声 |
その音に包まれるのが好き。 その響きを感じるのが好き。 体中で、存在全てで、あなたの声を受け止めるのが好き。 好きで。 好き、過ぎて。 「……ん、起きたのか?」 目を覚ますと、ごく近い場所で小さく空気が震えた。その源を視線で追えば、カーテンから淡く洩れる光に映し出されて見慣れた輪郭が目の前にあった。 すると自分でも、自身の頬が形を変えるのがわかる。 「うん。おはよう、珪」 「ああ。おはよう、杉菜」 いつもの時間の、いつもの遣り取り。甘く掠れた声が、微笑みと一緒に伝わってくる、一日の中で一番好きな習慣。 「起きてたの?」 「そうだな……十分くらい前、かな」 響く声は確かにまだどこかまどろみを纏っていて、昼間より遥かに艶っぽい。 腕枕にしたのとは逆の方の手で、珪は私の頬をそっと撫でる。その拍子にかかっていた髪が揺れて、さらりと音を立てながら彼の腕に降り落ちる。 「起き上がってて、良かったのに」 私の頭を支えて、腕も痺れてるはず。だから私が起きてなくても、頭をどけてくれてて良かったのだけれど。 けど、珪はそのまま頬を撫でる手を止めなくて。 「おまえの顔、見てた」 「私の……?」 「ああ。俺、好きなんだ。おまえが目覚める瞬間と、目覚めて……笑ってくれるの、見るのが」 そう言ってふんわりと微笑うから。 私は静かに彼の胸に体を寄せた。柔らかいシーツの感触が素肌に触れて、気持ちいい。優しく抱き寄せてくれる腕から伝わる熱もまた気持ち良くて、私はもう一度瞼を閉じる。 「ん……どうした?」 「……思い出したの」 「思い出す?」 「初めて会った時のこと」 「……ああ、あの時」 「あの時も、こんなふうだった。でしょう?」 「そういえば……そう、だな」 お母さんに連れられて、何度か訪れたことのある学校。その敷地の傍にあった森の空気がとても気持ち良くて、陽だまりを見つけてお昼寝をしてた。 時間になるまで起きられなくても、外の音は判る。だから軽い足音が聞こえてきて、私の近くで立ち止まったのも判った。 驚いたような、小さな声も。 その後もずっと、私が目覚めるまでその声の持ち主はそこにいて。目覚めた時に飛び込んで来たのは、弾けるような笑顔と嬉しそうな声。 『よかったぁ!なかなか起きないから、心配したんだぞ、俺』 全く見知らぬ他人だったのに、見守るように傍にいてくれて、私が目を覚ますと真っ先に笑ってくれた。 どうしてか、その声はとても耳と、それから心に気持ち良くて。それに気付いたのはずいぶん後になってからだけど。 けど、何度も会う内に、その声は乾いていた私の心に入り込んで、知らない内に潤いを与えてくれていた。 私を変えた、大切な瞬間。大切な、記憶。 大好きな、声。 「……不思議」 「え?」 「小さい頃の珪と、今の珪じゃ、声、違うのに。なのに、昔も今も、珪の声を聴いてるの、好き。好きで、たまらないの。安心して、心地よくて、嬉しくて――――」 そして、かき乱されてしまう。 包まれて、覆われて、飲み込まれて。 それがなくなったら死んでしまうくらいに、あなたの声に捕われてる。 ね、私がいつも不安と焦燥に駆られている事を、知ってる? 以前話した時よりも、もっとずっとあなたに執着してる自分がいるの。 でもそれは、何よりもあなたが愛しいから。 自分でも怖いくらいに、あなたに愛されたい私がいるから。 「杉菜……」 「――――呼んで」 よばないで。 「話して」 はなさないで。 「珪の声で」 あなたのそのこえで。 「珪の声、たくさん聴きたい」 あなたのこえ、すこしもきかせたくない。 心の中で呟く本音を隠して、私は言葉を紡ぐ。閉じた瞼のすぐ前にある、あなたという存在の中心に向けて。 「……おまえも」 頭上でかすかな吐息が生まれた気配がして、同時に背中に回された腕に力が入った。 「え?」 「俺も、呼んで欲しい。話して欲しい。杉菜の声で、俺を呼んで欲しい。いつだって」 目を開く。その声に満ちた想いに揺り起こされたように。 「珪……」 「俺も、好きだから。杉菜の声、好きでたまらないから。だから……」 「だから……?」 「……その声、俺以外には渡すな」 「け――――――」 驚いて見上げた瞬間に、言葉の続きは奪われて。あとはもう、お互いの体が立てる声だけが満ちて行く。 ねえ。 呼ばないで。 放さないで。 私以外に、あなたのその声を渡したりしないで。 この混じり合う意味を成さない声の一つすらも、零さないで、私だけに注いで。 その声のためなら、私の体も心も何もかも、全部あなたにあげるから。 同じ律動を刻む、不協和音の交声曲。 その旋律の中で、私は恋慕と狂気の渦巻く夢を見る。 |