雨の宿リ |
髪の毛から滴る雫の間から暗鬱な空を見上げ、葉月は降り止まない豪雨に溜息を吐く。 傘を忘れるのはいつものこと。朝に雨が降っていなければ、好んで荷物を増やすつもりもなく、その結果今日のようなにわか雨に帰路を妨げられるのはままあることだ。 とはいえ、この降り方はちょっとひどい。 急げば小雨の内に帰れると思ったが、予想以上の速さで雨雲が押し寄せてきて、あっという間にこの始末。全身濡れ鼠の状態では喫茶店に避難するわけにもいかず、仕方なく定休日らしき商店の軒下で雨宿りする事にしたが、どうにもまだまだ雨が止みそうな気配はない。 (こんなことなら、あの時無理にでも起きてれば良かったな……) 放課後訪れた眠気に勝てず、教室でうたた寝をしたのがここに来て響いた。しかし後悔は先に立たず、今更嘆いたところでどうしようもない。 (それにしても、静かだな……) 下校時間からしばらく経った中途半端な時間なだけに、人通りは極めて少ない。位置的にも学校と街の中間辺り、店や住宅が少ない界隈だ。雨宿りする場所があっただけでも幸運だろう。 聞こえるのはただ雨の音ばかり。 煙るような強い雨に視界を閉ざされ、世界は灰色に染まっている。 (……まずい) 葉月はあまり雨が好きではなかった。特に今日のような大雨は苦手だ。 視覚も聴覚も役に立たなくて、世界から隔絶されるような感覚になる。 世界中で自分が一人きりになったような気がして、その事が心に重くのしかかる。 深い場所へ、沈んでいく。そんな感覚が嫌で嫌でたまらなくて。 (…………乾く) 乾いていく。枯れていく。飢えていく。 世界は確かに水に支配されているというのに、どうしてこうも心が乾いていくのだろう。 この鉛色の空がそうさせるのか。それとも――――。 自分の中に抱えた孤独が、そうさせるのか。 (しっかりしろ、俺) 雨は、雨だ。何の意思がある訳でもない、ただ摂理に従って降っているだけだ。 自然現象にいちいち振り回されて、落ち込むなんて馬鹿げてる。 雨は、雨――――。 「……珪!?」 ハッと気が付いて顔を上げると、学校の方角側に飛鳥がいた。小さな折りたたみの傘を差してはいるが、さすがの雨量に上半身と抱えた鞄しかその恩恵に与っていない。ソックスの紺色がいつもより深みを増していて少し重そうだ。 水溜りを避けながら、小走りに走って来た彼女はもう一度葉月を確認すると訊ねた。 「どうしたの、こんなところで……って決まってるか」 「ああ、雨宿り」 「傘はどうしたの?」 「忘れた。おまえは?部活?」 「ううん、今日はお休み。でもちょっと図書館に行ってたら、いつの間にかこんな本振りになっちゃってて」 「そうか。……待て、そのまま学校にいれば良かったんじゃないか?」 雨足は只事でなく強いが、所詮にわか雨。しばらく待っていれば止むだろう。学校にいれば濡れずに済んだだろうに。 そう言うと、飛鳥は実にバツの悪そうな顔をした。 「う、その、冷静に考えたらそうするべきだったんだけど。雨降ってるの見たら、いけない急いで帰らなくちゃ!って慌てちゃって。そしたら……これ」 「……ドジ」 「言わないでよ〜。自分でもほんとにそう思ってるんだから」 ふにょりとひそめた眉が見るからに情けなくて、葉月は思わず吹き出す。 「あ、もう笑わないで!珪だって人のこと言えないでしょー?」 すぐにぷっくり膨れた表情に変わって葉月を睨む。確かに自分の方もあれこれ言えた立場ではないので、おとなしく黙った。 「それより珪、まだここにいるの?」 「ん、ああ。待ってれば止むだろ」 「あ、えっとじゃあ、良かったら入ってく?」 飛鳥はそう言って軽く傘を揺らす。しかしどう見ても、その傘では到底二人分の雨は防げない。というより無意味に近い。 「いや、それじゃおまえまで濡れるだろ。構わないで、いい」 「でも……」 「いいから気にするな。これ以上濡れない内に、早く帰れ」 気遣ってくれた事に対する礼のつもりで、葉月が微笑う。 それでかえって飛鳥は混乱した。 (でもでも、気温だって低くなってきたし、雨はまだ止みそうにないし、それにそんなに濡れてちゃ風邪引いちゃうし!) とはいえ、こういう表情をした時の葉月がなかなか折れないのは、3年近い付き合いのおかげで理解している。 (でも) 何でわからないのだろう。 私を心配してくれるのは解るけど。でも珪が心配してくれるよりもっともっと、私は珪のことが心配なのに。 「ほら」 促すように軽く顎をしゃくる仕種の片隅で、彼の髪から水滴が飛んだ。 (〜〜〜そんな、珪一人で放っといて帰れるわけないじゃない!) その姿に気付いて、声をかけるまでのほんの一瞬。 あんな寒そうな、心を凍てつかせたような、そんな顔してたのに。 そんな場所に、一人でなんて。 飛鳥は少しの逡巡の後、早足で歩き出した。 そうしてそのまま前を通り過ぎると思った葉月の横に、素早く彼と同じように並ぶ。その拍子に背後のシャッターがカシャンと鳴った。 「っ、おい――――」 「雨、ひどいし!」 葉月が驚いて口を開くのを遮るように、飛鳥は喋った。 「この状況じゃ、傘があっても家に着く頃には絶対ずぶ濡れになっちゃうし!だから雨宿りしていくの!それだけ!」 自己満足かも知れないけれど、これがせめてもの妥協点。 私は雨からあなたの身を守る事も、その冷えた体を乾かし暖める事もできないけれど。 せめて、あんな表情をしないで済むように、一人で凍えなくて済むように、ここに立っていよう。 それしか出来ない、だから出来る事をする。 ムキになって言い募る彼女を見て、葉月は言葉を失う。それから、ごく近くに立つ二人の真ん中に置かれた彼女の傘を見る。 きれいな桜色の小さな傘は、足に吹き付ける雨を懸命に弾いてくれて。 今更と思いながらも、とたとたと不規則なリズムを奏でる様に、ほんの少し聴き入ってみる。 ほんのりと頬を染めて、触れ合うほどに近くにある彼女。そのあたたかさが、空気ごしなのに伝わる気がする。 そうしている内に、葉月は降り続く雨の中にいる自分がさっきとは違う感覚にいる事に気付いた。 暗鬱な空は変わらないまま。見通せない視界は変わらないまま。雨音以外聞こえない、そんな世界のまま。 それなのに。 少し濡れていたらしい彼女の髪からひとしずくの雨が降って、ぽつ、と傘の上で踊る。 (……そうか) 「潤す雨も、あるんだよな……」 ぽつりと言った葉月の呟きに、飛鳥が首を傾げた。 「え?雨って、潤いを与えてくれるものでしょ?」 違うの? そう真っ直ぐ言った彼女に、葉月はわずかに苦笑した。 「……そうだな」 違わない。 そう頷いた彼に、飛鳥が不思議そうに、けれど笑った。それにつられて、葉月も笑う。そうして二人、静かに空を見上げる。 まだ雨はしばらくやみそうもない。 けれど、明るくなりつつある西の空がこの場所まで染め上げるまでは、こうして立っているのも悪くない。 当たり前の事を思い出させてくれる、このあたたかい雨と一緒なら。 |