「片付け、すんだのか?」
コンコン、というノックの音と一緒に珪が部屋に入ってきて、私はハッとする。
「……まだみたいだな」
「ご、ごめんね。本をしまってたら、つい読みふけっちゃって。――いけない!もうこんな時間だったんだ。すぐごはん作るね!」
「いや、まだ腹へってないから。……また読んでたのか、それ」
「うん……。手にとると読まずにいられないっていうか。もう何度も読んでるのにね」
私の手にあったのは、例の絵本。
高校の卒業式の日、珪から手渡された大切な宝物のひとつ。
大切なものだから、傷つけないよう静かに閉じる。それを見て、珪はいつもの優しい瞳で笑った。
「そうか。けど、少しは手を進めた方がいい。早く片付ける必要はないけど、せめて通り道くらいは確保しろ」
「う……わかりました」
たしかに、私専用に割り当てられたこの部屋(物置?)の中は、まだまだ荷物が散乱している。
珪との結婚式を約一ヵ月後に控えて、私は彼の家に引っ越した。
親御さんの留守宅に入りこむのはどうかなぁと思ったんだけど、お二人とも空家にしておくよりはいいって事であっさりOK出してくれちゃって。
それに珪が「家賃分、今の内から貯めておけば俺たちの家を手に入れるの、早くなるだろ?」と言った事にも納得し。
好意に甘えて、新婚生活は高校時代から何度も訪れた、この珪の実家で始めることになった。
で、今は家から運び込んだ荷物を片付けているのだけれど…………。
…………新婚生活…………。
じ、実際こうして単語にしてみると、何だかとっても気恥ずかしいなぁ〜……。
しょっちゅう泊まりに来てたりするし、学生の頃は風邪をひいた珪の看病に1週間以上居続けた、なんてこともあって、今さらって言えば今さらなんだけど、でも…………やっぱり、ね。
自分でも判るくらいに顔が火照ったのを見て、珪が首をかしげた。
「……顔、赤いぞ。熱でもあるのか?」
「あ、え、いや、そういうわけじゃないけど」
「冗談。また何か変なこと考えてたんだろ?」
「……変なことって…って、いつもってなに!?」
「いつも、頭の中で色々考えて、しかもそれが丸分かり。そういうこと」
「む〜〜〜っ!」
ほっぺたを膨らませて抗議するけど、珪はいたずらっぽく笑ったままベッドに腰かけた私の横に座る。
「で、さっきは何考えてたんだ?」
……お見通しですか。
私は何となく負けたような気分で、絵本を開いて説明する。
開いたページは世界の果て、深き緑の森の魔女が正体を表す場面。
「うん……ちょっとね、読んでたら前に友だちが言ってたこと、思い出しちゃって。緑の森の、魔女のこと」
「緑の森の、魔女?」
「そう。絵本の中では、この魔女って単なる悪役じゃない?私もずっとそういうものだって思ってたんだけど、その友だちがちょっと面白いことを言ったの」
「面白いこと?」
「緑の森の魔女は、もともと何者だったんだろうねって話。もしかしたらヒロインのような美しくて優しい姫だったのかもしれないねって。大好きな人に裏切られたとか、大好きな人を失ってしまったとか、そういう目に合った人だったとしたら、悪役って一概にいえないんじゃないかって」
「それは……そうかもな」
「でもね、その子が言ったことで一番心に残ってるのが、『魔女って世界中の女の情念から生まれたんだったら面白いよね。もちろん、ヒロインも含めて』ってことなの。嫉妬や独占欲、哀惜や執着、そういうものを具現化したようなキャラクターなんじゃないかって。それ聞いたとき、なんだか……妙に納得しちゃったんだ」
美しく汚れなき姫、なんてのは、お話の中にしかいない。
現実の女は、とっても醜い。
私だって、珪が知ったら目を背けたくなるような昏い感情をたくさん持ってる。
ギスギスしたりドロドロしたり、自分でも嫌になるほどの息苦しい情念。
そういうものが、いつだって心の奥底で渦巻いているの。
でも……それも私、なんだよね。
「……ねえ珪?もしも私がお姫さまなんかじゃなくて、本当は魔女――王子を捕らえて自分の檻に閉じ込めて殺してしまうような、そんな魔女だったとしたら――、それでも私を選んでくれた?」
――王子のすべてを手に入れたいと思うような、そんな欲深な姫だったとしても、迎えに来てくれた?
覗きこむように彼の瞳を見つめて問いかける。
ね、私ってそんなだからね?
ガッカリするくらい、重苦しいんだよ?
それでも、あなたは受け入れてくれる?
そんな魔女でも、受け止めてくれますか?
少し目を見開いていた珪の表情が、やがて変わった。
「………バカだな、おまえ」
珪はフッと笑って、私を抱き寄せてそう言った。
「姫でも魔女でも、おまえに変わりないだろ?それに、おまえに閉じ込められるんなら、それ以上の幸せなんて、ない」
――それだけ深く、俺を愛してくれてるってことだから。
耳元でそう囁いてから、ゆっくりと私の髪を撫でる。
もう、それで充分だった。
「……うん、愛してる。私もね、珪になら閉じ込められてもかまわない」
そう返事をして、私は珪の胸にもう片方の耳を寄せる。
規則正しく刻まれる心臓の音。
他のどんなものより安心するリズム。
背中に回される、確かな温もりを持った腕。
こんな暖かい檻だったら、喜んで飛び込んでしまう。
そうやって、おだやかで気持ちいい律動に身も心も任せていると、珪がどこか面白くなさそうに言った。
「閉じ込められてなんて、いないくせに」
「え?どういう意味?それ」
「べつに、言ったままの意味。…………心配しなくていい」
顔を上げて向かい合えば、私の大好きな微笑みが浮かんでいるだけ。
「……たとえ姫が魔女に変わったとしても、必ず迎えに参ります。愛しいのは、ただあなた一人だけなのですから」
唇に、そっと優しい熱が降りる。
…………うん。
私も、だよ。
たとえ自分の中の魔女が表に出てきてしまっても、それはあなたを愛しているから。
姫であり続けるのも、魔女になってしまうのも。
すべてはあなたへの愛のため。
愛しいあなたのためだけに、私は生まれてきたんだもの。
心の中でそう呟いて、私は静かに瞼を閉じた。
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