり彼の足跡を残していて、私と一緒に床も拭かなきゃいけないのが一目瞭然だ。 「珪こそ、服を絞ってから上がれば良かったんじゃ……」 そこでハッと気づいた。 タオル類を置いてある洗面所は1階の奥にある。でも、水滴は2階に向かって続いていた。 2階にあるのは珪の部屋、そして。 「まさか……」 私は慌てて靴を脱ぎ捨てて、床が濡れるのも構わずに2階へ駆け上がった。そして勝手知ったる珪の部屋へ飛び込む。 「やめて珪!!」 「飛鳥!?」 突然飛び込んで来た私に驚いて、珪は動きを止める。 その手の中にあった、今にも握り潰されそうな3つの押し花を認めて、私は慌ててそれを奪い取る。 「駄目!これを捨てちゃ駄目!」 「駄目って……、おまえが苦しんだの、そのせいだろ?だったら――」 「それでも、ううん、それだからこそ、これは捨てたりしちゃ駄目なの!」 「飛鳥……」 戸惑う珪の顔に心が動きそうになったけど、それを振り切るように私は手にした押し花を見つめた。 丁寧に、とても丁寧に作られた押し花。スイートピーに、リンドウに、れんげ草。 確かに苦しめられたかも知れない。でもそれは、私が気づかなかった私自身に苦しめられただけ。押し花にも、これを珪に贈った子にも罪はない。 「……答え、出たの」 「……答え?」 「答えって言うか、糸口かも知れない。……私ね、受け止められるようになりたい」 真っ直ぐ、珪の顔を見据える。そして一言一言を、自分に強く言いきかせるように紡ぐ。 「珪のこと、全部受け止められる人間になりたい。過去も、今も、未来も、全部全部、珪のこと、珪に関わること、何もかも受け止められる、そんな人間になりたい。欲張りな分、その強欲さえも受け入れられる私になりたい。だから」 そして押し花をそっと珪に手渡した。 「だから、これはちゃんと珪が持っていて?私がまた見失いそうになった時に、ちゃんと戒めになってくれるように」 ……そうだ。 私が本当に出せなかった答えはこれなんだ。 この答えが見つからなくて、それで自分の闇から抜け出せなくてもがいてたんだ。 この押し花は、私にとっては自分の醜さを思い知らせるものであって、また、それでも大事なことを思い出させる道標でもあるんだ。 珪が好きだという、一番大切なことを、私が決して見失わないための。 珪は少しの間私と押し花を見比べていたけれど、やがて大きく息を吐いた。 「……それで、いいのか?」 「うん」 「本当に?」 「うん」 繰り返し頷くと、珪は複雑そうな笑みを浮かべた。 「参ったな……」 「え?」 「これ以上強くなられたら、俺、一生勝ち目ない」 「勝ち目って……」 私が珪に勝ったことなんて、ほとんどないと思うんだけど。 「正直言って、今の俺には、必要じゃないんだけどな。…………わかった」 そう呟いて、珪は押し花を元通りの場所へ戻した。引き出しの奥深く、目に触れず、取り出すのが難しい最奥の場所へ。 完全にそれが見えなくなってから、珪は私の方に向き直った。 「おまえがそう言うなら、まだここに置いておく。けど、いらなくなったら言えよ?これは俺にとって、本当にもう、必要ない物なんだから」 「…………うん」 そうして再び抱きしめてくれる体を、今度は私からも抱きしめて、強く頷いた。 嫉妬や独占欲や執着心、それらはどうしたって逃れられない自分の一部だ。 けれど、それでも惑わされない自分になりたい。それすらも受け止められる自分でありたい。 だって。 だってそれは、この人への想いがあってこその感情だから。 想いの強さが引き出した自分だから。 「……大好き、珪」 あなたが、すき。 冷えた体に想いごと届くように祈りながら、私は背伸びをして彼の唇にそっと触れた。 |