電車 |
人間がある行動を完璧に遂行出来る様になるには、試行の連続による馴化が必要である。 ある一つの目的を達成する幾つかの行動・経路が存在し、複数あるそれらの中から一ないし二を自発的に選択し、かつそれらに特化する事に専念した場合、絶え間ない馴化及び訓練によってその行動をより完全な物にする事は可能である。 さてここで、何らかの事情により個人にとって特化習得した行動が選択不可能になったとしよう。 運良く目的への経路は多数存在していたとしても、それがその個人にとって全くと言って良い程に馴染みの薄い選択肢のみが用意されているとするならば、そこには物理的・心理的にその行動に対する困惑というものが発現する。 結果、行動の遅滞が生じる。 特に注意すべきなのは、自身の特化事項外であるその行動に関連する技術の進歩やシステムの改変等が、極めて顕著であるケースだ。 コンピュータを媒体とした情報技術革新やオートメーションの推進といったものは、その速度に於いて目を見張るものがある。そのような状況下で馴染みのない行動様式を選択する場合、過去にそれを経験した事があってもそれは参考に成り得ない。常に最新のデータを照合しつつその行動に挑まねばならない。 とすれば、それに当該する今回のケースでは、自らの経験則は役に立たないものであるからして、その行動を選択しそれに特化した人間のサンプルデータを多数収集し、そこに見出される一定の共通性なり法則性なりを一連の流れにおける各動作との関連性と共に体系的に理解し、自身の行動におけるモデルとして構築する必要性がある。 無論それは概念的な物ではあるが、全くの無の状態でそれに挑むよりは遥かに合理的ではなかろうか――――。 そこまで解説したところで、彼女の首は車両の傾きとは反対の角度に揺らいだ。 「え〜と、つまり……」 「……なんだ」 彼女はやや躊躇ったように言い澱んだが、それでも探るように言葉を発した。 「つまり、先生が券売機から少し離れた場所で仁王立ちになって切符を買う人たちを睨んで……いえ、見ていたのは、要は機械の操作が判らなかったから他の人のやり方を観察していたため……なんですね?」 「……そういう言い方も出来る」 ガタンゴトンと揺れる電車の窓から、私は流れゆく街並を眺めながら答えた。 仕方ないだろう。 日頃どこへ行くにも愛車を駆って移動していて、電車やバスはほとんどと言って良いほど利用しない。たまたま今日は車検の為に愛車が一時利用できず、しかし予定があった為にどうしても慣れない交通手段を用いるしかなかった。 いつの間にかそれらを利用していた頃とはすっかり趣きを変えてしまった、なおかつ初めて扱う券売機に、いくら氷室零一とはいえ完璧に対処出来るはずもない。 結果として、切符の買い方が判らない――――という高齢者(一部若者)の如き状況に陥ってしまったのは、私の希望によるものでは、決して、決してないのだ。 たまたま同じ駅を利用する為に通りがかった彼女の助力がなければ、私は未だあの場所に立ってサンプリングを続けていたかも知れない。 その恩人とも言える彼女は、複雑な表情で私の顔を見上げてきた。 「駅員さんに訊けば良かったんじゃないですか?」 「君は私の説明を聴いていなかったのか。自らの試行錯誤無しに安易に解答だけを求めるのは、学習においては愚行の極みだ。第一、時間に余裕のある私が、日曜ゆえに多忙を極めた駅員の業務妨害をするのはよろしくない。質問はあくまでも最後の手段だ」 「氷室先生……訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥って言葉、知ってます?」 「当たり前だ!誰も訊かないとは言っていないだろう。単に模索なしで解答のみを導かれるのは御免だというだけだ」 「その割には、私の説明は聴いてくれましたよね?」 「そ、それは無論、親切心からの手助けについては拒む理由もない。何より君は我が氷室学級のエースだ。そんな素晴らしい生徒の気持ちを踏みにじるのは私の望むところでは、ない」 「氷室先生ってば…………ププッ!」 耐え切れなくなったのか、彼女は俯いて口元を手で覆ったかと思うとややあってから吹き出した。 「笑うな!誰だろうと慣れない事をするのには躊躇いがあるものだし、公共で多くの人間が簡単に実行している操作が判らなければ、多少の羞恥心は生じるものだ!」 顔の赤さを自覚しつつ言うと、彼女はカラカラと笑ったまま再度私を見上げてきた。 「それはそうですけど、夏休みの日曜日にスーツ姿で駅の券売機の前にジーッと立ってた理由がそれだったのかって思ったら、何だか、笑いが止まらなくて」 「仕方ないだろう。今日は次回の課外授業の下見であって、場合によっては後方でスタッフとの打ち合わせもある。そのような場でラフな服装をしている訳にはいかないのだからな」 「そう、ですね。……ククッ」 何が楽しいのか(いや、確実に私の行動が楽しいのだろうが)彼女はなかなか笑う事を止めない。仕舞には腹を抱えて涙ぐむ始末だ。その様子に車内の他の乗客が注目する。 「……いい加減にしなさい」 深く皺を刻んだ眉間と一緒に溜息混じりに言うと、彼女は涙を拭いながらコクンと頷いた。その面には未だおかしさの余韻がありありと残っている。 「すみません。……でも、普段見られない先生の一面が見られて嬉しかったです」 「嬉しい、だと?」 「はい!先生にもこんな可愛い面があるんだな〜って」 「かっ、可愛いだと!?き、君は何を言ってるんだ!!」 自分の担任を、いやそれ以前に十も年上の成人男性を『可愛い』!?承服しかねる!!不適当な事極まりない!! 私はそう反論しようとした。 した――――のだが。 見上げてくる彼女の本当に嬉しそうな瞳に、私の口は無駄に開いただけで動きを止めた。顔を逸らし、再度車窓から外を眺める。彼女も未だ笑ったままで、それでも極力声を上げないように肩を震わせている。 その姿を視界の端で認めながら、ビルや家々の間から見えてくる臨海公園の煉瓦道と海面の鮮やかな対比に、私はふと違う事を思いついた。 「……君の行き先は、私と同じ水族館だったな?」 「え?あ、はい。新しい企画が始まったそうなので」 突然話が変わったので笑いを止め、彼女は頷いた。彼女の言う通り、水族館では夏の特別企画やイベントが多数開催されていた。 「ふむ。では、券売機操作の説明の礼に、入場料については私が持とう」 きょとん。 その表現が最適という顔をして、彼女は実に意外そうに私の顔を見上げる。 「……え?」 「『……え?』ではない。勿論、先程の件は他言無用、という条件と引き換えだが」 さすがに『切符の買い方が判らなかった数学教師』という噂が流れるのはあまりよろしい事ではない。それを考えれば、高校生一人分の入場料で済むなら安いものだ。 すると、彼女は形の良い眉を軽くひそめた。 「言いませんよ!私だって、似たような事があったら言いふらされたくないですもん。……それより……お礼って言うんでしたら、一つだけ、お願いがあるんですけど……」 そう言いながら、上目遣いに瞳を向けてくる。 「?なんだ?」 「入場料は出さなくていいですから…………着いたら、課外授業、してくれませんか?」 「……何だと?」 今度は私がきょとんとする番だった。その様を、彼女はにっこりと笑いながら見上げて、ハッキリと頷く。 「ですから、マンツーマンの特別課外授業をして欲しいんです。ただし、レポート抜きで」 「レポート抜き……」 「はい。本番の課外授業ではちゃんとレポート書きますけど、今日は。駄目ですか?」 「……そんな事でいいのか?」 「はい」 短い答えがその意思をより強調して伝えてきて、私は勢いに飲まれるように承諾の意を示していた。 「――――よろしい。水族館に着いたら、早速海洋生物及び海洋生態系に関する特別講義を開催する。レポート提出義務は発生しないが、その代わり次回の課外授業への参加とその際のレポート提出は必須とする。いいな?」 「はい!!」 これまたやけに嬉しそうに頷いて、彼女はいつも学校で見る晴れやかな笑顔を浮かべた。 私が好きな、あの笑顔を。 ……慣れない行動を取り、慣れない事に羞恥心を抱いた夏の暑い日である、今日。 完璧でスマートな自分に徹し切れずに不貞腐れた瞬間の連続だが――――彼女のその笑顔が見れただけでも、収穫はあったかも知れない。 そう思いつつ、窓から差し込む景色が夏の空色を海に反射して目に飛び込んでくるのと同じ頃、電車は静かにホームに止まった。 |