真っ赤 |
自分は、もしかして呼ばれたのだろうか。 放課後、学内に設けられたアトリエに篭って数時間が経っていた。 さすがに疲れて少し休憩を摂ろうとした三原は、何とは無しに屋上への階段を登った。理由なんて判らない。けれど何故かその時は、そこに行かなければいけない気がしたのだ。 不可思議な衝動に駆られるまま、いつものようにゆっくりと扉を開けて。 その瞬間に押し寄せてきた世界に、彼は息を飲んで立ち竦んだ。 「……これは……すごいね」 傾いた太陽が照らす世界は、この一時だけ鮮烈な赤に染められていた。端の方まで歩いて手すり越しに見える風景その全てが、同じ色の中に閉じ込められていた。 夕暮れこそは一日の中で最も華麗なショーだ、と言ったのは誰だったか。 少なくともその言葉は今この瞬間なら頷ける。 自分にとっては夜明けの光景こそが至上の時間だと思っているが、無論夕暮れ時の光景も美の具現、ミューズの恩恵だと感じている。 光景、という文字が示す通り、光の遊戯が生み出す、刹那的な景色。その一瞬をキャンバスという永遠に繋ぎ止める事が、自分に課せられた尊い使命だと自覚している。 けれど。 けれど、今日の光景は。 「参ったな……。これは少し……そう、痛いよ」 空も、海も、建物も、植物も、人も。全てが、赤い。 ほんの十数分程度の光景なのだろう。 なのに、感受性を抉られるような強い赤に染められて、まるで。 「……まるで、ミューズがその死と引き換えに世界をその血で染めてしまったようじゃないか……」 ありきたりな発想だとは思う。赤い色から血を苦笑するなんて。 だが、本能に根ざしたその感覚と発想を喚起されないのがおかしいほどのこの一瞬では、そのありきたりすらも当たり前に思えて、彼はわずかに自嘲した。 もう少しすればこの色は姿を変えて、やがて紺青の天蓋が世界を覆い隠してしまうだろう。 それ故に人は夕暮れを寂しいという。生命たちの艶やかな灯火が闇に閉ざされる事に対して。 ――――ああ、だからボクは……人は夜明けの輝きの方が、より好きなんだ。 彼にとってミューズとは光だ。 その光は夜でも息づいてはいるけれど、より輝かしいのは太陽という名で呼ばわれる刻。 夜明けは彼の女神が生まれる時間。夕暮れはその滅びの時間。 散り際の美しさも悪くはないが、それでも自分は生まれて来るその奇跡をより愛している。 夕暮れに寂寥感を感じる事は己には少ない。いつだってミューズの腕に抱かれていて、感じる必要性もない。 ただ、こんな風に時折。その腕から流れる、哀しく痛ましい生命の儚さが、思い出したように訪れるから。 そのたびに、世界に満ちる喜びの裏側にあるものを、強く心に刻み付けてくるから。 だから、忘れてはいけないと思う。 自分が何の為に生まれ、自分が何の為に生きているのか。 今、こうして此処にいる意味を。 「やれやれ……。ボクともあろう者が、珍しくセンティメンタルな気分になってしまったね」 苦笑しながら軽く首を振る。 大丈夫だよミューズ。ボクは忘れていない。 キミの微笑みを知らない人たちに、それを知らせる使者であること。 いつだって忘れていないから、どうか安心して。 安心して、今日も夜の帳の中で、静かに、秘めやかに眠っておくれ。 そして明日また、その美しい姿と歌声を世界中に響かせておくれ。 「……そしてどうか、こんなに寂しい色で泣かないで――――」 カタン。 空を見上げてそう呟いた時、背後で物音がした。 「ふぅ〜……。今日はこれくらいにしておこうかな」 近くも遠くもないその音にふと視線を巡らせると、今度は疲れたような声が聞こえてきて、その音と声の生まれた場所が判った。 そこにいたのは一人の女生徒。三原に向かって背を向けているが、その代わり彼女の前に置かれたイーゼルは目に入った。 青春を謳歌する事を良とするはばたき学園では、当該部活動に所属する者以外にもそれらに親しむ環境が整っている。この屋上から見下ろす校庭でも、運動部でなくともトラックを走っている者や、隅で何やら楽器を奏でている者がちらほらいる。屋上自体、風景画を描こうとする生徒がよくイーゼルと一緒に居たりするから、彼女もそんな生徒の一人なのだろう。 しかし三原はそんな事よりも、彼女が描いているキャンバスに心奪われていた。 そこにあったのは夕暮れの風景。この、胸を締め付ける寂しさと――哀しさを告げる瞬間。 そのはずなのに――そのキャンバスの中には、それとは違う世界が存在していた。 切り取られたキャンバスの中に広がる壮大な世界の面影に導かれるように、三原は思わず彼女に近づいて行く。 「いいね……なかなかいい色使いだ」 「――え?」 急に声をかけられて、驚いて振り向いた顔はどこか見覚えがある。見覚えはあるけれど、特別に認識してはいない顔だ。 三原は自ら『芸術』と呼ぶ美しい顔に微笑みを湛えて、彼女に話し掛けた。 「キミのこの絵さ。とても優しい色使いだと思ったんだ。……それに不思議だね、何だかちっとも寂しい気がしない」 「そ、そう?」 「ウン。夕暮れを描いているのに……何故だろう、どこか晴れやかに見えるんだ」 技術的には拙い。何を描いているのかは見てそうと判るものの、まるっきり素人レベルだ。 けれど光景が違う。 色という光を、気負いなくひょい、と手繰り寄せるように定着させているその光景が、美しい、と思った。 淡いのに、儚さがない。 赤い世界の中に在ってなお、暁の清麗さをうかがわせる優しげな世界。 滅びの中に在っても、それでも次に生まれる輝きの予兆を強く愛おしむような色彩。 まさに今、自分がこの赤い刹那に抱いた希望のような。 「そ、そうかな。あ、でも私、夕暮れって寂しいって思わないから、そのせいかも知れない」 照れたように笑って答える彼女に、三原は首を傾げる。 「寂しいって……思わない?」 「うん。なんていうのかな、夕暮れ時の光って、『今日はこれでお別れだけど、明日また会えるから元気出してねー!』って感じがしない?」 軽く瞬きをして、三原は彼女をもう一度見つめる。 「それにね、今日みたいな真っ赤な夕焼けの時なんか、太陽が『私ってこんなに綺麗でしょー?』ってふんぞり返ってるみたいで楽しくなるっていうか!」 「………………」 セリフの通りに、それはもう本当に楽しそうに言うものだから。 三原は一瞬面食らって、そして次に、何かを考えるように押し黙った。 「……って、私何言ってるのかな!ごめんなさい、くだらないこと言っちゃって!」 三原の沈黙を誤解したのか、彼女が慌てて頭を下げる。三原がそれに気付いて首を横に振った。 「どうして?くだらないなんて思わないよ?」 「いえでも、私ってしょっちゅうこういうこと言っては友達に呆れられちゃってるから!」 「呆れるようなことじゃないさ。……むしろステキだよ」 「え」 三原はトレードマークの長い髪を優雅に翻してから、彼女にそっと微笑んだ。 「キミの感性、ボクとは違うものだけど……でも、とてもステキだと思えるよ。いいね、悪くない。ウン、悪くないよ!」 感性が語りかけてくる発想の転換。自分にはない、違う世界観。 寂寥をも芸術に昇華させてしまう自分ですら、一瞬厭わしく疎ましく感じたほどの赤光の紗幕。 痛みを伴うほどに強く迫ってきたその畏怖を、彼女は楽しそうな笑顔で一蹴してしまった。その明るさ、強さ。 (……本当にステキだと思うよ。本当に、ね) どこか懐かしくもあり、優しくもあり、心地いいそれ。 その存在を知り得た事を、彼は己の女神に感謝した。 褒められた彼女はと言えば、照れくさいような嬉しいような表情で三原を見上げている。 「そ、そう……?あ、ありがとう、ございます……」 「どういたしまして!――――ああ、そうだ。キミの名前は?」 「え、名前?えっと……」 もしかして。 自分は、もしかして呼ばれたのだろうか。 彼女に出会うため、彼女の感性に出会うために。 自分と同じように、ミューズの使者としての資格を持つ者に出会えるように。 (……それもあるかも知れないね。ミューズは気まぐれで、そして時に悪戯だから) 心の中で嘯いて、三原はふっと笑った。 気が付けば、赤く染まっていた世界はいつの間にかどこかへ隠れていて。 今はもう、優しい灯火色の世界が彼を包んでいた。 明日の夜明けを思わせる、清らかな光と共に。 |