特別な、あたりまえの日 |
(あ、きれい) 雑誌を読んでた目をふと上げて、そこに認めた人を見た瞬間に、そう思う。 (そういえば、彼を見つめるようになってから、えーと、もう何年?5年半?うわ、そんなになるんだ) もういいかげんに慣れたつもりだったけど、やっぱり飽きない。飽きずに見惚れる。 私ばっかりそんな風でずるい、と思うけど、でも目の前にいるその人はやっぱり綺麗で。 そして相変わらず私は彼を見つめ続ける。 「……何だ?」 私の視線に気付いて、スケッチブックに向かって集中してた彼――珪が、不意にこちらを向いて訊いてきた。 「ん、綺麗だなって思って」 「……おまえが?」 そんなわけ無いでしょ!何ですかその恥ずかしい答えは。 「珪がだよ」 「なんだ、それ」 そう言って、ふっ、と微笑う。 (あ、つまんない) 付き合い始めの頃は、私がこういう事を言うと頬を赤くして、だけどそれを隠すようにムスッとした表情になってばかりいたのに。それを見るの、実は結構楽しかったりしたのにな。 そう言ったら、珪はあっさりと、 「慣れてるし、おまえの変な言動には」 なんて言い返してくれちゃった。何それ、私ってそんなに変な事言ってないよ。それに変な言動っていうなら、お互い様じゃないの? ムッとした私を見て、珪は軽く声を上げて笑った。 「今日は膨れっ面にならないんじゃなかったのか?」 確かに今日はそうするって言ったけど。いつもはちょっとした事で膨れちゃうから、今日くらいはって。でもね。 「させたのは誰ですかー?」 「俺だけどな」 「だったら文句は受け付けませーん」 「文句なんて言ってない。結構好きだし、おまえの膨れっ面」 「それって、……お互い様?」 楽しそうに笑いながら言ったセリフにはちょっと首を傾げるけれど、よくよく考えてみれば、私も珪の膨れっ面は結構好きだったりする。喧嘩とかそういうのとは別で。 「だろ」 笑ったまま、彼は再びスケッチブックに目を向けて、鉛筆をサラサラと動かした。今度はどんなデザインを考えてるんだろ。 私は何となく手元の雑誌をぱたんと閉じて、頬杖をついた。そのままの姿勢でやっぱり何となく彼を眺める。 (やっぱり綺麗、だなあ) 亜麻色の髪、翡翠色の瞳、スッと通った鼻梁、しなやかに動く長い指、均整の取れた体、一つ一つのパーツがそれぞれに整ってる上に全体がこれまた整ってる。何度見ても見惚れてしまうひと。 (う〜ん、ありきたりの褒め言葉くらいしか浮かばないや。って、言葉にする必要もないか) どれだけ見惚れたら慣れるのかな。 そんな事を思いつつ、でもあっさり慣れたくもないな、なんて思ったりもする。 (見慣れても良いけど、やっぱりこうやって何度も惚れ直しちゃう気持ちっていうのも捨て難いし、ね) 穏やかに過ぎる時間。その中で、時々不意に訪れる新鮮な気持ち。うん、大事だよね、こういうの。 ぼんやり半分でそうしていると、時計がポーンと鳴った。 「ん……ああ、もうこんな時間か」 珪がポツリと言ったので、私も壁にかかった時計を見上げた。見れば、もう深夜に近い時間。 「あ、本当だ。そろそろ寝ようか」 「そうだな。1コマから必修入ってるし」 「私も。あ、カップ片付けてくるね」 雑誌を持って来たバッグに入れてから、私はテーブルの上に置いてあるマグカップを手に取った。私の分と、珪の分と。 「サンキュ。じゃあ俺、先に歯磨いてくる。ここの電気は消しとくから、後、頼むな」 「うん、わかった」 頷いてから、私はくつろいでたリビングからキッチンへ向かう。勝手知ったる何とやらで明りを点けて、そのまま流し台にカップを運んで洗い始める。 (それにしても……う〜ん、すっかり自分の家みたいに使ってるなあ) ほんの1〜2年前はそれなりに遠慮してて、珪の部屋でばかり過ごしてたものだけど、二十歳を過ぎてお泊りが解禁になって以降ちょくちょくお邪魔するようになって、だんだん箍が緩んで来てるみたい。 (珪のご両親が帰って来た時くらいは遠慮出来るようにしておかないと、ちょっとまずいかも。図々しい子、って思われるのは嫌だし) 一応ご両親の家なんだし、うん、気をつけよう。 もっとも私がこの家に馴染めば馴染むほど、珪が嬉しそうに笑ってくれたりするから、どっちを取ろうかと悩むところではあるんだけど。 洗い物を終えて、ついでに朝食の材料を確認する。よし、炊飯器のタイマーもセット完了。それじゃキッチンさん、明日の朝までさようなら。 戸締りや電気を確認して、最後に歯を磨いてから珪の部屋に行くと、珪は既にベッドに入っていて、早々と眠気たっぷりの顔で目を閉じていた。そういえば今日の授業は実習や実技が多くて居眠り出来なかったって言ってたっけ。 「もしもーし、もう寝た?」 小声で訊いてみると、一応起きてはいて、うっすら目を開けてこちらを見上げてきた。 「いや……けど、すぐ寝そう」 「そう?待ってないで寝ちゃって良かったのに」 「もったいない……折角の、日なのに……」 「そうだけど。あ、電気消すね。スタンドの方、点けてもらえる?」 「ああ」 部屋の照明を消してから、私はベッドの枕元にある小さなスタンドの光を頼りに珪の隣に潜り込む。 同時に抱き込んでくる暖かい腕とは裏腹に、むき出しになった足が触れて、私は少しビックリした。 「うわ、足冷たいよ?」 「ああ、そうだな……」 「そうだな、じゃなくて。お風呂上がってから裸足だったからでしょ。そろそろ靴下履かないと冷えるでしょ」 「そうだけど……なんか、鬱陶しくて」 「もう、鬱陶しいで風邪ひいちゃったらどうするの。あーあ、セーターじゃなくて毛糸の靴下編めば良かったなぁ」 「毛糸の靴下か……それだったら、クリスマスに使えるな。物置にあるし、ツリー」 「クリスマスじゃなくて、珪に使うんだよ!」 呆れ半分で抗議しても、にっこり微笑うだけで。ああもう、今年もこの攻防戦が続くのね。 えい、とばかりに頭を胸にぶつけてみても、いて、と呟いただけで更に抱き寄せられるから、なんだか力が抜けてしまった。本当、ずるいんだから。 そのまま何となく抱きしめられていると、ふと、頭上で口を開く気配がした。 「サンキュ、な」 「え?」 突然の言葉に何事かと思って、私は顔を動かして彼の翡翠の瞳を見上げた。そこには少し、申し訳なさそうな色が浮かんでいた。 「今日。平日なのに、わがまま言って」 ああなんだ、そんなこと。 「わがまま、じゃないよ。私だって一緒にいたかったもん」 「けど、他にもプレゼント、用意してくれたし」 「それは私がしたかっただけ。気にしない気にしない」 「しないわけ、ないだろ。嬉しかったんだから」 「私だって嬉しいんだよ、珪の誕生日に、一緒にいさせてもらえるの」 だから、気にすることなんてないの。 「特別な人の特別な日に、特別一緒にいて欲しいって思ってくれるの、やっぱりすごく嬉しい。何度経験したって。だから、珪が嬉しかったって言うなら、それはお互い様なの。気にすることないの」 そう言って私は珪に抱きついた。もうすっかり馴染んだ彼のかたち、それだけで安心する。嬉しくなる。 「……ああ、そうだな。俺も、嬉しい。お互い様、か」 「だね」 抱き合って、お互いに笑い合って。触れる体。混ざり合う体温。それだけで満たされる、暖かな時間。 「でも、ちょっと恥ずかしかったかな、今日のシフト休みますって言った時」 「ん?アルカードか?」 「そう。マスターったら、日付確認した途端にニヤニヤするんだもん。他のバイトの子もみーんなして。何の羞恥プレイこれ、とか思っちゃった」 うん、あれはやっぱり恥ずかしかった。今更って言われたら今更かもだけど、恥ずかしいものは恥ずかしい。 すると、珪が溜息を吐いた。う、耳にかかってくすぐったいってば。 「まだマシだろ、その程度なら」 「そう?」 「俺は散々遊ばれた」 「遊ばれたって、スタッフさん達に?」 「……あれもかなりの羞恥プレイだった」 ってムスッとして言われましても。 「自業自得じゃない。誕生日とバイトの曜日が重なってるのに、誕生日優先にして休み取るからって言ったの、珪でしょ?」 「仕方ないだろ、おまえと居たかったんだから。……授業はあったけど」 「必修ばっかりだったもんね、今日の珪。お疲れさま」 労いの意味を込めて、彼の背中を回した手でぽんぽんと叩く。そうしたら、ああ、疲れた、って言って、それでも力を抜いて笑う。 ――――大学の講義は仕方ないとして、その他の時間全部、一緒にいたい。 セーターはこっそり編んでたけど、それ以外で何か、珪の望む事がしたかった。だからと訊ねた「誕生日、何か欲しい物はない?」の答えは、それ。 そんなことで良いの?そんな、当たり前になっちゃってるような事が?――――それが一番欲しい。 『その当たり前が、欲しいんだ』 当たり前。そう呼ばれる、特別。それが。 (それを私に求めてくれるって、本当に嬉しいこと言ってくれちゃって) 嬉しくて、愛しくて、幸せで。 (私も欲しいって、言っちゃったんだっけね) 「おまえの時は、ちゃんと丸一日空けとくから」 私の思考を読んだように、珪がその長い指で私の髪を梳きながら言った。 「大丈夫なの?」 「ああ。急の仕事が入っても、絶対その日は出ないって宣言して来た。携帯も家の電話も絶対出ないし、来客があっても居留守使うって」 あらら。 「マネージャーさん、怒らなかった?」 「呆れてた。仕舞いには、この際しっかり充電してくればいい、とか言われた。ああ、無理はさせるな、とも言われたっけ」 「…………そっちの方が羞恥プレイじゃない……」 次に会った時、どんな顔すれば良いの私。まあその、今更なんだけど。 「土曜日、覚悟しとけよ」 土曜日。それは私の誕生日でもあった。 珪が自分の誕生日にはずっと私と一緒にいたいって言ってくれたように、私もその日は珪にずっと一緒にいて欲しいって願った。 だから、土曜日のデートは既に確定済みで、その為に珪は臨時でモデルの仕事が入らないように調整してくれてたんだけど。 「何で私の誕生日に覚悟しなきゃならないの……」 一体どういう誕生日にしてくれる気なの、ハヅキさん。 「だってしてないだろ、今日」 !! いやその、だからね? 「それは、だって。お互い明日朝イチの必修で絶対寝過ごせないし、珪も眠そうだから、今日ははのんびりモードで過ごそうねって言ったでしょ?珪もそれで良いって言ったじゃない」 「言われたけど、そのあと『その分土曜日は楽しもうね』って言った」 言った、確かに言ったけど。 「って、それは夜のことじゃなーい!」 「別に夜だけじゃなくて良いけど」 「そういうことって言うか、そういう意味じゃなくて!」 「…………本当に?」 ああもう耳元で囁かないで。その掠れ声、すっごく弱いんだってば。 (流されそうになるじゃない〜) 「…………それは、まあ、その……そういう意味もちょっぴりはある、というのは否定しないけど。けど、何ていうかその、ね」 顔の火照りを自覚しながら言葉を捜していると、珪は笑いながら私の頭を抱き込んだ。 「…………解ってる。ちょっとからかっただけ」 「え!?」 からかっただけって、ちょっと! 「したくないと言ったら、全然嘘になるけど」 あの、そういうことをしらっと言わないで。 「一緒にいて、触れ合える距離にいて、声掛ければ、すぐに振り向いてくれて」 そういう。 「そうして、笑ってくれれば」 そういう、人の心読んでるんですか、みたいなこと。 「それが、一番、嬉しい」 そんな、すっごく幸せそうな声で。 (もう、本当にずるい) 「…………ないで」 「ん?」 「人のセリフ、取らないで」 ぎゅうっと背中に回した手に力を込める。 「それ、今言おうとしてたのに。先に言われちゃったら立場ないよ、もう」 ムスッとした私の声をなだめるように、今度は珪の手が私の背中をぽんぽんと叩く。 「これもお互い様、だろ。俺だって、お前にセリフ散々取られてるし」 「取ったって、言ったって、足りないもん。全然伝え切れてないって思うもん。珪が大好きだって、まだまだ伝えたいんだもん」 ますますぎゅうっとしがみつく私に、珪は呆れたような吐息を漏らした。 「おまえな……自分から言っておいて、煽る気か?」 吐息に潜んだ色に気付いて、私は慌てて腕の力を抜いた。いけない、このままじゃ流されモード直行しちゃう。 「あ、煽ってません!それより、ほら、もう寝なきゃ!遅いし!」 私が言うと、珪はやれやれ、といった表情を浮かべてから、私の頭をひとつ撫でた。 「だな。遅いし、今日は寝るか」 そうして、いつも眠る直前に浮かべる表情になった。ほんわりと、こっちまで眠くなっちゃうような、やさしい笑顔もプラスして。 「そうそう。って、珪ってば眠い眠い言ってた割に、喋ってたね」 うーん、私の話に付き合わせて悪かったかな。 「べつに、眠いのは変わらないけどな。……おまえと喋ってるのも楽しいから。こんな日だし」 「誕生日だし?」 「そう。特別な、当たり前の日だし。……って、ダメだ、そろそろ……眠く、て……」 言いながら、とろん、と珪の瞼が落ちた。釣られて、私の眼もとろんと溶けそうになる。完全に溶ける前にスタンドのスイッチを切って、暗闇になったところで再び彼の胸におさまった。 とくとくとく。体に直に伝わってくる鼓動の穏やかさに、私の瞼は完全にとろけてしまって。 (ああ、あったかいな……) 当たり前のぬくもりが、とても特別で。 やさしくて。やわらかくて。 (なんてしあわせな、あたりまえ、なんだろう) 「ね……珪?」 「ん?」 半分寝入った私が、半分以上寝入った彼に囁く。 「誕生日がずっと、こんなふうにあったかいといい、ね……」 そしたら、ふっと笑った気配が伝わってきた。 「…………おまえ、バカ……?」 「え……?」 「あたたかいといいね、じゃなくて……あたたかくなろう、だろ……」 それを聞いて、私は咄嗟に眼を開いて、でもすぐにまた眼を閉じた。 「そっか、そうだね」 「だろ」 「うん、そうです。あったかくしよう、ね」 「今更、だけどな……」 「そう、かな」 「そう」 そういって珪は私の額に軽いキスをした。私も体を伸ばして、彼の頬にお返しをする。 「……おやすみなさい、珪」 「ああ……おやすみ」 後に続く完全な寝息を確かめて、私も枕に頭を沈めた。 おやすみなさい。またあした。 (あしたも、あさっても、そのさきも) この、あったかくてとくべつなあたりまえを、ずっと、あなたといっしょにかんじられるように。かんじあって、いられますように。 (いまはとりあえず、ねむろうっと) 完全にとろけた心の中で、最後に一つ、呟いた。 ――――誕生日、おめでとう。 |