たった二文字、でしょ。
二文字なんて、1秒あるかも怪しいくらいなんだから。
……ちょっと心臓!そんなにバクバクしなくてもいいんだってば!!
女は度胸って、言うでしょうが。
勇気出せ、ホラ!!
「……朝から何、気合入れてるんだ?」
ドキッ!!
聴き慣れた静かな声が、耳元ではじけた。反射的に振り向いて、反射的に答える。
「あっ、おはよう、珪くん!!……――――っ!!」
あ……。
「ああ、おはよ、飛鳥。……どうかしたのか?」
「う……ううん、何でもない……。あ、今日も、いいお天気だね!」
「?……そう、だな」
キョトンとした顔の彼に、私は無理矢理笑顔を作ってみせる。
………………。
………………。
………………。
………………はぁ。
東雲飛鳥、またも玉砕…………。
「……なによ、それぇ〜〜〜っ!!」
私の前でクッキーを頬張るなっちんが、実に呆れたような大声を上げた。
「ここんとこずーーーっと不気味なくらい悩んでるから、この奈津実ねえさんが一肌脱いで、相談に乗ってやろうと思ったのに、そんな事で悩んでんの〜?あーもう、心配して損したー!!」
ぶ、不気味なくらいって、ひどいよなっちん……。
「でも奈津実ちゃん、私、飛鳥ちゃんの気持ち、少しわかるな。名前を呼ぶのって、やっぱりちょっと勇気いるよ。しかも『くん』付けじゃなく、呼び捨てって」
「そ、そうだよね、タマちゃん!」
同士!と言わんばかりにタマちゃんの手を取った私に、なっちんが冷静にツッコミを入れる。
「その割には、和馬の事は呼び捨てにするわよね〜」
ピクリ、とタマちゃんの肩が動いた。
ああ、その名前出さないで!最近になってやっと誤解が解けて、タマちゃんと仲直りできたっていうのに〜っ!!
「そ、それは、なっちんや姫条くんにつられちゃうからだよ。基本は『くん』付け!それに、和馬くんは……ほら、和馬くんだし!なんといっても!!」
必死だから、我ながら何となく引っかかる物言いだったかもしれない。ごめん、和馬くん。
でも、タマちゃんとの友情は大事にしたいんだ、ほんと。
「ま、確かに、あの和馬だしねぇ。気にしちゃいないだろうけどさ。……珠美珠美、眉間にシワ寄せんのやめなって」
「え……あ、わたし、しわ寄ってた?」
寄ってるどころか、バックに黒い渦が見えました、珠美サマ。
「にしてもさー、アタシにはわっかんないなー。既にさんざん名前で呼んでる相手を、何で呼び捨てにできないかな〜?しかも葉月の名前なんて、別に長いわけでも奇天烈なわけでもないじゃん?気にせず呼んでみ?案外『なーんだ、こんなもんかぁ』で終わるから」
「そりゃなっちんは初対面でも呼び捨てにできる人だけどさ……」
そう。
私はここしばらく悩んでいた。
それは……私が珪くんを呼び捨てにできない、という事。
あ、今、「なんだ、くだらない」って思ったでしょ?
そりゃね、別に今のままでも悪くないだろうって、思うんだけど。
でも、なにかね。
なにか、こう。
「別に呼び捨てにしてもしなくても、葉月くんは気にしないと思うけど……?」
「そうそう。アンタが下の名前呼んだ時点で、アイツの秘孔は突かれてんだから。あの時の葉月のとろけ具合、見物だったわ〜!」
「え、そうなの?」
「アンタ鈍過ぎ」
ジト目でこつりと私の頭を叩く。痛いってば。ところでよく『秘孔』なんて言葉知ってるね、なっちん。
「でも……飛鳥ちゃんは呼び捨てにしたいんだよね。どうしてそんなにこだわるのか、訊いていい?」
「え?え……と、それは……」
「今さら言い渋ったって無駄。吐かない限りは帰さない〜!そんなチンケな悩みでアタシの時間を奪ったんだから、その代償は払いなさーい!!」
……充分払ってるのになぁ。さっきからなっちんがほぼ独占消費してるクッキー、私が作ったヤツなんだもの。
良かった、珪くんの分は別にしておいて。
「…………笑わない?」
「そりゃ内容による」
「奈津実ちゃん……」
「う…………その、ね。……珪くん、私の事、呼び捨てにするじゃない?それが、何ていうか、その……嬉しくて」
「――――――ハイ?」
「だ、だから、嬉しいの、珪くんに呼び捨てにされるの!それってどうしてかなーって考えて、考えてたら、それがまた、嬉しくなっちゃって、それで、なんか、私も呼び捨てにしてみたくなって、それで、その……」
「あ、飛鳥ちゃん、落ち着いて」
タマちゃんが宥めてくれたものの、何やら言ってる内に自分でも何言ってるか解らなくなってくる。
「ほら、名前って、その人そのものじゃない。『くん』とか『さん』とか付けないで、そのまま名前だけスポーン!って言われるの、すごく、こう、ズシンと来るっていうか、その人の、その、呼ぶ相手に対する感情とか、バッチリ籠っちゃってるっていうか!だから、その、珪くんが私の名前呼び捨てにするの嬉しいっていうのは、その、そういう私に対して、好ましい感情とか、そういうのが珪くんの中にあって、それが私にも伝わってるからなのかなって、そう思ったりして、嬉しいわけなの!も、もちろん、自意識過剰かもって、思うんだけど、でも、私もそういう嬉しい感じとか、彼に少しでもあげられたらな、とか、そんな事考えちゃって………………って、あれ、ど、どうしたの、二人共!?」
思わずテンション上がりまくりで熱弁を振るっていたら、なっちんとタマちゃん、二人共テーブルに突っ伏してしまってた。
「……なっちん、タマちゃん…………?」
あ、熱く語りすぎた……かな?
「…………アンタさぁ。それ、はっきり言って、悩みじゃなくて、ノロケ」
「ノ……ノロケ、でした?」
「飛鳥ちゃん……気持ちは良く、伝わるんだけど、うん……ちょっと、照れる、かな……」
「そ、そう?……ごめん……」
うう、やっぱり照れる、よね……。というか、言った私もかなり顔が熱いんですが!
のっそりと顔だけ起こしたなっちんが、そんな私をチラリと見る。
そして大きな溜息をこぼして、顎をテーブルに乗せたまま、やれやれというふうに頭を振った。
「あーあ、アタシが男だったらなぁ〜〜」
???
どういう意味だろ。
「なっちん、男に生まれたかったの?」
「…………ツッコむ気も失せた」
なんなのよぅ、一体。
……それはさておいといて。
珪くんの事を呼び捨てにしてみたいっていうのは、ちょっとした我侭。
名前って、特別じゃない?
特に、好きな人から、自分の名前だけを直に言われるのって、特別度も倍増する感じがする。
まぁ、私の場合、猫に対する呼びかけでまず聞かされたものだから、余計にこだわりがあるのかも知れないけど。
でも、本当に嬉しかったの。
珪くんが呼んでくれる私の名前は、とても優しい響きに彩られてる。
普段感情を込めて喋らないから、たまに感情が入ると、とても強い威力を持つの。
その威力の籠った優しさを、私ごときに向けてくれてるというのは、それはもう嬉しい事。
そうやって私が貰った嬉しさを、今度は彼に受け取って欲しい、というのが、密かな野望だったりするんだ。
だから、呼んでみたいの。
彼を、そのもの全てを。
接尾語や丁寧語なんかつけない、生のままの、私の想い。
……の、つもりなんだけどね。
彼に呼び捨てにされてから、もうずっと長い事、そう考えているにもかかわらず。
未だに実行できないんだなー。
私って、こんなに優柔不断だったのかなぁ。
あ〜あ、もう情けないったら……。
「…………飛鳥、どうした?」
ハッとして声の方を見れば、すぐ近くに珪くんの顔があって、心配そうに私の顔を覗きこんでいた。
昼下がりの校舎裏、猫一家と日向ぼっこしてる珪くんを見つけて、混ぜてもらったのは私の方だったのに、思わず思考の迷宮に彷徨いこんでしまった。
「え!?あ、ううん、ごめん、ボーっとしちゃった!ちょっと考え事してただけ」
「考え事?」
淡い色の睫毛が、幾度も瞬く。
「そ、そう!大した事じゃ(私には大した事だけど)ないから、気にしないで!ね!?」
「……そう、か…………」
「……珪くん?どうかしたの?」
不意に顔を背けて、押し黙ってしまったので、ちょっと不安になった。
「……おまえ、俺に何か言いたい事があるんじゃないのか?」
「え」
どき。
「最近、何か言いかけようとしてるだろ。でも、すぐにがっかりしたような顔、して。……言いたい事があるんなら、言ってもらった方が、まだ…………いい」
あ、あの……そんなに哀しそうな顔、してほしく、ないんですけど。
「え、えーと、それは、その、あの…………」
「……俺が迷惑なんだったら、正直に言って、いいから……。こんな風にモヤモヤしてる方が、よっぽど辛い……」
「えぇっ!?そんな、迷惑だなんて、全然思ってないよ!!その、言いたい事っていうのは、それと反対方向の事なの!」
「……そうなのか?」
少し、表情が和らいだ。
私ったら、自分の些細な悩みで珪くんを不安にさせてる場合じゃないってば!
そうだよ、この機会に思い切って言っちゃえばいいんだ。
なっちんが言ってたように、『こんなもんかぁ』で済む可能性は大!
タマちゃんだって、『気にしないと思う』って言ってたじゃない!
断られたらその時はその時、また今まで通り『珪くん』って呼べばいいだけの話。
女は度胸、勇気出せ!!
私は、ほとんど胸倉をつかむ勢いで、珪くんの方に詰め寄った。
「うん!!あのね、珪くん、その―――呼んでいいっ!?」
「………………何を?」
え。
……って、私、文、省略しすぎ!省略するのは、そっちじゃないって!
珪くん、さっきの哀しそうな顔はどこかに消えて、ただ驚いてるふう。
ご、ごめん。ちょっと勇み足になってしまいました。深呼吸、深呼吸。
「えーと……その……ですね」
しっかり息を吐いて、腹をくくる。う、心臓ってば、頼むからちょっと静かにしててよ。
「――珪――って、呼んでもいいかな?」
「…………今……何て言った?」
「だ、だから、その、……『珪』って呼んでもいいかなって、言ったんだけど!…………駄目、かな?」
大事な部分が異常に早口になってしまったけど、とにもかくにも、言った。
珪。
私が、一番好きな人の、名前。
剥き出しのままの、想いのかたち。
ぶつけてみたかったの、あなたに。
……とかいいながら、顔は思わず下を向いてしまったのだけど。
だって恥ずかしいんだよ、なぜか!
自分でそうしたいって考えたくせに、今さらなんだけど!!
しばらくそうして、火照りまくった顔を隠していたものの、何かいやに静かなので、不審に思って顔を上げてみた。
もしかして、呼び捨て嫌だったのかな……?と思って、かなり不安になったのもあるんだけど。
珪くんは、再び顔を背けて、口元を手で押えてる。何か、こらえてる???
「……珪、くん?あの……やっぱり、呼び捨て、ダメ……?」
「…………いや、さっきので、いい」
「さっきのって……」
「……呼び捨てで、構わない」
「……本当!?」
「ああ」
ふわりと風が吹いて、彼の髪の毛が揺れる。
その隙間から、珪くん……ううん、珪の顔がチラリと見えた。
なっちんてば。
『こんなもんかぁ』なんて、大嘘じゃない。
……私のことばにも、こんなに威力、あったんだなぁ。
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