写真 |
「へぇ……これが『伝説の樹』なんだ。ほんと、一本だけポツンと生えてるんだね」 彼女――東雲七緒が一枚の写真を感心したように眺めると、その傍らの彼――蒼樹千晴はコクンと頷いて微笑んだ。 「はい。とても大きな樹で、近寄るととても落ち着きます。たくさんの恋人達を見守ってきたから、かも知れませんね」 「ふーん。一度実物を見てみたいなぁ。――ところで千晴君は、女の子から呼び出されたりしなかったの?」 「いえ、僕は別に……。それに卒業式が終わってすぐに、はばたき学園まで行きましたから。友達の一人は告白されたそうですけど」 「そっかー。伝説通り、永遠に幸せになれるといいね、その二人」 「はい。もっとも、今でも充分幸せそうです。先日たまたま会った時に思い切りノロケられてしまいました」 「あはは!」 アルバムのページを捲りながら、千晴は澄んだ声で笑う七緒に再び笑みを誘われる。 春の日差しが穏やかに差し込む、昼下がり。二人は千晴の部屋で彼のアルバムを見ていた。 付き合い始めてから、まだ数ヶ月も経っていない。同じ大学とはいえ学部が違うから、そうそういつも一緒にいられない。 そして何より、まだお互いのことをよく知り合っている関係とは言い難かった。 だから休日にはどこかに遊びに出かけるよりも、専ら話をすることの方が多かった。 自分のこと、家族のこと、学校のこと。 相手を知りたいと思う気持ち。自分を知って欲しいと思う気持ち。 過去に交わしたメールのやり取りだけでは知らなかったことを、一つ一つ大切に知り合っていく為には、遊びに繰り出すよりこちらの方がよほど有意義。二人の意見が合致してこその現在だった。 それで今日も、七緒の意見に則ってアルバムを眺めていたりする訳だ。半分以上はアメリカにいる家族の元に置いて来たから15歳以前の写真は少ないが、それでも七緒が楽しそうに見ているので、千晴も嬉しくなってくる。高校の写真となると彼女にも解るイベントが多いし、話題も一層弾むというものだ。 パラパラとページを捲っていくと、今度は寺社とその前に集う学生達の写真に辿り着いた。 「あ、これって二月堂!ってことは、修学旅行の?」 「はい。修学旅行は、京都と奈良に行きました。ここは奈良公園です」 そう言って千晴は一枚一枚写真を指差して、補足説明を加えていく。 「そっか、きら高もそっち方面だったんだー。はば学も京都と奈良なんだよ。9月の…確か15日から20日までだったかな。懐かしいなー」 七緒が言うと、千晴は目を瞬かせて驚いた。 「そうなんですか!?僕の学校は11日から16日まででした」 「本当!?入れ違いだったんだ」 「そうですね、もしかしたらすれ違っていたかも知れないですね。……あ、これは東大寺の前で撮影した写真です」 言葉通り、古びた南大門の前で千晴ら数人が楽しそうに笑って映っている。 千晴の人柄と努力の賜物だろう、この頃の写真には彼の周りにたくさんのクラスメイト――友人が一緒に写っていた。1年の頃の写真だと人数が少ないだけでなく、枚数自体が少なかったから、七緒はその頃のメールを思い出しつつ心の中でほのかに微笑った。 「そういえば……」 写真を見ていた千晴が、何かを思い出したように指を顎に当てた。 「なに?」 「この写真を撮ったあと、友人とその彼女が、鹿グレートに襲われて大変な目に遭っていました」 「……鹿グレート……?」 「はい。でもあわや、というところで正義の虚無僧が助太刀に現れたので、軽い擦り傷程度で済みました」 「……正義の虚無僧……?」 「先輩も高校生だった頃、同じように戦ったそうです。聞いた話によると、時々修学旅行のカップルを襲うのだそうです。大自然の怒りがどうとか言っていましたが、当時の僕には言葉が難しくてちょっとよく解りませんでした」 よく解る以前の問題なのかな……と七緒は頭を捻ったが、千晴があまりに普通に話しているので、それについては口を噤んだ。 「先輩って、千晴君がいつも話してくれる電脳部のOG?」 「はい。……ああ、この人です」 また数ページを捲ると、飾り付けをした部室で撮影された写真が現れた。写っているのは千晴を含めた部員達と、その中心に立つ大人の女性。見るからに知的で有能そうだが、何となく怪しい。 「えっと、これは文化祭かな?」 「そうです。この紐緒先輩の指導と協力で、出展をしました。これは二年生の時だから、自作スクリプトの公開実演だったと思います。七緒は、二年生の文化祭では何をしましたか?」 「二年の時はバザーだったかな。教室でフリーマーケットやったの。結構お客さんがいっぱい来て忙しかったなぁ」 「そうでしたか。――僕も行けば良かったな。そうしたら堂々と、あなたに顔を合わせられたのに」 「あはは、そうだね」 収められた写真には学校行事の物だけではなく、日常の風景についても多く刻まれていた。それらを元に、二人はそれぞれの三年間を語り合う。 どんな風に生活してきたか、どんな出来事があったのか、どんなことを思ったのか。 とめどなく尽きない話に、お互い興味深く聴いて、訊ねて、少しずつ相手のことを知っていく。 楽しかった思い出の欠片を、名残だけでも共有していく。 それは、今の二人にはとても幸せで大切なことだった。 そうやって何十枚にもなる写真を眺めていると、千晴がほんの少し曇った表情を浮かべた。 「でも、こうして見ていると、とても残念だと思います」 「残念?」 「はい。――――七緒と一緒に撮った写真が、この中にはないから」 「あ……」 言われて、七緒も気が付いた。 「そうか……そう、だね」 千晴と七緒がそれぞれに持っているたくさんの思い出の欠片。その中に二人揃って映っている物は一枚もない。 「僕の勇気がなかったから、と言えばそれまでです。それに今、こうして生身のあなたと一緒にいるのだから、写真に拘る必要はないです。……でも」 わずかな溜息が、彼の端正な口から漏れる。 「……それでも、残念だと思うんです。制服を着た僕たちが、二人で写っている思い出がないんだって、一目で判ってしまうから」 相手を認識したのは高校一年の春だった。それから長い間、お互いにお互いを気にかけていたのに、名前を知る事もないまま三年間を過ごしてしまった。 「高校では、たくさんの楽しいことがありました。七緒と一緒に楽しめたら、と思う出来事がたくさんありました。もちろん学校は違うから、全部が全部一緒に楽しめる訳ではありません。ただ、帰り道で一緒になったり、修学旅行でかち合ったり、そういう機会があったかも知れない。――――そう考えると残念だった、と思います」 人生の中で学生服を着ている時間は短い。アメリカ育ちの千晴にとっては、もっと短い。その短い時間の中で、一瞬を閉じ込める写真に一緒に写る事は、本当に奇跡のようなものだ。 同じ時間、同じ空間を共有したという、その確かな証。 誰よりも何よりも大切な人と、一瞬という小さな奇跡を永遠に留めおけるささやかな奇跡。 学校や校外で、恋人と二人で写真を撮る友人達を見るたび、千晴はそれを得られる彼らが羨ましかった。 「とはいえ、卒業してしまったから、制服を着る訳にもいきません。それに過去は過去です。だから、これはただのちょっとした感傷、ですね」 充実はしていたけれど、少しだけ後悔の残る三年間。結果オーライではあったけれど、せめてもう少し勇気があっても良かったのに。あの時の、自分に。 千晴はその言葉は飲み込んで軽く苦笑した。 「千晴君……」 苦笑してから、千晴は気にしないでください、とでも言うように七緒に笑いかけた。 すると笑いかけられた方は、彼の瞳を見つめ返してから、ややあってバツが悪そうに俯いた。 「七緒?どうか、しましたか?」 「うん……その……えっと、ね」 指先を軽く打ち合わせて、何か迷うような素振りを見せてから、七緒は自分のバッグを手元に引き寄せて、中を探る。 取り出したのは彼女のイメージに合ったパステルカラーのスケジュール帳。学校でも使っているのをよく見かけるものだ。 その表紙をわずかに開いて、何かを取り出す素振りを見せて、しかし途中でその手を止めた。 「?」 「その……実は、私はこんな物を持ってマス」 そう言っておずおずと、気まずそうに差し出したのは、一枚の写真。 「…………これは……!!」 見た途端に、千晴の目が大きく見開かれる。 写っていたのは、千晴と七緒。 それも、きら高の制服を着た千晴と、はば学の制服を着た七緒が、初春の日差しの中で幸せそうに笑っている、そんな写真。 ありえない、はずの。 その風景が。 「何故……合成、じゃないです、よね?」 「うん。えっとね、なつみんが……あ、私の友達なんだけど、卒業式の日にこっそり撮ってたらしいの。前に会った時に、貰って……そのまま、肌身離さず持ってました」 照れくさそうに、頬をうっすらピンク色に染めて、七緒はぽつぽつと説明した。 「……どうして」 どうして、今まで見せてくれなかったのか。 そう問うと、七緒はますます色を濃くした顔を背けた。 「それは、その、気恥ずかしいっていうか、もったいないっていうか……、〜〜〜と、とにかく、なんかね、そういうの色々思っちゃったの!上手く言えないんだけど!」 少し俯瞰の隠し撮り。想いが通じ合った直後をこっそり撮られてた事も恥ずかしいし、教室の黒板のラクガキに千晴の顔と一緒に相合傘を描かれていたのも恥ずかしいし、その上写真を渡される時に奈津実が浮かべていたからかいの表情が悔しいしと、そういう事がどーっと思い出されてしまうから。 それに何より、千晴の目一杯の笑顔を初めて見られたこの瞬間を、大っぴらにするのはもったいなさ過ぎるから。 だから、あまり見せたくなかったのだ、と言う。 「七緒……」 「それに……」 「それに?」 「……制服姿で撮った写真が欲しかったなぁって思ってたの、私だけだと思ってたし……」 消え入るような声で、けれどハッキリとそんなことを言うものだから。 耳まで赤く染めた七緒に千晴は苦笑して、それから腕を伸ばして彼女の手から写真を抜き取った。 「あっ!ちょ、ちょっと!」 「七緒はずるいです。そういう事はちゃんと言ってください。そして、こんな嬉しい事は隠さないでください」 真顔に戻ってそう言うと、怯んだように七緒がしょぼんとした。 「う……ご、ごめんなさい」 「罰として、この写真は僕が没収します」 「ええっ!?そんな、その写真1枚しかないのに!」 焼き増しを頼んだが最後、奈津実にはとことんからかわれるに決まっている。大事な親友だがその手の事に関しては悪友と化す事を思うと、七緒は真っ青になった。 「だったら」 必死になって奪い返そうとする七緒の手を軽々とすり抜けながら、千晴はクスクスと笑いながら提案する。 「僕の部屋に、もっとたくさん来てください」 「へ?」 「ベッドサイドに、家族の写真と一緒に立てかけておきます。だから、いつでも見に、遊びに来てください。――――それから」 きょとんとした七緒に、今度はとても柔らかく微笑んで、千晴は言った。 「たくさん、写真を撮りましょう」 「……写真を」 「はい。これからの二人を、ずっと」 春も、夏も、秋も、冬も。 幾度同じ季節が巡っても、そのたびに違うそれぞれの姿を。 ずっと。 二人で。 「……たくさんって、どれくらい?」 「高校時代に一緒に撮れなくて悔しい思いをした、その分まで」 「部屋、埋め尽くされちゃうかもよ?」 「それでもいいです。とにかく、たくさん」 思い出の欠片を、胸一杯になるくらい。 いつかそれを見た時に、こんな時もあったねと二人で笑い合える、そんな未来のきざはしにできるように。 「…………うん」 七緒の顔に微笑みが浮かぶ。 「じゃあ、次のお休みは森林公園に行こう?晴れてたら芝生公園で、雨だったら植物園。カメラ借りてくるから、たくさん撮ろうね」 「はい。それから、お弁当も作って来てください。一緒に食べたいです」 「わかった!腕を振るっちゃうからね」 料理上手の彼女に約束を取り付けてから、千晴は写真を持ってない方の手を七緒の手に絡める。 「じゃあ、その次は臨海公園に行きましょう。でも……とりあえず」 「ん?」 「今日は、こっちのカメラに一人ずつ、ですね」 そう言って、素早く七緒の瞼に唇を寄せた。 「ちっ、ちはっ――――!!」 そして突然の行動に驚く七緒をそのまま抱きしめて、その耳元に囁く。 「駄目ですか?」 「………………駄目じゃない……」 か細く返って来た照れたような言葉と確かな指先の力に笑って、千晴は腕に力を込めた。 今日も、明日も、明後日も。 その先も、ずっと。 たくさん、たくさんの写真を撮ろう。 機械のカメラだけじゃなく、お互いのカメラでもたくさんの。 あなたと一緒に、いられる奇跡を。 あなたと一緒に、同じ時を紡げる奇跡を。 こんな風に、お互いの暖かさを感じられる距離で。 春の午後。のどかな光の中で、時計の針はいつまでも一瞬を刻んでいた。 |