お姫様抱っこ |
彼女が教室に入って来た時、それを見た生徒全員が目を見張った。 「日比谷!?どうしたんだマスクなんかして!!」 朝の挨拶も忘れ、真っ先に彼女を見つけた尽がこれ以上ないというくらい驚愕した顔で駆け寄って来た。 日比谷妹とマスク。これ以上珍しい取り合わせはそうはない。 「どうもこうも――――ゲホゴホッ……ゲホッ!!」 眉間に苦々しい縦じわを拵えた日比谷と呼ばれた女生徒は、「ガラガラ」と「ゼーゼー」の中間にあるような声で答えようとした――が、不快な咳に遮られる。 その様を見た尽が一瞬言葉を失う。 「…………風邪……かよ?ひょっとして」 「日比谷さんが風邪!?一体何があったの!?」 遅れてやって来た紺野家長男・玉緒が、尽に劣らぬ驚き具合で日比谷の隣にいた山田に訊ねた。ゴホゴホと派手に咳き込んだままの日比谷が代弁してくれという目で顔を向けたので、頷いて山田は二人に答えた。 「それがさ。今、日比谷の兄さん里帰りしてんだけど、一昨日の土曜に高校の友達んちに行って飲み会したらしいのね」 気の合う仲間と集ったせいで強くもない酒をしこたま飲んで、体が熱くなった為に半袖Tシャツ1枚で雑魚寝と相成った。季節は真冬、暖房の切れた室内でそんな格好で一晩も寝れば凍死しない方がおかしいくらいだ。結果、凄まじい風邪を引いて家に戻って来た。 「父さんも母さんも昨日は用事あって出かけちゃったから、看病してやるの私しかいないでしょ?見事に移されたわよ。まったく、来年だったら間違いなく瞬殺してるところだわ」 ようやく咳の収まった日比谷が腹立ち紛れに言い捨てた。確かに来年のこの時期であれば受験戦争の真っ只中。下手すると1年棒に振る羽目になる。 「なるほど。しっかし珍しいよな〜、日比谷がそんな本格的な風邪ひくなんて前代未聞じゃん」 「そうは言いますけどね、『あの』兄さんですらひいた風邪よ?私がひかない方がおかしいわよ」 「それもそーだ」 喉がやられているのか潰れたガラガラ声で、それでもキッパリ言い切った日比谷の言に、尽は心から賛同した。 「渉さんの自業自得はともかく、日比谷さん。顔赤いよ?熱あるんじゃない?」 玉緒が心配そうに訊ねると、日比谷はどこか潤んだような眼で振り返って、コクンと首を縦に振った。確かによくよく観察すれば顔が赤いし、呼吸もいつもより荒い。 「ある。38.7℃」 そう言うと、尽はさっきよりももっと目を見開いた。 「なッ――!おまえ、そんな状態で学校来るなよ!」 「2限目に小テストがあるでしょーが。氷室先生の数学よ、外せないわね」 「小テストなんて体調悪い時に受けるもんじゃないだろーが!家で寝てろって!」 「終わったら保健室行くってば!それに皆勤賞かかってる。夏のドタバタで授業皆勤は逃したけど、登校皆勤は絶対に逃してたまるもんですか」 「……HRの時に先生に言っといてやるから、今すぐ保健室行って来いよ。そんで放課後まで寝てろ。送ってってやるから」 「ご冗談!!この私が敵前逃亡なんてするもんですか!大丈夫よ、熱はあるし声はガラガラだし体中痛いけど、頭の中はクリアーよ。それに第一、自分の勉強時間削って追試受けたくないの」 論争は終わりとばかりに、呆れ顔の尽をほっぽって日比谷はさっさか自分の席に向かって歩き出した。それでもやはり目に見えて足取りがふらついている。誇張でなく今まで風邪らしい風邪に罹った事のない彼女だ、逆に症状はこたえているはず……なのだが、それよりも敵(今回は数学のテスト)への臨戦モードの方が勝っているらしい。 何が彼女をそうも駆り立てるのか、それは誰にも解らない。しかし明らかに熱のせいで冷静な判断が出来なくなっているのは間違いない。 「ハァ〜……オレが心配してんのはテストじゃないっての……」 「ちょっと東雲、なんとかしなさいよ」 大きく溜息を吐いた尽に、山田が耳打ちして来た。 「なんとかってなんだよ」 「日比谷の気を逸らすなり何なりして、保健室に連れてけって言ってんの」 「気を逸らすってどうやって?あんな闘志満々にしてガードしてんだぜ?」 「そりゃあんた、ディープキスの一つでもかまして日比谷の力が抜けたところをかっさらって」 「できるか!!」 「なんで。あんたそういうの得意でしょ」 「なんでそーなる!!……ったく、大体まだした事ないってのに、そんな事の為にこんな所でできるかってーの」 ボソッと言った後半の台詞だったが、しっかり山田には聞かれていた。見るからに怪訝な顔を浮かべて、山田は尽を見上げる。 「……は?……東雲……あんた、日比谷と付き合いはじめて三ヶ月は経ったわよね。なのにまだキスもしてないの?」 ――――しまった!! そう思ったが、覆水盆に返らず、または綸言汗のごとし。山田は怪訝を通り越して信じられないものを見る目つきで尽を凝視した。 「……あ、それは、だな……ていうか、今関係ないだろ、それは!」 焦った視線を彷徨わせて、尽は山田から顔を背けた。それを見て山田はしばし沈思黙考したものの、やがて重い溜息を漏らして頭を押さえた。 「……なるほどね。日比谷が風邪ひく訳だ」 「どーゆー意味だよ!」 「そういう意味だよ、尽。ま、尽の過去の悪行は確かに今は関係ないし、渉さんの風邪以上にどうでもいいけど。それより日比谷さんの方が問題でしょ」 間髪入れずに合いの手を打った玉緒に何も言い返せず、尽は話題の彼女を見た。タイミングが悪く週番だった日比谷は業務をこなしているものの、やはり動きにいつもの切れがない。咳き込んだ拍子に教壇の端に躓くなどという、未だかつてお目にかかった事のない行動を起こしている。明らかに体調不良のせいだ。らしくない事この上ない。 「……〜〜〜あーもう、見てらんないっての!!」 尽は耐え切れんといった形相でそのままズカズカと日比谷の元に駆け寄った。 「え?――――――ギャアッッ!!ちょ、ちょっと尽君、何すんの!!」 熱のせいで背後の気配に気付かなかった日比谷が風邪と性格故に実に色気のない悲鳴を放った時には、彼女は既に尽に抱き上げられていた。そのアクションに思わず教室中が注目する。 「保健室まで緊急搬送するから、しばらく黙ってろ!」 「――――って、テストあるのよ!!」 「小テストの追試くらい、おまえなら10分で回答できるだろーが!」 「無茶言わないでよ!それに大体この体勢は何!?下ろしてよ!それが駄目ならせめて担いで!!」 背中と膝下に回された腕にしっかり持ち上げられて、どう見たって『お姫様抱っこ』のポーズである。日比谷は熱ゆえかはたまた羞恥心ゆえか、真っ赤になって抗弁した。 「具合悪い人間を担いで搬送するバカがいるか!?おまえ医学部志望だろ、人の正しい運び方くらい覚えとけっての」 「覚えてるけど、頭打ってる訳じゃないから平気だって!ていうか、今のこの体勢が激しく嫌!!キャラじゃない!!」 「んなコト言ってる場合かっての!!」 「あーもういいから下ろしなさいってば!それに、この至近距離じゃ尽君にまでウィルス飛ぶでしょうが!『あの』兄さんが罹ったほどの風邪よ?尽君なんてひとたまりもないって!」 美男子と美少女のお姫様抱っこと言えば、それなりに美しいシチュエーションのはずなのだが、何しろダミ声のお姫様がバタバタと暴れており王子様がそれをなんとか拘束しているので、どうにも観賞価値が低い。ジタバタついでに踵で王子様の脇腹にゴスゴスと蹴りを入れているのだが、やはり熱のせいで力の加減が出来ないのだろう、必要以上に慣性の法則が働いて王子様の制服にくっきりとした跡をつけている。 「痛いッつーの!!――――――おとなしくしろって、アユミ!!」 ぴた。 尽が一喝すると、腕の中の日比谷は目を見開いて動きを止めた。見上げて来る二つの瞳を見返して、尽は静かに言った。 「……移したって構わないんだって。オレが風邪ひくより、おまえがそんな苦しそうなの見てる方がずっと辛いんだからさ」 「……つ……くし、君……」 「本当はツライんだろ?滅多に病気に罹らないから、余計体に堪えてんだろ?おとなしく寝ててくれよ。……お願いだから」 心の底から気遣うような尽の声を聞いて、日比谷はようやくおとなしくなった。 そして一言。 「――――卑怯者」 そんな顔してそんな風に言われたら私が両手を上げるって、解り切ってるくせに。顔にそう記して、日比谷は顔を伏せた。 「どうとでも?それでおまえが無茶しないでくれるなら、いくらでもわがまま言うし、オレ」 小学生時から葉月のテクニックを盗み続けた成果を示すような駄目押しの笑顔を浮かべた尽に、日比谷は降伏の溜息を落とした。 「……移ったって、責任取らないからね」 「ご随意に」 一件落着とばかりに、尽は日比谷を抱き上げたままで教室を出て行った。 ……が。 「だーーーッッッ!!やっぱり下ろして!!恥ずかしいってば!」 「だから黙ってろっての〜!てか気にした方が負けだって!」 「こんな衆人環視の中で姫抱っこされて気にするなってのが無理!!」 「だったら狸寝入りしてろ!そんで胸に顔埋めて隠しとけ!」 「余計恥ずかしいわよ!!」 遺憾な事に、この教室は二年の教室の中で最も保健室から遠い。つまりそれだけ衆目に晒されるという訳で。 教室に置いていかれた玉緒と山田は廊下から聞こえて来る口論に呆れた表情を浮かべた。 「……あの二人であんなバカップルモード拝めるとは思わなかったわ」 「まったくだね。……山田さん、撮らないの?記事の穴埋めくらいにはなるんじゃない?生徒会長とその恋人のロマンスシーン。色気ないけど」 「あれだけ騒いで目立ってりゃネタにもならんよ。……それより紺野」 「なに?」 「校内お姫様抱っこ巡りなんていうこっぱずかしい事された日比谷が、このまま黙ってると思うかね?」 山田のセリフに、玉緒は軽く顎に指を当てて首を傾げた。 が、それも長い事ではなく。 「……賭ける?」 「……賭けにもならんよ」 山田は手をヒラヒラさせて、自分の教室に向けて踵を返した。 数日後――――。 やはり風邪を移された尽が教室でバタリと倒れこみ。 過日の復讐とばかりに日比谷が気絶した彼をお姫様抱っこで抱え上げ。 そのまま校内を意気揚々と巡り歩くその様子が、報道部によって発行された学校新聞の一面を飾った事は言うまでもない。 |