身長差 |
春は、心踊る季節。 風に乗って花の妖精たちが、くるくると輪舞を繰り広げる季節。 日に日に暖かくなっていく日差しの中で、その羽根のきらめきが優しく弾けて音を作る季節。 けれど。 春は、憂鬱な季節でもある。 「……そんな」 私は返却されたシートを見て我が目を疑った。 そんな事って、こんな事って。 いつもいつもいつもいつもこの瞬間だけはどうしても動揺を隠せない。 そこに書かれた数値が突きつけて来る現実に、一体何度落胆させられたのか。 宗教は信じていないけれど、でも神様。 ここまで私を失望させて楽しいのですか。 「……どうしたの?志穂」 シートを握り潰さんばかりにブルブルと震える私を不審に思ったのか、東雲さんが見上げて訊いて来た。 「なっ、何でもないわ。ええ、そう、何でもないのよ。気にしないで」 慌てて平静を装おうとしたけれど、彼女は首を傾げて不思議そうにする。 「けど、脈拍数も呼吸も、興奮状態にあるみたいだし……もしかして、具合、悪い?」 「そういう訳じゃ……」 相変わらず触れてもいないのに脈拍数なんてよく判るわね……と思ったけれど、心配してくれているのは確かだから、私は正直に告白する事にした。 「その……また、憂鬱な結果が出てしまったから……」 「憂鬱な結果?」 「…………――が……」 「え?」 彼女にすら判らない程声が小さくなる事に我ながら虚しさを感じながら、私はもう一度、今度は聞こえるように言った。 「……身長が……また、伸びてたの……」 今日は大学の健康診断。一通り身体測定や簡単な問診が終わったので、私と東雲さんは学生食堂の一席でお茶を飲んでいた。 東雲さんとは学部は違うけれど、同じ文系である事や何より高校時代からの友人という事で、大学での行動も一緒の時が多い。そのせいか、言い出し難い事も割と言えてしまう。 「去年の夏に計ってから、また4ミリも伸びていたの。もうこれ以上伸びたくないのに……」 深い嘆息を落として、私は頭を押さえた。 169cmという女の子らしからぬ長身は、私のコンプレックスの一つだ。 勿論、モデルや運動選手などに比べたら低いのだろうけど、そんな華やかな世界に興味も縁もない人間にとっては、正直言って不要な高さ。 中学時代まではそれほど気にならなかったけれど、『彼』に出逢ってからは、本当に悩みの種になっていた。 「4ミリ?」 「ええ。この調子じゃ170も遠くないわ……もういや」 「……けど……」 「何?」 「志穂の身長、標準誤差は±2.26ミリだから、実質は1.74ミリ程度だと思う、伸びたの」 例によって淡々とした口調で言われて、私はその内容に首を傾げ眉を寄せた。 「……どうして私の身長の標準誤差なんて判るの」 「いつも、見てるし」 「普通判らないわよ……」 ああでもそれが判るのが東雲さんだったっけ、と思い直す。 一応、慰めてくれてるつもり、なんでしょうけど……彼女の言動ってやっぱり時々解らないわね、まだ。 「どちらにしても、伸びてる事には変わらないわね」 「……そんなに身長伸びるの、嫌なの?」 「私はね。ない物ねだりだけど、これだけあると、東雲さんや珠美くらいの身長だったら良かったのにって思うわ」 「私はもう少し、伸びたかったけど」 「そう?」 ああ、でもそうね。東雲さんの身長だと少し小さくて、黒板を見たりする時に不便かも知れない。 と思ったら。 「キスする時、大変だし」 「――!!」 彼女がそう言った瞬間、周囲から息を飲む音や口に含んでいた物を吹き出す音が聞こえた。 更に。 「横になれば、あんまり関係ないけど」 今度はここかしこから拳をガンッと机に叩きつけて、何かを抑えるような音が耳に届いた。 私は思わずカチャ、と眼鏡を直す。 「…………しののめさん……」 「何?」 「そういう事は、あまり公共の場所で発言するのはどうかと思うわ、私は」 如何せん私はこの手の話題には疎い。熱くなってくる顔の赤味を自覚しながら、けれどハッキリ忠告した。 入学して間がないものの、彼女に対する学生達の関心度は高い。こうして話していると、必ずと言っていいほど聞き耳を立てている人がいる。 そんな状況でこういう発言は、本人の品性とか、そういったものに影響すると思うのよ、ええ。 ……それにしても、卒業式からそんなに経っている訳ではないのに、こういう発言がすんなり出てくるってどういう事かしら。奈津実なら間違いなく口に出してツッコんでるわね。 「……そう?――――あ」 訳が解ってなさそうに首を傾げた彼女だったけれど、次の瞬間その可愛らしく整った顔に笑顔が浮かんだ。 「ああ、葉月くんも測定終わったのね」 彼女がこんな表情をするのはたった一人しか居ない。私は振り向きながら彼女の恋人がこちらに向かって来るのを認める。 隣には、桜弥くんも一緒だった。蒼樹くんは見当たらないから、多分同じきら高出身の子と一緒なんだろう。 「悪い、待たせたか?」 やってくるなり開口一番、東雲さんに謝った葉月くんに、東雲さんが微笑いながら首を振った。 「ううん。お話してたし。それじゃ志穂、またあとで」 今日は穏やかな晴天だから、二人は日向でお弁当+お昼寝といったところ。高校時代からこの習慣はまったく変わってない。 「ええ。今日は二人とも午後の講義がないみたいだけど、寝過ごさないように気をつけてね。まだ夕方は風が寒いから」 「うん」 「じゃあ。行くぞ、杉菜」 当たり前のように手を取り合って、東雲さんと葉月くんは食堂を出て行った。目の保養とばかりに周囲が注目していたけれど、当人達はまったく気にしていない。相変わらずマイペースな事だ。 「東雲さん、ずいぶん表情が豊かになりましたよね」 二人を見送っていた桜弥くんが笑いながら言った。 「ええ、それに葉月くんも。中学時代の彼が嘘みたい」 「本当ですね。――あ、僕たちも今日は外で食事しませんか?良いお天気だから、中にいるのはもったいないですよ。植物たちも綺麗に芽吹いて来ましたし」 「そうね……。ええ、そうしましょう」 構内にはたくさんの樹や草花が植わっていて、散歩をするとちょっとした公園気分。日当たりのいい場所に設けられたベンチに座って、私達はお昼ご飯を食べる事にした。 眩しいけれど優しい光の中、新緑の世界を眺めながら、桜弥くんとこうしている時間は至福の時間。 けれど、それでも私はさっきの測定結果が気になって、ふとした拍子に溜息を零してしまう。 そんな私を不審に思ったのか、あらかた食べ終えてから、桜弥くんが困ったように訊ねてきた。 「……志穂さん?どうかしましたか?」 「え?」 「その、……何だか少し落ち込んでいるみたいなので」 内心の憂鬱を指摘されて、私は思わず彼の顔を見返した。 私ったら、せっかく桜弥くんと一緒にいるのに、溜息だけじゃなくそんな暗い顔をしてたなんて。 「ええと、その……」 「あっ!僕の思い違いだったらいいんですけど!間違ってたらすみません」 「そ、そんな、謝るような事じゃないから!ただ、その、ちょっと……」 本当は言いたくなかったけれど、桜弥くんに心配をかける方がつらい。 私はボソボソと憂鬱の原因を告白した。 「身長……ですか」 「え、ええ……」 4cm。 双葉の子葉が開いた程度の、たったそれだけの長さ。差。 けれど、たったそれだけの事実が、いつも私の中で燻っている。 勿論、身長で人柄を量れる訳はない。ただ、私が気になってしまうだけ。 男の方が高ければ何の問題もなかったかも知れない。けれど現実は逆。 桜弥くんを責めるつもりはまったくない。伸びてしまったのは私の方だから。 たった4cmの身長差。 いつも私を苛み続ける、紛れもない現実。 恥ずかしい事じゃないというけれど、でも私にとっては嫌な事なの。 東雲さんや珠美の身長が羨ましいと思うのは、それくらいだと丁度桜弥くんと釣り合うから。 だから、余計に悔しい。悔しがる事じゃないって解っていても、それでも悔しい。哀しい。 大きな溜息を吐いて俯くと、桜弥くんが何か考えるように空を仰いでから、おずおずと私の顔を覗きこんできた。 「あの、志穂さん」 声をかけられ、桜弥くんの顔を見返すと、そこには何だか嬉しそうな笑顔の彼がいた。 「何?桜弥くん」 「今日の測定なんですが……実は僕、1センチ伸びてたんですよ」 「え」 私が目を瞬かせると、桜弥くんはコクンと頷いてからもう一度同じ事を言った。 「もう伸びないかなって思ってたんですけど、伸びてたんです。だから」 そこまで言って、どこか悪戯めいた微笑みを湛えた。 「だから……もしかしたら、数年後には志穂さんを追い越せるかも知れませんよ?」 再び私の目が瞬く。 「追い越す……」 「ええ。二十歳前後まではまだ成長する可能性はありますよね。それはまあ、葉月くんみたいには伸びないでしょうけど、あなたを追い越すくらいには、伸びるかも知れません。――――そういう日が来るかもって思ったら、少しは楽しくなりませんか?」 もう一度、嬉しそうに、楽しそうに、桜弥くんが笑う。 「それに僕は、志穂さんが言う程に身長は気になりませんよ。近い目線で話せるのって、僕はとても好きですし。それに何より、志穂さんのその凛とした姿が好きになった一番最初、なんですから」 「さ、桜弥くん!」 私は熱くなる自分の顔を自覚して、思わず手で頬を覆った。 本当に、殺し文句。 妖精が降り注いでくれる春の日差しそのもののように、柔らかく暖かく彼が紡ぐ言葉は、いつもこうやって私を乱す。 乱すけれど、それはとても心地良くて、嬉しくて、愛しいもの。 そしてそこから思い描かれる可能性も、また。 「……そうね。楽しみ、かも」 「でしょう?」 そうなるかどうかは判らないけれど、もし実現すれば幸せだな、と思える未来。 いつか同じか、ほんの少し私の身長を追い越したあなたと、こうやって並んでいる事。 楽しみかも、知れない。ううん、楽しみのかたち、そのものかも知れない。 「頑張って、追いつきますからね」 「ええ。頑張って、追い越してね」 陽だまりの中で、花がほころぶ。 魔法にかかったように、私の中にあった鬱屈したものは消えてしまって、私は測定からこっち初めて素直に笑えた。 本当に魔法にかかっているのだと思うけれど。 「――――あ、でも……あまり身長差が開くと、それはそれで問題ですね……」 ふと、桜弥くんが思いついたように首を傾げた。 「え?どうして……」 と言いかけて、私はハッと気が付いた。 何となくこの次に来るセリフが予想できて、そしてその予想は――――当たった。 「その、ほら、……キスする時、大変ですし」 「…………さくやくん……」 ほんのり赤らんだ頬で照れたように微笑う彼に、私は完全に撃沈されてしまった。今やすっかり真っ赤になった顔を隠して、私はさっきとは違った意味で俯いた。 やっぱりそうなのよ、東雲さんも、葉月くんも。 本人の品性の問題もさる事ながら、周りに対する影響を少しは考慮して欲しいのよ。 そうでないと。 とてもじゃないけど、私の心臓、もたないもの。 |