春、朝に思う。
 
 ネクタイを締める手に力を込める。

 羽織ったブレザーのジャケットの固さが、何となく慣れない。仮縫いと受け取りの時の計二回しか袖を通してないんだから固くて当然なんだけどさ。

 そう。今日からオレは、はばたき学園高等部の生徒。

 姉がくぐった校門を、今度はオレがくぐる番。

「おはよ」

 階段を降りてダイニングへ向かうと、朝御飯を用意している母さんに声をかける。

「おはよう、尽。……あら、よく似合ってるじゃない。新しい制服」

「そりゃそうだよ。何たってこのオレが着てるんだからね。――姉ちゃんは?」

「ちゃんと帰って来てるわよ。昨夜は遅かったからまだ寝てるのかしらね。尽、起こしてきて」

「……別に寝かせといても良いんじゃない?姉ちゃんの春休みって今日までだし、大体泊まりじゃなくても、葉月とデートの後じゃ色んな意味で疲れてるだろーし。休ませといてあげなよ」

「何言ってんの。あんたの入学式に出るのに帰って来てくれたんだから、起こさなかったら逆に後が怖いわよ」

「へいへい」

 オレはやれやれという顔で、再び二階へと戻る。一つの部屋のドアの前に立ち、数回ノックをする。

「おーい姉ちゃん、起きてるか?」

 ……返事がない。

 あ〜あ、こりゃ爆睡してるな、カンッペキに。

 そっとドアを開け、静かに中の様子を窺うと、未だ光を遮るカーテンの影が支配する空間の中で、その人は静かな寝息を立てていた。

「……まったく。だから無理して帰って来なくてもいいって言ったのに」

 けど、それはつまり姉ちゃんの寝顔を真っ先に見るのが、俺以外の男だって訳で。

 正直なところ、それってすごく嫌だ。

 でもそれを嫌がる権利なんて、オレにはない。

 今はまだオレの方が姉ちゃんの寝起きを拝む回数は多いけど、そんなのはこれからどんどん少なくなっていく。それが必然だし、当然だ。

 それは解ってるけど、それでも時々苦しくなる。

 カーテンを少しだけ開けて光を差し入れた先で、気持ち良さそうに眠っている姉ちゃんの顔を見てオレは溜息を吐く。

 どうして。

 どうしてオレは、この人が好きなんだろう。

 どうしてオレは、この人を好きになってしまったんだろう。

 よりにもよって、実の姉。誰よりも近くて、誰よりも遠い。

 決して手に入らない、水に映る月のようなひと。

 そっと、その柔かな頬に手を添える。触れるか触れないか判らない、微かな距離。伝わってくる熱がとても愛おしくて、切ない。

「……せめて……いや、駄目だよな。困るもんな、姉ちゃん。笑ってくれなくなるの、辛いし」

 ほんの少しだけ手の平を動かして、眠る彼女に触れる。オレが出来得る、小さな秘め事。起きてる時には、こんな風には触れられない。恋い慕う人にだけ捧げられる、緊張した指先でなんか。

「……うぅん……珪……」

「………………」

 けれど彼女は夢の世界ですら彼女の想い人と逢っているのか、耳に痛い寝言を紡ぐ。

 オレは手を戻してスッと息を吸い込む。そして姉ちゃんの耳元に顔を近づけて叫んだ。

「起きろ姉ちゃん!!もう朝だぞ!?」

「きゃっ!?」

 大げさなくらいビクッと身体を振るわせて、姉ちゃんは飛び跳ねる様に上半身を起こす。しばし混乱した顔でオレと枕元の時計を見比べた。

「え?あれ、尽?……って、嘘!もうこんな時間なの!?」

「ったくさー、ハタチ過ぎた妙齢の女が弟に起こされててどーすんだよ。第一そんな寝こけるほど疲れてんなら、来なくていいんだぜ、式」

 すると姉ちゃんはキッと柳眉を上げて俺を直視する。

「そういう訳にはいかないでしょ!せっかくあんたの高校の入学式なのに。お父さんもお母さんも仕事なんだもん、私が行かないで他に誰が行くっていうの?」

「別に式に親兄妹が来なくても、それで寂しがるほど子供じゃないぞ、オレ」

「ダメ!ちゃんと行くよ!ほら、着替えるから早く出てって。あんたが居たら着替えられないじゃないの」

「子供扱いしたいのかそうじゃないのか、どっちかにしてくれよなー」

「いいから!――――うわっ!!」

 ドターン!

 ドアノブに手をかけて部屋を出ようとした刹那、背後から聞こえてきた大きな音に、オレは思わず振り返る。

「姉ちゃん!?」

「いったぁ……シーツに足絡めちゃった……」

「何やってんだか……ホラ」

 見事にシーツに絡まった挙句床に転げ倒れた姉ちゃんに、手を差し伸べる。

「ホンット、相変わらずおっちょこちょいなんだからなぁ。……どうしたの?手、貸しなよ」

 何故か俺の顔を見上げてきょとんとしている彼女を再度促す。

「……あ、うん、そうだね。ありがと。よっと」

 オレの手をとって、姉ちゃんは立ち上がった。ほのかに顔が赤い。なんだ?

「どうかした?……ははぁ、さてはオレがあまりにも格好イイんで、思わず見惚れちゃったってヤツ?ダメだよ姉ちゃん、今更オレが弟だって事、後悔したって」

「バッ!バカ、そんなんじゃないよ!ただ、あの、その、珪と高校で逢った時のこと、思い出しちゃったの。今の尽、逆光で髪の色が淡く見えて、それに真新しい制服だし、シチュエーションも似てたし、それで、つい……」

 ……そうだったっけ。そういえばそんな事言ってたな。

 胸が、痛い。

 痛い、けど。

「回想に浸るのも、葉月を彷彿とさせるくらいイイ男に育ったオレに見惚れるのも良いけどさ。時間ないんじゃないの?オレ、先に朝ご飯食べて出るからな。玉緒や日比谷とも待ち合わせしてるし」

「――いけない、そうだった!」

 溜息がてらに軽く言って、部屋を出る。

 閉めたドアの向こうから、ドタバタと慌しい音が聞こえてきて、オレは思わず苦笑する。まったく、高校の時から、いや、オレが覚えてる限りの昔から変わってないよな、ホンット。

 大切なところはずっと変わらないままで。

 そのくせどんどん綺麗になって、ますます惹きつけてくれるんだから。

 ずるいよ、ホント。

 オレばっかり子供のままで、変わらなくて……変われなくて。

 階段を降りて朝食を食べ、さっさと家を出る準備を整えたオレは玄関へ向かう。

「あれ尽、もう出ちゃうの?ちょっと早過ぎるんじゃない?」

 靴を履いていると、春らしいパステルカラーのワンピースを着た姉ちゃんが声をかけてきた。

「言ったろ、玉緒たちと待ち合わせしてるって。そうそう、式は10時からだから、来るって言うなら遅れないように会場入りしてくれよ。例の教会の前で思い出に耽ったまま立ち尽くしてて途中で入って来るなんてされたら恥ずかしーし」

「もう、そんな事しないよ!……多分。」

「多分、ね。ま、いーけど。――それじゃ、行って来ます」

 鞄を持って、よいしょと立ち上がると今度はくすっと笑い声が聞こえた。

「……何?」

「尽、本当に大きくなったよね。すっかり私より身長伸びちゃったし。でも、まだまだ伸びそうだよね」

「そりゃ、オレももうすぐ16歳だもん。いつまでも小さい子供のままじゃいられませんって」

 ううん、まだまだ子供だ。

 手に入らないって解ってるのに、それでも手に入れたいって願ってしまう、駄々をこねる幼い自分が心の中で泣き叫んでるのが見えるくらいに、まだまだ全然子供だよ。

 子供なのに、欲望だけは身長に比例して大きくなってくんだ。

 やりきれないよな、実際。

「姉として弟の成長は嬉しいぞ、うん」

「弟としては、もうちょっと姉に成長してもらいたいよ?せめて朝っぱらからシーツと床で添い寝しないくらいには」

「それは言わない!」

 むくれた姉ちゃんに、ひらひらと手を振ってオレは扉を開けた。

 初春らしい暖かな日差しに目を細めて、外へ出る。

 まだ、今の内。

 今なら、普通に話したりできる今の内なら、まだ間に合う。

 だから、早く忘れなくちゃいけないんだ。

 忘れて、この春の光の中に溶かしてしまわなきゃ。この想いは誰にも幸せをもたらしてくれるものじゃないんだから。

 羽織ったブレザーの慣れない固さは、どこか今の自分にも似てる気がする。

 どうか。

 どうかこれが着慣れる頃には、オレの想いが違ったものに変わっている事を祈って。

 振り向かないまま、オレは玄関のドアを閉じた。

 こんな風に簡単に心の扉も閉じられたらいいのに、そんな考えに自嘲の笑みを我知らず浮かべながら。
 
 
 
 

<あとがき>
尽んぼ生誕記念品…の割には高校生尽だわ丸っきり別人だわヘタレだわ泥沼だわ救いようがありません。
拙作『For your smile』の番外編にあたります。つまりここから一年半くらいは姉に対する物想いで悶々としておる、と。
私、尽×主も美味しいネタだとは思うんですが、やはり尽には『切ない片想いで苦しんで欲しい派』なのですよ。主人公設定によっては別段要らんシチュエーションですが、私が基本で捉えてる主人公だとやはりこういう方向で行ってくれないと!とか思ってしまう訳です。ええもう病気ですね、小宮。折笠さんのフリートークが無ければここまで萌えなかったんでしょうが。
にしても、こういうネタでちょっとした風景の一コマSSを書くのは私の力量では厳しい事を痛感いたしました(^_^;)。

(060711追記:当初はGS部屋トップにリンク貼ってましたが、カテゴリ的にアレなんで、FYSメニューからのリンクに移動・変更しました)

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