黄昏の風
「……今日はずいぶんと楽しそうだが」
風にはためくスーツの裾を、ポケットに押し込んだ腕で押えながら、傍らの女性に尋ねる。
「それはそうです!」
俺の左腕に、その繊手を軽く絡ませて、喜色満面の彼女は答えた。
「だって、零一さんと腕を組んで海岸を歩くの、ずーっと夢だったんですから!!」
他にどんな理由があるのだ、と言わんばかりの勢いだ。
「……腕くらい、何度も組んでいるだろう。それに、海岸を歩くのも、今日が初めてではない」
「解ってないなぁ、『先生』ってば」
懐かしい響きだ。彼女の口から紡がれると、聴き慣れている筈の言葉さえ、どこか違うものに聴こえる。
「ここは、我らがはばたき市の臨海公園、なんですよ?地元だってところが重要なんです。『社会見学』じゃ、腕を組んでくれなかったし、お正月だって、表着の裾を持たせるか、せいぜい手を引くくらい。正直つまらなかったな」
「……それは仕方がないだろう。あの頃は、お互いの立場上それ以外の良策がなかった」
「それは解ってます。だけど、やっぱり憧れてたんです。大好きなこの街を、大好きな人と一緒に、堂々と腕を組んで歩くこと。だから、その夢がかなって、今とっても嬉しいんです!まぁ、制服着てる内にできなかったのは、かなり残念だったけど」
残念と言いつつ、彼女の表情からいっかな笑みが途絶える事はない。
「零一さんは?私とこうして歩くの、嬉しくないんですか?」
また答え難い事を訊いてくるものだ。
嬉しくない訳が無いのだが、俺はそういう感情表現における簡単な言葉が咄嗟には出てこない。結果、思わず声が上ずる。
「あ、いや、そんな事は……」
「聞こえません」
上ずりついでに小さくなった声を聞き咎め、彼女がきっぱりと次の発言を促す。
「……その……確かに君と同意見である事は否めない、と、思う」
「スッキリしないなぁ。句読点を含めて、5文字以内で端的に表現してください」
……やれやれ、どうも最近はこういう押し切られ方をされる事が多いな。
もっとも俺自身が彼女に、そういう要点をまとめる癖を叩き込んだのだから、自業自得なのだろうが。
俺はあっさりと降参する。
「……分かった。…………『嬉しい。』―――以上だ、間違いはあるか?」
すると彼女は今まで以上にニッコリと笑って頷く。
「ハイ、正解です。フフッ」
そして、俺の腕を大事そうに抱え込む。
秋は深く、海から吹く風は冷たさを伴っているのにも関わらず、そこだけが変わらず暖かい。
「でも、この時間に来て良かったなぁ。ほら零一さん、夕焼け見てください!とっても綺麗!!」
ニコニコと笑いながら、彼女は水平線に分けられた世界を眺める。
「ああ、まったくだ。単なる大気中の水蒸気による太陽光線の反射現象だとは理解しているが、それでも見事だとしか、言いようが無いな」
刻一刻とその色と形を変え続ける、金と淡瑠璃色の群雲。それを手繰り寄せたような、穏やかなさざ波。
その彩られた大気の中で、踊るような茜色の陰影。
決して同じ刹那に留まらないその姿は、何処か隣にいる彼女の姿にも似ている。
捉えようとしても、柔らかく逃げてしまいそうな、優しい風。
移り変わるが故に追いかけていた、愛おしい風。
触れてみたくて、知らない内に求めていた、ただ一つの風。
追いつく事ができないと思っていた、自ら欲した存在。
――――だが。
「こんな夕焼けを見てると、高校の時、春に零一さんが連れて行ってくれた場所を思い出します。今年は行けなくて残念でした」
少しの間、空の美しさに見惚れていると、彼女が静かに言った。
「休みが雨と悉く重なっていたからな。それも仕方がない事だろう」
「そうですね。あ、でも、来年は絶対、見に連れて行って下さいね?」
――――だが、今は――――。
「……日本語の用法が間違っているな」
「え?」
「こういう時は、『これからもずっと、絶対に一緒に見に行きましょう』と、言うべきだ」
顔を上げ、驚いたように見返す彼女の瞳を、深く見つめた。
―――ああ、本当に風を抱いているような色だな。
捉えがたいと思っていた風は、今、自らの意思で、俺の傍にいる。
砂上の足跡が消えても、この風はずっとそよいでいるのだろう。
この黄昏の光のように、優しいままで。
|