幸はいつでも |
卒業論文や卒業制作の目途がひとまず立って。 来春から勤務するはばたき学園の教員採用試験にも無事合格して。 だから、気が抜けてしまったのだと言えば、それまでなのだけど。 「……37.8℃」 深い溜息と共に珪が読み上げた体温計の数値を、私はベッドに収まりながらショボンと聞いた。 「なんか熱っぽいかなぁって思ってはいたけど……」 「ぽいじゃなくて、確実に熱、だったな」 「うう〜……」 よりによって今日、この日に熱出しますか私。せめて一日後だったら良かったのに。 「ごめんね……折角の誕生日なのに、私がこんなで」 「仕方ないだろ。おまえ、採用試験終わるまでかなり頑張ってたし。その上ここのところ、気温の変動激しかったしな。疲れとか、出たんだろ」 「珪だって、採用試験はともかく他の条件は一緒じゃない?」 「よく寝てるから、俺は。知ってるだろ。――ほら」 言いながら珪は冷却シートを額に当ててくれる。以前珪が熱を出した時に私が持って来たものだけど、まさか自分でも使う事になるとは思わなかった。 今日は10月16日。高校の入学式で再会してから、7回目の珪の誕生日。 当たり前のように一緒に居る毎日の中で、それは付き合うようになった今でもとても特別な一日で。けれど穏やかに過ごせる事が何よりも大切だと思える日でもあって。 お互いの講義が終わった後に、珪の家で二人きりのささやかなパーティを開くのは前々から約束していた事で、私もそのつもりで食材やら何やら用意して来たのだけれど。 「……おまえ、顔、妙に火照ってないか?」 玄関の扉を開けて顔を出した珪に即座に指摘され、すぐに額に当てられた大きな手の冷たさに気持ち良さを感じていたら、荷物を取り上げられてそのまま彼のベッドに強制連行されてしまった。挙句体温計を差し出され、計ってみれば見事に発熱状態という始末。 腕を振るおうと思って持って来た食材は多分キッチンのテーブルに放置されたまま、代わりに周りにあるのは冷却シートだの氷枕だの解熱剤だの桃缶だの、完全に病人の為のそれ。 (しかもそもそも私が珪用にって買ってきたものばっかりだよ……) 本当に何してるかな、私ってば。 誕生日を祝いに来たはずなのに、実際は主賓にアレコレ手間世話かけさせて、これって何の嫌がらせ? ああもう、嫌がらせ以前に彼女として失格。いくら珪の顔見てホッとしたからって、誤魔化せないほどフラつく事は無かったじゃないのよ。 半分熱にうなされつつ自己嫌悪に陥ってる私の心境を知ってか知らずか、珪は携帯を取り出して私の家に電話し始めた。 (……そうか、確かにこの状態だし、帰った方が良いか否かは様子を見ないといけないもんね) 電話口に出たお母さんと私も数言会話する。元々今日はお泊り予定だったので門限に関しては問題なし。余程具合が悪くなって珪くんの手に負えなくなったら連絡しなさい、という事で話は付いて、そのまま電話を切った。 「とりあえず、少し寝てろ。水はもっと持って来るけど、他に何か欲しいもの、あるか?」 机に携帯を置いてから、珪がベッドの横に膝をついて尋ねてくる。 (こういう時にこういう風に目線を近くしてくれるとこ、好きだなぁ) 心の中で思って、けれどそれは言葉にはせず首を横に振った。 「ううん、今は特に無いよ。それよりケーキ食べて貰ってた方が良いかも」 さすがに平日にケーキ作りは大変だし、そもそも珪がそんなに甘い物を食べないので、今日はアナスタシアでショートケーキを二人分買ってきただけだ。だけとは言っても、普段買わないお値段の物を奮発したけど。 「そうすぐには悪くならないだろ。食べられるようになったら、明日にでも一緒に食おう」 「風味落ちない?せっかく珪の誕生日なんだし、美味しい内に食べた方が良いと思うけど」 「平気。おまえほどこだわりないから」 くしゃ、と珪の手が私の髪を撫でる。ああ、やっぱり気持ち良いな、珪の手って。 ……それにしても。 「ねえ、珪?」 「ん?」 「その……なんだかちょっと嬉しそう、だったりしない?」 何となくさっきから感じてた違和感。よくよく見てると、珪の顔、口角が少し上がってるんだよね。目元も少し細まってたりして。いつもならもっと心配そうな顔してるから、何だか変。 誕生日+お泊りの予定がこんな事になっちゃって、ちゃんとお祝いすら出来ないっていうのに。 「嬉しそう?…………ああ、そうかも、な」 「どうして?」 更に尋ねると、珪は私の髪を撫でながらふんわりと笑った。 「看病出来るから、かな」 「……え?」 「付きっきりで看病なんて出来ないだろ?いつもなら」 「あ」 そっか。 私はお父さんやお母さん、それに尽と一緒に暮らしてるから、私が体調を崩したら看病してくれるのはその3人の誰か。というか、寝付くのは家なんだから、その3人しかいなくて当然なんだけど。 (そう、そうだよ) 珪の家で、珪にだけ看病してもらってるのって、よく考えたら初めてなんだ。 わ、そう考えたら私も何だか嬉しくなって来たかも。 もちろん、ここに至るまでの経緯は嬉しくないし、熱は熱で辛いんだけど、それでも。 「不謹慎だよな、とも思うし、おまえが苦しんでるのは嫌だけど。それでも、誕生日にこういう『初めて』ってのも、嬉しいかも知れない……って、結構正直な本音かもな」 サラサラと髪を梳きながら、やっぱり不謹慎だな、と苦笑する珪に、私はそんなことないよ、という意味を込めて笑う。 ――――近い将来。 こんなのも当たり前になる日が来るかも知れない。ううん、来ると思う、というか手繰り寄せてみせるけど。 そんな時にふと、今日の事を思い出して、二人でまた笑い合っていられたら。 「私もちょっと嬉しいな、珪に看病してもらえるの。あ、でもやっぱり誕生日もお祝いしたいから、頑張って早く治すからね」 「そうだな。俺だとあの材料、使い切れないし。傷む前に頼む」 「うん、わかった!」 笑い合える事の幸せ。嬉しさ。笑ってくれる事の、喜び。 (――――大好き) 「ん?」 頭を撫でていた珪の手が引かれていくのを、私はとっさに掴んで止めた。 「どうした?」 「えっと、眠るまで繋いでもらってて良い?手」 一応病人の端くれだし、少しは甘えたって良いよね? 「――――仰せのままに、姫」 予定とは大分違った方向になってしまった誕生日だけれど。 彼に笑顔を浮かべさせる手を持てる事を、私は神様に感謝した。 「誕生日おめでとう、珪」 「――――ああ」 そして、次に降って来るだろう聞き慣れた言の葉が、いつも優しい響きで紡がれる事に。 心の底から、ありがとう。 |