安心する香り |
「…………ん?」 ドアを開けた瞬間、かすかな違和感を感じて。 けどすぐにその違和感が感じられなくなって、あたしは首を傾げた。 「……気のせいか」 ポツリと呟いてそのまま扉を閉めると、家の奥から軽い足音が聞こえて来た。 「洋子さん、いらっしゃい」 「あ、杉菜ちゃん!こんにちは、お邪魔するわねー」 出て来たのはこの家の暫定主ではなく、その恋人の東雲杉菜ちゃんだった。 靴をスリッパに履き換えてパタパタと廊下を歩きながらあたしは彼女に話しかける。 「今日も来てくれてたのねー」 「はい。頂き物のおすそ分けに。電話をしたら来客の予定があるって言っていたので、遠慮しようかと思ったんですけど、洋子さんだから大丈夫だって」 「もっちろん!杉菜ちゃんだったらいつでも大歓迎よ。って、あたしの家じゃないけども。……ところで、珪は?」 「珪なら――」 そこまで言ったところでリビングに到着、ソファーの上で寝転がってる従弟を見て、杉菜ちゃんが出迎えてくれた理由が判った。 「……あたしが来るって判っててなんで寝てるかな〜、この子は」 しかもこんな真昼間、初夏の太陽が眩しいってこの時間に。 「昨日、遅くまでお仕事だったみたいで。お昼食べたら、そのまま」 「なるほど」 まぁ、高校時代の二の轍を踏まないでくれるなら、昼寝くらいは構わないけど……それでもねぇ。カーテンもろくに閉めてないくせに、よくもまあこれだけスヤスヤと眠れるもんだわ。 ほんのり溜息を零したところで、杉菜ちゃんが気が付いたように声をかけてきた。 「どうぞ、座っていてください。お茶、淹れて来ますね」 「え?ああ、いいのいいの、気を遣わなくっても。大体杉菜ちゃんだってお客さんなんだからそんなことする必要ないわよ」 「でも……」 困ったように首を傾げる仕種がすっごく可愛くて、あたしは思わず頬が弛む。ホンット可愛いなあこの子って。 「ホスト役が寝てるんだし、セルフサービスでいいじゃない。今更『お客さん』ってほどの身分でもないしね」 あたしがそう言ってさっさとキッチンに向かうと、杉菜ちゃんは頷いてその後を付いて来る。 「悪いわね、いつも珪の世話任せちゃってて」 お茶を淹れてリビングに戻り、杉菜ちゃんが持ってきたお茶菓子を食べながら、あたしは言った。 「いえ、したくてしてる事だから」 「そう?まぁね、正直言ってすっごく助かってる。ありがとね」 一応後見人になっているとはいえ、仕事があるからそうそう様子を見に来られない。綺麗好きであまり物に執着しない子だから、家の中が惨憺たる腐海の森になっているってことはないけれど、何より面倒が嫌いだから食生活その他、色々と不安な点はある。 でも、この杉菜ちゃんと知り合ってからは、彼女がそういった細々した事を気にかけてくれるおかげで、その点の不安は大分軽減されていると言っていい。最近では食事だけじゃなく、掃除や洗濯もしてくれてるらしい。 甘えちゃってるのはまずいなぁ、と思いつつも、その好意が本当にありがたかった。あたしにとっても、珪にとっても。 口調は軽く、でも心底そう思って言うと、 「……どう、いたしまして」 と、ほのかに微笑んで答える。くっは〜、可愛い!!彼女の笑顔はなかなか貴重なだけに、たまに見るともうメロメロになっちゃうのよねぇ。 はっ、いけないいけない、年上の威厳が崩壊してしまう。慌てて顔の筋肉を引き締めた。 「あ、でも無理しないでね?珪に構ってばっかりで自分の勉強が疎かになったら、それこそ珪の望むところじゃないだろうし」 優秀な彼女は一面すごい努力家でもあって、ドイツ語の翻訳家になるための勉強を毎日欠かさず継続してる。あたしから言わせればもう充分だろうって気もするけど、本人にとってはまだまだ未熟、だそうな。 「平気です。無理とか、そういう事してるつもりはないから。家事は……そう、楽しい事の一つだから、苦にはならないんです。…………それに好きだから、この家」 「好き?この家が?」 「はい。珪の香りが、するから」 「珪の……香り……?」 「はい。包まれてるみたいで、とても落ち着くから。だから、好きで。勿論、珪がいるからだけど」 少しの間、3つの呼吸の音だけが空間を満たす。 軽やかなそれ、普段は意識しないそれ、深く深く紡がれているそれ。 「今日も、おすそ分けは口実で……ただ、珪に会いたかっただけ、だから」 そう言って、杉菜ちゃんは眠ったままの珪に視線を移す。窓際のソファで眠る、彼女だけの王子様に。 横顔に浮かんでいるのは紛れもなく愛しい者を見つめる優しい色。穏やかな微笑。 初めて会った頃、彼女の笑顔を見た事がなかった。可愛くて可愛くて、でもその綺麗な顔に微笑みの欠片すら浮かばない事がひどく残念だった。珪は表情が出ないだけだと言っていたけれど、それにしたって哀しかった。 でも、今は違う。 ほぼ珪限定だけど、確かにその面には笑顔があって。それは本当に穏やかな安寧の色に満ちている。 そして珪も。 「香り……かぁ」 ふわり、と開けた窓から入り込む涼やかな風が、寝ている珪の髪を、そして杉菜ちゃんの髪をサラリと揺らす。 (……なるほど。そういうこと、かな) そういうことね、さっきの『あれ』は。 あたしは一人納得して、カップに入ったお茶を飲み切った。そして立ち上がると、空のカップを持ってキッチンへ向かう。 「洋子さん?」 突然のあたしの行動を不可解に思った杉菜ちゃんが、どうしたのかと訊いて来た。 「あたし、そろそろ帰るわね。洗ってくから、気にしないで」 「え?けど、来たばかりなのに……」 「ん〜、でも珪が元気そうなのは判ったし、それに第一、バランス崩しちゃ悪いしね」 「……バランス?」 きょとんとする杉菜ちゃんを置いて、手早くカップを洗ってから、再びリビングに戻ったあたしは自分の荷物を肩にかけた。 「次は珪が起きてる時にでも来るわ。それじゃ、またねー!」 「あ、洋子さん」 珍しく呆気に取られたような杉菜ちゃんが呼びとめようとするのにも構わず、あたしはそのまま玄関へ向かい、葉月家を後にした。 途端にふりそそぐ、まだまだ勢力の強い日差しに目を細めて、あたしは軽く息を吐く。 「……自分では判らないもの、なのよねぇ」 家に入った時に感じた違和感は、匂い。 家や部屋って、住む人間の匂いや香りがいつの間にか移っているもの。あたしの部屋だってそうだし、珪が住むあの家だってそう。案外自分では判らないけれど、例えば長く家を空けて帰ってきた時、ふと扉を開けた瞬間に迎えてくれる住人の匂い。『家』の香り。そういったものが。 でもあの広い家は、長いこと珪一人の匂いしかなかった。シトラスミントが好きらしくて、その香りがわずかに漂うその空間は、決して不快なものではないけれど――――なんだかどこか、寂しくて。 何とかしてやりたいけれどしてやれない、そんな不安と焦燥に駆られてしまう、そんな珪の、彼だけの孤独な避難場所みたいで。それがやりきれなくて、哀しかった。 (…………でも) でもさっき。以前よりずっと深く安らかな寝息を立てて眠るあの子を見て解った。実感した。 珪にとって杉菜ちゃんは、本当に世界で一番安らげる人、安らげる場所なんだってこと。 彼女の存在が、あの家の空気を変えた。寂しさが払拭された、本当に安らげる場所になってた。 そして、一番無意識な感覚である嗅覚が、真っ先にその変化を察したのだ。 だからこその、違和感。 今はもう、あの家に満ちる香りは珪だけが作り上げているものじゃない。 珪と杉菜ちゃん、二人の存在が絶妙のブレンド率でもって作り上げたものだ。 「まったくやるわよね、珪ってば」 苦笑しつつあたしは空を見上げる。 「年下の従弟になんか負けてらんないわね。あたしもそんな相手、しっかりゲットしなきゃ!」 とりあえずこの前知り合ったあの人の所に電話でもしてみようかな、なんて思いながら、あたしはウ〜ンと体を伸ばした。 見上げているその先には、真っ青に透き通った空と、白く浮かぶ雲の群れ。どこからか甘い花の香りが届いて、胸の奥まで染みわたる。 その香りを携えて、あたしは海の見える坂道へと足を踏み出した。 |