どきどき |
「フワァ〜…………かったる」 屋上に出て、大きな欠伸をしながら体を伸ばす。吹きつけて来る風はまだまだ冬のそれだが、暖房と周りの無言の熱気に包まれた心身には丁度いい快適さだ。 「やっぱかったるいなぁ、試験ってモンは。しゃあないけど」 はばたき学園高等部・編入生選抜試験。 本日行われている学校行事は何かと問われれば、百人中九十九人はそう答えるだろう。冒頭で大欠伸を披露した彼、姫条まどかもその試験を受ける為に、軽いんだか重いんだか判らない腰を上げて試験会場までまかり越していた。 いくら理事長に気に入られたとはいえ、さすがに無試験で入学という訳にはいかない。そんな事をしたらコネ入学だの何だのと叩かれるに決まってる。いや実際はそれ以外の何でもないのだが、世間の荒波を渡るには表向きの建前とポーズも時として必要なのだ。 何はともあれ、ウンザリするような筆記試験は終わったし、昼休みの今を挟んで午後の面接に挑めば、あとは便宜を図ってくれるオッサンの領分だし、何とかなるだろう。その安堵感が、姫条に他の受験生より遥かに余裕を持たせていた。 そしてその余裕が、緊張と不安と焦燥と疑心暗鬼に満ちた試験会場に待機する事を躊躇わせ、フラフラと屋上まで上がってきたという次第である。 「――――ん?」 ぐるりと顔を巡らせて気が付けば、海を見晴るかす方向に、一人の女の子がこちらに背を向けて立っているのが見えた。この学校の制服ではないという事は、姫条と同じ受験生だろう。 吹きつけてくる風が冷たいだろうに、海の方を向いたまま、彼女はじっと動かない。どことなくただならぬ様子に首を傾げて、姫条は近づいてフレンドリーに声をかけた。 「なぁ、何しとるん?」 「キャッ!?」 すると相手は大層驚いた様子で、文字通り飛び上がりながら振り向いた。何事かと言わんばかりに後退り、フェンスにガチャンと張り付く。その勢いに姫条もつられてのけぞった。 「え、あ、ああああのっなななななにっっ!?」 「おっとと、スマンスマン!おどかすつもりなかったんやけど」 姫条が慌てて謝ると、謝られた方はこれまた慌てて手を振った。 「あ、ご、ごめんなさい!私、ボーッとしてて気がつかなくて!」 「イヤイヤ、いきなり出てきたオレが悪いねん。堪忍な」 姫条が軽く頭を下げると、ぶんぶんと首を横に振って彼女は応える。 お互いしばしその応酬を繰り返し、それが終わってからやっと彼女は不思議そうに姫条を見た。 「えっと……受験生、だよね?」 同い年にしては大きい人だなぁ、というのがありありと顔に書いてあって、姫条は思わず吹き出しそうになった。 「ああ。そう言う自分も、やろ?こないな所で何しとったん?もうすぐ面接始まるやろ」 「う、うん……」 彼女は押し黙って、その細い手をギュッと握り締めた。見れば心なしかその手が震えている。 「その……お昼食べて、あとは面接だけだって思ったら、その、ね……」 「……なるほど、緊張してきた、と」 「…………うん」 コクン、と頷いて彼女はバツが悪そうに口を開いた。 「私って肝心な時におっちょこちょい、らしいのね。だから、部屋に入る時に失礼なことしちゃったりしないかな、とか、面接官の質問にちゃんと答えられるかな、とか、そんなことばっかり考えちゃって。そしたら心臓がドキドキしちゃって、震えが止まらなくなっちゃって。それで、深呼吸でもすれば、少しは大丈夫かなって思って……」 「ああ、それで」 「でも、やっぱり止まらなくって。それで、声かけられるまで固まっちゃってたの」 見るからにガチガチの表情で、未だにそれが少しもほどけていないのが判る。耳に心地良い声も安定性を欠いていた。 教室にいる他の生徒達も緊張していたが、ここまであからさまに震えている人間はいなかった。その様子が気の毒になるくらい気になって、しかしだからこそ逆に、気軽な口調で姫条は話しかけた。 「そかそか〜。オレはどっちかっちゅうと面接より筆記の方が固まるけどなぁ。面接てなんや響きは固っ苦しいけど、要は言葉のキャッチボールやん」 姫条がそう言うと、彼女はきょとんとした目で彼を見上げた。 「言葉の……キャッチボール?」 「せや。そら話題と時間は限定されとるけど、絶対と違うやん。向こうがオレのこと知りたくて質問してくる、オレはそれに答える、その答えの中に何か響き合うモンがあったら向こうは更に訊ねて来て、そんでもってオレがまたそれに答える。ホラ、キャッチボールやん。知り合うたばっかのヤツと話すのと何ら変わりあらへん。相手が自分よりトシ食っとるだけや」 続けてそう言うと、やはりきょとんとした顔で彼女は首を捻った。 「そう……なの、かな……?」 「せやせや。会話によるコミュニケーション、とどのつまりはお喋りや。お喋りで試験が一つ片付くんやから楽なモンやで、ホンマに」 実際はそんな物ではないが、あえて深刻さを見せずにカラカラ笑いながら言うと、彼女は更に首を捻る。 「…………うん……言われてみれば、そういう考え方もできる、かも……」 考え込むように俯いた彼女の顔を、姫条は身を屈めて覗きこむ。一瞬彼女が退きそうになったが、すかさずニッコリ笑いかけた。 「な、自分お喋りすんの、好き?」 「――――え?」 「友だちとか家族とかおるやろ?そーゆー連中と話したりお喋りしたりすんの、好きか?」 姫条の言葉に大きな瞬きを何度か返してから、彼女はしっかりと頷いた。 「うん、大好き!」 「なら、平気や」 そしてその大きな手を彼女の頭に乗せて軽くポンポンと叩く。 「え?」 「人と話すことが好きやったら、面接なんて単なる茶飲み話や。まぁ茶は出ェへんけど、そん時はそん時で『受験料出しとるんやから茶の一つぐらい出せっちゅーねん、ケチくさいやっちゃなぁ』とでも思いながら笑っとき。そうすれば、まだまだ話したいこと話切れん内に終わっとるで、『お喋り』」 ニッコリとした笑みは崩さないまま、姫条は諭すように話す。 やがて彼女の手の震えが収まっていくのが端目にも判った。表情に張り付いていた固さも徐々に溶けてきて、小さく脱力の吐息が聞こえた。 「……そっかぁ……そんなで、いいんだ」 「せやせや、それでエエねん!」 「そっかぁ。――――――あ」 「ン?何や?」 大分落ち着いた様子の彼女だったが、何かに気がついたように姫条を上目遣いで見上げてきた。 「その……受験生ってことは、いわば私たちってライバル、だよね?なのに敵を励ますようなことしちゃっていいのかなぁ、って」 それを聞いて、姫条は大げさに反論のジェスチャーを示す。 「何言うとんねん!相手が男やったらそら蹴落とす勢いで見放すけど、こないにカワイイ女のコ捨て置いたらオレのポリシーに反するわ!」 「ポリシーって……て、か、かわいいって、だ、だ、誰が!?」 さっきまで青ざめ気味だった彼女の顔が、一気に真っ赤になった。その変わりようの素早さに姫条は声を上げて笑った。 「アッハハハハ、自分に決まっとるやろ?ホレ〜、頬っぺた真っ赤になってカワイイカワイイ♪」 「ちょっ、ちょっと、せっかくやっと落ち着いてきたのにーっ!」 キーンコーン、カーンコーン。 ふざけていると、本鈴五分前を示すチャイムが聞こえてきた。 「いけない、私三番目なんだ!急がなきゃ」 「せやな、風で吹かれた髪も整えなアカンし、早う行った行った」 「うん、それじゃ!――――あっと、いけない!」 パタパタと慌しく屋内に駆け込もうとして、何かに気がついたように、彼女はドアに手をかけたまま顔だけ振り返った。 「どないしたん?」 「あのね、どうもありがとう!」 疑問に返って来たのは予測範囲内の言葉と、それから。 「それから、四月にまた、この学校で会おうね!」 それから。 とびっきりの、笑顔。 ≪――――――ドキン≫ 一瞬その輝きに見惚れ、見惚れたと同時に。 心臓が、高く、跳ねた。 返事をする間もなく、彼女は軽やかな足音を立てて階段を下りて行き、一人残された姫条は自分の鼓動の大きさが信じられなくて、しばし呆然としていた。 「………………驚いたわ」 胸に手を当ててみれば、刻まれる律動は強さこそいつも通りだが、わずかに早い。 「なんやホンマにカワイイやん…………ってしもた、名前聞き忘れとった!」 姫条まどかとあろうものが、珍しいポカをした。 けれど。 『四月にまた、この学校で会おうね!』 それは見ず知らずの彼女から渡された、彼への励ましの言葉に違いなくて。 そして彼女の笑顔と相まって、姫条の心にふわりと暖かい気持ちを生み出していた。 「……せやな」 胸によぎる嬉しさの予感。それはきっと、四月にまた彼女に会える事を、心のどこかで知っているから。 「ウン、名前を知るんはそれからでも遅ないわ。入学前に楽しみが一つ増えましたっちゅうことで、幸先エエやんな。――――フワァ〜〜」 広がった澄んだ青空を吸い込むようにもう一度大きく欠伸をして、姫条はフッと笑う。そして冷たい風に背を向けて、彼女と同じように校内へと入って行った。 胸の奥で目覚めた心悸の源には、未だ気付かないフリをして。 |