レモン味 |
「いらっしゃいませ。……ってなんだ、零一か」 カラン、と控え目に聞こえたベルの音に、益田は条件反射で営業スマイルを浮かべたが、入って来た人物を認めてすぐにその表情を戻した。 「それが客への態度か?益田」 「今更お前に媚び売ったって一銭の得にもなりゃしないだろうが。――――いつものでいいか?」 「ああ、頼む」 つかつかとカウンターに歩み寄り、いつもの席に腰掛けて、氷室は大きく息を吐いた。 「こりゃまたずいぶんとお疲れのご様子で。なんかあったのか?」 「……今日は卒業式だったからな」 「あ〜、そうだったっけか。こんな仕事してると曜日感覚やら世間の流れやら、解らなくなるからなぁ」 「そう思うのなら――――」 「もっともこの店を畳むつもりは無いけどな。どっかの誰かさんが息をつける場所を確保してやるのも、友人の務めってヤツだし?」 相変わらずの食えない笑顔でさらりと言われ、氷室は開きかけた口を再び閉ざす。こんな応酬はいつもの事だが、相方のお固い顔に常と違った翳りがある事に、益田は気付いた。 「卒業式っていえば……あの生徒さんも卒業だったっけ?」 ピクッ。カウンターに置かれた氷室の手がかすかに揺れた。 「ホラ、去年の秋にお前が連れて来たあの可愛い子。俺のタイプじゃないけど、笑顔はなかなか魅力的だった、お前さん自慢の生徒さん。えーと、なんて言ったっけ……」 名前を口にしようとしたところで、氷室が顔を上げて益田を睨んだ。 「白々しい物言いは止めて、さっさと手を動かせ。必要以上に客を待たせるな」 「はいはい」 口を動かしつつ手の動きも止まっていない自分に対して向けられるセリフじゃないよなぁ、と思いながらも、益田は素直に返事をした。 そして氷室が入って来てから気になっていた事を口にした。 「……そんな顔で一人でここに来たって事は、振られたって事か」 ピクッ。再び氷室の手が動く。 「ま、しょーがないよな。全ての恋愛が上手くいってたら苦労もないって」 「……それ以前の問題だ」 「へ?」 「彼女には、互いに想い合う相手がいた。俺から見てもその相手は彼女を幸せにする事ができる人物だ。俺の入りこむ余地は無かった。第一…………俺は彼女にとってはどこまでも『教師』に過ぎなかった」 俯いて、目線を益田から逸らしながら自嘲気味に呟く。 最初はただの『生徒』でしかなかった。素直で努力家で、しかし時々放っておけない程にボンヤリしていて、けれどそれすらも美点にすり替えてしまう程真っ直ぐに人の顔を見て、とびきりの笑顔で笑う。 そんな彼女に惹かれていると気が付いたのはいつだったろう。 彼女の助けになりたいと願い、彼女の傍にいたいと願った。 その笑顔を、自分一人に向けて欲しいと願った。 けれど、その対象は自分ではなくて。 「望んだ事は多々あった。だが、彼女にとって重荷になるそれらを、どうして教師である俺が表に出せると言うんだ」 卒業式が終わった後、日頃から噂になっていた相手の男子生徒と連れ添う彼女を見た。 今まで一度も見た事のないような輝くような笑顔は、ただ一人その相手にだけ向けられていた。 あまりにも綺麗で、苦しくなるほどだった。 その様子を思い出して溜息を落とす氷室に、益田は苦笑を漏らす。 「……真面目だねえ、お前さんは。まあ、初恋は実らないっていうしな。あんまり気に病むなよ」 「…………初恋、だと?」 怪訝そうに復唱すると、益田は軽く肩を竦めて続けた。 「だろ?ここ半年のお前は俺が知ってる『氷室零一』じゃなかった。単なる恋する青年だ」 「そうではなく!何故お前が、これが俺の初恋だったと言い切れる!」 「だってお前、今までこんな壊れ方した事あったか?」 「壊れ方……」 「そうそう。『恋愛は脳内物質の悪戯だから、それが解っていれば振り回される事が無い』なんてほざいて、『恋愛』に行く途中でスパッと切れるようなレベルのものしか経験してないだろーが。今回みたいに相手の一挙手一投足にドギマギさせられて、しかもそれが止められない、なんて経験したの、初めてだろ?」 「……それは……」 確かにそうだ。 今まで経験した事の無かった己の心の挙動。それに戸惑い、迷い、悩み続けている内に、彼女の傍に在るタイミングを永遠に失った。 『教師』としてではなく、一人の『男』として。 珍しく益田の言葉を素直に受け止めたらしい氷室の表情を見て、益田は満足そうに頷きながら手に持ったマドラーの動きを止めた。 「な?だから、今回のあの子が、お前にとっての初恋だったって訳だ。――――ホレ、お待たせ」 そう言って益田が出したのは、氷室がいつも頼むジントニックではなかった。 「…………皮肉か?」 「別に。初恋の味と言ったらこれだろ?」 氷室の眼前に置かれたグラスに注がれているのは、レモネード。 去年の秋、社会見学と称して彼女を初めてドライブに誘った折、車が故障した事があった。渋滞でなかなか来ない修理業者に業を煮やし、近くにあったこの店に彼女と一緒に避難した。 その際頼んだのが、このレモネードだった。 初恋の思い出としては確かにその通りだが、それにしてもここでこれを出すその神経はどうか。 「どちらにしても皮肉にしか見えん」 「激励のつもりなんだがなぁ。初恋の思い出を自分の糧にして、また次の恋に挑んでけっていう」 「次の恋だと?……そんな事があるものか」 少なくとも、しばらくの間この胸に滞った熱が消えるとは思えなかった。 だが益田はその内心の声も解ったように、鼻先で軽く笑う。 「一途だねぇセンセイは。まぁこれでお前もやっと恋愛談義をする資格を得たって訳だな」 そう言って益田はいつの間にか作っていた自分の分のレモネードのグラスを、氷室のそれにカチン、と合わせた。 「ま、今日はとことん付き合ってやるさ」 益田のそのセリフに、氷室は眉間に皺を浮かべる。 「レモネードで、か?」 「ご冗談。こんなのは一杯こっきりで充分だ」 声に含まれる真摯さの欠片を感じ取って、式後初めて、氷室は唇に笑みを浮かべた。 「……同感だな」 そして氷室は自身もグラスを取って、再度もう一つのそれと音を合わせる。 人少なな平日の夜。室内を満たす琥珀色の光が、優しく揺らいではゆっくりと流れるオールド・ジャズの旋律と絡み合って、交わされるグラスの音に彩りを添えていた。 |